店主日記

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生き方は自由だよ2017/4/25

 わたしがタバコをやめたのは、
29歳のときである。

 タバコ歴11年。

 算数のとくいな方はすこしいぶかしく
おもわれるだろうが、もう時効であろう。

 若い時は、原稿を書くときも
かならず左の指にはさんでくゆらせた。

 一日、ほぼ2箱を消費していた。
卒業論文や修士論文を書いているときは、
4箱は吸っていた。

 そのころは、世の中にマイルドセブンという
新商品が出回っていて、セブンスターにするか、
マイルドセブンにするか迷ったり、
友がなにを吸っているか気になったりしたものだ。

 ショートホープは電車待ちには
都合がよかった。五分以内に吸えるからである。

 当時は駅でもタバコはありだった。

 ハイライト、ショートホープ、青空、しんせい、
オールドスプレンダー、いこい、チェリー、わかば、エコー。

 輸入タバコは、それより倍高かった。

 ラーク、キャメル、ゲルベゾルテ、マルボロ、ケント。

 ラークは、吸い口に活性炭がはいっていて、
振るとカラカラなって、かつ、ちょっと高級な気がして、
上機嫌になったものである。

 が、いざ、タバコをやめてみると、
そのけむりが鼻のそばをかすめるだけで、
どうしようもなく嫌な気になるのが不思議である。

 チェーンスモーカーのようなわたしなのだが、
やめると、その反動なのか、タバコの
けむりを忌避するようになった。

 すこし前までは、レストランも喫煙はありだった。
サラリーマンたちが話しながら吸っている。

 わたしは、そのとなりで
おしぼりで口と鼻をおさえながら注文する。

 と、サラリーマン達に料理が届く。
とうぜん、タバコはどんなに長くても、
灰皿にもみくちゃにされ、火種は消滅する。

 店内は、とりあえず平和な空気となる。

 しばらくして、わたしたちのところに、料理がとどく。
と、そのとき、サラリーマン達は料理がおわり、
また一服。

 ということは、わたしは、料理を待っているときと、
じぶんの料理が運ばれ、食するときは、
受動喫煙しなくてはならないわけである。

そういう輩を見ていると、腹が立ってくるが、
べつにそれを止める権利はわたしにはない。

かれらは食事をしているときよりも、
おいしそうに天井にむかってけむりを吐く。

 それも、無自覚に。傍若無人に。下品に。
フィルターを唾液で濡らしながら、
タバコを吸わないひとに、無言の非礼を与えるのである。

 わたしの短歌の師もヘビースモーカーで、
酒席にはタバコは酒を飲むよりも
おおく口に入れていた。

 わたしが、やはり、おしぼりで口を塞ぎながら、
師の話を聞いていると、

「あのね、きみ。タバコは薬だよ」
と、ぎゃくにわたしをたしなめたりしたのだった。

 わたしのまわりには薬だよ、を
何十年にわたって愛用しているひともいるし、
やはり、いちどやめると、もう、その臭いさえ
嗅ぐのがいや、というひととに二分している。

「彼女、タバコはじめたよ」

わたしは、仕事場で妻にそういった。

「え。だれ?」

「川田さん(仮称)」

「あら、彼女、タバコやめてたんじゃないの」

「そう、もう何十年も」

「もったいないね、なんでまた?」

「うーん、付き合っている人の影響じゃないかな。
最初は、タバコが煙くてとかいっていたけれど」

「そう。せっかくやめていたのにね」

「そう、狭い部屋にいたりするとな、そうなるのかな」

 わたしが、彼女の喫煙の現場を見たときは、
その手馴れた吸い方に、蓮っ葉で品のなさを
感じたそれいじょうに、
じぶんのしっかりとした意思や生き方よりも、
他人にあわせてしまう愚かさが優先していたのだ、
ということにはじめて気づいたのである。

 あなたの歴史なんて、そんな薄っぺらなものだったか、
と、そうおもってしまったのだ。

 簡単に言えば「ニンゲンは、そんなもんじゃないはずだよね」
ということである。

 わたしは、芯のない彼女に、
どうすることもできないやるせなさと、
哀しさを感じたのである。

 が、しかし、もっと哀しいのは、
おきざりにされている
彼女の夫や子どもたちだとおもうけれども。

4月の蝉2017/4/19

ラインが来ていたのでみると、
「さっき蝉の鳴き声が聞こえました」

「4月だからまさかと思うけどたしかにジーッ、ジーッって
一匹鳴いていたの」

とあった。

彼女の家は東京都下で、
たしかに、
きのうは、観測史上もっとも暑い4月だったから、
寝ぼけた蝉が地中から出てくることも、
異常気象のうちの異常現象としてあるかもしれない。

もし、そんな蝉がいようものなら、
ひどくあわれである。

なぜなら、蝉はパートナーを見つけるべく、
危険をおかし、一週間も生きられない姿となり、
みずからをこの世にさらけだしたわけである。

地中で暮らしていれば、まだ安穏な生活ができたのに。

が、4月の気の狂ったような陽気に誘われて
出てきたものの、さすがに、おんなじように
土中から這い上がってきた愛人はいないだろう。

つまり、今年、はじめてのたった一匹の蝉、ということになる。

今年はじめての蝉は、おそらくパートナーを
見つけることなく他界するのだろう。

自業自得とはいえ、きのどくである。


世の中に「はじめて」というものには、
そういうきのどくさがつきまとうものだ。

たとえば、世界でもっともはやく電話を
設置したひと、いったいだれに電話をしたのだろう。

そして、だれからもかかってこない
その空虚な気持ちをどう処理したのだろう。

むかし、わたしの友人の家が電話を新しくしたのだが、
その家族はどういうわけか、ほとんど電話のかかってこない家で、
食事をしていたら、なんか見知らぬ音がしたので、
不思議がっていたら、それが呼び鈴だったと、
あとから気づいたという話があった。


さて、はじめて、ということでは、
ふぐを、この世の中ではじめて食べた人。

その場で死んでいるだろう。

ふぐに関しては、はじめての人も、その次の人も、
おそらく死んだろう。


そして、何世代にもわたって、
この肝が猛毒であることに気づき、ようやく
ふぐ料理なるものが登場したのではないかと、
推察するのである。


しかし、ふぐの肝が、この世の中で
もっとも美味なるものだと美食家はいう。

坂東三津五郎は、もっとくれ、もっとくれと言って、
他界した。本望かもしれないが、
その板前もとうぜん留置場おくりとなり、
迷惑千万な話であった。


銀杏だって、あの臭い実のなかに、
また固い殻があって、その殻を割って
その中のあのすこし苦味のあるあれが、
うまいとよくわかったものである。

いったい、だれがはじめて銀杏を食べたのであろう。


話はかわるが、わが国で、もっともはやく、
シンクロナイズドスイミングをした男性はだれか。

それは、もちろんウォーターボーイズではない。
じつは、わたしである。

小学校6年生のとき、わたしは、
三田のスイミングスクールに通っていたのだが、
そのスクールのあと、もう一時間だけ、
シンクロナイズドスイミングの教室がひらかれた。

その当時、シンクロはまだ世の中に普及されておらず、
シンクロナイズドスイミングを日本に持ち込んだ、
女性がおり、その方は、テレビにも出演されていたが、
そのひとが、そのスクールを開校されたのだ。

だから、シンクロの歴史など、まだ50年というところである。

よく覚えていないのだが、とてもきれいな先生だった。

また、プールサイドにしゃがんで、
「あなたがたが、男の子でさいしょのシンクロした子よ」
と、言っていたのも覚えている。

わたしのほかに男子が2名いた。


わが国初のシンクロナイズドスイミングを
したわたしは、べつにきのどくなことはないのだろうが、
それが、なんにも得になっていることはない。

ただ、プールでプカプカするときに、
むかしとったなんとか、じょうずに浮くことはできるが。


さて、あの4月の蝉はどうしているのだろう。

おかしいな、だれもぼくに反応してくれない、
と、心寂しく鳴いているのだろうか。

この世に、たった一匹しかいない蝉。


うん、すこし早まったな、と、
またセミの抜け殻に戻れればいいのだが、
あんだけ姿がちがうとそれもままならない。

ナオコが来る2017/4/11

 店にナオコがやってきた。

ナオコは、「ナオコでーす」と景気よくやってきた。
それも、やんちゃな子をひとり、つれて。

「いまどこに住んでんの」

「シンガポール」

「そう、いつまでいるのさ」

「えっと、今週くらいまで、この子の始業式があるから」

「向こうの学校?」

「ううん、日本人学校。せんせい、何時ごろ暇になるの?」

「え。いま、暇だけれども、12時過ぎたら、混むかな」

「そっか」
と、ナオコは券売機に向かってなめるように見渡し、
大盛りラーメンを購入した。


「この子、お腹すいているっていうから、
ふたりでわけて食べるね」

「ね。ナオコさ、いまいくつになった?」

と、ナオコはちょっとはにかむように「46」と答えた。

ナオコを塾で教えたのが、小学校の5年生のときだから、
かれこれ、35年が経つ。

ようするに35年前の教え子ということだ。


「旦那は、どこの国だっけ?」

「スコットランド」

「ふーん、おまえ、よく英語できるようになったな」

「そうでしょ。すこしはしゃべれるよ。旦那とは英語だけだから」
と、ナオコはさっきとはちがう笑い方をした。

「でも、この子の英語は上手じゃないんだ」

「ふーん」

大盛りが出来たのので、小鉢をつけて
ラーメンを出しながら、
ナオコの数十年前をおもいだしている。

「そーだ、おまえさ、いっしょにレッドロブスターに
行ったことあるだろ、覚えてる?」

「うん、覚えてる」

たしか、ナオコが高校時代だったように記憶している。

彼女をつれて、レッドロブスターをおごったことがあった。

ドサっと一匹のでかいザリガニが出てきたとき、
まず、ナオコは腕まくりをして、そのザリガニと格闘した。

わたしは、食べ物をまえに腕まくりする男性も、女性も
見たことがなかったし、あれ以来、そういうひとに
出くわしたことも皆無である。

で、食後に車にもどるときに、彼女は、
鼻をスウスウ吸っている。


「どうした?」

「ご飯粒が鼻の奥に詰まった」


色気もあったもんじゃない。


「な、ナオコさ、レッドロブスターの飯さ、
鼻につめたの、覚えてる?」

「うん、覚えているよ」

そーか、そこまでバカではないんだな。


「そういえば、おまえ、言っていたな。
じぶんの部屋には謎の空間があって、
夜食の皿には、分離したマヨネーズあったり、
万年床の下にはなにがいるかわからないから、
そのまま放置してあったり、
着た服とか、着ない服とかが、部屋に山積みになっているのを、
クウって臭いで、着た服と着ない服とを
嗅ぎ分けているって。いまでもそうなの?」


「うん、それ、定番でしょ。いまでも、バッグの中から
取り出して、これ、着られる、とか、着られないとか、
それやってるよ」


ふーん、三つ子の魂なんとやらというが、
結婚して、子どもふたりもできても、
洗濯物とそうでないものを嗅ぎ分けているのである。


ご主人は、スコットランド育ちの、
10歳年下の、大学教師である。


「しかし、よくおまえと結婚したな」


「うーん、ね。なんでだろ」

「家に帰ってまでむつかしいこと考えずに
済むからじゃないか?」
とわたしが言ったら、
「あ、そーか、そーか」と
ケラケラとナオコは笑いだした。


わたしの知っているかぎりで言えば、ナオコは
天才肌ではないことは折り紙づきである。


「サチコさん元気ですか?」

「うん、元気だよ、もうすぐ来るけど」

すこし、お客さんも来店してきたので、
ナオコとその息子は店をあとにした。


しばらくして、妻が店に来る。
もちろん、ナオコが外人さんと結婚していることは、
じゅうじゅう承知である。

「いま、ナオコが来ていたよ」

「あら、そう」

「息子さん連れてね」

「そう、ハーフだった?」


わたしは、この質問がむやみに可笑しかったのだ。

津久井湖漂流2017/4/7

 まだ、次女が生まれていないときの話である。


 当時、職場の同僚と、連休となると、
家族ぐるみで旅行に出かけた。

 4、5世帯で移動するものだから、
総勢15人くらいの集団となるときもあった。


 五月の連休に、車4台で山梨にゆき、
その帰りに津久井湖に寄った。

息子が「お父さん、あのラクダに乗りたい」と言ってきた。

「ん。どれ」

「あれ」

それは、湖にうかぶスワンであった。


「あのな、あれは白鳥、ラクダじゃないからな」

と、しっかりと息子をたしなめてから、
われわれは、息子と娘をつれてスワンに乗った。


息子の母は、ほかの家族とともに、
遊覧船でのんびり周遊ということになり、
われわれだけは、人力のアナログな装置に
便乗することとなったのである。


はじめてスワンという乗り物に乗ったのであるが、
右に息子、左に娘を配しペダルを漕がせ、
わたしは、フック船長よろしく、
ハンドル握っていざ出発である。

が、このスワンというシロモノは、
ほとんど前に進まず、湖面をただぴちゃぴちゃ
音を立てるだけであった。


と、妹が「ハンドル持ちたい」と言うので、
わたしはいやいやながら、娘と交代して、
ペダルを漕ぐはめとなる。

しかし、ほとんど前に進まない。

簡単にもうしあげれば、徒労である。

と、娘が「ねぇ、なんか動かなくなっちゃった」と言う。

「え、どれ」と、わたしがハンドルを握ってみると、
ハンドルはくるくる回るのだが、
梶がまったく効かないのだ。

つまり、われわれ三人は、操作性の皆無になった、
ただ、水面に浮かんでいる白鳥の中に
取り残されてしまったということなのである。

父として、それでも立派な仕事をしようと、
白鳥のうしろまで手をのばし、
針金の部分、ようするに梶を操作する部分を
いじってみたが、なんにも変化はしない。

じゃあ、手で水を掻いてみようとしたが、
そんなことじゃ、この難物はびくともしない。

わたしたちはもう漕ぐこともせず、
五月の津久井湖の風にただ吹かれている
だけとなった。

目の前にいたボートの釣り客が、
いまでは、ずっと遠くに見える。

ということは、わたしたちは、
肌寒い風に、流されているということなのだ。

しかし、子どもふたりは、
この状況に、平然としている。たいしたものだ。

つまり、われわれは、津久井湖という人造湖の
まんなかで漂流している、ということにほかならない。

と、そこにひとりでボートを漕いで、
帰ってゆく人に出会う。


「すいませーん。帰るんですか」
と、わたしが訊くと、
「そうだよ」と答える。

「あのー、これ動きがとれずに困っています。
係りのひと、呼んでもらえますか?」

「ん。あ、いいよ」
と、ボートのひとはそれきり桟橋のほうに
消えていった。

もちろん、携帯電話などない時代である。
スワンの持ち時間は30分。

とうに時間超過である。

わたしたちは、どんどんと津久井湖の
真ん中に、ゆらゆらと流され、
ほんとうにボートのひとが係りを呼んでくれたのか、
それもわからずに、ここにこうやって
じっとしているしかなかった。

そのときである。

ずいぶん遠くに遊覧船が見えた。

と、どうしたことか、ふたりの子どもたちは、
スワンから身を乗り出して、
「お母さーん。お母さーん」と、
ふたりで叫びだしたのだ。

「馬鹿者! こんなところで騒いでもしかない。
しずかにしろ」と、わたしはふたりの子を
もとの椅子に戻して、黙らせた。

やはり、ひどく心配していたのだろう。

が、こんな父親のまえで、うろたえたら、
また、なにか言われるか、叱られるとおもったのか、
だから、じっとしていたにちがいない。


しかし、遊覧船を見た刹那、
その緊張感からいっしゅん解放され、
母親を切望したのだろう。

あのとき、あ、この子たちとは、
おれはずいぶん距離があるのだなと
認識した現場であった。


と、しばらくして、
湖面をひとすじの白波を立てた、
モーターボートが
わたしどものスワンめがけて進んでくるのが見えた。


「これかぁ、動かないのは」
と、係りの男性の声。


「そうです。そうです」

「待ってろな」
と、その男性はスワンのクビに縄をかけて、
「ちょっと捕まっててくださいね」と言い、
スクリューのついたボートを反転させて、
スワンを牽引してくれた。

牽引した瞬間、われわれ親子三人は、
きゅうに身体がうしろにのけぞらされた感じにおそわれる。

やはり力があるんだろう、
モーターボート、それに引きずられたスワンは、
津久井湖の水面を
流星のようなものすごい速さで
一直線に桟橋まで戻されていった。

たぶん、あんな速さのスワンを見るのは、
湖にいる客だれもが未曾有だったのだろう。
たいそうな視線を感じながら、わたしたちは、
ようやく船着場にもどることができた。


船着場では、ほかの連中が、
フェンスに寄りかかりながら、私たちを見ている。

「どうしたんです」

「いやぁ、スワンが壊れて漂流していたんだよ」

「またぁ、また作り事ですか」

「ちがう、ちがう、ほんとうよ」

と、いつも冗談を言っているわたしの話を
信用しない連中であった。


わたしは、陸にあがってすぐに、
もぎりのうら若き女性のところに行って、
「どうしてくれるのよ、怖いおもいはするし、
寒いおもいもするし、手も汚れちまったよ、
どうすんのよ」と、すこしつよい口調で言ったら、
その女性は、「あのぉ、どうすればよろしいでしょうか」
と、訊くものだから、わたしは言下に答えた。
「ん。金かえせ」

で、わたしの財布には700円という大金が
もどり、津久井湖漂流事件は、一軒落着となった。


そのあと、じぶんの記念のお土産に、
しいたけの原木を購入して家路についた。

しいたけの原木からは、無数のしいたけが
生えるとふれこみにあったので、わたしはたのしみにしていた。

直径30センチくらいの原木である。

が、待てど暮らせど、しいたけはいっこうに
生えてこなかった。


わたしは、騙されたとおもった。

湿気のある部屋においてあるから、
説明書どおりである。

数週間、わたしは原木を放置しておいた。

と、それはそれは驚くことがあったのだ。

しいたけの原木からは、たったひとつの、
その原木とおんなじおおきさのしいたけが、
できているではないか。

まるで、インデペンデンスデイの
宇宙からの円盤のようなしいたけができていた。

とても気味悪いので、
わたしは、原木ともどもゴミ箱に捨てたのである。

ママチャリ2017/3/29

 そろそろ春になろうとする公園に、
数台の自転車が置かれている。

 それも、みなチャイルドシートをつけ、
ある自転車は、前輪のうえにもついている。

 わたしは、その自転車群をみていると、
いつも、なにか高圧的ななにかをかんじてしまうのだ。

 それは、どちらかと言うと不快な感覚である。


 今朝、小学校の低学年だろうか、
もう春休みだというのに、ランドセルを背負い、
出かけてゆく子がいた。

 どこに行くのかと聞けば「塾」だそうである。

 小学校から塾通いである。

 いまの子どもたちは、ほぼ、
スケジュール通りに、学校がおわれば、
習い事をする。

習字、水泳、そろばん、ピアノ、それに学習塾。

 遊ぶひまさえない。

寸暇を惜しんですることといえば、
携帯のゲームくらいである。

 なぜ、子どもはこれほどまでに、
習い事をしなくてはならないのか。


 おそらく、今日の保護者の
おおよそは「みんがしているから」
という信憑で、そうしているのか、
あるいは、「将来のため」という動機付けではないだろうか。


「将来のため」というのは、
いい大学にはいり、いい就職をし、いい伴侶をみつけ、
そして幸せになる、という道筋を
親は子に願うものである。


みんながしている、という考量は、
これは、農耕民族性のあらわれであり、
また、将来のためというのは、
学歴と幸福論が架橋していることのあらわれである。

これは、ちょうどモード現象という
社会装置と類比的である。


モード現象とは、上位にある個人や集団の

独自性を模倣し、一方で、
下位の個人や集団との違いを強調、差異化のように
見せて、じつは同化のベクトルでしかない、
こういう機構に乗って動いている社会装置のことをいう。


つまり、ドミナントにきどったつもりが、
まわりをみたら、みんなといっしょじゃん、
みたいなものである。


わたしは、いまの社会が
ものすごく劣化しているとはいえ、
そこに住まうひとが、子どもを塾にやり、
一人前になってもらいたいと希求することに、
全面否定することはないけれども、
ただ、危惧することは、
習い事も学習塾も、すべて、
受動的な領域である、ということなのだ。


すべて、与えられて、それを
我が身でもって、吸収したり、暗記したり、
そこに、創造性を開花させる装置が皆無であることに、
わたしは、この国の将来をおもうと、
頭を抱えてしまうわけである。


言われたことはなんでもこなすが、
じぶんから、独創的なことができない
人間を大量生産しているこの国を
憂うわけである。


子どものときは、野原にほったらかしにして、
ミミズを引き抜いたり、
川原でぼんやり陽の沈むのを眺めたり、
山で、食べられるきのことそうでないのを選別したり、
海で、フジツボに足をさして痛がってみたり、
フナムシを捕まえてつぶしてみたり、

そんな、子どもの自由にさせてやる時間がないものだろうか。


子どもの無限にある創造性は、
いま、親によって、剥ぎ取られてはいやしないだろうか。


でも、それでいいんですよね。

だって、みんなといっしょだから。


高学歴のないバカにはなりたくないのだから。


じぶんの子をよーく見つめて、
その子が、どんな子なのか、よりも、
むしろ、まわりのみんなに、その子を
合わせるように仕向けてはいやしないだろうか。


でも、それが正しいんですよね。

みんなといっしょ。出る杭は打たれる。


しかし、いま、企業は個性を求めて、
人材探しをしているところだが、
就職活動をしている学生さんは、
みんな、おんなじような背広やスーツを着、
おんなじようなカバンを持ち、
じぶんのアイデンティティーを押し殺して
企業面接にゆく。


このパラドクスをなんとか打破できなものだろうか。


つまり、独創的な、ユニークな、
世界に唯一な人を作り上げるには、おそらく
この世の中の価値観を総取っ替えしなくては
ならないのだろう。


 カードゲームみたいに
簡単にできることではないけれども、
産業構造改革とともに、大々的なパラダイムシフトを
しなくては、この日本という国が、
とてもおバカな島国なってしまうような気がしてならないのだ。


チャイルドシートはもちろん道交法によって
そう決められてはいるが、
そこに乗せる子どもたちには、
チャイルドシートから降ろしたあとは、
ほら、自由に遊んでおいで、
飽きるまでゆっくりね、
お母さんは、なんにもしないで遠くにいるからね。


わたしが、あのママチャリに
どうもいいイメージがないのは、
勉強なんてできなくてもいい、心の広く、
きれいな子になって、ほかのだれでもない、
たったひとりの人間になってほしい、
という気持ちがほとんど希釈されている
その象徴のようにおもえてならないからなのである。


子どもには、もっと外で自由にさせたらどうかな。


もっと光を。

才能とは2017/3/28

 むかし、たいそうな濡れ衣を着せられたことがある。

予備校の応接室に呼ばれ、
社員の先生から開口一番、

「あなた、逮捕されますよ」
と言われた。

「はい?」

「調べれば、だれが書き込んだかわかりますから」
と。


「あの、なんのことでしょうか」

寝耳に水、わたしはぼんやりするしかなかった。


その話は、こういうことだった。

2ちゃねんる、というサイトに、
実名入りで、予備校講師の名前と、
それとつきあっている現役女子高生の名前が
4人、列挙されていて、
それを書き込んだのが、ある女子高生であって、
署名付きなのだそうだ。

 そのタレ込んだ女子高生の母親がこれを
見つけ、うちの娘の名前が利用されている、と
塾側に抗議したらしい。


 で、その4人の塾講師は激昂して、
いったいこれを書いたのはだれか、
ということで、とどのつまり、わたしだろうと、
それを塾の上層部に陳情したのだ。

 なぜ、わたしなのか、
このタレ込んだ生徒は、4日間のわたしの漢文の授業に
出ているから、そして、あいつは、そういう
事情に詳しいから、きっとあいつだ、
という理路で、わたしが犯人にされた。

しかし、その漢文の授業というのは、
生徒数156名だったか、2階の大教室が
満杯で、キャンセル待ちが5人くらいいた授業である。

通常授業をとっている生徒ならまだしも、
短期の授業の子など、もうしわけないが、
顔もわからない。

そして、わたしは、いまもそうだが、
2ちゃんねるの存在は知っていても、
それをついぞ見たことがないのである。

「あのぅ、それはどんな文面なんですか」
と、訊くと、
「それは、もうしあげられません」
と、拒否された。

 だから、わたしは、その文面がどんなものか、
はたまた、その4人がだれなのかも、
知らずじまいだった。


 しだいに噂で、この4人の先生はだれなのか、
わかってきたのだが、
その4人は、わたしの知る限り、その情報は正しかった。

 しかし、そんな不純なことをしている4人が
激怒して、なんで、なんの関係もないわたしが、
咎められなくてはならないのか。

 罰せられるべきは、その不純異性交遊をしている
彼らではないのか。

 わたしは、そのときつくづく「不条理」というものを
感ぜざるを得なかった。




わたしは、その翌年、ここを解雇された。
理由は言われなかったが、
友人の先生からは「河合」とか受けてみたら、と
言われていたので、そういう不穏なうわさは
わたしのしらないところであったのだろう。


じぶんにもっともわるい情報は、
じぶんには、もっとも遅く伝わるものである。


しかし、だれがこの書き込みをしたのか、
いまだわからずじまいだ。


被害者とは、こういう構造で
生産されるときもあるから、、
本人のまったくあずかりしらぬままという
場合も覚悟せねばならない。


つまりは、太いパイプをもっているとか、
深い絆があるとか、
そういう関係を構築しておかないと、
いつ、なんとき、じぶんが被害者になるとも
限らない、ということだ。



どこぞの理事長が、いまペラペラと
しゃべりまくっている。


これには、時の政権幹部も頭を抱えてるだろう。


「裏切られた」とおもった瞬間から、
すべての絆がちぎれ、
その怒りが、証人喚問の席で再演されたのだろう。


「これ誰にも言うなよ」と言われて、
それを守らせるには、
それを担保すべき「つながり」を構築しておかねばならない、
という好例である。


わたしのもっとも主要な仕事場を
辞めた理由、いや辞めさせられた理由も、
「ゆかりん」とかいう子にマイミク申請した、
というただそれだけであった。

いちど、ある弁護士に相談したのだが、
「それだけの理由ですか?」と弁護士は言っていたのだが。



「ゆかりん」が、ほんとうは誰なのか、
ミクシィをされている方ならわかるだろうが、
ここは、血の通った生身のにんげんではなくて、
空想上の空間であり、それは、だれでもないはずである。



 しかし、その「ゆかりん」の
学年主任が、わたしをダカツのごとく毛嫌いしている
ひとだったので、これを大問題にして、
わたしを、職場から引きずり下ろしたのである。


 そのひとは、国語の教師で、わたしの先輩で、
しかし、漢文となると、教科書に書き下し文を
ぜんぶちいさな字で、指導者から書き写し、
訳を書き写し、じぶんの教科書を
じふんの字で、真っ黒になるくらい埋め尽くして
授業に出かけてゆくひとだった。


わたしは、そのひとの教科書を
「耳なし芳一」と呼んでいて、
こっそり、わたしの、何も書いていない教科書と
取り替えてやろうかと、かんがえたこともあった。



つまり、無能な男だったのだが、
かれは、理事長に媚びへつらって、
ついに、教務部長まで登りつめた。


世の中は、能力でも、性格でもなく、
深い絆なのだろうが、
その絆を築き上げるのも、
ひとつの才能なのだろう。

母になる2017/3/25

 陣痛がはじまったのが、
午前2時、長女の母親は長女とともに、
病院にむかう。


 産まれたのは、その日の夕方の5時ごろだったから、
ずいぶん長くかかったものだ。

 
 母の胎内にいるときから、
胎児には、母の声も外界の音も
すでに認知しているらしい。

 だから、モーツァルトとか、
ほかのクラッシックとか、それを聴かせていると、
すこぶる胎児にはいいそうだが、
母が胎内にいる子どものために
会話する、ホースのようなものまで、
市販されているそうだ。

 いわゆる胎教というやつだ。

 わたしの知人で、
胎教にいいから映画にゆこう、と
ご主人に言われ、
観た映画が「座頭市」だったという話をきいた。


 北野武の「座頭市」である。

 いたるところで、切り合いがあって、
映画としてはおもしろいだろうが、
血がびゅんびゅん飛んだり、
ばたばた人が死んだり、
はたして胎児にはどんな影響があったのだろうか。


 また、その方は、友だちから、
これも胎教にいいということで、
外に出て、見たものといったら、
「木下大サーカス」だったそうだ。

 熊が自転車に乗ったり、
高いところを棒一本もって渡ってゆく
ひやひやものの演技とか、
どうみてもお腹の子には、あんまり
いい影響のあるものとはおもえないが、
いま、その子もすくすくと成長されているらしい。




「産まれた」というラインが妻から来たのが、
16時54分。

「ほんと。でかした。で、なんでわかるの」とわたしが聞き返すと、
「ご主人からラインが」との返事。


「母子ともに元気か?」

わたしがもっとも気になることである。

「元気」と返信がある。

そして、産まれたばかりの孫の動画が送られてきた。

「娘は?」

「だから元気っていったじゃん」


「いや、むしろ娘の姿が見たいじゃん」
と、わたしはせっつくようにラインした。

 たしかに、孫は可愛いのだろうが、
わたしには娘のほうが大事である。


と、ちいさな命を胸に抱いて
ベッドに横たわっている長女の微笑む写メが
ラインに送られてきた。




「ロードって知ってる?」
長女がまだ高校生のころ、小学生の次女にそう訊いたのだ。

そこで、わたしは、食事をしている長女に、

「お前、カラオケ行っただろ?」と、問うた。

と、娘は、食べていたなにかを
口から半分もどしながら、
「う」と前かがみになったのだ。

で、わたしは、「年上の男と行ったろ?」とつづけて訊いた。

「う、うん」

「全部、おごってもらったろ?」


「わたし、墓穴ほった?」と彼女。

そもそも、ロードという曲は、そこそこの年齢になった
男がカッコつけて歌う楽曲である。

たぶん、娘はその曲を知らなかったのだろう、
ふーん、こんなカッコイイ歌があるんだ、
きっとそうおもったはずだ。

で、次女にその辺の事情を訊こうと
「ロードって知ってる」と言ったのだ、
というのが、わたしのプロファイルである。


べつに、長女がハスッパだとはもうしあげないし、
仕事も、人並みいじょうにこなしているし、
それは、わたしの娘にしては、
よくやっているとおもうが、
わたしには、よく減らず口をたたく、
そんな娘がいま、出産をして、みずからの子を
抱いている、その顔は、まるで
神がのりうつっているかのような微笑みを浮かべ、
その子を眺めやっているではないか。


「愛」という一語などでは語れない。
むしろ「慈しみ」という語のほうが近いかもしれない。
それは、ひじょうに美しい表情であったのだ。

「こんなきれいな娘を見たことない」と、妻にラインをした。


と、それから、しばらくして、ご本人からのライン。

「ぶじうまれたよ! しぬかとおもったけど」


わたしもひらがなを多用するが、娘もそうななのか、
あるいは、漢字を知らないのか、こんなラインだった。

でも、わたしは、そこで、

「おめでとう」でも、「でかした」でも「よくがんばったな」でもなく、
こう返事した。


「お前の表情、美しいよ」


わたしが、彼女にたいして、生まれてはじめて
掛け値なしに褒めた、さいしょの言葉である。


さ、この父親の称賛にたいしてどんな返事が来るのか。


「ありがとう」

「ほんと、うれしい」

「はじめて、言われた、そんなこと」


さあ、どれだろう。

と、すぐさま彼女から返事が来る。


「でしょ! 母になった!」


なんだ、その「でしょ」ってのは。

肉と豆腐のうま煮2017/3/23

 豆腐があったので、
肉を切っていっしょに煮てみた。

 これが朝昼兼用の食事である。

「肉と豆腐のうま煮」という料理だ。

 醤油とだしと生姜、そこに
豚肉と豆腐、ねぎ、それを煮るだけの簡単な
料理である。


 この日は、晩飯に「かけ蕎麦」を食べる予定だから、
ひどく粗食ということになる。


 わたしが、この料理を知ったのは、
はるか幼少期のころであった。

 サラリーマンであった父が、
雨がふると、どこから家に電話して、
駅まで傘をもってくるようにと言づけ、
その傘をもってゆくのがわたしの役目だった。

 携帯電話などない時代だし、
ましてや、乗車案内のアプリなどないから、
ひどくアナログな世界だったとおもう。

 だいたい父が帰るだろうころに、
小学生のわたしは二本の傘をもって、
駅に立っていた。

 さながらハチ公のごとく。


 そして父が駅から出てくると、
ふたりで商店街をあるいて帰宅するのだが、
そのときは、いつも、路地裏の中華屋によって、
父はビールを飲み、わたしは、
夜食のように、毎回、「肉と豆腐のうま煮」を頼んだ。
この字型のカウンターだけの店であった。

