利益をあげなければ生産性なんかあがらない
「働き方改革」という名の残業時間削減の動きがグダグダでうやむやになったまま新年度を迎えてしまいました。長時間労働を美徳とするのは日本企業の文化、みたいな捉え方をしているおじさま達もたくさんいるとは思いますが、たぶん、戦後〜バブル頃の短い時間の成功体験(というか結果論)をずっと引きずっているんでしょうね。
働き方とか、長時間労働とか、もはや政府が号令をかけてなんとかするという時代はとっくに終わっていると思います。今後は、「経営層がリーダーシップをもって働き方改革をする」ということができない企業では誰も働いてくれないようになるでしょう。企業の都合だけ一方的に押しつけるわけにはいかないのです。
さて、「働き方改革」の流れで昨年末から「生産性」という言葉が1つのキーワードとして取り上げられるようになってきました。伊賀泰代氏の『生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの』という本もベストセラーになっています。しかし、メディアなどの論調などを見ていると、どうも「生産性」=「効率性」という変換をしてしまっているのではないか、と感じます。
例えば、同じ資料を作るのに、Aは1時間かかり、Bは2時間かかる、という場合には、一般的にはAの方が効率的であり、こういう人のことをよく「生産性が高い」とか言ったりします。言葉の使い方としては大きく間違ってはいません。
しかし、本当の意味での「生産性」というのは、最終的な売上(利益)をあげるところまで考えなければいけません。前述の例で、Aの資料を使って売上が50、Bの資料を使って売上が200上がるのであれば、1時間あたり生産性はAが50、Bが100となり、Bの方が生産性が高いと言えるのです。
現実はこんなに単純ではありませんが、どんなに複雑であったとしても、「最終的に売上(利益)をあげるためにどの程度の時間や作業をかけたか」で生産性は評価されるべきものです。一つ一つの作業だけを取り上げて「生産性が高い/低い」というのは全く意味がありません。
効率を追求すること自体は悪くありませんし、日本企業の働き方には無駄が多すぎると思いますので、その部分は大きく改善できる余地はあるかと思いますが、「最終的な売上(利益)をどうやって増やしていくか」という観点に無しに効率だけを追求するということは、結局はコスト削減や人員削減の発想しか出てこないで、事業そのものがシュリンクしていくという結果になるのではないでしょうか。
「生産性をあげろ!」というのであれば、もちろん無駄な肯定や作業を省く必要はありますが、まずは「どうやって売上(利益)を最大化するか」ということを徹底的に考え抜く必要があるでしょう。
作れば売れる時代はとっくの昔に終わりました。まずは「生産性」という言葉の捉え方を根本から見直し、その上で業務全体を設計し直す必要があるのです。
この考え方は『ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か』において2000年代前半にすでに提唱されていますが、2017年になってもこの問題を正面から捉えようとしない企業には危機感しか感じません。
局所最適には意味がありません。全体最適をしっかり考えましょう。私たち1人ひとりにその意識が必要だと思います。