「肉と豆腐のうま煮ください」というと、
若いのかそうでないのか、
子どもだったのでよくわからないが、
その板前さんひとりで切り盛りしている店で、
「肉と豆腐のうま煮ね」と復唱しながら、
つくってくれたのをいまでも覚えている。


 出てくるものは、そんなに高級なものではなく、
父がビールのほかになにを食べたのかも
覚えていないが、あの「肉と豆腐のうま煮」の味だけは、
記憶の片隅にいまでものこっている。

 小学校の高学年だったのか、
そのころから、わたしは、父よりは
頭脳明晰ではないかと自覚していた。

 父は、明治大学を出たのか、あるいは、
高校卒なのか、はっきり教えてもらえなかったが、
すでに、わたしは父よりも
ものごとの道理くらいは理解しているとおもっていた
すこぶる生意気な少年だった。


 ただ、一流の生命保険の社員だったおかげで、
ひもじいおもいをしたことはいちどもなく、
また、お前には金がかかっているとか、
親への感謝を強要するひとではなかったので、
それは、ものすごくありがたいことだった。

 兄と姉は、小さい頃に亡くなっているので、
わたしのことは、大事におもってくれていたことも
じゅうじゅう理解していた。

 だから、おもちゃ売り場で、すきな鉄砲買ってよい、
というときも、わたしは、むしろ、
過保護扱いを子どもながらに忌避していたから、
そのピストルの並ぶなかで、
もっとも小さな、もっとも廉価なものしか、
ねだることができなかった。

 「お前は、えらいね」
と、そのとき父に言われたこともはっきりと覚えている。

 肉と豆腐のうま煮は、楕円の白い器に盛られ、
れんげでもって、ふぅふぅして完食し、
わたしたちは、自宅にもどってゆく。


 いま、その父も、母も亡くなり、
団子坂のお寺には、父・母・兄・姉が眠っているが、
この家を継ぐ者として、わたしひとりが、
まだ生き残っている。


 わたしの作る、わたしだけの
「肉と豆腐のうま煮」はけしてうまいものではない。

 あのとき食べた、「肉と豆腐のうま煮」も、
ほんとうは、わたしの作るものと
そうかわりはないかもしれないが、
子どもの記憶は美化されるから、
よくわからないままである。

 ただ、子どものころに食べた
「肉と豆腐のうま煮」には、
いつもとなりに座る父の姿と
そぼふる雨の匂いだけは

忘れずにあるのである。

ゲシュタルト崩壊2017/3/23

 卒業式に出席した。
同窓会会長というお役目、
むかしは、PTA会長のつぎに並ばされて、
来賓、2人目だったのが、
いまじゃ、区議会議員やロートルのPTA顧問の
つぎに並ぶことになり、
兵隊さんの位もどんどん成り下がってきた。

 

その大田区議も、海外で豪遊しているところを
マスコミに抜き打ち取材されて、
あたふたとしたところが、
テレビ画面におおきく映し出され、
いわゆる時の人となった方である。

 

 

いよいよ、卒業生の入場である。

副校長が拍手をうながす。

 

児童たちの、「威風堂々」の演奏のなか、
来賓、保護者、教職員の拍手のなか、
卒業生34名が、間隔をあけつつ入場する。

わたしどもは、ひたすら拍手をつづける。

眠くもあり、二日酔いも手伝い、
わたしは、なぜ、拍手をしているのか、
ただ条件反射的に、両手をたたいているような
そんな気がしてきたのである。

 

 

そもそも、拍手という身体運用は、
どういうコノタシオン(いわゆる含意)をもっているのか。

中国人などは、指をひろげて、おおきな口あけ、
バチバチ手をたたくが、それが、芸能界にも飛び火して、
わりに、可笑しいときに、みな、中国流の拍手をするが、
なぜ、拍手をするのか。
たぶん、芸能人は、顕示的な意味合いもあるのだろうが、
一般的には、
賞賛、賛美、賞揚、ま、そんなところだろう。
が、そういうときに、なぜ手と手をあわせて、
じぶんの手を痛めつけながら
それを何回もくりかえさねばならないのだろう。

 

 

ちょっとおすましして、
とびきりのおめかしの34名が
体育館のじぶんの席に腰掛けてゆくのを
眺めながら、そんなことをかんがえていたのである。

 

 

 

そして、わたしは、いまなぜ、拍手をしなくてはならないか。
その理由はなんなのか、
はたまた、ひとりだけ拍手をやめたら、
この場ではどうなるか、なんてことを
おもいはじめていたら、
じぶんが、拍手する意味さえもわからなくなってきたのだ。

 

これって、ひょっとすると
「ゲシュタルト崩壊」なのじゃないだろうか。

 

「ゲシュタルト崩壊」というのは、
ウィキペディアによれば、
「知覚における現象のひとつ。
全体性を持ったまとまりのある構造から
全体性が失われてしまい、
個々の構成部分にバラバラに切り離して
認識し直されてしまう現象をいう。
聴覚や皮膚感覚においても生じうる」とある。

 

ウィキペディアが正しいかどうかは
わからないが、皮膚感覚でも起こりうるというのだから、
やはり、これはゲシュタルト崩壊なのである。

 

と、待てよ、
これをもっと敷衍してかんがえれば、
人生においても、友だちと映画を見ているときも、
ひとり、じぶんのために料理をつくっているときも、
恋人と手をつないで都会の喧騒をあるいているときも、
なにか秘め事をしているときも、
母の看病をしているときも、
じぶんっていったい、いま、なにをしているのだろう、
とおもうときが、あったかもしれないし、
これからもあるかもしれない。

 

 

いったい、じぶんってなんだろう。
いまなにやってるんだよ。

 

これって、ゲシュタルト崩壊じゃなぃか。

人生はただ一つの質問に過ぎぬと、論破したひとも
いるけれども、「いま、わたしはなにをしているのか」
という問いこそ、ゲシュタルト崩壊の
真っ只中かもしれない。

 

ということをかんがえつつ、校長先生の式辞がはじまり、
わたしは、こんな迷宮の問いを
頭のなかでぐるぐる回しているうちに、
どうも、昏睡状態に陥っていったみたいだった。

 

 

校長先生の抑揚のない、おもしろみの欠如した
ごあいさつが、
わたしの睡魔を背中から後押ししたせいもある。

どのくらいの時間が経ったのか、
先生の式辞がおわったらしく、
卒業生一同が、ざっと起立する。

 

その起立の雰囲気がわたしに、ひたと、つたわり、

わたしは、はっとして、

おもわず卒業生といっしょに

起立しようと、身体をびくりとさせたのだ。

 

 

そう、わたしは、あぶないところで、ただひとり、
来賓席で、卒業生といっしょに起立するところだったのだ。

 

つまり、ようするに、 
卒業式では、あまり複雑なことを
考えずに、ただ、ぼんやり座っているのがよろしい、
ということである。

先生との会話やら、三者面談2017/3/21

 卒業を祝う会というのがあった。
わたしがまだ高校の教師をしているころである。

 となりに座ったのは
三年間、担任をした子の親である。

 その母親がしきりにわたしの耳元で
「イナゴが、イナゴが」と言うのだ。

 「はい?」わたしが聞きなおすと、
「イナゴが頭から離れないんです」

 「イナゴですか」

 「はい、先生が入学式におっしゃったことが」

 「あ、あれですか」

 たしかに、わたしは、三年前の入学式に
53名の保護者のまえでもうしあげたことである。


「大学受験はむつかしくて、
帝京大学に120名が推薦入試を受けて、
受かったのは2名でした。
それって、イナゴの大群が
海にむかって飛んでゆくようなものです。
ほとんど帰ってこない」

こんなことをもうしあげたはずであるが、
その母親はそれを三年間ずっと
胸内にしまいこんでいたのである。

 言葉とはおそろしい。


 担任をしていると、
じつにかわった親にあうものだ。


 男子生徒であったが、どんな悪いことをしたのか、
親を呼び出したことがある。

 べつにわたしは親を叱りつけるつもりもなく、
これから先のご相談、というようなことを
話すつもりでいたのだが、
その母親は頭をたれながら、
「なにが悪いんですかねぇ、先祖が悪いんですかね」
と、言い出した。

よりによって「先祖」なんか持ち出すものだから、
ご先祖様だって、ゆっくり休んでいらないだろう。

へたすれば、墓場から起き出してくるよな。


 夏の面談。
むかしは、クーラーなんてなかったものだから、
それは蒸し暑い部屋で扇風機まわしながら
一日に、10人くらいの三者面談を組んだ。

 とにかく、朝から夕方まで、
こちらはひとりなので、終わるころはぐったりした。

当時は、三軒に一軒くらいのわりあいで、
ビール券とか、家で捕れた野菜などを
もってきてもらうのが常だったのだが、
桜井君(仮称)との面談のときに、
やはり、桜井君の母親が、
ごそごそと、茶色の紙袋をだし、
「せんせい、遅くなりまして」
と、わたしの前に差し出した。

「いえ、そんなご心配はけっこうです」
と、お決まりの社交辞令でお断りし、
両手で、その紙包みをお返ししようと
その紙袋のなかを覗いたら、
それはビール券でも、高級なお菓子でもなく、
雑巾であった。

そういえば、春のはじめに各家庭から
雑巾三枚を教室に寄付するように
お願いしていたのだが、
「遅くなりまして」は、その「遅くなりまして」だったのである。

わたしは、雑巾三枚を遠慮してしまったのだ。


ぎゃくにわたしのところに
娘の学校の先生から電話が来たときの話。
つまり、娘の親としての会話である。

夜の10時過ぎ。

「ユイちゃんが、わたしのことババァって言ったんです」

突然、先生はそう語りだした。
わたしは、もちろん、
その先生をぞんじあげるわけではない。

「あ、それはすみません。で、いま先生はどちらからおかけですか」

「自宅からです」

 自宅から、わざわざ拙宅まで
電話をかけてこられたというのだから、
さぞやご立腹なのだろう。

 「それは、すみませんでした。どういうときに」

「はい、四五人で廊下を歩いていたとき
わたしが、ユイちゃんを注意すると、
廊下を曲がったところで、
ババァって言ったんです」

 「は、それは、たいへん失礼しました。
しかし、先生は姿の見えないところなのに、
よくうちの娘の発言だとおわかりでしたね」
と、わたしがもうしあげたら、
先生は「ハッ」と言って、そのあとはなにも
おっしゃらず電話を切ったのである。

 じぶんの判断に、ややぶれが生じたのかもしれない。

と、奇しくもそんなところに長女が帰ってきたのだ。

「おい、お前、柳沢先生に今日、ババァって言ったか?」

と、言下に娘は「うん、言ったよ」

 なんだ、やっぱりうちの娘だったのか。


 これは、まったくべつの学校の話なのだが、
日吉にある高校に、篠山君が入学することがきまった。
さて、担任はだれがするかで
その学校では話題がもちきりだったという。

 べつに篠山君にはだれも興味がないのだが、
いつかはあるだろう、三者面談がたのしみなのである。

 なにしろ、母親が、南沙織なのだから

神戸屋にいく2017/3/19

ひさしぶりにM子と会った。
うちに連れこんで煮たり焼いたりしようと
おもっていたら、夜、北千住で女子会をするという。

 ざんねん。

ま、うちは、
竪穴式住居のように薄暗く、
鍾乳洞のように気味悪く、
空爆された街のようにものが散乱しているから
だれも来ようとはしないのだけれども。


食事をするのが目的である。
わたしは、M子を学校まで迎えにいった。


なに食べる?


そんなラインが来ていたので、わたしは、
「らら・ぽーと」か「神戸屋」と返した。


「??」


M子は、らら・ぽーとも神戸屋も知らないらしい。
どちらも、炭水化物を取らなくても平気な料理が
揃っている。こちらがあんまり粗食だと、
相手も気にするだろう。

らら・ぽーとのフードコートには「えぼし」があって、
ご飯さえ手をつけなければ、魚だけの低カロリーのものが
どっさりある。

神戸屋は、サラダバーがあるはずだ。


M子を車に乗せて、世田谷までもどる。
わたしは、はじめて今夜、彼女がお泊りすることを
聞いたので、横浜までは無理だとおもい、
神戸屋に行くことにした。


そんなにまずくはない料理屋である。


上野毛の坂の下に神戸屋はあり、
平日の夕方だったせいか、店内は比較的がらりとしていた。

M子は、ハンバーグとビーフシチュー、わたしは、
もちろんサラダバーである。


このあいだ、M子と行ったレストランでは、
巨大なアメリカンバーガーを彼女が頼んで、
彼女は、まず食べ方に閉口していた。


これどうやって食べるの?



ん。だから、口あけて食い物いれて、
歯を上下にぱくぱくすればいいんじゃん。


んなことわかってるよ。


なんて会話をおもいだした。


ハンバーガー&ビーフシチューが来るまで、
彼女は、パンを三つほど食べていた。

なにしろ、パンの食べ放題。それも焼きたて。
わたしは、これが食べられないのが
ざんねんでならなかった。


パン食べないの?


うん。減量中だからさ。


なんで痩せようとおもうの?


そりゃ、みっともないじゃん、太っているのってさ。


え。もういいじゃん。


なに、そのもういいじゃん、って。それって、
おまえは、すでに醜くいけれども、すでに
人生は終わっていて、もうどうでもいいことでしょって
そう言ってるわけ?


と、M子はカラカラと笑い出して、


そーは言ってないけどさぁ。


だれだって、いつまでも、素敵なんて言われなくてもいいけれども、
醜いっておもわれたくないのが人情というものだ。



M子の料理が来たので、わたしもサラダバーを取りに行く。
先に、野菜だけパクパクしていたらみっともないし、
なんか紳士的ではないと、本能的におもったのだ。


サラダバーと言ったって、シズラーほど種類は豊富ではない。
ん? みると、サフランライスのサラダ・
ポテトサラダ・ごぼうサラダ・人参サラダ・
スパゲティサラダ・マカロニサラダ・さつまいものサラダ、
ずらり並んでいるが、
このすべてをわたしは食べられないのだ。

炭水化物と根菜がNGだからである。

だから、わたしは、消去法的に、
赤ピーマンとレタスととうもろこしを皿に盛った。


なんかさあ、サラダバーって言っても
食べられないものだらけだよ。

と、わたしが言うと、言下に、


口を開けて、パクパクすれば食べられるよ。

と、M子が言った。


う。仕返しされている。

大量の焼きたてパン&ビーフシチューの女と、
うさぎの餌みたいな男は、
このあと、
この店を出て、時間にまだ余裕があったので、
彼女が見たいと言った
ベイブリッジまでドライブした。


こんどどこ旅行行く?


なこと言うと、前も行ったようにおもうじゃん。


あ、そう。

あ、横浜やっぱり綺麗だね。

みなとみらいの夜景である。



ほら、あそがベイブリッジ。


あ、綺麗、綺麗。


彼女は喜んで写メを撮っている。

わたしがもう20年若かったら、
ここで、きっと口説いていたことだろう。


ざんねん。


このとき、わたしは、わたしの昔の短歌が頭をよぎった。


・髪の毛をさわっていいよ照らされて港のうえに架かる大橋

 

 

(2012.10.10)

北風小僧2017/3/18

 仕事がおわったのが11時。
大岡山にたどり着いた。
 
 昼は暖かったものの、やはり、
夜となるとまだ北風が商店街を吹き抜ける。


 そのとき、ちょうど電話がなった。



 寒いね。

 とわたしが言うと、彼女は、



 そう。北風小僧の貫太郎がまだ山に帰ってないからよ。




 そうなの。



 そう。貫太郎はね、恋をして、帰れないでいるの。



 え。だれと?


 えっと、佐伯さん。佐伯日向子さんね。
そしてね、貫太郎と日向子はつきあうのよ。
つきあって、居酒屋に行くのね。
そうしたら、居酒屋の大将が、
「きょうは、やけにこの店寒いな」とか言うわけ。
焼き鳥なんか、ほっとおくと凍っちゃうくらいなの。
貫太郎がいるからね。

 お客さんも、この店寒いなって言うのよ。
 
 だから、迷惑になるからって、ふたりは居酒屋を出るの。
そして、公園で、「日向子ちゃんは、ぼくといても寒くないの?」
と訊くの。「うん、そういえば、わたしのおばあちゃんが、
『常春の国のこたつ王国』の女王だったって」



ところが、それは、北風小僧の貫太郎と、
日向子は、ロミオとジュリエットとおなじような間柄で、
いっしょになることはできないの。

 



 そんなときに、エイジェントの雪ばんばから、
手紙がくるの。

 「地上で、仕事をしているはずなのだが、
どうも、地上の女と、いい仲になっているという
話があるけれども、どうなっているのだろう」


 そんな内容なのね。それだから、
貫太郎は雪ばんばのところに出向いたら、
「仙人に会いなさい」と指示があったので、
貫太郎は仙人のところに行くの。

 


 で、そこで、「さよならの小瓶」をもらうわけ。
この液を飲むと、いままでの歴史がぜんぶ忘れられるの。

 それでね、貫太郎は、「さよならの小瓶」もって
日向子のところに行くの。
で、これ飲んでごらん、ぼくもいつも飲んでいるんだ、って。

 



日向子が飲み干すんだけれども、貫太郎は、そのコップを
落としてしまうんだな。だから、「さよなの小瓶」の液を
飲むことができないの。


 だから、日向子はすべてをわすれてしまって、
いま、ここにいるのはなぜ、みたいな顔しているわけ。

 でも、貫太郎は、なにもかもわすれられないから、
日向子のことは忘れることができないの。

 



  その悲しさのあまり、貫太郎に羽が生えてきて、
貫太郎は、かもめになって北の海に飛んでいってしまうの。



 あのさ。


 なに?


 貫太郎はここにいないの?


そ。


 北に海に行っちゃったんだよね。


 そうよ。



 でもさ、まだ寒いのは、
北風小僧の貫太郎が


まだ山に帰ってないっていう話だったんだじゃないの。


 あら。

 と言って、彼女は高らかに笑っていた。

しあわせの場所2017/3/17

 焼肉を食べているカップルって
ほとんど深い関係になっているって知ってます?

 

 

 うん、そもそも、食事をする間柄は、
そうじゃないのかな。

 

 


 そう、とくに肉でしょ。それに食べるという
本能的なことをいっしょにするというのは、
とても深い関係にあるらしいのよ。
 わたしはね、むかしつきあっていたひと、
料理人だったでしょ、だから、焼肉屋に行っても、
わたしに焼かせてくれないの。
 だめだ、なんて言われて、じっと
焼いてくれるのを待っているの。
 で、これは、レモンと塩でとか、これはタレでとか。
わたしは、小鳥が餌もらっているみたいに、
じっとしてビール飲んでいるだけ。

 

 


 ふーん、おれはさ、焼肉とか行かないんだよね。
ほとんどに、にんにくがはいっているでしょ。
だから、行っても豚足とか食べている。

 

 


 そうなの。みんな優しくしてくれたな。
ところで、あなたは奥さん大事にされているの。

 

 


 してますよ。ちゃんと。
誕生日にはカトレアも忘れないし。

 

 


 と、わたしが言ったら、彼女は
カラカラと笑いだして、電話のむこうで
オリビアを聴きながらを歌いだした。

 

 


 歌いおわったあとから、また話はつづく。

 

 
 ひとってね、大事なひとができると、
そのひとの心の中に場所ができるの。
それがおおきな場所だったり、小さかったり。
そして、その場所は永久に消えないんだって。
だから、すきなひとができると、たくさん部屋ができて、
部屋の数だけ幸せになるんだって。

 

 

 わたしは、彼女の話を聴きながら、
宇多田ヒカルの歌をおもいだしていた。

 

 

 ふーん、そうなんだ。
ところでさ。

 

 

 なに?

 

 


 その話誰が言っていたの?

 

 

あ、この場所の話?

 

 


そう。

 

 

 
 えっと、うーん、あれ、わたしかな。

葬儀あれこれ2017/3/16

 義父が亡くなって20年ちかく経つが、
その地、その地で、葬式の流儀があって、
お通夜の晩、
「じゃ、ここで一晩お願いね、わたしは、
子どもたちがいるから、帰るわ」
と、義母と実の娘たる妻は子どもたちを連れて、
家に帰ってしまい、
けっきょく、わたしは、義父とともに、あと数人の知らない方と、
葬儀場で一晩あかすことになった。

 徳島のお通夜は、もじどおり、「通夜」であり、
夜通し死者の魂を鎮めなければならないのであった。

 そんなことを聞かされもしなかったし、
寝耳に水というか、いささか被害者的なきもちで、
わたしは義父と、だれかしらない親戚のひとと、
一晩を過ごすことになった。

 世の中には、犬などを捨てるひとがいるが、
きっと、その犬もこういう気持ちになったんだろう。

 だから、線香は蚊取り線香のように、
ぐるぐる巻かれたもので、なかなか
火が消えないようになっている。

 となりの部屋には布団が敷かれていて、
すきなときに寝ていいからと、
親戚らしい方に言われたが、
ひとり、そんなところで、いびきかきながら
寝るわけにもゆかず、
けっきょく、わたしは「通夜」したのである。


 家族の絆というものはそんなものかと、
つくづくおもったが、朝、はやく、妻は、
母と子どもを連れて会場にやってきた。

 義父は、律儀なひとで、亡くなる前から、
段取りだけは、ご自身で決めていて、
わたしが、葬送のあいさつ係であった。

 徳島の葬式は、お通夜にはだれひとり
弔問客が来ずに、告別式の日にみなさん
お集まりになる。

 だから、翌日の告別式には町のたくさんの方が
集まり、会場はひとでいっぱいになった。


 わたしが、マイクの前に立ち、
最後のお別れの挨拶をしようとしたところ、
会場の係りの女性が、おちょこを渡してお神酒をつぐのである。

 これが、徳島の流儀らしい。

 身を清めるためのか、わからないが。

 わたしはマイクの前で、一口、お神酒を飲むと、
その係の方はとなりで義父の写真を抱えている妻の前で、
「あ、奥さんはええやろな」と言って、
素通りしていった。

 写真を両手で抱えていて、
酒が飲めないからだろう。

 それを理解していない妻は、わたしにむかって、
「ね。なんで、わたしにくれないの?」
と、小声で言ったから、
わたしは、すぐに、
「お前に飲ませると、酒乱になるからだよ」
と、言ってやったら、
こともあろうに、弔問客の前で、父の写真を揺らせながら、
笑いだしたのである。

 たしかに、緊張してるときこそ、
何気ないひとことに、笑ってしまうこともあるが、
あのときはおどろいた。


 わたしの祖父は、東京日日新聞の政治記者で、
原内閣をおいかけていた。
 96歳で亡くなった。

 「今年は、わたしの8回目の年男です」
という年賀状が最後の年賀状だった。

 三鷹、禅林寺というおおきなお寺での葬儀だった。
長男も会社の社長だったせいもあり、
これも盛大な葬儀だった。

 わたしどもは、弔問客の前でいちいち頭をさげ、
その長蛇の列を見ていたのだが、
となりに座っている妻にむかって、
よせばいいのに、わたしは
こんなことを言ってましった。

「おい、たくさんお客さん来ているけれどさ、
友だちはだれも来ないよな。
だって、みんな死んでんもんな」と。


 そうしたら、妻は小刻みに笑いだしたのだ。


 不謹慎ではあるが、
こういう空気のときこそ、
むしろ、こらえることができないのである。


 わたしの働いていた職場で、
理事長が亡くなったとき、学校葬が鶴見の大学であった。

 高校と大学とつながっている学校だったから、
高校の教員と大学の職員と、
受付が用意され、わたしは高校の教員として受付に立った。

 と、対面に立っている職員のひとりが、
四角い顔で眉毛も目も細く釣りあがっていて、
やけに目立つのである。

 わたしが、となりの先生にむかって、
「ね、見てみ、写楽がいるぜ」って言ったら、
かれは、前方の、四角い顔の目と眉のつりあがった人を見て、
おもわず笑いだしたのだ。

 で、また、となりの先生に「おい、写楽だって」って
言ったら、またとなりの先生が笑いだしたのだ。

 これが伝言ゲームのようになって
わたしどもの受付は、笑いを半殺しにした
罰ゲームのようになってしまい、
そのうちのひとりは、白黒の幕の裏で笑いだしたものも
いた始末。

 どうも、こういう緊張をともなう場は、
笑うという身体運用とぎゃくにむすびつくものなのである。


 そういえば、わたしども教員は、
そのご家族の葬儀にはかならず出向いたものだが、
遺影をみてはじめてその方を知ることもある。


 そういう葬儀では、もうしわけないが、
悲しみは皆無である。

 で、することといえば、簡単な焼香のあと、
テントの中での精進落としくらいである。

 飲み物も豊富だし、煮物とか寿司とか、
食べ放題、飲めや食えや、で、けっきょく、
だれかが言い出す。

「じゃ、もう一軒、行きますか」

「ああ、行きましょう、行きましょう」
と、みな次の店にゆくのである。

 しかし、「もう一軒」と、通夜の会場が
一軒目に数えられているのが、
どうかとおもうのであったのだが。

刹那的時間2017/3/14

 ちびさんのチンチラが、
切開手術をしたものだから、
首に漏斗のようなものをくっつけている。

 女王さまのすがたにちなんで、
エリザベス・カラーというらしい。

 さて、姿をみれば、
「ジャングル大帝レオ」のミニチュア版のようになっている。

 それが、どうも怖いらしく、
兄さんのスコティシュホールドのミルキーは
タンスのうえから降りてこない。


 猫にもストレスがあるのだろう。


 その「レオ」が、孫の「こはる」といっしょに
ベッドに寝ている写メを、「こはる」の祖母が
わたしに送ってくれたので、それでは、
覗きにゆきますか、と、三階にあがる。


 三階につくと、十時を過ぎたのに、
まだ灯りがついていたので鍵を
あけてなかにはいってみる。

 と、ソファに、「こはる」の祖母、「こはる」の母、
そして、臨月の長女まで、腰掛けているじゃないか。

長女のとなりには、エリザべ・カラーまで寝ている。


女三人は、わたしのほうを見るなり、
「なんで、お前がくるんだよ」みたいな
目つきであったが、なにしろ、ここはわたしの家なので、
堂々とソファに腰掛ける。

と、チンチラはいそいでわたしから
逃げるように畳の部屋に行ってしまった。

 
「お前もいたのか」とひとりごとのように言いながら、
わたしは、長女のとなりに腰掛けた。

「いて悪いかよ」みたいな目つきでこちらを
長女はみている。

 と、腰掛けたはずのソファは、
それは背もたれが畳み掛けれたところだったらしく、
わたしは、ソファには座れずに、
そのまま床にごろんと転がってしまったのである。


 それをみて、妻も娘らも、
ひどく冷ややかな目で、
床に転がったわたしを
文字通り、上から目線で笑っている。

とてもしずかなな声だったが、
長女の「ざまみろ」という声がした。


 なんだよ、こんなところに椅子がないのかよ、
と、独り言を言いながら座り直した、
そのとき、ライン電話が鳴った。

 アキからである。

 津市にひとり、大学を出て就職をした子である。

 なにか、虫の知らせというのか、
きゅうに心配になったので、
気づいたら電話しろというラインを送っていたからであるが、
まさか、こんなとときに。

 で、べつに聞かれちゃわるい話もないが、
バツもわるいから、わたしは、「もしもし」と言いながら、
階下に降りていった。

 つまり、わたしは、
三階にあがり、女三人の睥睨にあい、転び、猫に逃げられ、
「ざまみろ」と言われ、電話の音で下に降りていった、
ただそれだけの刹那的な時間を
演じただけであったのだ。


時代2017/3/13

 「時間」とか「時代」とか、
こういうわけのわからないものを
盾にして語られると、聞いているほうは、
ああそうですか、としか言いようがなくなる。

 髪の毛を金髪にした男子学生がいたが、
母親には「今しか、できないから」と、言う。

「今」、この言葉に、世の母親は
すこぶる寛容にできている。

 ふざけるな、とかゴツンと頭叩いて、
説教するなんて親はさいきんみない。


 ほんとうに「今しかできない」のだろうか。

 明日にもできそうだし、来年もできそうである。
ひょっとすると、成人したって、金髪にしたければ
すればいい。
世間からどう見られようと、自己責任である。

 「今しかできない」という説得性は、
もっとも消極的な生き方と同時に
ずる賢い逃れ道なのじゃないかと、わたしはおもう。


 ようするに、未来を先取りはしていない、
ということとおんなじである。

 「せんせい、そんな言い方したら、
ぜったいに落ちますよ」

 わたしが、面接のノウハウについて、
授業で言うと、こういう答えがかえってくる。

 じっさい、日本人は、みずからのことを
みずからで語ることを、禁忌のように封じていた。

 出る杭は打たれる、というやつだ。

 それが、どうしたことか、さいきんは、
自己推薦とか、自己アピールとか、
農耕民族のもっとも苦手な分野が、
大手を振っているわけだ。

 だから、わたしは自己アピールできません、
そういえば、なんて生徒さんに言うと、

「せんせい、そんなこと言ったら、
ぜったい落ちますよ」と、

苦笑いしながらいうのである。

だから、わたしは訊くのだ。

「あなたさ、なんで落ちることはわかっていて、
受かることはわからないわけ」


 つまり、合否のことは、生徒さんには
まったくわからないのである。
ただ、消極的な答えを出すことだけは、
安易にできる、という仕組みだろう。


 今しかできない、ぜったい落ちる、
こういう、後ろ向きなものの見方が、
どうも、世の常のようである。


 とある小学校の前PTA会長は、
かなしいほど情けなかった。

 いまの時代がこうだから、仕事はどんどん減らしましょう。
たいへんな仕事、ならやめましょう。
なんなら、PTAをなくしてもいいんです。
顧問制度、いりませんね。

すべて、時代を統合軸にして、
やりたくないものは、すべてなくしてゆく、
という政策であった。


 入学式のときくらい、役員さんが
校門でお出迎えしてもいいのではいかと、
わたしが、ご進言申し上げたら、
烈火のごとく怒り出すしまつ。

手に負えない。

 そのときも、そういう時代じゃないんだの
一点張りであった。


 仕事には三通りある、と語るのは
内田樹先生である。

 「私の仕事」と「あなたの仕事」と「誰の仕事でもない仕事」である。

そして、この「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」
という考えをする人のことを「働くモチベーション」があると呼ぶ。

 氏はそう語る。(「おせっかいの人の孤独」から)

 つまり、床に落ちているゴミは、
「誰の仕事でもない仕事」なのだが、それを拾う、
これこそが働くモチベーションの原動力なのである。


 PTAの活動など、まさに「誰の仕事でもない仕事」なのだが、
それを「わたしの仕事」とおもえるひとが、
役員になるにふさわしい。

 なんでもかんでも、「あなたの仕事」にしてしまったら、
PTA活動など、幻想のようなものだから、
みんの承認や同意がなければ、あっというまに
消失してしまうのである。

PTAという活動の舞台は、

なにができないか、ではなく、

その狭隘な空間のなかでなにができるか、

を問う場なのである。


 そんなことも、わからずに、
すべてやめてしまいましょう、の掛け声に、
パチパチと、手を叩き、
なんてスマートな決断なのでしょうと、
目をうるませている役員さんもいたかもしれないが、
すこし、目をひらいて、ちゃんと中身を見なさいよ。


 そもそも、「時代」とか「今」とかを
ふりかざしているひとに、公平性とか、公共性とか、
道徳律とか、そんなものが欠落しているんじゃないかと、
逆説的になるけれども、「世の中、わかってないんじゃないの」
と、言いたくなるのだ。


 そんなに、時代にくわしいなら、
どんな株買えばいいか、教えておくれよ。

孫なんてもんは2017/3/12

 「こはる」は、わたしになつかない。

娘がたいそうな手術をしたものだから、
その養生もあって、里帰りしている。

 ということは、その付随として「こはる」も
里帰りしている。

 わたしが三階にあがって「こはる」と目が合うと、
というより、わたしが三階にいくと、
「こはる」は、わたしのほうを見つめるのである。

 そして、数秒で泣く。


 なにか邪悪なものを見つけたように。


 あれ、おかしいね、いままで笑っていたのに。

 なんて娘はいう。

 「あれ、おかしいね」には
「お前が来たから泣いたんだぞ、
いままでの平和を乱しやがって」
という意味合いをじゅうにぶんに含んでいる。


 むかしから、子どもには嫌われていた。
娘、ふたりも父を憎んでいるかもしれない。

 
 しかし、むかしから、そういうことには
慣れているので、それでつらいとおもうことはない。


 久しぶりに三階にあがってみた。


 と、妻が「こはる」を抱っこしてあやしている。
ナナコはいない。

 「どうした?」

 「ん。美容院。朝から行ったらかもうすぐ帰るでしょ」

 実家は、すこぶる便利な空間だ。

子どもを置いても、心からのベビーシッターが
控えているからだ。

 そんなところに電話がなる。


 ナナコの母が電話にでると、どうも娘かららしい。

 「お母さんね、まだ、溝の口だって」
と、きょとんとして抱っこのままの「こはる」に
語りかける。わかりっこないのに。


「ね。重くなったよ。抱いてみる」

「やだよ。どーせ、泣き出すんだから」

「わかんないよ、ほら」
と、わたしに「こはる」を預けるのだ。

ソファのてっぺんでは、日当たり良く、
スコティシュホールドの「ミルキー」が
目を細めて寝ている。


 わたしは、そのとなりのソファに座って
いたのだが、妻は「こはる」の胸のあたりをもって、
わたしに譲渡した。


 「こはる」を背中向きに抱いた。
たしかに、ずっしりとする。


 つまり、「こはる」は、わたしとは顔をあわさずに、
わたしをソファのようにして座っている。


 おとなしい。それに重い。

 「こはる」はわたしに抱かれながら、
しずかにテレビを見ているようだ。


 その前を妻が横切ったり、
ミヤネ屋がしきりになにかを言っていたり、
まったりとした空間と、時間が流れていった。


 孫とは、こういうものか、とおもった。


 と、「こはる」がなにを勘づいたのか、
首をぐうっと上にして、
のけぞるようにわたしのほうを見たのだ。


 つまり、荒川静香の得意技のような格好に
「こはる」はなっているのである。


「こはる」がそうするものだから、
しかたなく、わたしは、見下ろすように「こはる」を見る。


 祖父と孫のご対面である。

 わたしは上から、孫は下から。


 もちろん、このあと、
まもなく「こはる」は泣き出すのであった。


地域連絡協議会2017/3/8

 地域連絡協議会の委員として
参加している。

 地元の小学校の学校運営などを
学校長から連絡をうけ、選考されたものたちが、
一いち意見を述べるという組織である。

 地元の有力者やPTA会長、同窓会長などが、
その委員である。

 この役目をお引き受けして、かれこれ
15年が経つとおもう。

 が、「協議会」とは名ばかりで、
いちどたりとも「協議」をしたためしがない、
いわゆる形骸的な会である。


 しかし、校長から、長々と連絡をうけることは
あるから、協議会の名としては、
はんぶんは正しいことになる。

 新任の副校長先生がお見えになって、
そのときの連絡協議会は、
だれも、筆記をしていないから、
この場の状況の歴史はゼロということになる。

 象徴的といえばそれまでであるが。

 形骸的といっても、せめて
ノートにメモることくらいはしたほうがいいと、
わたしは、そのあと、
副校長先生にもうしあげたこともあった。

 いま、小学校では、シャープペンシルは禁止である。
鉛筆を使わせている。鉛筆は使わせているが、
鉛筆の持ち方は教えない。

 だから、ことごとく、子どもたちは、
書く手の親指が、鉛筆からにょきって出て、
硬直したようなカタチになる。

 欧米人は、
表音文字の言語で横書きだから、
その持ち方でよろしいが、
日本語は、縦文化で、まだ縦書きが残っているから、
あの鉛筆の持ち方では、じょうずな
日本語が書けるわけがない。

 
 大学でもしかりなのだが、
とにかく横文字の学部に受験生が集まるらしい。

 メディアなんとか、とか、
なんとかコミュニケーション学科とか。


 これは、グローバリゼーションの波の
影響であることはまちがいないのだろうが、
前にももうしあげたが、グローバル化は、
世界の価値観の共通化であり、
個別的な考量の消失につながることは
間違いないことである。

 
 グローバル化とは、
よく言えば、
「国家の地域という縦割りの境界を越え、
地球がひとつの単位となる変動の過程」である。


 が、ひとつの単位となったときに、
各国の個別性が崩壊するということも、
念頭におかなくてはならない。


 つまり、農耕民たる日本の農耕性は、
肉食文化に移行し、陰翳礼讃のような、
日本のおもむきは、すでにかなたに葬り去られそうに
なっている現状だ、ということである。

「風情」という言葉が死語となり、
スカーレットオハラの名台詞、
「いいわ、明日になったら考えましょう」も、
早く答えろよ! という罵声となって返事がもどってくる。

速度礼讃の社会において、
日本的情緒のうすれてくることを
もうすこし初等教育で見直していただかなければ
ないらないのではないかと、わたしはおもう。


これも、別稿でもうしあげたが、
「時間の成熟」を、子どもたちに教えないと、
グローバル化の潮流におしながされてしまう。


ハワイでは、月に虹がかかることがあるそうだ。
それをムーンボウという。

これは、現地のひとでもめったに
見られない現象らしいが、
ムーンボウを見るために、
一晩、月を眺めている、
そんな「時熟」なときがあってもいいのではないか。


 望遠鏡で見る、
ケプラーb22、あ、これは見つからないか。
肉眼でも確認できるが、銀河系のむこうにある
アンドロメダ大星雲、それをさがして、
そのむこうになにがあるか、
そういうことにおもいをはせる。

素敵じゃないか。


 
 そもそも親が、携帯などのゲームを
やらせるのも、あまり感心したことではない。


 規格品のゲームは、子どもの
想像力と個別性をねこそぎ剥いでしまうからだ。

  
 なぜ、じゃ、やらせるのか。

 「みんながやっているから」が、その答えである。

 「みんながやっている」という考量こそ、
農耕民族たるわが国の、かなしいものの見方なのだが、
こういう負のスパイラルで、
日本の独自性がつかわれている、
という逆説を感じざるを得ないのであるけれども。


 だから、高度資本主義の末期において、
われわれが、これからさき、
この、あるかないかわからない未来を
この子たちに譲渡するとき、
しなくてはならないことといえば、
ゆっくりした時間も味わおうよ、
ということなのだ。

 時間にしばられた、時間割のなかに
児童をおしこめるだけでなく、
あるときは、昼過ぎから、川原にでかけて、
すきなことしていいよ、というのも、
教育なのかもしれない。


 ということを、こんどの
地域連絡協議会でもうしあげようとおもうが、
こんな長い話、だれも聞いてくれないだろう。

処世術2017/3/8

 にんげんを二分すると、
たとえば、耳糞が乾いているひとと、
そうでないひと、とか、くだらない話から、
人にばかにされるひとと、人をばかにするひと、
尊敬されるひととその逆、とか、
いろいろ二分割されるが、
人懐っこいひとと、そうでないひと、これもよくある話だ。


 わたしの娘ね、
ほんとによく、おとなのひとと親しくなるのよ。


4歳のときね。

郵便局に行って手続きしてたら、
いなくなっちゃって、
そうしたら、椅子に座ってるのよ。

さいきん、引越ししてきたんです。
まずは、自己紹介します。わたしは、伊藤さつき。4歳。
まだ、幼稚園にも行ってません。

好きな食べ物はいちご。

ママは、1月15日生まれ 山羊座のO型。
得意料理は、おでんと餃子。

なんて言うのよ。個人情報ダダ漏れだけれど。

老人ホームの慰問みたいになっちゃってるからさ、
びっくりだよ。

ひとの懐に入るのが上手なのよ、
あれが天性の才能なのかな。


古い言葉もよく知ってるの。
「いささか」とか「すこぶる」とか「しいて言えば」とか使うわけ。

またさ、敬語の使い方がなってるんだな、
「おばさん、これお持ちいたしましょうか」とか
幼稚園のころから言うのよ。


それでね、ひとの話をよく聞くのね。

わたしなんか、逆立ちしてもできない。

斜め向かいに住んでいたおばあちゃんがね、、
このチョッキは先月、手編みであんだやつでね、って言うと、
素敵ですねぇとか、尊敬しちゃうとか言うわけ、
幼稚園でよ。


あなたにも編んであげるって、
わたしのと、さつきのとマフラーふたつも
編んでくれたのよ。

そのおばあちゃん、さつきのことかってくれていて、

花の名前もよく知ってるし、
お料理の手伝いもするし、
お米もとげるし、
すごいわねぇ、お母さんがよく教えているのねって。

花の名前は、わたしの母が教えたんだけれどね。

本屋に行っても、いなくなっちゃったとおもったら、
レジのなかで本読んでもらっているからさ。

親指姫の本を
店主のおばちゃんに読んでもらっているのよ。

4歳のときよ。


たぶん、子どもの絵本のまえでずっと立ってたんじゃないの。

まだ読めないのって言ったんかな。

なら、おばちゃん読んであげようとか言ったのかも。
飴なんか舐めながら読んでもらっているのよ。


で、引越しするとき、
『腹ぺこイモムシ』とか海外の絵本を4冊も
くれたのよ。

だから、世渡り上手なんだよね。


福井に引越ししたときなんかさ、
そのへんの近所の散策をしておいでっていったのよ。

で、わたしが買い物に行ったら、
そうしたら、畑で歌っているじゃない。

だれか歌ってるなってみたら、
うちの娘だったのよ。

それでね、
おばちゃん、ふたりが座ってじっと聴いているのよ。


千と千尋の神隠しのテーマソングを歌ってるの。


おわったら、拍手もらってさ、
もう一曲やれって言うのよ。


で、おばちゃんたちの知ってる歌、歌うわ、
って娘が言ったら、

いや、おばちゃんたちの知ってる歌は古いから、
と言ったら、「みかんの花咲く丘」なら歌えるって、
それで歌いだしたのよ。

 それでご褒美に大根とかいろいろもらって
帰ってきたのよ。


 その後、仲良しになったから、
畑の草取りとか種まきとか収穫もいっしょに
やってね、芋掘りとか。

 すいかももらったよ。

 わらしべ長者みたいなんだな。

 と、稀有な話がつづいた。

いるんだな、こういう子どもが。

人懐っこいと生意気と、紙一重の
未曾有かもしれない子ども。


 しかし、今の世の中、
他人に赤いのがとうぜんであるのに。

 わたしなぞ、
何年かまえの春、750CCから700引いた、
50CCのバイク、いわゆる原チャリで洗足を
走っていたら、前にたんまりと生木を積んだ
軽トラが走っていたのだが、
その木から放たれるかおりのよさについぞ、
なんの木なのか知りたくて、
原チャリ、改造したモンキーで信号待ちしている
軽トラのおじさんに横付けして、
ガラス窓をトントンとしたのだが、
おじさん、あわてて逃げるように
発進してしまった。


 たしかに、軽トラの右側に横付けしたものだから、
原チャリが、車の右に立つことなど
ないはずだし、わたしの姿のどこかが、
いけなかったのか、
とにかく、軽トラは、逃げ惑うように
スピードを出していったのだ。


が、しかし、わたしも、
根性と度胸があるものだから、
その軽トラを追いかけ、
単なる改造モンキーではない、すこし、
エンジンをおおきくしているだけあって、
スピードは出るから、すぐ軽トラに追いつくのである。


また、信号待ちで、こんどは、
「すいません、すいません」と
なんの理由もなく侘びをいれながら、声をかけると、
ようやく、おじさん、窓を下げてくれて
「なに?」

「あのぉ、積んでいる木がとてもいい匂いなもんで、
なんの木なんですか」
と、訊いたのだ。

と、植木屋さんだろう、そのおじさん、たった一言。

「ん。桜」


ま、これじゃ、ひととうまくつきあえないだろうな、
って、おもったのである。

 つぎのものがたりが醸成されないってわけ。


 処世術をさつきにでも訊いてみるかね。

風流2017/3/6

 王羲之の息子か孫のはなしだったとおもうが、
かれが、あんまり月がきれいなので、
高瀬舟をだして、友人の家まで、
月を見ようとでかけるくだりがある。

 これも、失念しているが、
日本の説話であることはまちがいない。


 が、船を漕ぐうちに、朝になってしまい、
友達の家まで行ったところで、
くびすをかえし、帰宅するという、
おまぬけなはなしなのだ。


 しかし、その風流なことといったら、
たいしたものだ、といった賞揚で、
その説話はおわるのである。


 で、この説話を、日本大学が入試問題にした。
テーマは、風流なこと、数寄者の逸話、ということなのだが、
いまの受験生は、ことごとく「風流」「数寄者」という
解答にたどりつかない。


 このあいだ、この設問を解かしたところ、
ひとりも正解者がいなかったことに愕然とした。

 つまり、いまの現代っ子に「風流」、ましてや
「数寄者」という言葉は死語となってしまっているのであった。


「数寄者」は「好き者」とおなじ。
「好き」とは、風流を好むということなので、
鎌倉時代あたりでは、常用的に使用されていた語彙である。


 桜をめで、落花をおしみ、月をみて、
雲のあることを残念におもう、いわゆる花鳥風月は、
いまの時代には皆無となったのだろう。

 わたしは、すこし狼狽しながら、
教室の男女に訊いてみたのである。

 
「風流ってしってる?」


 この発問は「新幹線ってしってる?」くらいと
同格の安易なものかとおもっていたら、
おどろくなかれ、ほとんどの生徒さん、
「風流」をしらないのである。


 言葉としても、よく理解していないらしい。


 だから、ほら、風鈴がちりんちりんと、
窓際でゆれている、それをぼんやり眺めたりさ、
というところで、ふと、きづく。

 そういえば、いま風鈴は騒音として
隣近所からクレームがあって、あれを
軒下に吊り下げるのもかなわないそうだ。


 現代は、携帯が普及して、
すぐさま、ググって、答えがみつかり、
あっというまに、必要情報は手に入る時代である。


 のんびり、辞書を片手に読書、
というひともすくなくなった。


 ようするに、「風流」をあじわうためには、
それ相応の「時間」が必要なのだ。


 太公望よろしく、じっくりと釣りをするのも、
いまじゃ、魚群探知機などのすぐれものがあり、
その場まで船をはしらせ、その下まで餌をおろし、
ねこそぎ釣り上げるという
ベルトコンベアのような釣法が常道である。


 現代人は、時間を消費することを
罪悪とおもっている。

 「世界の最新ニュースがリアルタイムで
あなたのパソコンに」という広告があるが、
これこそが、現代の美徳である。

 いわゆるグローバリゼーションの権化のような
広告だ。

 グローバル化とは、いってみれば、
価値観の一本化であり、
「だれが見てもわかるもの」という価値観の共有である。

 情報の速度こそが絶対的価値となった、
と、言い直してもよい。


 ハイデッガーというひとは、『存在と価値』で、
時間の本質を「時熟」ととらえた。

「時熟」とは、「今」の連続としてではなく、
「時間性の成熟」と考量したのである。


 じつは、「風流」とは、この「時間性の成熟」のなかでのみ、
ありうる概念なのである。
 そして、価値観はひとそれぞれで、
そのひとのこころのなかで、育まれてゆく。


 現代人が、便利さや速度の幻惑にとらわれすぎて、
ひとりで悩み、ひとりでかんがえ、ひとりで逡巡し、
立ち止まるということをしなくなった、
そんな現況に「風流」さは姿を消していったのであろう。

 ググって見ればいいじゃん。

 この、まじないのような言葉に、
失ってゆく、本来的ななにかが
この世から去ってゆくことにわたしたちは
無自覚ではいけない、
そうわたしはおもうのだ。


 と、言いつつ、さいきん月をみて
ぼんやりしているじぶんなど、
どこにもないことにも気づくのであるが。




 


BMW2017/3/1
 バイクが壊れてね。
セルがうごかないから、キックして、
それでやっと動いたから、
バイク屋さんに行ったんですよ。

 安藤モータースってあったから、
行ってみたら、そこはBMWのバイク屋さんで、
わたし、びっくりしちゃって。

 壊れたのは原チャリよ。

 大きくてきれいなバイクがいっぱい
飾ってあって、原チャリなんか、
4台くらいしかなくってね。

 で、このバイク直すとしたら、
たぶん、4万円くらいかかるっていうんです。

 それなら、新しいのを買って、
すこし長く乗ったほうが得じゃないかって
店のひとが言うんですね。

 このバイクはまだ2年しか乗っていないけれど、
6万円で買って、もう修理に5万円くらい
かかっちゃっているから、
それかんがえたら、あたらしいバイクのほうが、
得かなって。

 
 そーかな。たぶん、バッテリーのところだとおもうから、
そこ替えれば、また動くんじゃないかな。
 バッテリーなんて安いもんだよ。


 うーん、でも、バッテリー取り替えられないし、
いろいろこれからも壊れるだろうって店のひというから
買ったんですよ。


 で、いくら。


 18万円。

 
 うん、そのくらいするよね。


 そ。で、そのバイク、もう準備できたから、
明日、取りに行かなくちゃ。あ、明日は雨だから、
その翌日かな。
 ヘルメット、ひとつくれるんだって。


 そう。でも、ひとつ持っているんでしょ、いらないじゃん。


 ね。でも、慶次郎が乗りたいって言ったら、
慶次郎にムリクリかぶせて乗せるから、
ふたついるのよ。
 そして、ふたりで出かけるの。
慶次郎は、ふつうの犬じゃないから、
千葉の生まれで、珠玉の玉をもっているのよ。
それを探しましょうって、あ、それだと
バイクだとだめだから、電車にのるんだな。
そして、千葉まで行って、そこから歩いて
あとの玉を探すのよ。



 ねぇ、ねぇ。


 え、なに?


 バイクの話でしょ。

 
 うん。

 
 いつから、電車に乗り換えて、歩き出したのよ。
バイクはどうしちゃったの?



 あら。


と、彼女は笑いだした。


 そういえいば、BMWってなんの略かしら。
ビューティフル・メモリー・ワンダーランド、かな。



 いや、ドイツ語だから、それ違うんじゃない。


 うーん。じゃ。ベティー・メモリー・ウェンディかな。


 うーん。「メモリー」だけはいっしょだね。



オーロラ2017/3/1

「あんたなんかにゃ、わかりっこないわ」
 
 こういっておしゃまさんは、赤と白のセーターが
よく見えるように、あなの中からおきあがりました。

 「だって、くりかえしのところは、
だれからもわからないことをうたってるんだものね。
わたし、北風の国のオーロラのことを
考えてたのよ。あれがほとんにあるのか、
あるように見えるだけなのか、
あんた知ってる?

 ものごとってものは、みんな、とてもあいまいなものよ。
まさにそのことが、わたしを安心させるんだけれどもね」

 おしゃまさんはそういうと、また雪の中にひっくりかえって
空を見あげていました。


 (『ムーミン童話全集』 トーベ・ヤンソン より) 


ムーミンはムーミントロール一族の子どもである。
冬眠していたはずのムーミンだが、
どういうわけか起きてましって、
オーロラをみてしまう。

 しかし、あのオーロラが、
ほんとうのものか、あるいは幻想か。


「おしゃまさん」は、それが、事実でも幻想でも、
それはどうでもいい、むしろ、どうでもいい、あいまいなことが、
じぶんを安心させるという。

 フィンランド発の童話のような
あるいは、おとぎ話のような、いや純文学のような、
このものがたりには、そういう重みがある。


 フィンランド。人口、520万人。
北海道よりすくない。(北海道は550万人)
そのくせ、軍隊は、自衛隊よりも、人数は多い。

 これは、ロシアから、過去からいまにいたるまで、
侵略や圧迫を受け続けているからにほかならない。

 だから、ロシア情勢をしるには、
フィンランドに行くのがいちばんだと
青山繁晴さんが言っていた。

 そして、フィンランドのひとは、わりに
日本人を尊敬しているというのも
青山さんが言っていた。

 戦争でいちどでもロシアに勝ったのは、
日本だけだからである。


 島国ニッポン、船の戦いはおまかせである。

 
 ・いまや夢むかしや夢とまよはれていかにおもへどうつつとぞなき


 建礼門院に仕えた右京大夫という女官の歌。


 建礼門院徳子、清盛のむすめ、高倉天皇の妻であり、
安徳天皇の母である。
 天皇の母には、宮中の門の称号をあたえるが、
建礼門は、宮中にあってその中心にそびえる
おごそかな門である。

 権勢をきわめた建礼門院だが、
源氏のクーデターにあい、権力をうばわれ、
あげくは、大原の寂光院で尼となり、
平氏の菩提をとむらうという数奇な人生を
送ったひとである。

 得度したのは長楽寺。
八坂神社のすぐ裏手にある。

 そして、比叡山のふもと2キロの
寂光院で余生をおくった。

 ふしぎなことに、長楽寺も寂光院も
何年かまえ不審火で全焼している。

 京都の不審火はこの二寺だけである。

 ま、それはそれとして、
寂光院におもむくのもたいへんな時代、
右京大夫は、女院様にお会いするため、
命がけで出向くのである。
そして、すっかり変わり果てた彼女をみるのだ。


 むかしのきらびやかなお姿が夢だったのか。
いまの、墨染姿の質素なお姿が夢なのか。
どちらにせよ、現実はないものだ。


 彼女の悲痛なおもいが、
この三十一文字におさめられている。


「いかにおもへど」と語る彼女は、
これこそが「あいまい性」なのであって、
どう処理したらいいかわからないカオスのなかにいた。


「おしゃまさん」が、あいまいなことが
安定させるのよ、と言ったこととはうらはらに、
右京大夫のまえにある、
むざんな現実をつきつけることで
ぎゃくに、不安定さを
植え付けさせることになる。

しかし、「いかにおもへどうつつとぞなき」と、
語った右京大夫は、「うつつとぞなき」ではなく、
これこそが「うつつ」であったわけである。


『平家物語』では、清盛の三男、
平宗盛が八葉の車で護送されてきたとき、
平家はつぎのように語る。

「さしもおそれをののきし人の、
けふのありさま、夢、うつつともわきかねたり」


 いま、この世の中は、景気はたいしたことないけれども、
平穏な生活をおくることはできている。
しかし、いつ、夢か現実かわからないようなことが、
起きるともかぎらない。

 そのとき、われわれは、そのほうが安定するさ、
なんて、「おしゃまさん」のような
達観でいられるものだろうか。


 ちなみに、わたしの知り合いの女性は、
オーロラをみにいったそうである。

 うまく、オーラらに出会えた彼女の感想は、
このようであった。


 「わたし、死んでもいいわ」

学研の付録2017/2/26

わたし、小学校のとき、
学研の科学と学習とってもらっていたのね。

 学研の付録が好きで、
太陽が見えるサングラスみたいなのがあって、
あれが好きでね。

 いつも太陽を見ていたの。

 母が、ミキハウスかな、とても
高いスカート買ってくれて、
それを履いて学校行ったのよ。

 それも、太陽が見えるサングラスかけながらね。

 そうしたら、そういうときって
まっすぐ歩けないじゃない。


 そのまんま田んぼに落ちちゃって、
どろどろになったのよ。

 それにレンズもどこかに落ちちゃって、
探しまわってたら、もう、泥だらけで、
学校行かないで、家に戻ったの。


 そうしたら、母が怒って、怒って。

 なんで買ったばかりの服、そんなに汚すのよって。

 あのとき、あ、このひとはわたしを
産んだひとではないっておもったのね。


 
 でも、産みの親なんでしょ?


 そう、たしかにね。
でも、しかたないじゃない、そんなレンズかけてたんだから。


うーん、そうかな。


 そうよ。それをわかってもらえなかったの。


 うーん、たぶんわからないとおもうけどな。


 わたしね、ミツバチの死骸とか好きなのよ。
あの、目のクリクリとしたところとか。

 それからセミの抜けがら。
あれも好き。

 それから、カエルのミイラみたいなのも。
可愛いじゃない。わたし水泳部だったから、
プール掃除はいつも水泳部がするってことになっているから、
水を抜いて掃除するの。そうすると、
そのところにカエルのミイラがいくつもあってね、
それ、みんな持ち帰って、お母さんがくれた宝石箱に
しまっておいたのよ。

 ミツバチの死骸とセミの抜けがらとカエルのミイラ。


 カエルのミイラってどのくらいいたの?


 うーん、20か30くらいいたかな。


 わ、すごいな。

 うん、そうしたら、机から、それ母が見つけて
気持ち悪いからって、ものすごく怒って、
ぜんぶ捨てちゃったのよ。


 わたし、そのときも
このひとは、わたしを産んだひとではないって
おもったの。


 ふーん。ま、捨てるよな。


 そうかしら、子どもって純情だから、
そういうのってほっておいて欲しいわけ。
それがたいせつなのよ。
 そ。このあいだ、先生のところに行ったら、
安定剤ですこし休みましょうって言われて、
わたし、そこで眠ったのよ。

 眠るまで、先生はそばにいてくれて、ずっとよ。
そこで、わたし、なにかをしゃべったんだけれども、
なにをしゃべったかおもいだせないの。

 なにしろ、眠くなっちゃったから。


 そうなんだ。


 そうなの。


 たぶんさ。


 なに?


小学校のとき、
学研の科学と学習とってもらっていて、
太陽が見えるサングラスみたいなのがあってさ、
それ見ていたって話じゃないかな。

ギターでしょ2017/2/25

 朝の五時までカラオケをした。

そもそも、カラオケに行ったのが午前2時だったから、
なかみは三時間。

 予備校の先生ばかり、五人である。

 始発までカラオケをするというバカな話だ。


 わたしは、すこし音痴である。
べつに歌がうまいというのではない。
リズムは切れるけれども、やはり、
歌い方をしらないせいで、
でかい声を張り上げるだけである。


それは自覚しているし、プロの歌手と
いっしょにボックスに行ったときは、
彼女の歌声に、震えたものだ。


 やはり、プロというのは、ひとを
しびれさせるものらしい。

 じぶんで言うのもなんだが、
声質はわるくない。電話の声なんか、
いい声だと、なんかいも言われている。

 しかし、歌うというときは、
すこし、かすれたほうがいいそうである。


 吉田美和とか、
高橋真梨子とか、歌のうまいひとは、
すこし声がかれている。

 もんたよしのり、とか桑田佳祐、上田正樹、
AI、鈴木聖美は言わずもがな。


 かすれた声のほうが聞きやすいと
教えてくれたのは、泉下の星野先生。


 だから、わたしはカラオケはNGなのだ。
きらいじゃないけれども、ひとさまに披露する
ほどではない。


 だが、さいきん教わったことは、
ベースの音にあわせてリズムを刻むこと。


 うん、そうすると、歌にメリハリが付くのだ。

 たしかに、そうおもう。

 これは、目からうろこのようなもので、
これからは、そこを気をつけて
歌ってゆこうとおもった。

 アルフィの桜井賢もベースの音で
音程を合わせているそうだ。


 予備校の講師たちのカラオケはたいへんだ。
英語専門のひとは、英語の歌を。

 ゴダイゴの歌なんか、すらすら歌う。

 ついてゆけない。

 そしてみんなそれにのってはしゃぐ。

 わたしが最年長のせいか、みんなの歌う歌の
ほとんどが知らない歌ばかり。

 銀河鉄道スリーナインのテーマソングだけだったかな、
知っている歌は。

 狭い部屋にタバコの煙が充満し、
何杯のんだかわからない生ビールのジョッキ。

 そこには、浜口庫之助の孫、
という方もいて、やはり、歌がうまいのだ。


 しかたなく、わたしも順番でいれる。

と、ある先生から言われた。

 「歌い方が、いやらしい」と。


 うまい、ではない。ヘタでもない。
いやらしい、のである。


 これは褒められているのだろうか。
そもそも、歌い方がいやらしいとはどういう意味なのだろう。


 わたしには、それがわからない。


 そういえば、わたしがギターを弾くと、
アルペジオしかしないので、
ポロン・ポロンやるんだが、その弾き方も
ある青年から「いやらしい」と評された。


 ギターの弾き方にいやらしいとか
あるのだろうか。


 わたしは、スリーフィンガーを駆使して、
じぶんなりのアレンジでコードを押さえるだけ、
リードギターはできないのである。


 いまは、なるべく、いそがしい弾き方を
やめて、音のない時間をつくって弾き語りをする。


 音がないほうがいいばあいもあるからだ。

 しかし、それがいやらしいという。

 どういう意味だ。


 ま、中学3年生からはじめたギターである。

もう、ギターを弾いて55年になる。

 そりゃベテランでしょ。


 と、そんな話を、きょうバイトにきている裕子に
話していたのである。


 「おれ、はじめたのが、中学3年生だからな」
と、語ったとき、彼女はこう訊いてきた。

 「せんせい、そんなむかしからやっていたの」

 「うん、なにを?」

 「いやらしいこと」

 

 ちがうでしょ、ギターでしょ。

大ざっぱ2017/2/25

 もしもし、あ、ひさしぶり。
どうです、そちらはおかわりなく?


はい、毎日、仕事ですって。
おんなじ仕事。ルーティーンってやつ。
こつこつ、つまんないことのくりかえしよ。


 あら、いいじゃないですか。
わたしなんか、いつもひとから大ざっぱって言われてね。

右のくつしたと左のくつしたと模様が

ちがっても気にならないの。

 

え。それはどうだろう、おれはいやだよ、それ。

 

家にもどって着替えるほうが、めんどうじゃない。

イタリアの芸術家で、わざわざ、

くつしたの色を変えているひともいるんですよ。

既成概念にこだわらないってのかしら。

それは、どうでもいいけれど、

わたし、大ざっぱなんですよ。

つきあったひとから、よく、

お前はおおざっぱだなって言われたし。

ピアノの先生からも、

あなたは、解釈が大ざっぱねって言われたり、
友だちとの付き合いも大ざっぱだから、
別れたひととも平気で話せるし、会えるしね。
あなたにあんなこと言ったひとよ、
とか、友だちから言われても、
大ざっぱだからなんともおもわない。

部屋の片付けもじょうずにするけれど、

ざっとしちゃうかな。

 


 ふーん、おれは、あなたを
そうおもったことないですよ。


 あら、そうですか。
このあいだも、医師の紹介状をこっそり
見てしまったんだけれども、
「性格は大ざっぱで、短気」なんて書いてあるのよ、
ちょっとムカッてしたんだけれども、
紹介状だから、なにか書かなきゃいけないでしょ。
しかたないわね。
あ、わたし、下に行ってちょっと用意しなくちゃ。
じゃ、切ります。
ごめんなさいね。
じぶんのことだけずっとしゃべっちゃって。
しょうがないわよね。

なにしろ、大ざっぱだから。

 

麻布十番2017/2/19

あのね、
三田で乗り換えなきゃいけなかったのに、
麻布十番で気づいてね、
タバコ吸いたくなったから
外にでたの。


でも、なんで乗り越したんだろう。
わたし、ずっと起きていたんだよ。
おかしいな。



 でね。そうしたら、
日本切断研究所という会社があって、
ねぇ、驚かない。


日本切断はいいけれど、研究所よ。


 外科手術とかそうかとおもったら、
看板があってね、そうじゃなくて
カメラが真っ二つになったり、
ワイングラスが二つになっていたり、
硬い金庫みたいなのもね。


 みんな真っ二つ、
 なんでも切断するんだって。


 いやぁ、東京ってすごいな。
そんな会社あるんだね。

 タバコを吸おうとおもって、
公園でもないかって歩いていたら、
港区広尾公園っていう
ガード下の公園があってね、
そうしたら、ベンチにひとがいっぱいいて
みんなうなだれているのよ。

 川が流れていてね、
そこが階段で、みんなホームレスの人たちが
ひなたぼっこしているのよ。

全部で5人くらい。

おばあちゃんもおじいちゃんもいるの。

 みんなすごい不幸な顔していたから、
ちょっと怖くなって、
だから、タバコはやめてね。


 いるのね、そういうひとが、
たくさん。


 わかい女の人もホームレスになって
離婚して、たくさんいるんだって。


 もうちょっとホームレスが陽気に
酒盛りでもしてもらっていたら、
声をかけたりできたけれど
暗かったんだよね。そのあたりだけ。

 
 わたしは、ずっと「うん、うん」と
聞いているだけだったが、
ちょっと彼女に訊いてみた。

「ね、昨日から家に帰ってないんでしょ」


「そう」

だから、わたしは言ってやったのだ。


「早く帰れよ」

わたしは違います2017/2/15

 テリー小林の話をしよう。

 かれは、いま陸前高田の
トレーラーハウスに住んでいる。


住むところがないからである。

 仕事もほとんどなく、
震災のボランティアをしながら、
行政から与えられたトレーラーハウスが、
かれのねぐらということだ。


 もともとは、素敵なベーシストだった。

金がないから、ちかくの学校に行って
廃棄同然のウッドベースをもらってきて、
それを修繕し、弦を張り替えジャズバーで弾いていた。

ベースの弦はかなり高価なはずだが、
どこで仕入れてきたのかは、わからない。


 わたしの友人がかれとあったのは、
そのジャズバーのカウンターの上で
テリーがごろんと寝ているときだった。


シートで寝るひとはいるかもしれないが、
カウンターで寝るひとは稀有である。


 「だれなの」と、彼女がきくと、
「ん。コバだよ。知らないの?」

と、マスターのジョンが応える。

「知らないな」



 小林輝男が本名だ。
だから、じぶんでテリー小林と言っている。


 テリーは飲んだくれである。


 大学は帯広畜産大学。
獣医の免許ももっている。


 兄の設計事務所ではたらいて、
設計士の資格もある。


 しかし、酒と女で、人生をゼロにした男だ。


 北海道での学生時代。

 飲んでそのまま表に出て、
気持ちいいとばかり路上で寝てしまった。


 帯広の冬の話である。


 雪がしんしんと降り、
テリーは雪に埋もれた。


 犬をつれた老人が、ひとが埋まっているのに
気づき、助けてくれたそうである。


 犬がひとの臭いを嗅ぎ分けたのである。

 この老人がいなければ、
テリーの話はここでおわる。


 凍死したバカということで。


 しかし、テリー小林は不死身だった。


 北海道から、流れ着いて、
かれは、東北のあるジャズバーにいりびたる。


その間に、かれは、三回結婚して三回離婚している。


 とにかく、モテるらしい。


 金がないくせに、やさしいし、
行動もハチャメチャなところが、
ぎゃくに、女には、ほうっておけない人物と
なっていたのかもしれない。


 奥さんがいるくせに、
女であれば、おかまいなしに関係をむすぶのだ。

 それも、かれのそばにいる彼女は
みな美人なのだそうだ。


 せっかく、獣医の免許もあるのに、
設計士の資格もあるのに、
その能力をまったく発揮せず、
ただ、酒と女と音楽で明け暮らした。

にんげんの能力には、それぞれ差があるが、
潜在的能力以下の行動をとっているのを
アンダーアチーバというが、
かれは、典型的なアンダーアチーバな人物である。



 けっきょく、マスターのジョンの 
奥さんにも手をつけてしまい、
テリー小林は、この街から追い出されることになる。


 ジョンも奥さんとは縁をきり、
いまでも、マスターはひとりで暮らしているという。


ジョンのバーも閉店し、
そこにあつまっていた仲間もばらばらとなった。


 たまに、その仲間があつまるそうだが、
そこには、テリー小林はいない。


 みな、かれを忌避しているからだ。


 かれのそばには、いまでも、
きっと美人がいるかもしれないが、
トレーラーハウス暮らしでは、
それもままならぬかもしれない。


 わたしは、この話を
ある飲み屋で、日本酒をちびちびやりながら
聞いていたのだが、
帰りがけ、彼女はこう付け加えた。

「あなたも、おんなじ臭いがするわよ」

アウチ君2017/2/12

むかし、弓道部のキャプテンに

「アウチ」君という男がいた。


美少年である。おまけに色白で。

そしてキャプテンやるだけの「器量」があって、
応対はしっかりしているし、

ことばつがいもすこぶる丁寧だ。

 わたしたちは車に乗り、

彼が「うまい」と推奨するラーメン屋に

出かけたことがあった。

 


 むかしは、生徒と飯食いに行ってもなんの

問題もなかったのだ。

 



十日市場というひなびた町にある

ちゃんぽん屋に行く。そのときのはなしである。



 桜がすっかり緑の葉になっているころだった。

 車内で、「アウチ」が唐突に
「せんせい、ぼく、いま井上靖、読んでるんです」


「ふーん」


「『敦煌』読んでいるんです」


「へぇー」


「あれ、おもしろいです。

せんせいは、もうお読みになられましたか」


「いや、まだ、読んでないよ。

だいたいおれは小説ってあんまり読まないんだ」

「そーですか。せんせいもお読みになられるといいですよ、

わたしは、まだ、3ページくらいなんですが」

 


「え。3ページ!?」

 


「はい。よく『ウサギにツノ』って出てくるんですよ」


・・・


「それ、お前さ、『兎に角(とにかく)』って読むんだよ」


「あ、そーですか。むつかしい字は飛ばしているんです」

 


 古きよき時代だ。

もう「アウチ」君も立派な父親になっていることだろう。

 彼に子どもがいたら、

そりゃとっても心配である。

 

(2007.11.6)

ブリコルール2017/2/11

 クロード・レヴィ・ストロースというひとが、
『野生の思考』で、ブリコルールについて
言及している。

 ブラジル西武に、マットグロッソ・ド・スル州はあり、
そこのインディオたちは、草原をあるき、
なんに役たつのかわからないけれども、
そのうちなにかに役立つだろう、というものを
拾い集めては家にもちかえる。

 そんなに大きな袋はもっていないから、
なんだかわからないけれども、
将来的に役立つものは限界がある。


 そういう「もの」をむつかしくいうと、
潜在的有用性という。

 そして、かられは、家でそのものを
工作して、日用品として再利用するのだ。


 そういう潜在的有用性のある「なにか」を
見つけ出す能力こそ、もっとも知的な行為なのである。

 セレンディプティなどの術語もあるが、
これと、類比的なことである。

 この、インディオたちの行為を
フランスの社会人類学者は
ブリコラージュと呼び、
そのひとたちをブリコルールと呼んだ。

ブリコルール、わたしはこれを「工作的人間」と
翻訳している。

 つまり、知性的な人種は、
西欧人だけでなく、各地に存在する、
ということをレヴィ・ストロースは発見するのである。


 当時の、エスノセントリズム、自民族主義の西欧人は、
この言説に、度肝を抜かれたはずである。


「おれたち以外にも、知性はあったのだ」と。


 こういう思考こそ、構造主義を支える根幹となる。

 で、このブリコルールの概念は、
ジャック・デリダというなにを言ってるのか、
よくわからないひとによって、
どの領域にも、ブリコルールはあると説いたものだから、
情報化時代のことごとくに、それが敷衍されてしまっている。


さて、わたしは東急ハンズがみょうに好きで、
よくつきあってくれる友人は、ここが嫌いなので、
あんまり時間がとれずに店内を回るのだが、
なにがほしいというものじゃない。

なんとなく、店内をぐるぐるしているうちに、
あれ、これうちの部屋のここのあたりに置いて、
そして、いずれこんなふうに使えるのじゃないか、
なんてかんがえることが楽しいのである。


 これって、マットグロッソのインディオみたいじゃないか。

だから、100円ショップや、フライング・タイガーなども
おんなじことで、なにが欲しいというのではない。

あれ、これ使えるじゃん。

 こんな考量で店をあるきまわる。

 これもむつかしく言えば、前未来形の想像力による
じぶん発見の旅、というのだろう。

 前未来形というのは、明日のいまごろには、
わたしは泣いている、というような思考法である。


 そして、なにもかんがえず、無防備で
店内のあちこちの商品を触ったり、ながめたり、
それによって、じぶんの生活に補填すれば、
より有能感をえることができる、というものを
購入するのである。


 だから、そのときの消費意欲は、
必要にせまられて買ったものより、はるかに、
満足度が高くなるわけである。


 買い物の愉悦のひとつは、
そこにある。


 じぶんの知らなかったじぶんに出会い、
今後、これが、きっとなにかに役立つはずだ、
という創造性を、みずからに与えることができる愉悦である。


 そういう快楽は、
わが部屋にも敷衍され、いらないかもしれない封筒、
いらないかもしれない袋、いらないかもしれない書類、
使い終わったテキスト、写真集、
ほとんど、また、なにかに使うにちがいない、
そうおもっているので、
それを捨てる、ということがなかなかできないのである。


 釣りなどの趣味のあるひとは、
じぶんで、じぶん用の道具を工夫するから、
よくわかっていただけるとおもう。


 わたしは、
きっとブリコルールなにんげんじゃなぃか、
と、おもっているのだが、
ま、そんなに知的とはおもわないが、
しかし、これはなにかに使える、という気持ちは
いつも保有しているゆえに、
けっきょく、わたしの部屋はものにあふれ、
ものに埋もれ、歩く場所もない。


 つまり、
クロード・レヴィ・ストロースの言説の
とどのつまりは、わたしの部屋がきたない
というところに着地するのである。

星野さん2017/2/10

星野さんは、沼津に釣りにゆくとき、
沼津の仲間たちには、写真屋さんだとおもわれていた。

 だから、星野さんのマンションの管理人さんと、
いっしょに釣りに行くときも、
「ぜったい、先生だということを言わないでね」と、
固く言いきかせていた。

 なぜ、星野さんが、先生であることを
隠すのか、わたしにはわからなかった。


 先生といってもかれは非常勤講師なので、
正規の職員ではなかったけれども、
神奈川の私立高校で40年ちかくも働いていたはずである。
わたしは、そこの専任であったが。

 
 カール・オルフの研究では有名らしく、
大学からのオファーもあったが、
仕事は二の次なので、すべて断っていたそうである。

 
奥さんから「あなた、もうすこし働いたら」と言われると、
「そうすると、普通のひとになっちゃうじゃないですか」
と、そう答えていたという。

 普通のひとがいけなかったのだろうか。

 わたしと星野さんの付き合いは、
相模川からはじまる。

 相模川でハヤを釣って、それを
自宅のマンションの水槽で飼うのがたのしみなのだ。


 たまに、漁業組合のひとが集金にくるが、
「恥・を知れ」と言って、追い返すそうである。

 ハヤは自然の川に生息する魚だから、
それに、漁業料をはらう必要はないのだ。


 「行けたら行くね」とわたしが相槌をうって、
仕事場でわかれたから、
星野さんは、わたしが、わざわざ相模川まで来るとは
おもっていなかったにちがいない。

 「行けたら行くね」という台詞は、
ほとんど行かないよという宣言にちかい。


 しかし、わたしは、渓流竿を車に積んで、
相模川の川原を星野さんのいるところまで、
ゴツゴツと車のそこを石ころにぶつけながら
向かったのだ。



 その行動に信頼してくれたのか、
釣り仲間として認定してもらえ、
ひどく親密な釣行を、よくしたものだった。



わたしたちは、川釣りよりも、海釣りに
趣向がかわっていった。


 川魚は食べられないけれども、
海のそれは、晩飯をいろどる素敵な食材だった。


 星野さんは、沼津に行って、さまざまな
釣具屋をまわり、けっきょくマイムスという
釣具屋と懇意になった。

 そこにあつまる釣り仲間も、ひとり増え、ふたり増え、
けっきょく星野さんが来るのだからと、
岸壁に7,8名が竿を並べたものだ。

 人徳といえばそうだろう。

 そういう中に、わたしや星野さんのマンションの管理人さんが
同行したものだから、わたしどもも、星野さんと
おんなじ待遇をうけることになる。


 が、しかし、わたしは、
星野さんと25年くらいおんなじ職場で
教師として仕事をしていたにもかかわらず、
「先生なんて、みんなの前で言うなよ」
ということを言われたことがなかった。


 じっさい、沼津の防波堤で、わたしが、
高校の話をすることは皆無だったし、たぶん、
星野さんも、わたしが釣り場で仕事場のことを話すなんて
野暮なことはいわないだろうと、
本能的におもっていたにちがいない。


 だから、沼津の仲間たちは、星野さんを
写真屋さん、わたしを、ラーメン屋さんとおもっていた。


 わたしは、そうおもわれていたことに、
ひとつも訂正を加えなかったし、星野さんは、
ひょうひょうと、ただ釣りにいそしむだけだった。

 
 星野さんの写真屋さんというのは、
ほとんどがコンサート写真である。

 子どもたちのリサイタルなど、オファーが
絶えなかっという。

 音楽に精通していないと、この曲は長いのか、
短いのか、はたまた、どこがいちばんの見せ場なのか、
それは、写真屋さんにはわからないことである。


 その点、音楽の専門家は、
音のしないカメラで、どこを撮ればいいか、
すべてお見通しである。

 いちど、自宅にクレームの電話があったそうだ。
だれだかわからないし、いつのコンサートかもわからない。


 「うちの娘、写真のほうをひとつも向いているのが
ないんですけれども」



 こんなクレームだ。

 そのとき、かれはこう返答した。

 「お宅のお子さん、ショパン弾いていませんでしたか」

「はい」

 「ショパンは低音がむつかしいので、かならず、
ひだりを向いてしまうんです」

そう言ったら、「わかりました」と、
すんなり引き下がったそうである。


 これも、専門家でなければであろう。


 星野さんの葬式のとき、
沼津の仲間は、川崎の葬祭場にならんでくれた。


 そのとき、かられは驚いたのである。


 なんで、こんに高校生らしきひとが
えんえん長蛇で参列しているのか。

 そして、葬祭場の壁にリコーダを吹いている、
星野さんのフォト。生徒とたのしく囲んでいる写真。

それが、ずらりと貼られているじゃないか。


 そこで、沼津の太公望たちはきづくのである。

「星野さんって、写真屋さんではなく、
学校の先生だったのか!」

と。


 わたしたちは、星野さんが亡くなったあとも、
沼津に行った。

 そのとき、星野さんの仲間から訊かれたのだ。

「あなたも先生なんですか?」

文明と文化2017/2/9

 文明と文化との差異はなにか、
もっとも簡単にもうしあげれば、「破壊」と「保持」である。

 文明とは、なんにもないところから、
構築してゆかねばならない。
黄河文明も、メソポタミアも、
そこは、なんにもない河のそばの砂地であった。

 そこに作り上げられたということは、
砂地からみれば、「破壊」ということになる。


 文化は、守りとおさねばならないもろもろである。
歌舞伎、相撲、演劇、ミュージカル、落語。

 伝統をまもることこそ文化の真骨頂である。


 サミュエル・ハンチントンという社会学者は、
「文明の衝突」で、アメリカとロシアの大国の均衡が
くすれたあとは、
世界七大文明の相互作用によって
世界を規定することを提唱した。

 七大文明とは、

 西欧文明
 ギリシア正教会文明
 イスラム文明
 ヒンドゥー文明
 中華文明
 ラテンアメリカ文明
 日本文明

 の七つとしている。


 ここで、特筆すべきは、
「日本文明」である。一国家、一政府は
この七大文明において、日本文明しかない。


 それだけ、ハンチントンは日本文明を
特別視していることがよくわかる。

 それを、明治書院の「キーワード300」の著者、
大前誠司さんに話したら、
「それ、ハンチントンのリップサービスで、
そうすれば、日本でも本が売れるじゃないですか」って、
言っていたのにはおどろいた。

 かれの慧眼なことは、じゅうじゅうぞんじあげていたが、
そういう見方もあるのかと、舌を巻いたものである。


 村上春樹が、高度文明の最高の美徳は
「無駄」であると言っていたが、
いま「無駄」は、無駄でしかない時代かもしれない。

 税金の無駄遣いは、一昔前なら、美徳だったのだが、
いまじゃ、犯罪にちかいじゃなぃか。それでも、美徳とおもって、
使っている役人もいるかもしれない。


 不倫は文化だ、と言ってのけるひともいる。
真理かもしれない。

おお、それなら、おおいにいたしましょう。
そして、それは守り通さねばならないものである。

 はぐれ雲の主人公など、その典型で、
すこぶる謳歌していた。というより、
あの主人公には、そういう認識はなかったろうが。

 現代は、この文化にかぎり、隠密裏にすべき事情である。

けっして、ひとにばれたり、見られたりしてはならない。

 しかし、もし、不倫によって、
友情に決定的な亀裂が生じたり、
大事な仕事を放棄するようなことが、
あったのなら、はたして文化だろうか。


 密かな恋は保持できるが、失うものも多大である。

 つまり、「文化」にも「破壊」がつきまとう、ということである

言葉をあやつる2017/2/6

 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは
「言葉が人間をつくる」と言いのけた。

 たしかに、われわれは日本語を母語に
もっていて、これは選択したわけではなく、
生まれながらに与えられたものであった。


 ロラン・バルトに言わせれば、
これを「ラング」と呼んでいるわけだが、
このラングによってわれわれは
成長させられてきたわけだ。

 英国の人類学者、フランシス・ゴールトンは、
遺伝子によって子どもは育てられるのか、
環境か、という研究をかさねているが、
狼のなかで育てられた少年は、
最後まで言葉をしゃべらなかったわけだから、
やはり環境がものをいうのだろう。


 「言葉が人間をつくる」のである。


 日常、われわれは3万語ないと
暮らせないというが、いまは、
「やばい」とか「まじで」とか、そんな
下劣な言葉が横行して、おそらく
5千語ももっていないひとがいるのじゃないだろうか。


 言語が貧弱になると人格にも
それが影響するから、性格破綻者も
ずいぶん増えたのではないだろうか。


 じゃ、あんたがどのくらい
言葉を知ってるのかよ、と問われたら、
わたしは、うーん、と唸って答えられないとおもう。


 が、しかし、その言語によってしか、
ひとに気持ちを伝えられないし、
短歌だって、日常の会話だって成立しない。


 ほんとうのことを言えば、
じぶんの気持ちを表すのに、
3万語では足りないのである。


 ラーメンをたべる。

「うまい」

 もう、この「うまい」は、だれかの言った
手垢のついた言葉でしかない。

「美味」「おいしい」

すこしは変形できるが、すべてだれかの
すでに語られたものでしかない。

しかし、言語とはそういうもので、
そこに、すこしでも個性がでれば、
それは、それで素敵なことだ。


 彦摩呂という、わたしの嫌いな芸人さんが
いるが、食のレポートで、
「これは、○×のなんとかやぁ」とか
騒いでいるが、あの下品さはともかく、
ああやって、食べ物を個性的に語るということが、
手垢のつかないゆき方のひとつではある。

「まいう~」もそうであるが、
もう、人口にカイシャしてしまっている。


こういう個性的な表現を、
ロラン・バルトは「スティル」とよんだ。


 たしかに、個別性を担保できているはずなのだが、
そのスティルでさえ、だれかがすでに語ったものである。


 つまり、わたしたちは、
じぶんの気持ちを置き去りにして、
そのへんに転がっている言語から、
ジグソーパズルのひとつのチップをさがすように、
じぶんの気持ちの代替を見つけているのである。


 だから、ほんとうは、ラーメンを食べたとき、
それは、きっと「おいしい」ではないはずなのだ。

 もっと、べつのなにか表現があるはずなのだが、
それが見つからないから、ま、いいやって、
「おいしい」で済ましているのである。


 それを、モーリスブランショというひとは、

「『出来事』は言語化されたときに、
その本質的な『他者性』を失って、
『既知』の無害で、なじみ深く、
馴致された『経験』に縮減される」

と語るが、本質的な他者性というのは、
手垢のついた言語になるということで、
馴致された経験というのは、
みんな知っている言語だ、
ということだから、そんなにむつかしいことではない。


われわれが、短歌をつくるときも、
どの言葉がいいかなって、
九十九里浜から一本の釘をひろうように、
言葉をさがし、むしろ、その言葉にじぶんの気持ちを
近づけて納得しているのである。

べつの言い方をすれば、
言葉によりかかって、言葉に引きずられながら、
さまざまなものを書いているわけだ。


言葉をあやつるのではなく、
じつは、言葉によって、あやつられているのである。



だから、夏目漱石にしろ、内田百間にしろ、
太宰治にしろ、大江健三郎だって、じぶんの気持ちを
正確に言い表せたひとはいない。


 それが、言語の言語たるゆえんである。


 ジャック・ラカンは、そういう性質を「根源的疎外」と呼んだが、
それは、言葉を過不足なくあらわせることは不可能である、
ということである。


 わたしどもは、言葉によって、
ここまで育てられ、はたまた、子どもを育て、
ラングを大事にまもり、スティルを有効につかってみても、
それでも、けっきょく、二番煎じの物まねのようになる、
という悲しいループで生きるしかないのである。

なぜかわからないけれども2017/2/6

 フミエとは、みょうな関係である。

塾の教え子ではあるが、
うちの店で大学の4年間はたらいた。

 そもそもは、高校3年生の大晦日、
ご一家は、葬式で田舎にもどり、彼女ひとりが、
受験ということでおきざりにされたのだ。

 だから、ひとり娘、さぞ寂しかろうということで、
大晦日、店に来いよと、言ったら、
ほんとうに彼女はひとりぽつんと来たのである。

 そのときに、お前、この店、手伝えよ、と
言ったのだが、ほんとうに大学生になった春から、
ずっと、毎日曜日の夜、4年間はたらいた。

 あんまり、夜がひまなときは、
店、閉めてカラオケに行ったこともあった。

 バレーボールに誘えば、
小学校のママさんバレーの練習にも参加した。

 こんな書き方をすれば、
すでに泉下のひとかと勘違いするかたもいようが、
フミエはいまもぴんぴんしている。


真夏の夜のことである。

わたしが、外でゴミをだしたとき、左肩のうしろのほうで、
チェックの青年が横切ったのだが、
その瞬間、その青年が消えてしまった。

あら、見ちゃったよ、とおもって
店にはいったら、
フミエには霊感なんかないはずなのに、
「おー、寒い」と震えているじゃなぃか。

霊に遭遇すると、寒気がするというのは、
まんざらうそではないのである。

シックスセンスという映画でも、
主人公の奥さん、息がしろかったのでも
わかるとおり、世界共通認識なのだ。


 就職がきまって、不動産屋に勤めたのだが、
夜、11時ころ、フミエから連絡があり、
「なんか、気持ちわるい、せんせい見てくれ」と。

うちの前に不動産屋の車を横付けにして、
彼女はわたしの部屋に入ってきた。


「気持ちわるい」
というのは、おそらくなにか憑いていると、
彼女は察したのだろう。


わたしは、フミエの背中を押す。


左の肩甲骨あたりに霊道があるので、
そこを触るとなにかわかるときもある。


ところが、今日は「抜けない」のである。


そこから抜くと、わたしに憑依して、
そこで会話ができるから、
なんとなく、その人の過去が
読めるのだが、今日は、それができない。


そういう場合のほとんどが「生霊」である。

しかし、「生霊」と言っても、
悪いものとそうでないものがある。

わたしは、すこしかんがえて、 わかったのだ。

「フミエ、これ生霊だよ」

「え」

「うん、でもひとつも悪いものではない、
あ、これさ、山形のお母さんが
お前を心配しているからだ」
と、答えたその瞬間である。

フミエの携帯電話がなった。

「あ、ママからだ、こわ~」


こういう話はよくあることである。


どうも、フミエとは、そういうところで、
相性がいいのかもしれない。


店をやめて、かれこれ10年くらい経つが、
わたしはフミエに連絡などあまりしなかったが、
昨日、ふと彼女にラインを送った。


「突然ですが、今日の夜、暇ない?」



何年ぶりのラインだろう。あさの8時11分。



「あるけど。 なぜ?」

8時12分、おそろしいくらいはやい返事だった。

「暇で飲みからカラオケどうかな?」
と、わたし。

「んー、考えておく。先生、昨日電車一緒だったよね」
と、また不思議な返事。

「うっそー」とわたしがあいさつすると、
「三田線乗ってたでしょ?」

「乗るかよ」とわたしが返事をすると、
こんどはフミエが「うっそー」。

「青葉台にいたよ」

「ドッペルゲンガー」とフミエ。

わたしは「うっそー」。

「だから今連絡したんでしょ? こわー」

フミエは、もういちど「こわー」と言った。


そういえば、なぜか、

お、そーだ、暇だらか彼女を誘おうと、
今朝、きゅうにおもいたったのだ。


それは、彼女がわたしを三田線で見た、
というおもいこみが、わたしのなにかを誘発させたのか、
あるいは、ただの偶然か。

しかし、偶然にしては、よくできた話である。


けっきょく、彼女は、わざわざ板橋の仕事場から、
大岡山にまで来て、
風邪ひいているから、カラオケはしないと
言いながら、たらふく、よかばってんで飲んで食って、
けっきょく漫遊記で延長に延長をかさね、
二時間、声がかれるまで歌っていた。


しかし、ほんとうに、
フミエとは、みょうな関係である。


(この話は、ご本人に了解済みであります)

亭主というものは2017/2/3

 世の亭主というものは、
ほとんどが軽んじられるものである。

 さっき、八百屋によって白菜を買う。

「白菜ください」

「何束ですか? 5、6?」

「いや、業者じゃないんで、その小さいのでいいです」

「業者じゃないですか」
と、主人は笑っている。

「180円です」

「ふーん、安いね」

「安いですか、これ、みなさん高いって」

「あ、そーなんだ、ほかになにか面白ものあるかな」

「奥さん、よくみかん買ってくださいます」

「そう、みかんはいいや」

「おいしい、おいしいってなんども買ってくださいますよ」

「そう、わたし、それいちども、それもらったことないな」

「あれ、そうですか」
八百屋の主人は、すこし困った顔をしていてた。


世の亭主というものは、
そもそもそういう扱いなのである。


むかし、カックンのママが商店街で
「今日は、すき焼きにしようっと、パパは湯豆腐」
と、言いながら歩いていたが、
兵隊さんの位は、ママが牛肉で、パパは豆腐なのだ。


そういえば、ケーキ屋にいって、
ケーキを買わされることがあるが、
ほとんど、いつも妻はケーキを4つ買う。
うちの家族はそのときは5人である。


ふだんは、気にしなかったが、
いつぞや、わたしは彼女に訊いたことがあった。


「この4つってさ、おれの分、はいってないよな」

と、妻はうんとうなずいた。

べつに甘いものがきらいというのでもなく、
食に貪欲なほうなわたしだが、
こと、ケーキとなると、わたしの分はないのである。



何日か前、ふたりの娘が帰っていた。

長女は身重である。次女は娘をつれて、
妻が孫のそばにすわる。

よく見たら、拙宅は、三代にわたる女ばかり、
4人もいるじゃないか。


女系家族とはよくいったものだ。

こんなところでは、わたしはひどく肩身の狭い
おもいをする。


「いちご食べる?」

妻がわたしに聞いてきた。

めずらしい。

わたしがうなずくと、テーブルに置いてある
パッケージから、ヘタを向いて
わたしにくれた。

いちごは、ヘタのほうから食べたほうが
おいしく食べられるそうだ。

はじめて聞いたことである。


このいちごは、長女の旦那さんの実家から、
もらったもので、すこぶる甘いらしい。

たしかに、よく身のしまった香り高いくだものであった。

「ナナコもたべる」
次女に妻がきく。

次女もうなずくと、妻は台所に行って
ひとつぶ、ナナコにわたした。

それを見た、長女がげらげら笑いだした。

「おい、なにが可笑しいんだよ」
と、わたしが訊くと、
「いや、なんでもない」って
また笑い出す。

「なんだよ」
と、わたしが訊くと、

「おとうさんには、洗わずに渡したのに、
ナナコには、ちゃんと洗って、いちご渡している」

さきほど、もうしあげたとおりではあるが、
世の亭主というものは、
ほとんどが軽んじられるものである。

2017/1/28

だめな上司の三拍子。

 

上向き、内向き、後ろ向き。

 

 

 出世のことしか頭になく、部下よりも、

兵隊さんの位の高いひとばかりに目が向く。

 

 外交的でなく、内側を向いている。

 

 そして、未来を語るのではなく、

いままでの失敗した足跡などをぐずぐすいう。

 

 

 これがだめな上司の三拍子である。

 

 

 人事考課。

 

 公立学校が採用した制度で、

もう十数年が経つのではないだろうか。

 

 

 学校長が、所属の教員を採点する、

というシステムである。

 

 

 つまり、学校長の権威づけを担保する制度、

ということである。

 

 

 公立学校の教師は、おのず、

点数に還元され、それが能力として

前景化されるわけだから、

校長の前では、いい顔をするようになる。

 

 

 もちろん、それによって、

ぐうたらな教師が、ピシッとなって

奮起するものもいるだろう。

 

 

 クラス通信の回数も格段にふえる。

 

 しかし、「いじめ」は、隠密裏に処理され、

なにごともなかった、安穏なクラス経営であるように

みせかける教師もでてくるわけだ。

 

 

 つまり、教師は生徒・児童をみつめるより、

学校長のご機嫌をうかがうようになるばあいもある。

 

 

 それがはたして、教育上、すぐれていいことなのか、

わからない。

 

 いわゆる上向きである。

 

 メバルという魚は、海底近くで斜め上をむきながら

泳いでいる。上からおちてくる餌を

捕獲するためである。

 

 上向き教師ってメバルみたいじゃないか。

 

 

  そもそも、いまの学校教育は、

一元化のもとにすすめられている。

 

 

 どの生徒にも、マニュアルどおり、

ささやかな怪我をしても、保護者が呼ばれ、

病院に行くように指示される。

 

 

 ジャイアンのかすり傷と

のび太の骨折では、程度もちがうし、

人物もずいぶんちがうが、

どちらも、おんなじように扱うのである。

 

 

 それが、悪いともうしているのではない。

 

が、個別対応ということも

ある程度は踏まえていただくのが、

保護者としての本音ではないだろうか。

 

 

むかしは、子どもと老人は特別視されていた。

 

「七歳までは神のうち」と子どもは呼ばれ、

老人も神性を付与されていた時代があったのだ。

 

が、いまは、一元的社会のものの見方では、

平板な地平のうえに、どちらも「役立たず」と

見られようになった。

 

 

 一人ひとりの個性を伸ばし、など、

教育目標にかかげておきながら、

学校という空間は、すべての生徒・児童を

八百屋の商品のように、統一的に据え置こうと

しているのである。

 

 

だから、ぎゃくに「うちの子にかぎって」

という母親のストックフレーズは

死語となったけれども。

 

 

 ここで、とてもだめな教師の話をしよう。

 

 

 

クラスのタチモト君という、

どちらかといえば、スネ夫よりもジャイアンに

近い体型の男だったが、かれが、

 

「せんせい、おれ、学校やめようとおもうんだ」

と言ってきた。

 

そこで、かれはこう言った。

 

 

「お前が学校やめたら、だれがトリュフを取りに行くんだ」

と。

 

 

タチモト君、さっぱり意味が分からず、

ちょっと知性的な友だちに聞いて、

それから怒りだした。

 

けれども、トリュフはそれきり学校やめるとは

言わなかった。

 

 クラスでほとんどビリしかとらない生徒がいた。

担任の先生は、クラスの生徒に、河合塾の公開模試を

受けることを促していたが、そのビリは、

先生のいうことを鵜呑みにし、いつも

模試を受けていた。

もうしわけないが、かれにとって、模試を

受けることは、かれの人生において「ゼロ」である。

 ついに、三年目のある日、担任に申し出てきたのだ。

 

「せんせい、おれ、これ受けて、なんになるんですか?」

 

 なにになる。うーん、なにになる、か。そこで担任は、

即座にこう答えた。

 

 「野となったり、山となったり、なるんじゃないか」と。

 

 ビリは、ぽかーんとしてその場を去った。

きっと、かれはいまだにその意味がわからないのだろう。

いま、そのかれは、神奈川に三軒、ラーメン屋を経営している。

 

 おんなじ担任の話。

 日帰り社会見学のバスの中、もう降りますよ、ってときに、

野球部のタケウチくんは、嘔吐した。

担任は、このあと、先生のご苦労さん会が横浜であるので、

また、そのときのご苦労さん会は、マグロのカマを焼いてくれている、

という情報もあり、タケウチくんにかまっている場合でもなかった。

 

「もう、おわったんだから、お前らで処理しておけ」と、

先生は、マイクでそう言いながらバスを降りた。

 

「待て。それでも担任か」と怒鳴ったのは、おんなじ

野球部の、イイジマである。

 

「うるせぇ。知るか」と、このひどい先生は、

小雨の降る中、横浜に急いだ。

 

 しかし、ものがたりはそのあと、とんでもない

ことになっていたのである。

 

 タケウチくん、傘をさしながら、汚れをおとして、

歩いていたところ、車に轢かれてしまったのである。

 

 ボンネットに乗っかるように轢かれたらしい。

 

担任が、それを知ったのは、翌日の朝である。

玄関にタケウチくんの母親がみえて、その事情を

話された。

車に轢かれたとはいえ、病院で看てもらったが、

べつだん怪我もなく、無事であったのだ。

 

 なにもなくてよかった。

 

で、息子はいまホームルームの部屋にいるので、

なにぶん、よろしくお願いいたします、とのことであった。

 

担任が、ホームルームに行くと、タケウチくん、

教室の真ん中に、ちょこんと座っていた。

 

「タケウチ、お前、車に轢かれたんだって」

 

「はい」

 

 で、その先生は、こう付け加えた。

 

「そーか。踏んだり蹴ったりって言葉はあるが、

お前は、吐いたり、轢かれたり、だな」

 

 ここまで、お読みいただいたかたは、

すでにお分かりだとおもうが、この担任は、

すべてわたしの実話である。

 

 こんなことばかりやっているので、

ついには、学校から追い出されることになる。

 

 でも、わたしは、一人ひとりの生徒に、

ちゃんとちがったものの見方をしていたと

おもうのだが、ま、こんなやつは、抛り出される

ことになるのだろう。

 

 しかし、おもうのだが、学校という現場は、個性と

個性のぶつかり合いだと。

 

 おんなじようにベルトコンベアに乗せ、

ちょっとでも、マジョリティとちがうことがあると、

ハンマーで叩き、平板にし、

一列にきれいに並んでいる

トウモロコシのつぶみたいな教育がいいとは、

わたしには、すぐれた教育とは、どうしてもおもえない。

 

 もう、実現は不可能だが、

わたしの叶わなかった夢は、学校長になることであった。

見た目が悪いという話2017/1/25

「せんせい、アウトレイジに出てませんでしたか」

とか、よく訊かれる。

アウトレイジ、北野監督の「すべて悪人」という
あの映画である。


なぜか、わたしはヤクザさんと間違われるのだ。
こんな平和主義のやつはいないと
おもっているのだが、
見た目はそうではないらしい。

だから、そう言われたときには、

「なんだと、コノヤロウ」と
低い声で応えることにしている。

じっさい、ワイシャツは黒しかなく、
ネクタイも赤とか、黒とか、ダークなやつなので、
黒いスーツだと、たしかに、
そんな誤解もあるのかもしれない。

だから、夜などおそろしい。


信号のない通りで斜めに横断しようとしたら、
いちど、車に轢かれそうになった。

女性ドライバーだったが、
たぶん見えていなかったんだろう。


むこうも驚いたようだったが、
こっちはその倍こわかった。


ちょっと前まで、わたしは、神奈川のK学園で教鞭をとっていた。

そこは、入学するのにむつかしく、中学の成績がオール2だと、
はいれない。

オール2だと、この学校より、ランクのうえの学校に
入れてしまうからだ。

つまり、オール1に2がすこし、という
かなりアクロバシィな生徒さんが
うようよ集まっている学校である。

苅谷剛彦というひとが言っていたが、


「比較的低い階層出身の日本の生徒たちは、
学校での成功を否定し、
将来よりも現在に向かうことで、
自己の有能感を高め、
自己を肯定する術を身につけている。
低い階層の生徒たちは学校の業績主義的な
価値から離脱することで、
『自分自身にいい感じをもつ』ようになっているのである」


まさに、それを地で行っているような学校であった。

「俺たちはよ、金はらってんだから、
あんたが黒板消せよ」

とか、鼻息あらく平気でそんなことをいうやつらだった。


わたしは、そういうやつらに

屈するなんて できないので、
このときは、アウトレイジがものを言った。

「お前ぇよ。ここが学校だから大目に見てやってんだがよ、
いいか、表でおれと顔合わすなよ、わかってんだろうな」
とか、平生よりすこしドスの利いた声で諭してやった。

それとか、なんべん、「殺すぞ」と言ったことか。

公立学校でそんなこと
言ったら、大問題である。

が、ここK学園では、なんてことなかった。


さすがに「殺すぞ」と言ったあとには、低い階層のやつらも、
おとなしくなったものだ。


しかし、休み時間など、たまったものではない。

男子生徒と女子生徒が教室で抱き合ったり、
キスしたり、お乳をもんでいたり、
それが、日常なのである。


だから、ほとほと呆れて、わたしは、
担任の、女の体育の先生におねがいした。

「あの二人、しょっちょう抱き合ったりしているから、
ここは、公共の教育の場ですから、
なんとか指導してください」
と、彼女は言下にこういった。

「あの二人、別れましたから」

わたしは、生徒以下の能力に唖然とした。

それより前に、わたしは、
K高校で五年ほど、非常勤ではたらいた。

そこで「イマムー」というあだ名の
英語のわかい先生と懇意になった。


懇意といっても、昼に食事するとか、
お茶するとか、何しろ、わたしの娘のような
子であった。


箸がうまく持てないので、
わたしが徹底的に教えてやった。

が、彼女はいまだにうまく箸がもてない。

サンダルもカカトが取れていて、
ひょこたんひょこたん歩いていた。


わりに、身なりを気にしない先生である。


「わたし、せんせいみたいなひとに
漢文教わったことあります」
と、彼女は言った。


「え、どこで」


「予備校で」

「どこの」

「早稲田塾というところです。
なんか、何やったか覚えてないけれど、
4日間、笑い続けていた気がするんです」

「それ、自由が丘じゃなぃ?」

「そうです」

わたしは、コーヒーを飲み干し、
ふたりそろって職員室にもどり、わたしのレジュメを
彼女にみせた。

「これじゃなぃ」

「あ、これです、これです」


「じゃ、おまえ、おれの生徒じゃん」


じつに呑気な子で、わたしが教えていたことを
まったく気づかずにいたのである。


早稲田塾でも、わたしは、アウトレイジだったし、
K高校でも、おんなじコスチュームだから、
すこしは感づけよとおもったが、
ま、イマムーならしかたないのかもしれない。


いま、教えている予備校で、
わかいせんせいが、
「あの、黒いワイシャツ着ていいですか」
と、室長におたずねしたところ、

「お前は、だめ」と、言われたそうだ。

「お前は」という言い方に、
「だれかなら、しかたない」という物言いが、
前段にあることはたしかである。


その「だれか」がわたしかどうかわからないが、
黒いワイシャツで授業をしているのは、
わたしだけであることは、間違いない。


この間、あまりに寒いので、
予備校を出るときに、正ちゃん帽をかぶったのだが、
それが、わたしには似合っていなかったのか、
生徒が
「わ!」
とか驚いて、
「せんせい、銀行強盗みたいですよ」と言っていた。

ギャップという店で買った、毛糸の帽子である。


なんで、それが、銀行強盗なのだ。


むかしの話だが、わたしが、
カシミヤのコートを着て、予備校を出るときに、
ある生徒がこう言った。


「せんせい、露出狂みたい」


なんでコート着たほうが、露出狂なんだ。


 なんだとコノヤロウ。

公用語を英語に2017/1/22

 我が国の公用語が英語になったら、
あなたはどうおもいますか、

という慶応大学の入試問題があった。

 生徒に訊いてみた。

「英語がじょうたつするんじゃないですか」

なんて言うものもいた。

 公用語ね。ということは「ハレ」の語としては英語、
「ケ」の言語は日本語を使用してよい、
ということなのだろう。


 結論から言えば「無理」である。

 
 岸田秀というひとが「唯幻論」で述べているが、
江戸から明治になったときの、
パラダイムシフトは、わが国が分裂を病むという
ソリューションを奨励し、外国にはいい顔をし、
そのじつ、じつはそれはうそのじぶんで、
ほんとうは、だれともつきあわない
日本独自の文化を大事にするという、
聖化されたじぶんをもつ、という二重人格が
芽生えたと言っている。


 いわゆる病的な「本音」と「建前」が、
個人でも、国家でも演じられたわけである。


 いまの政治は、政府や、政治家から、
官僚まで、アメリカのしっぽを追いかけているだけだから、
きっと、右にならえで、そうなるかもしれない。



 が、われわれは、
英語が公用語になったら、この本音と建前は、
加速度をまし、ますますわれわれは分裂症を
受け持ち、このことが個人レベルで内在化し、
国家にもぬぐいがたい傷痕と亀裂がしょうじるのは
火を見るより明らかである。


 そもそも、公用語とはなにか。

 げんざい、日本の公用文書はすべて横書きである。

 「ハレ」の舞台に出られるのは横書きだけなのだ。

が、しかし、あるひとつは、いまだに縦書きが
大手を振ってそんざいしている。


 六法全書である。


 あれは、いつまで経っても横書きに
変換されない。


 なぜか。


 「右に同じ」という文言がむすうにあり、
それを、横書きにすれば、すべてを「上に同じ」にしなくては
ならない。

 その煩雑さゆえに、いまだに縦書きらしい。


 それが、すべて英語になるなんて、ありえないだろう。

 百歩譲って、それでも横書きの英語に
六法全書がかわってしまったら、
裁判など、複雑極まりなくなるだろう。


 司法試験もすべて英語。
裁判の進行も英語でなくてはならない。


 陪審員制度を採用しているので、陪審員も
英語に堪能でなくてはならない。


 そのへんの八百屋のおっちゃんが、
英語を理解しなくてはならないのだ。


 「どうせ」とか「せっかく」とか、
日本独特の言い回しがあるわけで、
裁判というのは、そういう心のひだまで、
陳述する場なのだから、それを英語でやる、
というのは、加害者であり、被害者であり、
どちらの心情も、そっくり表現できずに、
語彙数のすくない言語の海に埋められてしまうのだ。



 ま、これは一例にすぎないけれども、
慶応大学もずいぶん安直な問題をだすものだと、
わたしは、こっそりとおもっている。

言葉のおもみ2017/1/18

 孫ができると、自動的に「祖父」ということになる。

「おじいちゃん」


 とてもいやな響きである。

 祖父母は、金をだしても口出すな。


 これは、人生の鉄則、人生訓である。

 わたしは、娘が孫をつれて実家にもどっても、
そんなにしょっちゅう、孫を見にゆくことはない。


 わたしは、金もないからなのだが、
金もださない、口もださない、顔もださない、
この三拍子である。


 だから、娘にとって、「おじいちゃん」」は
とても気楽だろう。


 ただ、5歳までに、その子の人格が
形成されるから、身のこなし、箸の使い方、
あいさつのしかた、もろもろは
ちゃんと教えろよ、あるいは、
暗いところで昔話を語ることが、
その子の想像力にもっとも有効である、
ということは伝えてある。


 伝えてあるが、それを実践するか、
しないかは、娘しだいなので、
それいじょうは、なにも言わないことにしている。


金もださない、口もださない、顔もださないからである。


ピエール・ブルデューというひとが、
「文化資本」という概念を提唱した。


経済資本にたいする術語である。


文化資本とは、
そのひとの、階級差の指標であり、
それが、5歳までに決定するそうである。


 ご飯を食べたあとに、どうやって「ごちそうさま」をするのか。
どういうふうに「ありがとうございます」を言うのか。
すべて、文化資本にカテゴライズされる。


 たぶん、わたしが、
娘夫婦に、ああしろ、こうしろと言いだしたら、
おそらく、じつの娘でも、イラッとするはずだろう。


 と、いうより、それいじょう、あんまりかんがえも
ないものだから、お前たち、勝手にやれよ、
これが、わたしの教育だったのかもしれないが。


 言葉とは、言霊であるので、言葉には、
命がふきこまれると同時に、まったく無意味な
存在でもある。


 ピグマリオン効果というのがある。

 「わたしは、できるんだ」と言葉にすると、
その仕事がほんとうにできるらしい。

 これは、心理学で証明されていることなので、
あんがい、真実かもしれない。


 だから、「だめだ~、だめだ~」ってほざいていると、
しっかりだめになる。


 言葉が言霊である証拠だ。



 が、「きみのことが好きです」とか、
「いつも、きみをおもっています」とか、
それが、真実なのか、虚偽なのか、
これは、あんがいむつかしい。


 「好きです」と言われて、
不快感をもつひとは、そんなには多くない。


 だいたいは、こころが熱くなるものだ。


 ここが、言葉のふくざつなところである。


 在原業平のような女ったらしや、
はぐれ雲のようなやつだったら、
いくら、言質をとっても、びた一文にもならない。


 「きみしかいない」といいながら、
たくさんの女とつきあっていて、
おんなじ文言をたくさんの女に言っているのだから、
信用できないわけだ。

 なぜなら、できるかぎり、恋仲を持続するためなら、
どんな言葉も惜しみなく生産するのが、
男というものだからである。


 しかし、言われたほうは、嬉しいかぎりである。

じぶんだけに言っている愛の言葉だとおもい、
いわれた当事者は、舞い上がる。
そして、その仕掛けにはいっさい気づかない。
こういう図式を、世に「幸せ」と呼んでいる。


 祖父母が言う言葉、担任の先生が言う言葉、
政治家の言説、恋人の語り。


 どれが真実か、あるいは、保身からのまやかしなのか、
あるいは、まったくのでたらめか。


 しかし、嘘からでたまことという俚諺もあるから、
そのうち、それがほんとう、ということもあるかもしれない。


 ただ、わたしは、まだ「おじいちゃん」と言われるのは、
どうも苦手である。


 けれども、これだけは断言する。

わたしが「好き」と言ったら、これは事実である。

辞書のはなし2017/1/17

 世間では、「広辞苑」がもっとも大きな
国語辞書だとおもっているひとがなんにんもいるだろう。

 「辞書は三省堂」というが、三省堂の辞書が
もっとも使いやすいとおもっているひとも
いるかもしれない。


 「広辞苑」。あれなどは、専門家から言わせれば、
使えない辞書のひとつである。


 語彙数もすくないし、漢語の造語成分も載らない。
広辞苑の項目数は、おおよそ25万項目である。


 漢語の造語成分というのは、その字だけでは、
意味がなく、熟語にならないと成立しない文字である。

 だから、広辞苑にない字は、
漢語の造語成分にはならない、と、
そう逆利用することも可能なのであるが。

 専門家がもっとも利用する辞書は、
日本国語大辞典である。


 小学館から出ている。
百科事典のような体裁で、20巻からなる。

 一巻は「あ」から「いくん」までである。

 二巻は「いけ」から「うのん」までである。

 こんなふうに20巻がつづくので、
本棚はゆうに2段つかわざるをえない。

語彙数も50万語。だから、日本国語辞典に
載っていなければ、日本語として認定されていない、
そう言える唯一の辞書である。


 
 「辞書は三省堂」

(語彙数は75000語)


 これは、三省堂という書店のキャッチコピーであり、
とく三省堂の「新明解国語辞典」は、ひどく使いにくい
辞書の筆頭である。


 「三時のおやつは文明堂」

 だからって、おやつは文明堂の
ハニーカステラにはしないように、
辞書だって、新明解がすぐれているわけではない。


 ものすごく偏った説明を、新明解はするのである。

主幹が山田忠雄。山田文法の提唱者で、
ひどく、主観的な見方をする学者である。
だから、語彙の説明も山田流なのかもしれない。

 

 わたしも、若いころ、辞書の執筆をしたことがあって、
そのときは、卓上版の辞書を片っ端からあつめ、
そこにはないフレーズで、言葉の説明をしたおぼえがある。


 おんなし説明だと盗作になってしまうからだ。


新銘菓国語辞典の初版がここにある。


さ、山田ワールドへようこそ。


二、三、例をあげてみる。

 

 【みぎ】

大部分のひとがはしや金づちやペンなどを持つ方(の手)。
(からだの、心臓が有る方の反対側)


 なら左はどうか。


 【ひだり】

 普通の人が茶わんを持ち、ぐぎ・のみを持つ方(の手)。
(からだの心臓が有るほうの側)


 とすると、左利きは、普通の人ではなく、異常な人、
ということでいいのかな。


 【ビキニ スタイル】

 女性の着る海水着の一つ。乳の部分と
下腹部とをそれぞれ申しわけ程度におおっただけで、
大胆に裸体を露出したもの。


 うん、この説明、ぐぐっとくるが、
辞書としてはどうなのか。

「申しわけ程度」という独断は、普遍性に欠ける気がするが。
いかがなものか。


 【マンション】

 スラムの感じ比較的少ないように作った高級アパート。


 スラム街のひと、すみません。

 しかし、まだ「マンション」はましである。

つぎのはいかが。
マンションではなく団地である。

若葉台団地とか、高級な団地はいくらでもあるが。

 

 【団地】

 住む家のない庶民のために、一地域に
集合的に建てられた・公営(民営)のアパート群など。

 

 住む家のない庶民・・・

返答のしかた2017/1/15
 英語は、日常生活するのに、
1500語程度で暮らせるらしい。


 オーマイ・ゴッドやシット、とか、ファックとか
そんなこと言ってらなんとかなる。

 フランス語は、ややこしいので、
それでも4000語くらい。


 しかし、こと日本語となると、そうはゆかない。
専門家に言わせると、日本語は、
日常会話を支障なくこなすには、
27000語から30000語必要だそうだ。


 承知いたしました。かしこまりました。
了解です。承ります。わかりました。

 おんなじこと言うのにも、
そのひとによって、あるいは場によって
さまざまに選択しなくてはならない。


 英語なんて、よくしらないが「イエス・サー」とか
言っておけばいいんだろ。


 好みの言い方を、ロラン・バルトというひとは、
「スティル」と呼んだ。


 じぶんなりの、言い回し、息継ぎのしかた、
節回し、そんなものをそう呼んだ。


 川端康成が、ノーベル賞の受賞公演の
タイトルが「美しい日本のわたし」であったが、
あれは、文法がおかしいとは、「雪国」の作者は、
おもってもいなかったろう。

「美しい日本のわたし」は、川端先生のスティル
であったと、ご本人はそうおもっていたに違いない。



 そのすティルであるが、
当意即妙な返答のしかた、そういうことが
できたら、素敵な人生になるとおもうのだ。


 わたしの知り合いの女性で、しょっちゅう、
「なことで死ぬわけないし」ということを言う方がいる。

「死ぬわけない」と生死にかかわることを
だされてしまったら、返事に窮する。

だから、わたしは、「そんなこと、死ぬわけないし」と
言われたときは、すかさず「でも、生きた心地がしなかったよ」
と、あいさつすることに決めている。


 恋人同士が別れるとき、男はきまって
捨て台詞をいう。


 「たまには、おれのこと思い出せよ」

と。


 そのとき、いい女の捨て台詞はなにか。

 「ううん、思い出さない」

 これにかぎる。

 と、男は、虚を衝かれ「え」となる。

そこでこういうのだ。


 「だって忘れないもの」


「・・・・・」


 こう言われたら、しびれるだろうね。
なんでこんな女をおれは捨てたのだろう。

 うしろ髪を、フォークリフトで牽引されたような
気持ちになるのじゃなぃかな。



 「お前、何様のつもりだ」
なんて、言われる。

 そのときは、

「お互いさまだ」

 と答えるとよろしい。



 ナンパ氏が、街ゆく女性に声をかける。

「どうです、珈琲でも」

 と、「珈琲きらいなんで」。

「なら、紅茶ならいいでしょ」


 ずいぶん昔の手の内である。


 まだ、子どもが乳幼児のとき、
東急ストアに買い物にいき、粉ミルクがないので、
妻がそのまま帰ってきたら、駐車場で500円取られた。


 なにも買わずに帰ってきたらか
仕方ないが、ほんの数分で500円。

 法外である。


 で、わたしは、あとから東急ストアに電話して、
「粉ミルクを買いにいったのに、
そちらには粉ミルクがないから帰ってきたのに、
なんでお金とるんですか」と、クレームした。


 そうしたら、「たぶん、駐車場係が臨機応変な態度を
とったとおもうんです」との答え。

 だから、わたしは「臨機応変な態度がとれなかったから、
地元の人間から法外な料金をとってしまったんではないですか」
と、係のひとの言葉を、そのまま返してやったら、
それから、すっかりだまりこんで、返金ということになった。


 やはり、返答の仕方で、人生は変わるものだと
おもうのである。


 27000語というと、新明解国語辞典で75000語あるから、
その3分の1くらいは知っていなければ、
暮らせないということである。

 
 さて、わたしは、どのくらいの語彙力があるのだろう。



 この間、「周旋」という言葉を知らずに辞書をひいた。

 仕事などを世話するという意味らしい。
ハローワークのようなところでは、日常であろう。


 「えー、わたし、子どもが7人もいましてね」

 と、ハローワークの職員が言った。
 
 「ほかにできる仕事は?」



  このギャグを教室で言ったら、
里佳子だけが笑った。

 「おい、里佳子、笑ったのはおまえだけだぞ」
と言ったら、彼女はパーって赤面していた。


 かわいい。



 自由が丘の並木道を、チサトと歩いていたとき、
彼女が、初夏の青々とした木々をみて、

「これ桜だった?」とわたしに聞いてきた。

 だから、わたしは答えてやった。

 「いまも、桜だよ」



 






返事のしかたはむつかしい2017/1/11

 家風ラーメンには、小ライスをサービスしている。

「小ライス付きますが、いかがされますか」

わたしは、かならずお客様にはそう訊いている。

「だいじょうぶです」

男性が答えられた。

だいじょうぶ。

この語が難問なのである。

「いりません」という意味で通常はつかっていると
おもっていた、この「だいじょうぶ」であるが、
この男性は、ちがったのである。

「小ライスをもらっても、わたしには
それを許容できるだけの胃袋がある。
だから、もらってもだいじょうぶ」
という意味だったのだ。


そもそも、大丈夫という語は、
立派な男子を意味するのであり、
ライスが不要なのか必要なのかの返答には、
使用しないものである。

あるいは、現在では「まちがいがなく確かなさま」
という使い方が本筋かもしれない。



本屋でも、カバーかけますか。


という問いに「だいじょうです」は、
カバーがあってもいいのか、いらないのか、
どちらにもとれる。

今日、店がおわって、やなか、という珈琲屋さんに
寄った。


と、わかい女性がふたり。


ホットをふたつ。


はい、ミルクと砂糖はご入り用ですか。


だいじょうぶです。


わ。また、はじまった。


袋にお入れしますか。


だいじょうぶです。
あ、買い物があるから、ください。


こんどのだいじょうぶは、いらないという
意思の表明であった。



ところで、だいじょぶの誤用はどこから
はじまったのであろうか。


歴史のはじまった、その原点にもどることを
「零度」というが、「だいじょうぶ」の零度はどこなのだろう。


語源的には、大丈夫は、立派な男子なのだが、
それが、どこかで、立派であるがゆえに、
どんな苦境にたたされても、大丈夫はだいじょうぶなのだ。

究竟の男は、どんな荒波でも、だいじょうぶなのだ。

つまり、だいじょうぶには、ひどく受身的な
意味合いを含むことになるのではないだろうか。


どういう障害でも、それを支えるだけの
能力がある、ということなのかもしれない。


だいじょうぶ、だいじょうぶ、どんと来い、
そんな感じである。


そのへんが、どうも誤用のはじまり、零度なのじゃないか、
とわたしはおもう。


相手の要求にたいして、
失礼なく無難に対応できる、そういう意味合いが、
「だいじょうぶ」を誤用の道に導いていったのではないか。



ともかく、わたしは、個人的に、
この「だいじょうぶ」がひどく嫌いである。


聞きたくもないし、使いたくもない。


それとおなじく、聞いて腹が立つのは、「きびしい」である。


コメントなど、突き刺さってくるようなものに、
きびしい意見ですねぇ、なんてのは「あり」であるが、
明日、時間とれますか、という発問に、
「ちょっときびしいですね」と答えられると、
温厚なわたしも、カチンとくる。


なぜなのか。


「ちょっときびしいですね」に含まれるものは、
じぶんは、完全主義者であり、ふだんは完璧に
ものをこなしている。しかし、あなたの依頼は、
わたしのスケジュールを開けるだけの余裕がありません、
という表明にしか聞こえないのである。


つまり、「きびしい」に、やや上からの物見のような
含みがあるようにおもわれてならないのである。

パードビューなのだ。


この間、仕事場で、事務の女の子に、
「ね、メンディングテープないかな」って訊いたところ、
ごそごそ机の中を探してくれて、
「えっと、きびしいですね」って答えられた。


それ、ありませんってことだよね。


なんでそこで「きびしい」なんて使うんだろう。


これは、学校教育と家庭教育と、
一からやり直さなければならない、
一大事なのかもしれない。



これは、すこし話がちがうが、
そういう応対でもっともむつかしいのが、
性別なのだ。


わかい女の先生が、
二者面談をしていたとき、
ドアをあけてはいってきたひとが、
髪はショートで、すらりとして、
これが父親なのか母親なのか、
さっぱりわからなかったという。


声も男性にしては高いが、女性なら、
かなり低い。


15分間、先生は悩んだ。

はたして、父親か母親か。
最後まで、それが判明しなかったという。


そこで、面談終了時、思い切って、
彼女は、こう話したそうだ。


「では、それでよろしいですね、お母さん」


と、その方は「はい」と答えられたそうだ。


二分の一の確率で当たったのである。

店内のある風景2017/1/5

 うちの店は食券制なので、
店内の奥にある券売機で購入していただくこととなっている。

 12時をまわったところで、男性おふたりが入店。

 ひとりの青年が食券を、そして年配のかたが、
券売機にいかずに、すぐにサービス券をだして、
「水餃子ね」とおっしゃった。

 わたしは、その券に印鑑を押すと
かれは、なにかゴソゴソと財布の中を
探されている。

 どうされました?


 とうかがうと、

 
 いや、いまチケットがどこかにいっちゃって。


 と、言う。そしてカウンターのあたりを
見回したり。


 あの、まだ食券ご購入しているの、
わたくし見ておりませんが。



 と、もうしあげたら、


 いや、たしかに買ったんだけれどね。


 はぁ、そうですか、わたしはまだ
お客様がまだ券売機まで行かれたのを
見ておりませんが。


 いや、そんなはずはないよ。


 では、なにをお求めで?


 並盛りです。



 かしこまりました。


 と、わたしはしかたなく、
水餃子と並盛りをつくりはじめる。


 まだ、はじまったばかりであるので、
お客様は、年配のかたを含めて7名ほどである。


 年配のかたは、まだ財布を探されている。


 じゃあ、もう一回買いますよ。


 と、よほど気にされているのか、そう言われた。


 「もう一回買う」ということは、脳のなかでは
いちど購入したのに、それが店に伝達されなかったから、
たったいちどの食事で倍の金額を支払うという、
被害者的な受苦な意識をもたれることになる。

 それは、もうしわけない。

 いえ、いま、券売機をあけまして、
お客様がご購入されたか、すぐわかることですので、
いま調べますから、お待ちください。


 と、わたしは、ラーメンと水餃子をお出しして、
すぐ券売機を開き、印字する。

 とうぜんだが、このお客様の数字をカウントされていない。


 あ、ちゃんとお買い求めになっております。
この券に記録がございますから。


 わたしは、嘘をもうしあげ、
その場は、それでおさまった。


 すると、このお客様は食事されたあと、
さっと立ち上がり、券売機で800円のチケットを
購入されて、


 いや、もしかしたら買ってないかもしれないから


 と、「並盛り」のチケットをわたしの前に置いて
くれたのだ。


 あ、ありがとうございます。
じつは、お客様、ご購入されていませんでした。


 わたしは、ここで正直にもうしあげた。


 そーか、つい、違うこと考えていたから。
そうだったんだ。


 と、お客様はかるく挨拶をして店を
出てゆかれた。


 思い込みというものは、そういうものである。
しかし、思い込みが思い込みとわかり、
わだかまりも、すっかりなくなったあとは、
ひどくすがすがしい時間がやってくるものだということが、
わかったのである。

「こころ」を読む2017/1/2

 

 「こころ」を読んでいる。

「先生」という人物は「K」には悪いことはない、
悪いのは私である、という単純な対立構造で、
みずからを責める。
そのほうが慚愧のおもいが他者には通じるかも
しれない。
だが、冷静におもえば、なんで「K」という
人物は、「先生」がお嬢さんに好意を持っていることを
理解できなかったのか。
他者をなんにも理解しないで、
じぶんの気持ちだけで生きている。
その傲慢さ、あるいは、エゴイズムを
「先生」は感じていなかったのだろうか。
あるいは、その気持ちを「抑圧」していたのだろうか。

「こころ」では、そのへんの事情については、
なにも書かれていない。

そもそも、「こころ」では、もっとも可哀想なのは、

「お嬢さん」である。のちに「先生」の「奥さん」になるひと。

彼女は、友人Kの自殺の原因もしらないし、

夫の自殺のわけもしらない。

なんにも知らずに、ふたりの男性が身近で自殺するわけだから、

女性蔑視の感がないわけでもない。




にんげんは、ミスを犯す。
ミスを犯すひとがいれば、
ミスを犯されたひとがいるはずだ。
被害者である。

被害者は、ミスを犯したひとをどう処理してもいい。
生殺与奪の権はその当事者にある。

いわゆる、被害者の感情回復、カタルシスである。

そのとき、被害者にはすくなくとも
ある分岐点にたつことになる。

加害者を、もっともキズのすくないように処するか、
加害者を、もっともダメージの多いように処するか、
このふたつである。

わたしは、じぶんがひどくずさんであるし、
読解力はすこぶるないので、
ひとを、徹底的に潰すようなことができない。

(クレームを言うときはべつですよ)

ただ、もっともダメージの多いように処した場合、
うけたダメージは、絶望的な疲労感をともない
加害者を襲う。酸が浸食するように、
取り返しがつかないという事情を
相手の人格に植え付ける。

それは「呪い」である。
「呪い」は、絶望的疲労感とともに、
返答不能の状態を相手に与えることだ。


これは、外交交渉ではあまりよろしくない
やりかただ。相手の逃げ場所がなくなるから。


やはり、にんげん関係も、国交も、
逃げ場所を作っておかないといけないのである。

あさま山荘の犯人が、逃げ場所をうしない、
発砲しまくったのと類比的だ。


ひとのミスは、ミスしたひとがもっとも悪いが、
そういうときこそ、
そのミスをどうしたら、もっとも間違いでないように
補正しながら、他者を含んでみずからの所作を考える、
という紳士で真摯な行き方をしたいものだ。

 

 ところで、授業で「こころ」を読んでいたのだが、

そろそろ「まとめ」になろうとしたとき、

ある生徒がわたしにいいに来た。

 

 

「せんせい、いつになったらKの名前、

教えてくれるんですか」

 

 

 

やれやれ2016/12/29

 冬期講習中である。

わたしは午前中にべつの仕事をしているので、
授業は夕方しかできない。

それだから、校舎から校舎に移動、
というのが常となっている。


いま、そのもっとも過酷な時期であり、
午前中の仕事がおわるのが3時。

急いで着替えて鷺沼にゆく。

鷺沼というのは神奈川県のまんなかくらい。

16時から授業である。

そこで、80分授業をこなして、
それから、練馬にゆかなければならない。


練馬というのは練馬区のまんかなくらい。
練馬大根くらいが有名で、あとは、
なんにも褒められたところのない街という
印象がわたしにはある。

(練馬区民の方、失礼!)


練馬での授業開始が、19時、夜の7時なので、
移動時間は一時間と30分しかない。


で、Yahoo!の乗車案内でしらべると、
17時30分の急行で、渋谷経由、青山一丁目で、
大江戸線に乗り換えると、
練馬に、18時40分に着き、これが最速であるらしい。

いまは、すこぶる便利な世の中である。

携帯でいっぱつ、こんな複雑な事情が
あっさりと手のひらに表示されてしまう。


さて、急行が来て、わたしは、
田園都市線で都心にむかった。


渋谷をすぎ、青山一丁目で降りる。

が、そこから、大江戸線がわからない。

大江戸線という電車は、もっとも歴史が浅く、
その浅さと反比例して、地下のもっとも深いところを
走っている電車である。

それも、車内はひどく狭く、
さながら、潜水艦のごとくである。

おまけに、ひとの多さときたら、
ひといきれと、ひとの咳で、あれに一日乗ったら、
きっと、どこか悪くするにちがいない。


さて、青山一丁目で降りたわたしは、
「大江戸線」という看板を見つけなければならない。

いま、これは4番線ホームである。

と、そこに都合よく駅員が立っているではないか。


「すみません、大江戸線どこですか」

と、駅員は左手ですくそばの地下を指呼して、
「この下です」と答えた。

わたしは軽く礼を言って、階段を降りる。

大江戸線との待合時間は4分である。

急がねばならない。


が、その階段がくねくねして、また狭いのだ。

二階分くらい降りたところで、
広い踊り場のようなところに出て、
左手に改札のような、出口のようなところから、
ひとがぞろぞろと歩いて出てきた。

低い天井に「大江戸線連絡通路」と書いてある。
わたしは、それにしたがい、踊り場を右折して、
すぐ目の前にある、エスカレーターに乗った。

急ぐので、右端をすみません、すみませんと、
小声で言いながら、走る。


と、そこは、地下ではなく地上のホームであった。


ひとりの駅員がいた。


わたしはひどく焦っている。


「すみません、大江戸線はどこですか」

「この下です」

駅員は、狭い階段を示した。


わたしは、どうも、と言いながら、
その階段を降りる。

狭くて、左に左にと数回まわりながら、
明るい踊り場にでた。

と、そこは左手に出口のような改札があり、
天井に「大江戸線専用連絡通路」と書いてある。

だから、わたしは、その踊り場を右折して、
目の前にある、エスカレーターを小走りに上がっていった。


と、そこは、地上のホームである。


駅員がいる。


「すみません、大江戸線をどこですか」

あれ、こいつ、さっきおれが訊いた駅員じゃないか。

「この下を降りて、改札をはいってください」


改札? あ、おれが出口と勘違いしたところだ。

そーか、あそこを左に曲がるんだった。


駅員も、下に降りて改札を通ってください、
そうていねいにおしえてくれればいいものを、
わたしは、けっきょく、おんなじ道を三回も
登ったり、下りたりをしてしまった。


運良く、ピリピリーとなっていて、
いままさに閉まるドアに飛び乗り、難を逃れたが、
あぶないところだった。


ドアがしまる寸前に、運良く乗り込めた女性歌手はだれ、
なんてなぞなぞが、むかしあったが、
その答えは「淡谷のり子」である。
が、そんな冗談をいっているような場合ではなかった。


ニーチェの言説に「永劫回帰」があるが、
あれは、もっと崇高な「くりかえし」であるものの、
わたしは、きょうは、ひどく個別的な永劫回帰を
実地で体感したのであった。


やれやれ。


ひとつの短歌から その42016/12/26

・同意書に始まるのか死 横たわる人に事実が沁みこんでいく

 

 風野端人

 

「デッドエンドの先を見つめて」から。

連作の中から、リアリティのもっともある歌のひとつを選んだ。

手術をする、あるいは、延命装置を装着する、

同意書にサインをせねばならぬとき、

同意書にみずからの名を書く、というひとつの緊張は、

受け入れねばならない事実を、前景化した瞬間である。

本来は、その書く、という身体運用に作者の神経は

集中するはずだろうが、そこをあえて書いていない。

むしろ、「横たわる人」を前未来形でみたときに

おとずれるだろう「死」を予感しながら、

もっとも書くべきところを省略して、

その 、ニンゲンの運命というものを

冷静に表現することに成功しているだろう。

もっとも、言わねばならない、みずからの身体運用は、

読者の想像の領野にゆだねられ、

それゆえ、この作品にかえって重さを与えることになった。

 

 なになにせねばならない、という文体を「当為」というが、

こういう状況こそ、当為の文体が登場するのである。

 つまり、訪れて欲しくない当為の文体の一場面である。

 

 

「始まるのか死」という箇所が、これが最善か、否か、

たしかに、わかれるところであろうが、下の句によって、

そのへんが相殺されているかもしれない。

「死」「事実」この、受け入れたくもない現実が、

「横たわる人」に確実におとずれる、その場であった。

 

風野短歌は、わたしの御法度としている、

あるいは、注意している箇所に、わりに無防備なところが、

今回は見うけれた。

 

たとえば、色遣い。

色は万人共通の常套語だから、イメージの個別性がうしなわれる

きらいがある。

「青い薔薇」「さらに白くなる」「白く冷たい霧の中」

と、三ヶ所みられる。

 

 しかし、「錠剤を飲むたびさらに白くなる」

この即物的な物言いが、むしろ、死へ向かう予兆を

うまく捉えているかもしれない。

 

あるいは、

三句と結句を両方とも名詞にはしない。

 

・窓際に放置されたマリオネット潰えてしまった人のレプリカ

 

 たぶん、わたしなら、三句か結句を名詞にはしなかったと

おもうが、しかし、連作でみてゆくと、「死」のイメージが

底流しているばかりに、むしろ、この骨格の歌のほうが、

喚起力があるのかもしれない。

 

あるいは、「は」という助詞。係助詞「は」は、

ものごとを限定するうらみがあるので、使い方に注意が必要である。

 

「悔しさは」「人とは」「時は」「生きた標は」

 

と、やや使用頻度が頻繁におもうが、どうだろう。

 

 しかし、御法度はわたしだけのルールだし、かえって、

それが有効に機能している歌も、今回は見受けられたから、

あまり気にしなくてもいいかもしれない。

 

今回の連作は、

作者が病院で、回復することのないかもしれない病人の、

その先を見守るという

なんとも名状しがたい不安と、ある諦念と、心の張りとが

よく現れていたかとおもう。

 

そういう事情をふまえて読むと、

次の一首など、じつに味わいぶかいものである。

 

病院という非日常の空間がよくでているし、

たいしたことないトランプゲームをするしか、

みずからを担保できない心境が、

じゅうぶんに伝わって来るのである。

 

・遠巻きに救急車の音ソリテアを何度やっても詰まってしまう

 

ひとつの短歌から その32016/12/25

・灰色に見えていたのは月の所為ゆらり眠りのゆたかな髪の

 

                            草野浩一

 

 

「の」止めという手法ですね。

このレトリックはあんがい、

うーん、いいなぁ、というものになかなか出会いませんが、

これは、よかった。

 

男女のまぐわいという下世話な言葉で評したら、

作者にしかられるかな。

しかし、わたしには、こういう状況がないもので、

うらやましいかぎりです。

 

まぐわいがNGなら、相聞という部立てにカテゴリーさせるとして、

この男女の間柄が、じつにあやうい。

 

 密室空間における秘め事、そういうことでしょうか。

あるいは、非日常的空間における、特異な関係性のふたり。

そういう危機的な状況をかもしているとおもわれます。

 

いま、流行りは「非人称」ですから、この作中主体が、

草野さん本人とは、おもわなくてもいいので、

「草野」という、生身のにんげんとはちがう「草野」が

演じているとおもいつつ、もうしあげます。

 

いま、ふたりは、あるホテルにいる。

ここはラブホテルではない。なぜなら、月のあかりが

共にしているベッドに差し込んでいるからです。

ラブホテルに窓はないので。

長年寝食をともにした妻なら、まさかこんな歌はあるわけない。

とても、下品な物言いをすれば「不倫」ですね。

いいんです、大人なんだから、責任さえちゃんととれれば。

(いま、ことが発覚すると、女性に300万円くらいの請求がいくそうですね。

ちなみに)

 あるいは、前述した、非日常空間における選択的な男女ふたり。

つまり、この登場人物ふたりにしかありえない特別な空気感、

だれも入り込むことができない時間がこの作品を

下支えしています。

 

 

しかし、このふたりには、危機感が希薄なのです。

なぜなら、この作品に底流する、

ものすごい、ゆったりとした揺蕩う「時」が流れているから。

 

 このしずかにながれゆく「時」のなかに、

はりつめたような空気と、唯美的で背徳的な

デカダンスのおもむきを含有している歌でありました。

 

 「時」をテーマにしたら、これがイチオシだったのに。

 

いま、男は彼女を腕のなかにおさめ、

彼女は、その腕のなかで、しずかな眠りについている。

かれは、その彼女を斜め横からながめている。

黒髪だったはずの彼女の豊かな髪が灰色にみえている。

それは、いつからともなく空に輝いている

月影のせいであった。

部屋の電気は暗くしてあるから、月明かりだけが、

このふたりを包んでいる。

「ゆらり」が、じつは、この歌では急所になるところで、

どこを修飾しているか、よくわからない。

「ゆらり眠り」か「ゆらりゆたか」か。

わからないけれども、わかるような気もして、

そこの曖昧性が、じつは、このふたりの関係の曖昧性を

架橋させているようにもおもうのです。

やはり、この語の存在が、茫茫たる時のほんの一部を

表現するのに効果的だったのかもしれません。

 

この、奇蹟的ともいえる「ゆらり」の使い方は、

 

・君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

 

の「さくさく」と類比的な「ゆらり」なんではないかと、

わたしはおもっています。

 

 

 ハイデガーの言説を借りれば、

作中主体は、いまこのひとときに至福のときを感じている。

そういう気分を情状性といい、

これは、しずかに眠る女性と触れ合う空気がかもす気分であり、

みずからの奥底からわくものというより、

この状況が、そういう気分をつくりあげた、

ということで、被投性という性質をもちます。

気分は、そういう状況に放り込まれたときにおきる、

それを被投性といいます。

そして、ハイデガーはつづけて、この状況を了解し、

解釈し、そして、最後の段階で「陳述・語り」をひとはする

と、そう説きます。

 

 つまり、この作品において、前述した、

秘め事のはずが、「陳述。語り」の念に耐えられず、

31文字という文芸として前景化した、ということでしょう。

 

 禁断の恋、あるいは特殊な間柄のくせに、

なんと甘美なおもむきをかもしていることか。

ふたりの、寝息、吐息がいまにも

読者に届いてきそうで、読者の視覚、触覚に

刺戟をあたえてくれる作品でした。

 

 ただし、この作品の物語に、未来がない。

ターミネーター1のエンディングのように、

ジープで荒野を走り抜け、姿が見えなくなるサラ・コナーのように、

このさきのふたりには、幸福な結末があるとはおもえない。

 

 限られた空間の秘め事は、

刹那的な恋、あるいはある関係として、

作者の心に回収されてゆくのでしょうか。

 

ハイデガーの言説では、気分は「投企」されるといいます。

「投企」とは、この気分をどういうふうに未来に可能にしてゆくか、

ということですが、つまり、この作品には、情状性はあっても、

投企されることがない、というせつなさもあるようです。

 

 しかし、

草野さんにみたいに、モテないわたしでも、

この映像はしっかりとわたしのなかに根付き、

そういう状況を、「ことばの宇宙」と呼んだりしています。

お見事。

 

 

 

二伸

 ただし、「灰色に見えているのは」のほうがいい。

 

ひとつの短歌から その22016/12/21

・それからね、その人すごく優しいの。いつでも髪をなでてくれるの。

(カイエ6号 宮本史一「アボガトサラダ」から)

 

 

 わたしが代表をつとめている
「カイエ」という短歌雑誌からの一首。
宮本史一さんという方の作品。

上手な詠み手である。

どういう現場なのか。作中主体は「聞き役」である。

宮本さんは、この相手の方にとっては、

話しやすいひとなのだろう。

 

 

 わたしも、さいきん、そういったたぐいの話を

それこそ、何人もから耳にする機会があり、

そのたび閉口するのだが、

言いたくなる気持ちも、わからないでもない。

わたしも「言いやすいひとり」なのだろう。

しかし、

きのうどうしたとか、どうされたとか。

かれとは、忘れる存在にしたい、とか、

いまは、ラブラブだとか。

(なんだよ「ラブラブ」って? 日本語か?)

とにかく、いいんだよ、そんなこと話さなくて。

 

 

 そもそも、女性の恋愛はまっしぐらだから、

まわりを見たり想像したりは二の次になるが、

その点、男性はしたたかである。

じぶんのテリトリーは汚さない。

汚すのは、相手の領土内か、

彼女の部屋か、喧騒の都会であり、

そこでだれに見つかっても、

じぶんにはキズがつかないような仕組みになっている。

男の恋愛はトランジットなのである。

その現場では、なにをしてもへっちゃら、ということだ。

そして、そういう事情に、
彼女は気づいていない、
というところが、男女のものがたりというものだ。

 

 

 

さて、宮本短歌であるが、

なにしろ、聞き手という役柄は、たまったものではない。

この歌には、ジェラシーや嫌悪や不快な気持ちは

まったく語られていない。

語られていないから

よけいに、作者の鬱憤がじわじわと

伝わってくるのである。

 

 

わたしなどは、すぐイライラするから、

それがダイレクトに歌になってしまうのだが、

そこは、宮本さん大人だった。

 

 

この歌では、「それからね」がじつにいい。

「その人」という意中の人の「優しさ」が、

「それから」の後にくるわけだから、

それまでに「その人」の説明がうんざりするほどあったのだろう。

聞きたくもないのに。

がまん、がまんだ、宮本。

 

 

 

 

人の美点で「優しさ」というものは、トップ3の範疇だとおもうが、

それが、「それからね」に後述されているから、

うーん、いやだろうな。

いったいなにをどれほど聞いてあげたのだよ。

 

 

 

そして、その「優しさ」の中身は「髪をなでてくれるの」である。

これは、「優しさ」と「髪をなでる」という行為とが、

関連していると読んでいいのだろう。

これも聞いているほうはたまったものではない。

この「優しさ」の中身の稚拙なことといったら。

「優しさ」にも層があって、

それはマズローの5段階欲求みたいに、

生理的欲求から自己実現まで、5段階に分節するのだが、

「優しさ」にも段階があるのだろう。

「髪をなでてくれるの」は「優しさ」でも、

兵隊さんの位では最下位である。

髪をなでるくらいが優しさなら、

わたしでよければ、いつでもしてあげますよ。

そんなものは「優しさ」のカテゴリーには入らない。

そんな、心の浅さと幼稚性と知的負荷のすくない判断、

それに対して、宮本はひとつも反論しない。

だまって聞いているのだ。

おい、なんとか言ってやれ。

こっちがイライラする。

 

 この相手が、若い子なら、ま、看過してもよい、

が、これがそこそこの大人だったら、許せないぜ。

もうしわけないが、あえて言わせてもらえば、

こういう人を、だまして好きにさせるのは、

そうむつかしいことではないのじゃないか。

そして、宮本さんの視線は、目の前の相手ではなく、

名前もわからぬ「その人」にすでに向いているのだろう。

こんな単純なひとをだます、お前は何者だ。

あしながおじさん、名を名のれ。

簡単な手品のしかけで喜ぶような「この人」を

手篭めにしやがって、そんな心の奥底から響いてくる声が、

わたしには聞こえる。

できれば、こういう人たちとは付き合いたくないものだな。

それが幸せというものである。

 

 

ある人のこんな歌もある。

 

・なぜおれに一部始終をはなすのか真冬に咲きだすあじさいの花

ひとつの短歌から2016/12/20

・わたくしに何が出来よう 雨強き路上にデモの青年たふれ

 

 木村さんの作品は、すべてに破調がなく、骨格もしっかりとされている。

「レゾンデートル」、存在理由と題された作品群。

タイトルにふれながら「わたくしに何が出来よう」を読めば、

「何もできない私」という存在理由はゼロなのだろうか。

 

 わたしは、この作品を読んだときに、ひとつの歌をおもいだした。

 

・一粒の麦芽ぐむ朝、いちにんの女子学生の死は泥濘に

 

 太田青丘が、樺美智子を詠んだもの。

東京大学の学生運動家、安保闘争で1960年6月に亡くなった。

彼女の死は、日本全国を震撼させた。警察権力の横暴であるとか、

警察側は、転倒によるものだとか、いまだに決着をみないが、

落合信彦は、KGBによる関与があり、樺美智子を標的にしたものだと

論破した。

毛沢東も「樺美智子は全世界にその名を

知られる日本の民族的英雄になった」

と人民日報に書いている。

 

 彼女の葬儀は学生のあいだで壮大なものとなり、

彼女は、殉教者となった。

この教訓が活かされたのは、12年後、1972年のあさま山荘事件である。

当時の警察庁長官、後藤田正晴は、特命の警視正、佐々淳行に、

「犯人は生け捕りにすべし」と命じている。

樺美智子の二の舞は踏みたくなかったのだ。

 

 ちなみに、あさまに出かけた警視庁のメンバーに

国松広報課長がいた。のちに、警察庁長官となり狙撃されることになる。

 

さて、木村さんの作品だが、「青年」は「たふれ」たのであり、

そこには、死につながるイメージはない。

ただ、この場を逼迫させているのは「雨」である。

雨という道具は、ひとをその場にしばりつける装置として有効だ。

芥川の「羅生門」も雨が降らなければ、あのものがたりは

立ち上がらなかったはずである。

 作者は、路上に倒れている青年を起こすことも、

(もちろん)雨を降り止ますこともできずに、

おそらく、この現場に立ち会っているのであろう。

 

 60年代の日本であるなら、国家権力と立ち向かう

先の見えない若者がいたはずである。

 60年代の学生たちは、たしかに、なにか動かなければならない、

そういう使命感があったかもしれない。

が、しかし、その先になにがあるか、

まったくの不透明で、

どこに着地点があるかも不明であったはずだ。

 

 その証拠として象徴的なのが、東大安田である。

籠城した学生を垣間見た警視、宇田川信一は、

疲弊しきり虚脱した無数の学生がいたという。

 

現在、われわれが、声をそろえて国に訴えても、

その声は、どこかで粛清され、

「けっきょくなんにも変わらないよな」

という諦念が底流する。

 

 デモで、死人がでるという危機感もないだろう。

高度資本主義の漂白された今の世で、

いったいなにができるというのか。

 

レゾンデートル、われわれの存在理由は、

「青年の転倒」からは、

すくい取ることができずにいるのだろう。

ただ、強き雨だけは、いまもかわらず降ることだろう。

「て」の物語2016/12/18

桑田佳祐の「真夏の果実」に

  砂に書いた名前消して
  波はどこに帰るのか

 というくだりがある。

 そもそも、桑田は曲の才能もさることながら、
詞の才覚も豊富で「胸騒ぎの腰つき」
「銀河の星屑になった気がした」
「いつになくやるせない波の音」など、
じっさい舌を巻くフレーズがおびただしくあるのだが、
この詞もじつによい。

 ただ、気になるのは、
「砂に書いた名前消し」た主体はなにか、
やはり「波」なのだろう。

 これを意地悪く考えれば、
「わたしが」「砂に書いた名前」を「わたしが」「消して」
「波はどこに帰るのか」と、
前半の主語をすべて一人称にしても意味がとれなくもない。

 が、それは、やはり牽強付会、こじつけの感が否めない。

 やはり、「わたしが」「砂に書いた名前」を
「波が」「消して」「波はどこに帰るのか」と、
こう読むものだろう。


 と、そこでおもうのだが、
なら「砂に書いた名前消した波」と、
この二行をつなげてみたらどうだろう、と。
文法的には、こちらのほうが齟齬がないようにおもうのだ。つまり、


  砂に書いた名前( を )消した波はどこに帰るのか



 と、こうやったほうが、通りがよいのでは。

じっさい完了の「た」が二度になるといううらみはあるものの、
一行にしてしまったら、と。

 しかし、こうやって詩をじっと眺めてみると、
うーん、どうも原作のほうがはるかによいのだ。


 たかが「て」を「た」に替えただけで、
作品というものは地に真っ逆さまに
堕ちるものだということを再確認したようにさえおもう。


 つまり「て」という助詞、
接続助詞はさすがに「接続」というカンムリをつけるだけあって、

 文と文とを分断する働きをじゅうぶん
所有しているということなのだ。


 「砂に書いた名前消した」「波」と、
どこに帰るかわからない「波」とは、
おんなじ「波」であっても、


 すでに「ものがたり」が違っているということなのである。

「て」という助詞は、それをひとつ使用するだけで、
ひとつの「ものがたり」を紡ぐことになる。


 言い換えれば「て」は、
「ものがたりの起源」をつくる、ということだ。


 もちろん、これは、短歌にもおなじことであって、
助詞の「て」を安直に使ってしまうと、
そこに作者のおもいもよらない無自覚な( 不要な )
「ものがたりの起源」が語られはじめていることになる。



  シャボン玉とんだ
  屋根までとんだ

 この「屋根までとんだ」の主語は
「シャボン玉」だが、「屋根が飛んだ」ともじつは読める。
ま、常識的にありえないのだが。しかし、これを「て」に替えてみる。

 
  シャボン玉とんで、屋根までとんで


 こうなると、「屋根」が主語に見える。

「て」が別のものがたりを醸成させたのだ。

食文化の幸福論2016/12/17

  もっとも美味なるものは不幸である。

  従来、もっとも美味なるもののひとつに、
フグの肝がある。美食家が最後に行き着くところらしい。

 有名なところでは、八代目坂東三津五郎が、
もうひと皿、もうひと皿と、この肝を食して他界した。

 これは、調理師も有罪になったけれども、
八代目としては、本望だったのではないか。
享年68歳であったが、なにしろ、世界でもっとも
おいしいものを食しての「死」なのだから。


 わが国は、古代より、もっとも美味なるものを
追求してやまなかった。


 もっとも美味なるもの、それを「醍醐」といった。
当時は、牛乳をとことん煮詰め、どろどろにしたものを
「醍醐」と言った。その時代は甘味料がなかったから、
さぞや、牛の乳を煮込んだものは、
キャラメルのようでもあり、おいしかったのだろう。

そこから生まれた語が「醍醐味」である。


 しかし、おいしいものというものは、それを
いちどでも経験してしまうと、もう、それ以上がないと
おもえば、それから先の人生は不幸の連続となる。


 みかんは、わたしは長崎の伊木力みかんが
最高のみかんだとおもっているが、
みかんというと、味はまちまちで、
あれ、これ酸っぱいな、といいつつ、
つぎのみかんを剥いている。

 みかんという果物は、これいじょう、甘くて、
おいしいみかんがある、という信憑によって、
その存在があるようにおもうのだ。

 こたつの上に乗っているみかんは、
いま、わたしが食しているみかんよりも、
糖度があり、かおりがあり、

すこぶるうまいものかも しれないという、

未来を予想することも 可能なのである。


 未来を予想することを前未来形という。


 「明日のいまごろ、わたしはきっと泣いている♪」

 などが、その例である。


 みかんには、もっと甘くておいしいのがあるはずだ、
という愉悦を 前未来形で味わいつつ、

つぎのみかんを食べるという、そういう愉しみがある。



 ずいぶん昔であるが、わたしは、四万十川に旅し、
そこで、川漁師から購入した、天然鮎を食したことがあった。

 川原で炭をおこし、さっきまで、最後の清流で泳ぎまわった
珠玉の香魚を食べてしまったのである。


 その一匹一匹は、ほとんど川コケの味であった。
つまり、鮎を食べているのではない、四万十川の
自然そのものをわたしは口中に
このうえもない至福とともに味わったのである。


 だから、それから、どの鮎を食べても、
ひどくがっかりすることになるのだ。


 国語科の同僚と飲み会をしたときに、
国語科主任が、鮎を食べながら、わたしにむかって、
「うまいね~」と、相槌をうながしたのだが、
未熟者であったわたしは、素直に
「はい?」と、主任の同意を突き放してしまったのである。


 これも四万十川の鮎のせいである。


 もっとも美味なるものは不幸である。


 それからというもの、仕事でも、なんだかずいぶん
わたしに仕事量が増えたような気がしたものだ。


 日本酒に、朝日酒造の「得月」がある。

 久保田で有名な会社である。
萬寿とか、千寿とか、ちまたでは言っているかもしれないが、
新潟では、久保田という名前は多く、
朝日酒造の杜氏さんも久保田さんだそうだが、
その久保田さんがつくる酒で、萬寿や千寿などとは
ほど遠いレベルの「得月」を飲む。


 米を29パーセントまでけずり、
それからアルコールをひきだすのは、
アクロバシィなことなのに、うまくアルコールが
醸成されて、すこぶる上質な一品ができあがる、
それが「得月」なのだ。

 720ミリリットルで4500円くらいする。


 これをいちどでも飲んでしまうと、
ほかの日本酒がどれを飲んでも
とてもまずく感じてしまうのだ。

 もっとも美味なるものは不幸である。


世のなかにおいて、ベストワンを決めてしまうと、
そこに不幸の影が忍び寄ってくるのは、すでに自明の
ことになっているのかもしれない。


 もっと、これいじょうにうまいものがある、
そうおもうほうが、
知的負荷がすくなくて、安直な幸福論となろうが、
そう認識しながらの
食事ほど味気ないものはないような気もする。


 ようするに、あのときのあの味がいちばん
美味かったなとおもいつつ、
いま食しているものを口中にほおばる
その不幸をなんども経験することを
われわれは、幸福と呼んでいるのである。


位相語2016/12/16

 「平家物語」などの軍記には、
武者言葉というものがある。

 武士特有の言い回しである。

 「射させたり」

 などが、その典型的な例。

 矢に刺さったのだが、
それを受身でもって「射られけり」なんて言わない。

 受身の「れる・られる」は、そもそも「迷惑」を
表す用法だから、武士たるもの、矢に刺さったとしても、
「迷惑」などではない、「射させてやった」のである。
 負けずぎらいというか、むしろ、
 こういう使役表現で、みずからの矜持を保持したのだ。

 それと類比的に、
米軍言葉というものがあるのではないかとおもっている。


 オスプレイがぐちゃぐちゃになって
沖縄の海に墜落したのだが、かれらは、
そういう「墜落」のことを「不時着」という。

 墜落など、けっしていうわけもない、
かれらの矜持は「不時着」という、
あくまで、カタチはどんなであれ、着陸なのである。

 こういうその関係者のあいだだけで
使われる特有の言語のことを「位相語」とよぶ。


 「不時着」も墜落の位相語とおもえば、
なにも腹が立つわけではない。
いいわけでも、ごまかしでもない。
位相語なのだ。


 言葉というものは、それが発せられると、
言葉は「言魂」であるから、いのちが吹き込まれ、
なにかとくべつな意味をもってしまう。

 ちょっと道にそれるが、ピグマリオン効果などは、
その例だとおもう。


 「よし、必ずできる」と言い続ければ、
あんがいできるものである。

 「合格するんだ、合格するんだ」と、
やはり言い続ける、そうするといい結果がでるものだ。


 これがピグマリオン効果。すでに心理学では
認められている効果である。

 だから、おれはダメなんだァ、とほざいていると、
ほんとうにダメになる。



 オバマ大統領の、一期目の選挙のときの
スローガン。


 Chang.Yes.we can.


 これである。このアジテートが功を奏し、
みごと初の黒人大統領が誕生した。

 しかし、国はなにひとつ変わっておらず、

 Chang.Yes.we can.

 は、一人歩きをし、着地する場もないままであった。
アメリカは、いまだ、Changeもしれなければ、
we can も経験していない。

 アメリカ国民は、このお題目をすでにわすれていたのか、
あるいは、こころのかたすみにこびりついていたのか。


 それが、あのトランプというひとが登場し、
「なんか、とんでもないことを言っているけれど、
このひとなら、アメリカを変えてくれるかもしれない。
おぅ、まさしくChang.Yes.we can.じゃないか!」
と、国民がおもったのではないか。


 Chang.Yes.we can. は、8年の醸成期間をへて、
ようやく、トランプという破天荒なひとのもとに、
花開くのかもしれない。


 つまり、オバマ大統領の、あのセリフが、
クリントンを失脚させ、
ついには政権も民主党から
共和党に移譲させることになってしまったわけだ。

変わらなかったアメリカ。
変えなければならなかったアメリカ。


さて、民主党政権を保持できなかった、
オバマさんは、任期終了後、
どういう位相語で、みずからを語るのだろう。

女性言語はあるのか2016/12/15

 賀茂真淵が、万葉集を「ますらをぶり」と称揚して、
それに対して、古今和歌集を「たをやめぶり」と批判したことは、
周知のこと。

「たをやめぶり」とは、
「内容的には優雅で温雅な、
表現上では技巧的で婉曲な歌風をさす語
(『日本国語大辞典』による)である。


 わたしは、この賀茂真淵の言説を信じて疑わなかったし、
世の多くの学者も歌人も学究の徒も、
そうおもっていたにちがいない。

わたし自身は古今集が、女性的で、か弱くても、
けっして批判的な立場にはいないし、
真淵や正岡子規が、すべて正しいともおもっていない。


 ただ、ここにひとつの書物がある。
ショシャナ・フェルマン著『女が読むとき・女が書くとき』
勁草書房 (1998-12-25出版) 
副題に「自伝的新フェミニズム批評」とある。


 この書は、「私たち自身、男性的な精神を内包していて、
社会に送り出されるときには、
知らず知らずのうちに
『男として読む』ように訓練されてしまって
いるのではあるまいか?」と語る。

また、「男性主人公の見解が、
世界全体を見る基準であると、
私たちは思い込まされてきたのである。
こんな状態で、男性的精神を追い払えと言われても、
一体どこから追い出せというのであろうか?」と、ある。


 つまり、彼女は、男性文法なしには読み書きができないし、
それを追い払う方法論もまだ示されていない、というのである。


 このくだりを見て、わたしは、えっ、とおもったのだ。

はたして、わが国の文法事情はどうなっているんだろう。
あれほど、賀茂真淵にコケにされた古今集が、
男性語法のうえにあったのだろうか。

つまり、女性は擬制的に文字を連ねていたのであろうか。
表面上は女性的であっても、その根底には、
でんと男性が存しているのか。


 けれども、フェルマン女史は
「社会」について語っているので、
「社会」という語は近代の所産だから、
近代以前の瑞穂の国にまで
考量がおよんでいなかったといえば、それまでだが、

では、何歩でもいいから、
ゆずって、この国の文体が女性的であった時代が
あったとそう認めて、
それが、いつ男性文体にシフトしたのであるか。

そのシフトのしかたはいかなるエネルギーをもってなされたのか。


わたしには、とんとわからない。

それは明治維新の近代化なのだろうか。

あるいは、日本文化という独自性は、
男性文体と女性文体とを偶有しているのか。

でも、その女性文体は、やはり擬制的で、
ほんとは男性文体の変化要素にすぎないのでは、
という同語反復においやられるのである。

もし、どなたか、この疑問に一条のひかりを
さしてくださる方かいらしたら、
ぜひ、お知恵を拝借したいものである。

フェルマンはこうも言う。
「私たちは女であるくせに、裏ではいともあっさり、
男として文学を読んでしまう」と。どうだろう?


川端康成の「雪国」での、

「駅長さあん」

という駒子の声に、もうすでに、わたしは女性言語を
感じてしまうのだが。

「雪国」を賀茂真淵に読ませたかったな。

おにぎり物語2016/12/14

 子どものころから、おにぎりは好きではなかった。

日本のソウルフード、
映画「かもめ食堂」でも、メインはおにぎりであった。

 しかし、なぜか、わたしは好きではなかった。
いくら食べても空腹感が残るから、という
ささやかな理由もくわわっていたのかもしれない。

 だから、遠足にいっても母のつくるお弁当に
おにぎりは入っていなかった。

 どうでもいいが、母のつくるお弁当には、
よく、キャベツとハムをくるくる巻いて、
楊枝でおさえたものが入っていて、
これも好きではなかった。

 おまけに、ゆで卵がいつも、
2つべつの袋にあり、
ちいさくたたんだアルミホイルに塩がつけられていたが、
これは、ほとんどのこして帰ってきたとおもう。

 ゆで卵は、口がパサパサに乾き、
おまけに、
なんか、口臭にも関係するようでいやだったのだ。

 だからというのか、わたしは、
ほとんど、おにぎりというものを食べていない。


 とくにコンビニのおにぎりは、
まず口にしない。48時間、大腸菌がつかない、
ということらしいが、そんな「おそろしいもの」が
地球上にあること自体、不可思議である。


 今日は、かかりつけの医者に行った。

 「せんせい、いまノロウィルス、流行ってますね」

 「うん、流行ってるね」

 「わたしどもがノロになってしまうと、商売あがったりで」

 「あ、お宅は、そうだね」

 「手すりとかつり革にもいるらしいですね」

 「うん、そんなのだいじょうぶだよ。
いちばん、危ないのはうちだよ」

 「はい?」

 「ノロのすごい患者さんがいっぱい来ているから、
うちがいちばん、ノロの危険性があるよ」

 わたしは、それを聞いてぞっとした。

 「とにかく、手洗いね。それから食事すれば大丈夫。
危ないのは、貝です。でも、ひとつやふたつなら、
あんがい、簡単に治るもんだよ」

 「はあ、そういうものですか、ところで、
せんせい、体重計お借りでますか、うちにないもんで」

 「うん、いいよ、減量してんの」

 「あ、減量ではなく、炭水化物をやめているんです」

 「それね、ゼロはだめだよ。少しはとらないと」

わたしは、駅向こうの峰さんから、
50歳を過ぎれば、炭水化物はいらない、と言われ、
それを信じ、この3ヶ月、炭水化物は、
蕎麦だけで、あとは、肉やら温野菜やら、
そんなもので食いつないできたのだ。

それだから、ベルトの穴が3つほどずれたわけで、
すこしは体重も減ったかとおもったのである。


 「炭水化物はね」と先生は続けられた。

 「脳の栄養にもなるし、炭水化物を取らないと、
・・・・・」

 じつは、わたしは、このもっとも崇高な結論のところを
聞き逃したのである。

 炭水化物をとらないと身体のなにかが
どうにかなるらしいのだが、
とにかく、結論は、すこしは炭水化物を取らねばならない、
ということだ。


 体重は3キロちかく落ちた。
しかし、まだ、
「♪それでもデブはデブ」
(ここのところは、松山千春の「恋」に乗せて)


 すこしは、体重もおちたし、炭水化物は
とらなければならない、とすぐひとのお説に
揺り動かされる付和雷同は、さっそく店にもどり、
炊きたてのコシヒカリを、ほぐしていれば、
なんとなく、これを食べたい衝動にかられたのである。


 このコシヒカリは、わたしの短歌の先輩が、
丹精込めてつくった最上級のコシヒカリなのだ。

 悪名たかき、JAを通さずに、直送なので、
味は最上級なのに、値段は中級、ありがたいことである。


 が、いままで、峰さんに言われたとおり、
この、ひと粒ひと粒が輝きに満ちた、
大げさに言えば、宝石のようなシロモノを
ほとんど口にしなかったわたしであるが、
きょうは、どうしても、これを、食べたくなったのだ。

 手に塩をぬり、220度で炊き上がった米を乗せ、
梅干をいれ、キュッキュッと二三回にぎる。

 そう、わたしは、おにぎりを作ろうとしているのである。

 まだ、湯気がたちあがる、店のあかりに反射した
微細なひかりの粒は、
みずからの力でわたしのテーブルの上に立っている。

 そのまわりに、上原海苔店の海苔を巻き、
わたしは、これをほおばった。

 なんといい香りだこと。

わたしは、涙のでるような感覚に、
しばらくひたっていたのである。


 やはり、日本人にはおにぎりである。

余計なこと2016/12/10

 世の中には余計なことを言う輩がいる。

まだ、わたしが高校の教師をしていたころの話である。

部活動の練習を終えてから食事に行った。
しばらくぶりにからだを動かしたものだから、
腰もぐりぐり痛いし、肩もあがらなくなっている。

バレーボールは四十を越してからはやるものでないと、
T教諭が言っていたことをおもいだし、
文字どおり骨身にしみてわかったようなきがする。


 食事は友人と行った。こ
のへんについてはふかい詮索はご無用。


 なにしろ部活動の練習着のまま、
つまりジャージ、で車に乗り込み出かけたから、
高級な料亭にはゆけない。目黒通り添いに、
イタリアレストランがあったから、
これも文字どおり、行き当たりばったりで入ってみた。


店内は、平日の夜だからか、
がらんとしていた。


もうすこし自由が丘よりだとちょっと瀟洒な
イタリア料理屋もあるが、
そういう場所は食事だけでも
席料を取ったりする場合もある。


このあいだ行ったレストランなど、
地下にとんとんと降りると、
店内、満員。ピザいちまいとスパゲティ二皿で、
たしか五千円をすこし出ていた。
高い。あとから調べたら、席料でひとり五百円かかるそうだ。

べつにたいしてうまくもないのに、
なんでだ。こういうのをむつかしくいうと不条理という。


 きょうの店はどうも席料はないらしい。

値段も手ごろ。客のすくないのがたまにきずで、
居心地はかえってよくないけれど。
と、明るい女店員が来て、
メニューを置いていった。見ると、
広島産のカキのスパゲティがある。

写真ではあるがすこぶる美味に写されている。

そのふれ込みは、
岩のりとあさりのだしとで和風の風味が加味されているという。
なおさらうまそうじゃないか。

が、良くそのメニューを読んでみると、
ニンニクがはいっているのだ。


じつは、わたしはニンニクが駄目なのである。

けっして食べられないわけではないが、
ニンニクという食材はすべての味をニンニクにしてしまう。
横暴である。
外から帰宅して足も洗わずにこたつに入ってきた
高校生のような自己中心的な乱暴さと
無神経さと強引さをわたしはニンニクに抱いている。
口のなかがあの強いかおりに凌駕されてしまうのが不快なのだ。


「この料理、にんにく抜けますか」


「えー、たしかだいじょうぶだとおもいますが、
でも、これはニンニクがおいしいんですけど」


 と、メニューを運んできたさっきの店員が言った。

「にんにく、だめなんですよ。だからそう言ったんですがね」

 ニンニクがうまいかまずいかは
ひとの勝手だ、あなたの判断など聞いていないのだ、
と言いたかったけれど、ここはぐっと我慢をした。

と、彼女はこう付け加えた。


「カルボナーラの卵を抜く方もいらっしゃいますから、
たぶんだいじょうぶだとおもいます」

「あ、そうですか。それではお願いします」

と、わたしはその他にピザと友人はカルボーナーラロッソを注文した。

 だいたい、カルボナーラに卵を抜く客がいると、
なんでカキのスパゲティにニンニクを抜くことがだいじょうぶなのか、
そのへんの因果関係がすこぶる希薄に見えたし、
だいいち余計なことだろ。

それに、そもそもだいじょうぶとはどういう意味で
どうだいじょうぶなのか、とても疑問であったけれど、
これいじょう話がこじれるのもなんだから、
わたしは紳士的に沈黙を守ったのだ。


と、この女店員はこう言った。

「うちは量が一人前半はいっていますので、
お二人だとけっこうありますけど、よろしいですか」


「え。そんなに入っているの」

「はい」


この情報はありがたかったね。

「じゃ、カルボナーラロッソはいいや」


 友人もそれに同意して、
われわれはカキのスパゲティだけに注文をしぼった。


 しばらくするとさっきの店員が
ワイングラスに細長い竹ひごのようなものを運んできた。


「スパゲティの揚げたものです。どうぞ」
 サービスらしい。

「あのぉ」

「なに?」

 わたしは訊いた。

「あのぉ、さっきから気になって、
言おうかどうしようか迷ったんですけど」

 と、その娘は言った。

「なに?」

 わたしは気になって店員を見上げた。


と、その娘はすこし背をかがめてわたしにこう言った。

「お客様、耳から血がでてるんですけど、どうかしましたか」


 そういえば、さっき車の中で
電動ひげそりでじょりじょりやっていたら、
耳元でがりっと肉をはさんだのである。
どうもそこから血が出ているらしい。
だが、傷は浅いし、耳の中からとろとろ脳挫傷みたいな
出血をしているわけでもない。もっといえば、
余計なお世話だ。で、わたしは、


「あ、いいの、これ、さっき傷つけたんで」

「あ、それならいいんですが」

 いいなら、ほうっておいてくれよ、
とわたしはこころの中でつぶやいた。レストランに出かけて、
耳から血が出てます、
なんて店員に指摘されたことなどわたしには未曾有の経験であった。


 しばらくして、ピザが来た。

トッピングにはアンチョビ。あれはうまい。

アンチョビは食材というより香辛料に近いね。
西洋のお新香みたいなものだ。


お次にカキのスパゲティ。アルデンテに仕上がっていて、
カキにもきょくたんに火が通っているわけではなく、
じつに美味であった。

これなら、ニンニクはまったく使わなくて平気である。
ベースになっているあさりのソースも軽く、
かおりもよろしくわたしは全部飲み干してしまったくらいである。


わたしたちがすっかり舌鼓をうっていると、
違う店員が、おまちどおさま、と言いながら、
もう一品届けてきた。見ると、
トマトソースベースのスパゲティ。真ん中に卵黄が乗っている。


カルボナーラロッソである。


えっ。わたしはおもわずその店員の顔を見上げてしまった。


「あのー、頼んでないんですけど」


「あ、そうですか」わりに冷静な声で彼女は言った。

「もう、召し上がれませんか」


「いやー、もう腹いっぱいですよ」


「もしよろしければお召し上がりになってください」


 と、言うことはこれはロハ、只ということらしい。

どんなに満腹でも、只、無料、サービスと聞くと、
高度文明時代の欠食児童は
触手がうごいてしまうのだ。悲しい性である。


「あ、そうですか、それでは」と言いながらわたしたちは
きれいさっぱりこのロッソを平らげてしまったのである。


意地汚いったらありゃしない。

舌鼓、腹鼓、赤ずきんを食べたあとのオオカミのようになっていたわたしに、
さっきの女店員がやってきた。


「さきほどはたいへん失礼しました。
わたし伺っていたはずでしたが、どうも勘違いしまして」


「いやー、いいんですよ。
むしろすっかりおなか一杯になってしまいました」

 と、わたしはあいさつした。

「ほんとですね。汗かいていますよ」


「・・・」


 うるせーな。おれが汗かこうが、
恥かこうが勝手だろ。

これは腹一杯で発汗してるんじゃないんだよ、
特別辛いタバスコの類似品をだぶだぶピザに振りかけて
食べたから汗かいてんだ。

まったく余計なこと言いやがって 。

レストランに出かけて、
汗かいてますよ、なんて店員に指摘されたことなど
わたしには前代未聞の経験であった。


 ま、なんであれ、すっかり満足なわたしどもはレジに向かった。


「ほんとに失礼しました」

 さっきの店員だ。


「いや、かえってすみませんね」


「三千二百二十円になります」


 やはり、カルボナーラロッソの値段は入っていない。

わたしは料金を支払い、
「ありがとうございました」とあいさつする彼女に
そっと千円を渡した。心遣いへのチップである。

と、とっさに彼女は、


「いえ。うちはそういうことしていませんから」と言って、
急いでわたしにその金を返そうとした。


「いいよ。とっておいてよ」と言ったら、

「困ります。困ります」と言ってわざわざ
わたしのところまで小走りで返してきたから、
そこまで言うならしかたない、
わたしは千円をまた自分の財布に納めたのである。


「悪いね」とわたしが言うと、
彼女は

「とんでもありません。ところで体育の先生ですか」


 と、訊いてきた。たしかにジャージだったけれど、
わたしは苦笑して、

「ちがうよ」と答えた。


「なんで、そうおもったの」と訊くと、彼女はこう答えた。


「だって、耳から血、出しているし」

ロレックスにルイビトン2016/12/10

 ロレックスにルイビトンの女性が
もっともナンパされやすいとむかしからよく聞くことだ。

 ロレックスの時計がわるい、
ともうしあげているのではない。

 おなじく、ルイビトンのバッグがよくない、
そうもうしあげているのでもない。


 そうではなくて、本物志向なのか、
ブランド志向なのか、というところをもうしあげたいのだ。


 ただし、
ブランド志向という生き方を否定するものでも
ないけれども、
「ロレックスさえ持っていればステータスが
完成される」とおもうひとが、必ずいるはずである。


 それは、「物の価値」ではなく、
その商品に付着していてる「社会的な価値」である。


 つまり、じぶんの思想なり、考えなり、
そういうオリジナティや創造性のほとんど欠乏しているひとは、
とりあえず、ロレックスさえあれば、なのだ、とわたしはおもう。

 ブランド志向は、農耕民族性に関わるものである。

 日本人は、農耕民族のDNAをじゅうぶん引き継いでいる。


 その証に「みんなといっしょ」という発想が、
いまだに尾を引いているからである。


 「なんで、わたしだけなんですか、
みんなやってるじゃないですか」


 これが農耕民族特有の発話である。


 エスニックジョークでもわかる。

 ここから飛び降りればヒーローになれるよ、
はアメリカ人。

 これは義務です。

 これはドイツ人。

 みんな飛び込んでいるよ。

 これが日本人。

 むかし、中国が国民服を強制されていたころ、
町の女性は、マフラーで、みずからの差異性を表現した。

 マフラーしか、自由はなかったのだ。


 日本は、幻想かもしれないけれども、
高度な民主主義国家であり、服装も自由である。


 が、この農耕民族性がいたずらをし、
流行りの服を、なるべくはやく着することが
もっともステータスであるとおもいこむ傾向にある。


 上位にある集団や個人の独自性を模倣し、
一方で下位の集団や個人とのちがいを
強調、差異化のようにみせて、じつは、
同化のベクトルでしかない、
こういう機構にのって動いている社会装置を
「モード現象」というが、
まさに、この流行りものがそれなのである。


 みんなより上、とおもっていて、
まわりをみたら、みんないっしょ、というやつだ。

 そして、それがロレックスとルイビトンなのである。


 時計だって、ちょっと調べれば、ほんものはいくらもある。

パティックフィリップ、ヴシェロンコンスタンチン、ブレゲ、
ユリスナルダン、ボームメルシー、ジラールペルゴ、

 枚挙にいとまない。

 バッグだって、テストーニ、モラピト、細谷商店、などなど。


 じぶんの生き方をじぶんでしっかりもっていれば、
おそらくは、ロレックスにルイビトンにはならないだろう。

 
 じぶんの生き方の根本に「模倣」があれば、
それが、そういう飾り物に象徴されるわけである。


 欲望は模倣である。

 だれかが持っているので、じぶんも持ちたい。

「ね、自転車買って」

「なんで」

「だって、となりのミヨちゃんももっているもの」

これが欲望である。だれかが持っているから、持ちたい。
あるいは「みんな持っているから」である。


 ようするに欲望は、それが達成されるや、
またあらたな欲望がうまれ、欲望は無限に再生される。

しかし、みずからのこころの奥底から
生まれ出る、創造性のあるおもいは「快楽」といって、
これは独自性がつよい。


 だれもしたことのないものに挑んでいるひとは、
そこに快楽を求めるからだ。


 「みんなといっしょ」という発想は、
ひょっとすると、じぶんの考えもろくろくなくても
生きられるものだ。

 じぶんの意思を放棄したところに、
全体主義がうまれる。


 ひとりのある人物に従っていれば生きられる。

これは、ひどく楽な人生である。

 戦時下のドイツやイタリアがそうなったではないか。

 ファシズムという考量は、国民の脳の思考停止に
もっとも有効である。


 しかし、そのあとに待っていた世の中の悲惨さを
われわれはじゅうにぶんに経験している。


 農耕民族性は、個人レベルでの「全体主義性」を
含有している。


 そういう考えなしの方は、けっきょく、
個別性のつよい、オリジナリティのある人物に
惹かれるものなのである。

 ロレックスにルイビトンは、
わたしは、だれにでもついてゆけますのよ、

あなたのいいなりになりますわよ、
という旗をふりながら街を歩いているのである。


 ただし、ナンパされやすいひとを
わたしはわるいともうしあげてるわけではない

俳句あれこれ2016/12/8

 俳句は世界でもっとも短い国語である。

 俳句の先生に、古沢太穂という方がいたが、
神奈川新聞の選者をされていた。
 かれがいうのには、あんまりうまい俳句は、採らないそうだ。
ひょっとすると盗作の可能性があるかららしい。
もし、盗作を新聞の投稿欄に載せたら、
みずからの俳句生命の終焉である。



・荒海や佐渡に横たふ天の川  ばせう

 なんていう宇宙規模のスケールを
芭蕉(ばせう)さん、よくぞ17文字で描いたものだ・


 が、しかし、
OECDが進めている学力到達度調査、
いわゆるPISAで、世界でも日本の読解力の低下は、
報告されているが、こんなみじかい国語では、
語られていない領域がすこぶるあるだろうに、
どんどんリテラシーが落ち込んでは、
俳句の理解もうすっぺらになるにきまっている。

気の毒なことだ、俳句にとって。


 俳句には、字数制限いがいに
おおきくふたつのルールをもっている。


 それは、季語と切れ字である。

 季語は、万人共通語であり、
これを17文字のなかにいれなさい、とある。

 だから、俳人はたった17文字のなかに、
だれもがつかう、使い古され、
色あせた語を入れ込まなくてはならない。

 ま、無季なんていうのもあるが、
それはそれとして。

 なぜ、季語があるかといえば、
イメージが勝手に膨らまないようにとの配慮である。


 これだけみじかい詩だと、
じぶんよがりの、勝手すぎるものになってしまう、
それを防止する働きがあったのだろう。


 それから、切れ字。

「や・かな・けり・なり」がそれ。


・柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規

この「なり」が切れ字。

参考書では、ここに感動の中心がある、とおしえる。

ほとんかな。


芭蕉の作品にこういうのがある。


・山寺や磐にしみつく蟬の聲  ばせう


立石寺という東北の寺を訪れたときの詠である。
この「や」が切れ字。


しかし、芭蕉先生は推敲する。


・山寺や磐にしみこむ蟬の聲  ばせう


「しみつく」よりも「しみこむ」のほうが、
岩の中にはいりこんでいるように感じる。


が、これでも満足ゆかず、最終形はこうなった。

おなじみの、


・閑さや磐にしみいる蟬の聲  ばせう


「しづかさや」と読む。

「しみいる」のほうが、じわじわって入ってくるようで、
おもむきぶかい。また、「山寺や」を「閑さや」にしたことで、
「静」と「動」との対立がうまく効いて
作品の深みがでるというものだ。


 ひとは、なにか音があったほうが、
静かさに気づくものである。

 山奥のホテルで、鹿威しの音が、コーンとひとつでもしたほうが、
この宿のなんと静かなこと、と認識するだろう。


 だから、「閑さや」と、その語にたどり着いたのは、
ほんと、お見事、舌を巻かざるをえない芸当だった。

 と、ここでひとつの疑問がわく。
いまの参考書では、切れ字は、感動の中心である、
そう教えると前述した。

 が、この「蟬の聲」の句では、
感動の中心が「山寺」から「閑さ」に変わったのだろうか。

 一句のなかで感動の中心がスライドすることなど
あるのだろうか。


 ・菜の花や月は東に日は西に  蕪村


 この「や」などの切れ字のはたらきは、
感動の中心とかんがえるのではなく、
切れ字をはさんだ前後、「菜の花」と「月は東に・・・」との
あいだに、論理的つながりをもっていない、というふうに
見たほうが理にかなっていよう。

 「荒海」と「佐渡に横たふ」とにも、
「閑さ」と「磐」とにも、論理的なつながりがない。


 つまり、切れ字というのは、
切れ字をはさんだ語句内容を
論理的な結合なしで、むすぶことのできる、
特効薬なのである。


 これによって、ふたつのイメージがあいまって、
俳句独特の世界をつくることになる。

俳句という言葉は、正岡子規の造語であるから、
江戸までは、句とか俳諧、風雅とかよんでいたが。


 ようするに、切れ字は、喚起力の拡大に
有効に発揮したのである。


  俳句、あるいは句のおもしろみは、ここにある。
季語でもってイメージを押しとどめ、切れ字でイメージを
拡がらせ、そういう正負のエネルギーを、
17文字のなかに打ち込めていったのである。


・もらひ来る 茶わんの中の金魚かな  内藤鳴雪

「かな」が切れ字。これは句末に配置されている。
このときは、いじょうの説明が妥当しない。


 感動の中心にしとこかな。

このへんの事情を泉下の古沢先生なら
なんとおっしゃるのだろう。

弁当の中身2016/12/6

 弁当のおかずの中身といものは、

あんまり問題にならない。

 

母親がこさえた弁当、これが大事なことなのだ。

どんなあらくれ高校生にも、

弁当をあけるときの楽しみ、

中に何が入ってるのかな、という期待と同時に

母親が詰めてくれている姿が脳裏をかすめる、

つまり感謝がある。

 

べつに、言葉にだして、お母さんありがとう、

と言う必要はないし、

むしろ、言葉には出さない、

それが日本的なスキンシップなのだろう。

親子の愛情はそんな間接的なものでじゅうぶん、

弁当の蓋をあけるだけでも充足できるのだ。

 

その点、欧米はそうはゆかない。

言葉でちゃんと表現しないと、

たとえ親子でも通じ合わないのだ。

だから、いちいち、アイ・ラブ・ユーとか

しょっちゅう親子で言い合ったり、

抱き合ったり。日本的に言えば、

とても不完全な親子関係である。

 

 

 中身はどうでもよいと言ったけれど、

横浜崎陽軒のシウマイ弁当、

あのおかずはなかなかバランス良く、

間然するところがない。

シウマイと卵焼き、からあげ、さ

かなの切り身、かまぼこ、あんず、

よくできている。

 

しかしながら、内容の見取り図を熟知しているだけに、

だれしも開ける楽しみがまったくないことと

蓮の煮物を卵焼きに変更してしまったことがたまにきず。

 

 

 高崎のだるま弁当、あれはいけない。

いちどでいやになる。

もうなにがはいっているのかすっかり忘れてしまったが、

二度と食うまいとおもったことだけはおぼえている。

そうおもっていた帰りの高崎本線、

東京にむかってひとりで乗っていたとき、

がやがや大学生のボランティア風の男女が

数名乗ってきて、わたしのとなりのシートには

あぶれた青年ひとりが座った。

 

横二列の二人がけのシートのわたしが左側にひとり、

彼が右シートにひとりで乗っているという構図だ。

しばらくして、弁当売りが前方から来た、

「だるま弁当―、まいたけ弁当―」

お、まいたけ弁当があるではないか。

このまいたけ弁当は、中身がよいのだ。

まいたけの天ぷら、煮物、焼き物、酢の物とまいたけづくしで、

かつ、ご飯もまいたけご飯である。

値段も、だるまとおなじくらいだったとおもう。

わたしはそわそわした。

このボランティア軍団が、

どんどんまいたけ弁当を注文しているからだ。

なくなっちゃうじゃないか。

いよいよ、わたしたちのシートに近づいたとき、

こともあろうに隣の青二才野郎がわたしとまったく同時に

「まいたけ弁当!」

異口同音、言うではないか。

 

わたしの声の方が音程は低かったからハ

モっているようだったが、

弁当屋のおじさんが、すまなそうに言った。

「すみません、まいたけ弁当ひとつしかないんですぅ」

この「ひとつしかないんですぅ」に

いちはやく反応したのはわたしのほうだった。

わたしは、すかさず、

その坊主をわたしのもつ精一杯のエネルギーで、

波動砲の発射よろしくきぃっと睨みつけてやった。

と、

「あ、ぼく、だるま弁当でいいです」

この純朴な青年はじぶんの注文をすぐに訂正した。

「あ、いいんですか、すみません」

わたしは、いままでひんむいていた白目の顔から、

怒らない前の大魔人のような柔和な顔にもどしながら、

満面の笑みであいさつした。となりの好青年は、

「いいえ、いいえ」

と微笑しながら、だるま弁当の蓋をあけている。

勝った、わたしはおもった。イスカンダルは守られたのだ。

弱肉強食、悪いな青年、ま

ずいだるま弁当で、なんて心の中で同情しながら、

まいたけ弁当をつまんでいたところ、

また、べつの弁当屋がやってきた。こ

んどは弁当屋の頭くらいの高さまで弁当が積んである。

その弁当屋はわたしたちの横を過ぎていった。

「まいたけ弁当―、まいたけ弁当―」

 

 

クラッシュ2016/12/4

005年の映画「クラッシュ」。監督はポール・ハギス。

クリスマスを間近に控えたロサンゼルス。
1つの交通事故を起点に、多民族国家であるアメリカで暮らす様々な人々を
取り巻く偏見・レイシズムを下敷きに、オムニバス的ではあるのだが、
そのひとつひとつが微妙に絡み合っている、つまり「クラッシュ」しているという
なかなか手の込んだ映画である。

その作り方によるものか、あるいは、テーマ性の事情のせいか、
本命と称されていた『ブロークバック・マウンテン』を押さえ、
第78回アカデミー賞作品賞を受賞した。

ロサンゼルスからはほど遠い日本ではあるが、「クラッシュ」のような
繋がりがあるのだろうか。おそらく、仏教圏の本国では、それを「クラッシュ」とは
言わずに「お導き」というのじゃないか。あるいは「因果応報」とか言っている。


今朝、一ダース買ってある、炭酸飲料を仕事場に持っていくとき、
キャップを軽くしめていたおかげで、カバンにこぼしてしまった。

まいったな、細野商店の帆布である。汚したくない。が、甘ったるい液体がその布にしみこんでゆくので、しかたなく、わたしは、新品のタオルで拭き拭き車に乗った。

車にタオルなんてめったに持っていったことなんてない。そういう意味では、非日常的なことなのだ。


きょう、学校は昼で終わりだったから、昼休みに学校を後にした。

そのときだ、体育館に駆け込んでゆく女生徒。

「ジージ、帰っちゃだめ。バレーボールやるよ」

ご存じかどうかは知らぬが、わたしは、学校では「ジージ」と言われている。
つまり、すでに「終わった人間」ということである。

「はやく、はやく」

琴音と舞子がわたしを呼ぶので、わたしもバレーボールは嫌いじゃないから、
靴下になり、ワイシャツのままわたしたちは6人でトス・パスをした。

新築の体育館は、床がピカピカで気持ちよかった。

おかげで、わたしは汗だくである。

体育館を後にしたとき、もうワイシャツはすこし重くなっている気がした。

車にもどって汗の引くのを待った。

ん。あ。タオルがある。

おう、これは好都合じゃないか。

わたしは、頭から首筋、顔と後部座席に置いてあったタオルで
しっかりとぬぐう。

そーか、きょう、炭酸をこぼしてタオルを車に入れたのは、
このためだったのか。

すべては、お導き、クラッシュして世の中はうごいているのであった。


タンポポが生えていた2016/12/1

毎日鼻血がでる。

だいたい夕方なのだが、それが、ほとんど毎日なのだ。


理由はわからない。

花粉症なのか、
それともかんがえたくないが、
福島からのあのおそろしい物質のせいか。

だいたい7、8分は止まらないので、
止まるまではじっとしていなくてはならない。
けっこう続くから、
それなりの量が見込めるのであるが。


ところが、きょうは日課の
5キロのジョギング中にそれが訪れた。

なんとなく鼻が濡れているな、とおもったら、
すでに生ぬるく錆び臭いものが垂れてきた。

まずい。

そりゃまずいよ、ジョギング中の所持品は、
携帯と財布だけだ。

タオルもなければ、ちり紙などあるはずもない。

わたしは、走りながら、
人差し指を鼻の穴につっこんだ。

だが、これはうまくゆかない。
すぐに手が赤く染まってしまう。

まるでホラー映画だ。

両方の手が血だらけ、
でも、拭くものがない。
鼻血は依然としてたらたら生産されている。

おそらく顔も返り血を浴びているだろう。
なにしろ鏡もない。

それでもわたしは走っていた。

と、舗道のすみっこに
タンポポが生えているのが目に入った。

さすがに春である。
野生のタンポポはすくすくと黄色の花をつけている。

やむをえず、わたしはそのタンポポをちぎり、
まるめて鼻に詰めた。

溺れるものは藁をもつかむ。
いや、溺れるものはタンポポも詰める。

もう、なりふりはかまっていられない。

すれちがった初老のおじさんが
「だいじょうぶですか」
って声をかけてくれたのも、
よほどわたしの姿が凄惨・壮絶だったせいだろう。


血だらけで走りつづけるタンポポ男。


ばかだね。


700メートル先に公園があり、
わたしはようやくトイレットペーパーをゲット。
それをくるくる丸めて
それからは早歩きに変えて帰宅する。


だから、最後の2キロくらいは
わたしは鼻に紙を詰めながらの
ウォーキングだった。

でも、だれもわたしが気にならないとみえて、
みんなネグレクトして通りすぎた。

家に帰るや、
三階から妻と娘が降りてくるときだった。

具合がわるいときは
タイミングまでパッドタイミングだ。

ジャージ姿で鼻に詰め物をした夫や父は
とうぜん、好意的には見てもらえず、
なんか二、三の捨て台詞を言われ、
そしてわたしは部屋に戻った。


でも、タンポポを詰めたところだけは
家族に見られずに済んだのがゆいいつの救いだった。

(2011.4.6)

失くしもの2016/11/27

ものをよくなくす。

 携帯のない日もある。財布がない。
免許証がない。車のキーがない。

 (免許証がなくて、「保土ヶ谷をめぐる冒険」という
つまらない日記を書いたおぼえもある)


 いちどは、ポーチがなくなって、
探せど探せど、ない。

 ついには妻にも当たり散らし、
けっきょく横浜のラーメン屋さんに
置いてきたことが判明。

 しかし、そのときには、
カードはすべてキャンセルし、
ただのブラスチックの板と化してしまった。

 知り合いのラーメン屋さんだったのだが、
「カバン忘れていますよ」という電話が、
翌日の夕方にくれるものだから、
それまで、あたふたと、数件のカード会社に、
カードを止めてもらったりと、必死の形相だったとおもう。

 しかし、なんで夕方にくれたのか、
もっとはやく教えてくれたら、
なにもここまであわてふためかなくてもよかったのに、
と、そのラーメン屋さんを、ちらりと
恨んでもみたが、なにしろ自己責任、
わるいのは、みなわたしである。

 郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも
みんなわたしが悪いのよ、ってことである。


 白いネクタイもないことがあった。
友人の結婚式当日である。

妻に「どこにあるか知らない?」
と、訊いても、
「知らないわよ、わたしが管理してるわけじゃないし」と、
「管理」という、堅苦しい漢語で答えるものだから、
余計腹が立ち、「いいよ、行きがけにデパートで買うから」
なんて、捨て台詞にもならないようなことをいい、
玄関の姿見でとりあえず見繕いをし、
礼服のポケットのハンカチを取り出そうとしたら、
そのハンカチが、すこぶる長いのだ。

 それは、白い帯状のもので、
その帯状のものが
するするっと出てきたのである。

 あ、あった。

なんのことはない、
ポケットに祝儀のネクタイは収納されていたのだ。

 「ほら、見なさい、ちゃんとあったじゃない」

 けっきょく、わるいのはわたし、ということで
ケリがついた。

 こういうのを、専門用語で「バツが悪い」という。

 しかし、加齢するごとに、
忘れ物がひどくなってきた。


 このあいだ、カルディという雑多な店で、
スパゲティを購入し、いざ、お会計というところで、
背中に背負っていたデイバッグに財布がない。


 この財布は、店の売上のほとんどが
入っているもので、これをなくすと、
わたしは首をくくるか、銀行強盗をするしかなくなる。

 
 「ちょっとまってください」
と、言いながら、バッグに入っているものを
すべて出し、探すが、ない。

 カルディに行く前に、ヒルマというスーパーで
野菜を買ったのだが、まさか、財布を落とす、
なんてことは、わたしにはあるはずがない。

 しかし、財布がない。

カルディの店員さんには、ちょっと謝罪して、
わたしは、まさかとおもうが、ヒルマに舞い戻ったのである。


ヒルマというスーパーはひとでごった返している。

それでも、レジのそばで働いている老人に、
財布の話をすると、若い店員さんが、
「○○さーん」とか呼んでくれて、
その○○さんが奥から、わたしの財布をもって
出てきてくれたのである。


 「外人さんなら、出てきませんよ」
と、釘をさされたのだが、わたしは最敬礼をして、
その財布をもらいまたカルディに戻ったのである。


しかし、なにゆえ、スーパーで財布を落とさねばならないのか。


じぶんでじぶんがもっともわからないのである。


じつは、もっとわからないことがある。


それは、ものがなくなって、出てこないとき、
かならず、ある声がするのである。

「見つからないかもよ」
「たぶん、むりだな」
「見つからなかったら、おもしろいよな」

これは、わたしのなかに潜む、悪の声である。

この悪の声は、わたしの加齢に対するボケ具合を試す、
指標だといってよい。

 じぶんの痴呆の査定をみずからしているというわけだ。


ほんとうに見つからなければ、
「おまえはおしまいだよ」ということである。

はたして、ものがなくなったとき、
こういう声を聞いているひとが、世の中どれほどいるのだろうか。

社会学者に統計をとってもらいたいものである。


 いままで、こういう声をなんども
聴きながら、おおよそ8割がたは、そのものが、
またみずからのもとへ戻ってきているので、
痴呆もまだ軽傷ということなのかもしれない。


 しかし、このあいだ購入した、
来年のカレンダーと手帳がどこにあるか、
まだ探せられないのである。


 

噂、あれこれ2016/11/27

「噂」とはどのようなものなのだろう。

そもそも、「噂」という語はいつごろから
あったのか。

調べれば、鎌倉時代の古辞書(『節用集』)に
「うはさ」は収録されているから、
平安のおわりころにはあった言葉である。

ただ、それより前の古辞書にはなかった。
発生はわからないけれど、
『大言海』という辞書によれば「浮沙汰」が語源だという。


『大言海』は、初出資料が載る、
ひどくめずらしい辞書なので、
こういうときに便利である。

で、『大言海』によると、「噂」という文字が、
作品になるにはかなり時代がくだる。




「あやなや昨日今日までも、
よそに云ひしが、
明日よりは我れも噂の数にのり、
世に歌はれん。
歌はば歌へ」

近松門左衛門、『曽根崎心中』のくだりである。
これが初出らしい。



つまり、「噂」という語が、はっきり世にでるのに、
江戸時代、元禄文化まで待たねばならなかったということである。


そもそも、平安時代初期の『大和物語』
という歌物語なんかは、女房のあいだの噂話を
集めた本だし、『今昔物語集』などをはじめとする説話文学は、
噂そのものである。

噂話の、急所は、その内容の真偽はどうでもよい。
人々の関心をひく、スキャンダラスな内容であり、
ひょっとすると、ほんとうかもしれない、
ギリギリで、かつ、秘め事でなくてはなならない。

世の中に知悉されている事情なら、
噂にはならないわけだ。


噂の構造は、とうぜん移動である。

近世にはなかった概念の「情報」とおんなじ構造だ。

「情報」も「噂」も生産性はない。

「情報」と「噂」との相違は、その速度にある。
「情報」は早ければ早いほど得をする。
「情報」には、速度と利害とが付随するが、
「噂」は、じつにゆっくりと、酸が侵食するように
じわじわと、ひとの心に染み込んでくる。
おまけに、そこに利害はうまれない。

じっさい、芸能レポーターは、この「噂」を
飯のタネにしているから、利害がないとも言えないが。

「情報」と「噂」の、共通項は「蕩尽」にある。

「情報」も「噂」も、それをしまいこんでは意味がない。

使い切るからこそ、意味をもつ。

「情報」は、それをみずからのベネフィットに基づいて、
使い切ることが、もっとも功利的であるが、
「噂」は、「こんなおもしろい話、だれかに伝えなくては」
という、「黙っていられない」心のそわそわした感情が、
「噂」というカタチになって、人づてされる。

「情報」という、どちらかといえばデジタル的に対し、
「噂」はアナログである。

ただ、このアナログは、
池にうかぶ水草のように、
一日でふたつに別れる水草は、
二日で四つ、四つが八つにと、
じわじわであるが、確実にひろがり、
ゆっくりではあるが、いずれ池一面を覆い尽くすことになる。

そして、その広がりはだれにも止めることができない。

だれかとだれかが付き合っているとか、
イラクで邦人が撃たれたが、その裏には
こんな話があったとか、
初代若乃花と貴乃花は、兄弟でなく親子だった、とか、
沖縄のアメリカ軍基地には原子爆弾がある、とか、
あいつは、大麻をやっているとか、
9.11テロには、CIAも加わっている、とか。


どうであれ、話の真偽は定かでないものばかりである。
そして、その内容が、ひとに言ってははばかれるものほど、
「蕩尽」しようとする傾向が強いのだ。

話に付着する負のアウラが強いほど、
波動拳よろしく、ひとに伝えようとするのである。


「ね、これだれにも言わないでね」

このまじないのような一言は、「拡散希望」という含意をもって、
これからはじまる秘め事の物語の一部が公開されるのだ。


そして、ひどく困ったことは、
噂話は、無責的に語られるということである。


「情報源」が責任を取らされることは
事実、あるかもしれないが、こと、「噂」にはそれがない。

自由という免罪符を持ちながら、
天下の大道を闊歩するのである。


だから、噂をするほうはいいが、されるほうは
たまったものではない。


佐々木俊尚というひとが『当事者の時代』で、

「いつから当事者でもないくせに、
弱者面して、憑依してでらめをしゃべるようになったのか」
と、語っているが、こういうエネルギーが「噂話」を醸成させる
ひとつの原動力となっているのかもしれない。


そういえば、福島第一原発は、メルトダウンを
通り越して、メルトスルーし、地球の中核まで
沈み込んでいる、なんて話もきくが、
真偽のほどはわからない。



ま、世の中に生きるいじょう、
あんまり噂されたくないものである。

されたら、しかたない、拡散は免れないので、
曽根崎心中ではないが、
「歌はば、歌へ」と放任するしかないのであろう。

イレズミ文化2016/11/26

 山本芳美という文化人類学者が、
イレズミ文化の衰退とともに、
銭湯や公営プールで、「イレズミお断り」とか、
「Tシャツ着用」とか、そういう文言が増えてきたことを
ふまえて「私たちは社会を漂白しすぎた」と指摘している。
(「イレズミと日本人」)

 山本氏は、職人のイレズミに関する
「社会的記憶」が失われていった、と語るが、
たしかに、それもそうだろうが、
ほんらい、イレズミも含めた身体加工というのは、
ひとつのアイデンティティーを表出させる
身体運用である、という説も見逃せない。


 どこぞの国のある種族は、
顔中、身体中に彫り物をしたり、なにかを塗ったり、
それは、みずからの自我構造の確認に
なっているというのだ。

 
 だから、女子のピアス、いま、男のひともしているが、
あれなどは、美を誇示するのではなく、
みずからの存在理由を示す、ひとつの方法とみることもできる。


 ただのおしゃれではないのである。

 イレズミはその最たるもので、
おしゃれでタトゥーをするひともいるが、
背中の、登り龍など、おしゃれを通り越していて、
レゾンデートルの極北と言えるだろう。

 
 だから、身体加工しなくなってきた文化は、
自我の喪失を招いているのではないか、
そう、懸念をいだく評論家もいる。


 「自我の喪失」という術語が
人口にカイシャしてずいぶんと日が経つが、
もし、その現象を受け容れ、かつ、高度文明が、
ニンゲンの本能的なものを奪い取るとしたら、
ひとは、どんどん、ひとから離れてゆくのかもしれない。


 いま、若者で、恋人関係にある数が
激減しているという。

 恋ができないのである。


 これって自我構造と無縁ではないとおもうし、
高度文明が、あまりに個人に快適を与えたので、
異性がいなくても、べつに気にならない
空間をつくりあげているのかもしれない。


 そういう時代において、
たとえば、「セクハラ」。

 塾では、女子高生を、下の名前で呼んではいけない。

 セクハラになるらしい。

 「高田美和」と、フルネームもいけない。
セクハラになるという。


 だから、とうぜん、男子もフルネームはNGである。

 「板垣退助くん」とか「土岐善麿くん」とか
呼ぶことができないのだ。


 女子には「高田さん」、男子には「板垣くん」と
性差をはっきりさせて「さん」「くん」で呼べと
そう指導される。

 セクハラはだめだけれど、性差はしなくてはならない。

わたしは、これは「漂白しすぎのパラドクス」じゃないかと、
つくづくおもうが、それがまかりとおっている。

 痛いおもいをして世に生まれでてきた子どもに、
親は、この子の、ひかり輝くであろう未来を見据え、
もっとも素敵な、もっとも愛らしい、
全世界のひとから
うつくしく呼ばれるために、
その子に名を与えるのである。


 しかし、その名を呼ぶとセクハラになる。

むかしは、もっと鷹揚だったようにおもう。

 「セクハラ、セクハラ」とか言っているから、
出生率が、1.4とかになってんじゃん。


 このままでゆくと、西暦2300年には、
社会学的計算では、日本人は、ひとりかふたりに
なってしまうのだ。


 水清ければ魚棲まず、とはよく言ったもので、
あまりの漂白的感覚は、
すでに、人間の温かみをうばい、
他人との接触をきらい、
個人主義的な、
体温のないニンゲンをつくってしまうのではないか。

そういうひとが、CC化、クレージークレーマーになったり、
モンスターペアレンツになったり、
するのかもしれない。

 この漂白化を従属矛盾ととらえれば、
この根本に、主要矛盾があるはずである。
(これは毛沢東の言説「矛盾論」より)

 いったい、どうしてこんなことになったのか。

この主要矛盾はどこにあるのか。

 おそらく、高度資本主義や高度文明の終焉が、
それにあたるのだろう。

 世の中終わるのかもしれない。

 と、いいながら、とにかく、
わたしは、イレズミは苦手である。


知り合いの昨今2016/11/24

わたしの知り合いで警察の世話になったひとが三人いる。

 ひとりは「寛ちゃん」。ほんとは「ヒロシ」と読むのだが、
みなは「カンチャン」と読んでいた。

 予備校の英語教師である。


 べつに出身大学がどこでもかわまないのだが、
陸の王者とか誇っているところである。

 そこを卒業して、すぐさま予備校講師になった。
正義感のつよい男だった。


 大手予備校をふたつ掛け持ちしていた。

 彼女は、教え子だった。すでに大学生になっていたから、
もんだいはないとおもうが、町田に、彼女との住まいを
建設中であった。

 が、なんと、彼女は、ラーメン博物館に
勤めている男のほうに傾いてしまい、カンチャンをふったのだ。


 「カンチャン」はラーメンフリークで、
ラーメン博物館についても知悉のことで、
その男のこともよく知っていたのだろう、
それだから、陸の王者のプライドもあってか、
その嫉妬といったらただものじゃない。

その男というのは、小太りでエースコックの
キャラクターみたいな感じだったらしいから余計である。


 かれは、町田で包丁を買い、彼女のバイト先の練馬の
コンビニまで出かけていき、
エースコックの恋人になりさがった女を
刺しに行ったのだ。

 かれは、彼女を数箇所刺した。

 が、まわりの客に取り押さえられ、あえなく逮捕。

 彼女も、重症とまではゆかず、難をのがれた。

とうぜん、司直にゆだねられ、裁判では有罪。7年の懲役刑に服した。


 予備校仲間では、それが話題となり、
かれのあだ名は「キラカーン」となった。

 「カンチャン」だから、なかなか洒落たネームだった。

 出所したら、もう予備校の教師はむりだろうから、
ラーメン屋でもやれば、なんてふざけたことをいうひともいた。

 「キラカーンの数カ所ラーメン」

それが店の名前にいい、なんて話もあって、みんなで
笑っていたものだ。


 そういえば、ひどくかわった国語の教師もいて、
ある予備校の講師になったとき、その予備校の理事長の
奥さんというのが、SMの方面に精通していて、
そのかわった講師に「あなたみたいなひとを待っていた」とか
言われ、ムチで叩かれたり、縛られたり、
毎週火曜日は、そのお宅に行っては、
そんなことをされていた。

 なんでそんなことを知っているかといえば、
その変なひととは、水曜日、いつもおんなじ校舎で、
いっしょにトイレにゆき、そこで「きのうはこんなことされました」
と、そのひとから逐一報告があったからである。

 なんでも、翌年から時給が5000円あがったそうだ。
さいしょの時給はしらないが、それは法外な値段である。

 で、そういう噂はすぐ予備校界ではひろがり、
かれは、みなから嫌われた。

 とうぜんだよな。

 で、かれのあだ名は「マゾの宅急便」となった。


 もうひとり、鶴見警察に捕まったのは、
大手予備校の東大コースを受け持っていた男である。

 出身大学を言ってもしかたないが、
「東京」という名のついている屈指の大学と言っておこう。

 そこを出て、すぐさま英語教師となった。

 「なんで、会社に就職しないの?」
とか、わたしが訊いたら、いまはそういう時代ではない、
とか言っていた。


 車は、マツダのRX-7Iに乗っていた。

「もっとブランドのある車に乗れば」
とか、わたしが言うと、「おれがブランドだから」
とか答えていた。

 が、新婚なのに、買い春行為であえなくお縄になり、
ふたつの予備校もパァになったのだ。

 もったいないよね、ブランドなのに。


 で、もうひとりは、ある中学校のPTA会長だった男だ。

 小学校のPTA会長も務めていて、わたしもそのときPTA会長だったので、
そこで知り合った。三味線が得意で、
芸能人のバックで津軽三味線を弾いていた時期もあったという。

 しかし、かれの趣味が放火だった。

 田園調布の消防団員もしていたので、
消防団員の放火というのがニュースとして
はなやかに報道された。

 逮捕されたとき、娘ふたりは、中学校3年生と1年生。

 PTA役員のひととの不倫の終焉で
腹がったって、警察に放火予告をし、張り込んでいた刑事に
あえなく捕まったという、情けない話である。

 取り調べてゆくうちに、
十数年前の放火殺人も余罪にあがり、
裁判の結果、懲役30年となった。

だから、かれは、いまでも服役しているはずである。

 おそらく千葉刑務所ではないかとおもうが、
どこにいるかわからない。


 なにしろ、犯罪は身近なところにある。

 なにがひとを変えるか、それもわからない。


 いま、日本の検挙率は2割を切ったらしい。

それは、先進国ワースト2位である。

 つまり、悪いことをしても100回のうち80回は捕まらないのである。

 しかし、わたしの周りで三人も捕まった。

 口の悪いやつが「こんどはお前だ」なんて言う。

いや、おれは、その8割にはいってやる。

 そんなドジは踏まねぇぜ。

 
 そういえば、カンチャン、釈放されて、また九州のほうで
予備校の講師になったそうだ。が、
前科がバレて、あっというまに解雇されたらしい。


 もうひとりの東大コースの英語教師の「いま」は知らない。
実家の京都にもどっているのだろうか。

 
放火魔は、安心、まだ牢屋である。

日和見主義の結末2016/11/22

 筒井康隆という小説家は、
戦国時代の武将(僧侶でもある)筒井順慶の末裔であり、
筒井順慶の日和見主義が
どうもご先祖様としては、情けないというような
私小説とも歴史小説とも言えぬ「筒井順慶」を書いた。

 記録的に、筒井康隆が、順慶の子孫かどうかは、
定かではないらしいが。

 順慶は、親戚筋の明智光秀の斡旋で、
織田信長に臣従し、本能寺の変のあと、
光秀が羽柴秀吉に攻められるや、
加勢にゆかず、光秀は殺される。(山崎の戦い)

 と、順慶は秀吉柴に拝謁するも、
その遅参を秀吉に叱責され具合を崩したという。

 戦国時代はこのように「威勢の良いもの」に
すぐ尾を振って、その傘下にもぐりこもうとする輩がいたもので、
これをいわゆる「日和見」と言って、
いまでは、その生き様を褒めるひとはそういない。

 関ヶ原の戦いでも、日和見はあったし、
日本の歴史では、これは当たり前の行為だった。


 そもそも、日和見は、為政者や権力者の自我ゆえの発動ではなく、
「世の中の要請」として動いていたので、
みずからの意思ではなく、世の中の意思、意向であるのだから、
じぶん自身、なんのやましいこともない、
とおもっていたにちがいない。


 なぜなら、自我構造が芽生えたのは、
明治以来のことだからである。

 江戸時代に、じぶんらしく生きるということなど
かんがえていたひとはおらず、
すべて、世の中の要請として生きていた。

 武士は、主君を守るため、農民は米をつくるため。
つまりこういう生き方であり、そこに疑念のひとつも浮かばなかったろう。

 内田樹さんは、
暴れん坊将軍のある場面で、
若い旗本が
「わたしは、武士を捨てて、じぶんらしく生きようとおもう」
と言ったとき、松平健はじめ、みなが、「オゥ」とか言って、
拍手喝采するシーンがあって、それが愉快だと語っているが、
じぶんらしく、という発想は江戸時代までなかった。


しかし、今の世の中は、じぶんらしさ、
という考量は、あたりまえのようにある。

むしろ、じぶんらしく生きよう、なんて学校で教えているくらいである。

このあいだ、あたらしく誕生した、
東京都立の受験型商業高校も「じぶんらしく」をモットーとしている。


管見であるが、「じぶんらしく」というかんがえは、
じぶんを矮小化させるきらいがあるのじゃないだろうか。

「じぶんらしく」は、事後的にみずからに跳ね返ってくるものだと
わたしは、おもう。

「あ、あのとき、わたしは味噌ラーメンを食べたが、
ああいうとき、ああいう時間、気候、温度、
そういうシチュエーションだと、わたしは味噌を
選択するのだ」

と、こんなふうにあとから、じぶんらしさは、
じぶんに追従してくるのだろう。

「なにがなんでも味噌ラーメン」
「いつどこでも、わたしは味噌ラーメン」

これだと、あたらしいなにかが発見できないじゃないか。
ダウンサイジングな生き方になってしまうじゃないか。


ところで、
安倍首相がトランプさんと
会談したという話題でもちきりだ。

それも、世界でもっともはやく
トランプに会った一国の首相、
ということで世界でも報道されているという。

安倍さんは、アメリカ合衆国選挙の期間中、
クリントンさんに会いに行っている。

なぜ、クリントンさんにだけあって、
そのときトランプ氏に会わなかったかはわからない。

こんどは、トランプさんには会うが、
敗れたクリントンさんには見向きもしなかった。


これ、日和見だよね。


なにか、お釈迦様のたなごごろのうえで
もがいている孫悟空のような気もするが、
政治のような雲の上のできごとはよくわからないけれど。


仄聞したことだが、トランプさんのほうには、
日本語通訳がつかなったらしい。

つまり、トランプ・安倍・日本からつれてきた通訳、
この三者の会談だったという。

ということは、トランプさんの発言は、
日本の通訳が安倍さんにその真意を伝えるので、
ほんとうのトランプ氏の意がつたわったかどうかわからない。

と、いうより、トランプさんからは、
なにひとつ、要求も思想もなく、なにも語らず、
ただ、極東からきた、ちょっと舌足らずな喋り方をする、
親子代々、総理をしていきた家庭のお坊ちゃんの言うことを
「うんうん」と聞いていたに過ぎないのかもしれない。


「トランプ氏は、信用にたる人物です」
と、お坊っちゃまは語る。


 言葉とは、語ったものと同等の語らないものを含む。
なぜ、日本の首相たるものが「信用にたる人物」と言ったのか。

その裏には、こいつは信用ならないやつだ、
という意味内容が前段にあったからである。

その裏返しの発言が「信用にたる」であったわけだ。


 だから、トランプさんが大統領になったあかつき、
「TPP撤回」といち早く宣言したとしたら、
あの「信用にたる人物」という発言が、
世界でもっとも、みじめで恥ずかしい一言になってしまう。


言葉とはおそろしいものである。


 そういえば、筒井順慶も胃痛で倒れたが、
安倍さん、だいじょうぶなのかな。

カルチャーショックとは2016/11/20

  カルチャーショックということば、
すでに死語なのだろうか。

 いまの若い子たちは、「なんでもある時代」に
生まれたから、高度文明のカルチャーショックはないかもしれない。

 むしろ、彼ら、彼女らは、
未開の地に行ってみたらよろしい。

 西アジアのどこそこの国は、
高速道路のサービスエリアに灯りがないらしい。
サービスエリアといっても、ただトイレが
ぽつんとあるだけ。

 そのトイレだけには明かりが煌々と点っていて
だから、真っ暗なだだっ広い空間に、昼のように明るい
一点があるわけだ。
 それだから、その一点に、
虫という虫、イモリなどの爬虫類、
それらがびっしりと棲息しているそうだ。

 ひとは、そこで用をたさなければならない。

 うちのバイトの裕子じゃ、無理だな。

 知らぬ土地に降り立った時の
そういカルチャーショックはとうぜんだろうが、
たとえば、時間的なラグによるショックもある。

 懲役30年の刑をおえ、シャパに出てきたひとの
本を読んだけれども、
まず、おどろいたのは、駅の改札だそうだ。
それまで、獄中で、日本の「いま」をレクチャーされて
いたそうだけれども、駅の改札までは教わっていなかった。

 駅員が、とくべつのハサミでカ
チャカチャしている光景はどこにもなく、
なにか、人々は、改札のところで、
ペタペタしてる、それがなんだかわからなかったらしい。

 駅員に尋ね、尋ね、ようやく切符を購入し、
その切符で、ペタペタしたのだが、
門扉がしまって入れなかったそうだ。


 30年の時の流れは、しずかに、そしてじゅうぶん
過ぎてゆくのである。


 わたしの小学4年生のときの話である。

 三重子ちゃんちに遊びにいったとき、
トイレを借りた。

 わたしは、幼稚園でも小学校でも、人の家でも、
トイレを借りるのが苦手、というより、できなかった。

 じぶんちの、あの「ボットン」でないと、
うまくできないのである。
緊張するのか、ひとにそうおもわれるのが、
いやなのか、よほどでないかぎり、自宅ですませていた。


 だから、三重子ちゃんちでトイレを借りる、
というのは、よほどの緊急事態だったのだろう。


(ここで喫緊とかつかうと、うるさいひとがいる)


「うちのトイレ変わっているから」と彼女はいう。

「そ」
なにげなくそうあいさつしたけれど、
いざ、トイレを開けた瞬間、フリーズした。

 日常の、

まんなかに穴があいていて、
穴をのぞけば、家族の排便がそっくりみえる、
あの「ボットン便所」ではなく、
西洋のお風呂をすこし小型にした、 白い陶器が

部屋の真ん中に置かれている。

蓋は開いていて、

Uの字型の、これもやはり白いものが、

その陶器のうえに乗っている。



とにかく、わたしには未知の白い巨塔が
そこにそびているようにおもった。

この空間を、この白いものが凌駕しているようにも

子供ながらにおもった。

いまから、おもえば、それは、

それに圧倒されていた、ということにほからないのだが。



床がぴかぴかに光っていた。


「どうすればいいのだ」

三重子ちゃんの「変わっている」は、これだったんだ。


人生ではじめて洋式便所と遭遇した瞬間であった。


しかし、どうしてもここで用をたさねばならない。

そういうとき、ニンゲンは、子どもでさえ、
文化の相違を架橋する理路として、
共通項を探すものである。

幼いわたしがかんがえたことは、
和式の、いわゆる「金隠し」と、洋式の「蓋」と、
そこの形状が似ているのではないか、ということだ。

だから、10歳の少年は、
洋式便所のUの字型のうえに乗り上げて、
あの蓋を両手でもって、事をすませたのである。


ものすごい高い位置でのトイレである。

たぶん、遠目でみれば、
馬の騎手のようになっていたのかもしれない。

ま、それはそれで、無難に事をすませたのであるが、
つぎに困ったことが起きたのである。

紙がとれないのだ。

背中の、ものすごく遠いところに、
ペーパーがある。泣き出したくなったが、
そこまで、カニ歩きのような恰好で紙を取りに行ったのだ。


 文化の違いとはおそろしいもので、
日本のトイレは、進行方向とおなじように、
そこでしゃがめば用足しできるが、
西洋は、進行方向とはぎゃくに、いちどくるりと
回れ右して、用を足すわけである。


 つまり、ベクトルの向きが真逆だということだ。


 わたしが、このアクロバシィなトイレのしかたが、
まちがいだったと気づくのは、
「いなかっぺ大将」という漫画を見たときである。

風大右衛門という主人公が、洋式トイレを使っている。
それも、ばかだよ、ぎゃくに座っているじゃないか。

わたしは、抱腹絶倒、腹をよじらせながら、
母にその絵を見せたのである。

「見てよ、これ。この座り方」

と、母は

「なに? これでいいのよ」

「・・・・」

これは、小学校6年の話であるので、
わたしの座り方が間違っていたことに
気づくのに、おおよそ2年かかったことになる。

不死身のO1572016/11/15

 神奈川県平塚市の食肉販売会社の
加工食品を食べたひとが腹痛などの症状を訴えた、
病原性大腸菌O157による集団食中毒で、
11日現在、59人の感染をみた。

 入院は、いまのところ9人である。

 この会社は、いま、どのような経営をしているのか、
とんとわからないけれども、
「寝耳に水」であったのではないか。

 この会社のホームページの冒頭に、
当初は、「指定の温度で調理しなかったため」という
文言が付されていて、みずからの責任の回避を
しているような書き方をしていた。

 それもそうだろう。

 なにしろ、O157という病原菌は、75度の温度で、
1分加熱すれば死ぬのである。


 これが、料理業界の定説で、保健所も、
そういう認識である。

 じゃなぜ、メンチカツを食べた59人の方が、
こんなに苦しんでいるのか。

 メンチカツを家で調理したとしても、
75度のはずはないだろう。

 冷凍食品だから、油の温度は、
おおよそ170℃。

 それを5分くらい揚げるわけだ。

 O157は、この段階で死滅するはずである。

 なぜだろう。おおきな疑問符がわく。


 そこで、わたしは、大田区の保健所に問い合わせてみた。

わかい女性の声。

「どのようなことですか」

 「いまO157が怖いんですけれども、あれは、
75度、1分で死ぬんですよね」

「はい」

「でも、神奈川のメンチカツで出ましたよね。たしか、
19人」

「いま、もうすこし感染者は増えています」

(あとから知るのだがすでに59人となっている)

「家で調理したとしても、75度1分は加熱してるんじゃないですか」

「ええ、こちらも情報を集めているんですけれど、
冷凍食品ですから、高温で揚げますと、
中まで火が通らないということがあって」

「いやいや、たくさんの方が、それぞれの
家庭で調理して、そのたくさんの方が
おんなじように、感染してるんですよ。おかしいじゃないですか」

「いえ、こちらとしては、
表面だけ色がついていて中まで火が通っていなかったから、
それしかお答えできません」

「うーん、大勢のひとが、おなじように、
表面だけ黒くなって中が75度になってなかったというんですか」

「いまのところ、そうです」


押し問答のような格好になったのだが、
けっきょく、行政の行政的な返答は、
調理の仕方にもんだいがあった、ということらしい。


いま、おもえば、59名、学校でいえば、
やく2クラス分の方が、すべて、同質の調理法で、
つまり、表面だけ揚がっていて、中が75度にならずに、
あわててそれを口にほおばった、という事態が、
はたしてあるのだろうか。


行政は、あるいは国は、もうすこし喫緊の事態として、
冷凍しても、加熱しても、170℃で5分加熱しても、
死なないO157の存在があるんではないか、
そんなことも疑っていいんじゃないかと、わたしはおもうのだ。



病原性大腸菌O157は変態して
不死身になっているのかもしれない。

シンゴジラだってなんども姿を変えているじゃないか。

コード論2016/11/10

記号論という分野では、
「記号とは世界分節の差異化である」とおしえる。

つまり、名付けることにより、
対象物と他のものとを分けるということである。


 そして「コード」という発想も必要である。

「十」という記号がある。
これに、算数のコードを代入すれば、「たす」、
数学のコードを入れれば「プラス」、
漢字というコードで変換されれば「10」ということになる。

 差異化する記号であるが、それにコードという
概念が、またあらたな意味をあたえるのだ。


 「ロコモティブシンドローム」という
あらたな概念がうまれた。

 医療関係者のこさえた概念である。
このように、あらたに作られた概念を操作概念とか、
道具概念と呼ぶのだが、民間流布には
必要な発想である。

 この「ロコモティシンドローム」は、
 老人の運動器障害のための運動低下を意味する
操作概念である。これによって、身動きの取りにくい老人を
そう呼ぶことによって、健常者との差異化が
はっきりするというものである。

 よぼよぼのご老体に、「ロコモティブシンドローム」の
コードを代入してみて、イエス、オア、ノーと鑑み、
イエスなら、要介護、という具合になる。


 ラジオでやっていたが、無季の自由律俳句のコーナーがある。


 ・明日からわたしと犬とふたり


 こんな作品だったとおもう。

 さまざまに解釈可能である。

 「伴侶を失ったひと」というコードを当てはめてみれば、
せつない悲しみの人生などという意味になろう。

 「独身生活者」というコードだと、
ひとり家族の増えた至福の歌となろう。


 ひとが、どういうコードを選択するかは
そのひとの、いままでの生活ぶりや、心情、
文化資本、社会から受けてきた経験など、
まったくさまざまで、かつ、自由なものなのである。


 きょう、インフルエンザの注射を打ちにいった。

注射器をトントンとやっている先生に、

「そういえば、わたしの教え子で、
今年度から看護婦になった子がいましてね。
先輩のナースから、
いろんなところに針打たれて、
『ほら、痛いでしょ』って、身をもって教えられているそうです」


と、先生は、

「え。そんなことあったらたいへんだよ。
聞いたことない。それただのいじめだよ」

「いえ、その子、左腕、そこらじゅう茶色いアザになってました」

「それ、出るとこでたら大問題だよ」
と、先生はつづけられた。


そういえば、彼女は、のんびりとした女子高育ちで、
性格ものんびり屋だから、
注射の指導も「いじめ」というコードはおもいもよらず、
彼女の選択したコードは「教育」だったのである。

わたしの誕生日2016/11/8

小学校1年生のとき、「はじめての誕生会」をひらきました。

10月生まれですので、それまでに、

ほかの友だちの「はじめての誕生会」を知っていましたから、

じぶんもそれができると、ちょっとうれしくも、

緊張もしておりました。

 

テーブルにケーキや料理やお菓子が置かれ、

十数人の子どもたちは、楽しく祝ってくれているはずです。

ところが、わたしが、

ちょっと席をはずしたところ、

その十数人の子どもたちが、

人っ子ひとり、いなくなっているんです。

 

からっぽの部屋。

 

わたしは、ひとり取り残された、

なにかいじめられたような、

おいてきぼりの空虚な悲しみを感じ、

そこにたちすくむしかありませんでした。

 

なんでみんないないんだろう。半べそだわ。

 

 

じつは、そのとき東京オリンピックが開催されていて、

東京の空に五輪の飛行機雲が浮かんでいたのです。

 

みんなは、それを見に、表に出ていたんです。

 

あとから、みんなもどってきてくれましたが、

五輪の飛行機雲を見に行くとき、

なんで、わたしを誘ってくれなかつたんだろう。

 どこかに、あの記憶が

いまのわたしの人格にこびりついている、

そんな気がします。

2016/11/2
 高校時代の友人に白浜君がいた。
白浜は仮称である。あだなは「牛」。
色白で、ふくよかな体型であった。
同級生だから、いま生きていれば同い年である。

 とにかく金持ちの御曹司で、
当時、まだ流行り始めのテニス部に所属。

 そのころは、ジミーコナーズとか
ビヨン・ボルグが有名だった。
ハイライトが120円の時代である。

 ドネイとかいう会社のすこぶる高級なラケットを
かれはもっていた。むかしは、テニスラケットというと、
すべて木製で作られていた。

 わたしの高校は「私服あり」、だったので
白浜君はいつも、アイビールックの先端を着飾っていた。
ジャケットの胸にやたらと目立つワッペンのようなものを
オプションで貼り付けて、
「これ、7000円したんだぞ」とか、
白浜君は、毎回値段を宣告していた。

 たかが、ワッペンに7000円、
そのころのわたしのセーターが5000円しなかったから、
なんと、無駄なこと。
セブンスターが150円のころである。

 村上春樹が、高度資本主義の最大の美徳は「無駄」である、
とか書いていたが、それを地でいっているヤツだった。

 ある日、かれは、金色の革時計をはめてきた。
ひどく薄型の、白のフェイスに、はっきりと覚えていないが、
針の形状は、ドルフィンでもなく、バトンでもなく、バーでもなく
ペンシルでもなく、ブレゲでもない。
たぶん、リーフだったような気がする。


「見ろ、これ。15万円したんだぞ」

と、腕を突き出して我われにそれを見せつけた。
 わかばというタバコが80円のころである。

 
 教室のみんなは、驚嘆のまなざしで、
その時計に注目した。
金持ちをひけらかすのがかれの日常なので、
そこにはいやらしさがほとんどないのだ。

 ほんとうの金持ちは、金をみせびらかしても、
また、それを誇らしげに自慢しても、
そんなに嫌味ではないと、
そのときは、そうおもっていた。

 体育の時間である。教室で体操服に着替えていたときだ。

白浜君は、こともあろうに、
その15万円を床に落としてしまったのだ。

 「あぁ」

 かれは、大声を張り上げた。

 そして、金無垢の高級品を取り上げ、
白浜君、目をひん剥いて叫びだした。

 じつは、床に落としたショックで、
ガラスの中で長針が取れてしまったのである。

 白浜君、分針が取れた、と言いたかったのだろう。
だが、かれはそのとき、こう叫んだんのだ。

「フンガー・フンガー・フンガー」

そう言いながら、時計を両手でつかみ、
着替えているわたしに迫ってくるではないか。


「フンガー・フンガー」

 わたしは、その迫力に後じさりするだけであった。

 かれのあだなは「牛」である。
拾う2016/11/1

♪喫茶店に彼女とふたり入って

 珈琲を注文すること

 ああ、それが青春 (吉田拓郎「青春の歌」)


 こういう歌を聴きながら中学、高校をおくっていた。

 わたしは、中学時代も高校時代も女っけゼロ、
ぶらり一人旅だったので、吉田拓郎が言う青春
に真実が含まれているなら、わたしの青春はゼロとなる。

 高校時代は、麻雀かパチンコか雀球(そういうパチンコみたいなのがあった)か、
ギターだった。

 青春というものがどんなものか、
事後的にもわかれば、ほっとはするものの、
たぶん、わたしに青春だねって誇れるものはなかったようだ。

 彼女がもしできそうになっても、
じっさいは、ずいぶんみんなから嫌われていたから、
たぶんできなかったのはとうぜんなのだろうが、
もし、できそうになっても、
破局になったときのショックが怖くて、
きっとその先にすすまなかったろうとおもう。

 ずいぶん臆病な話である。

 大学に入ってからは、父の定年にあわせ、
父が店をはじめたので、その手伝いのため、
オープンするまでは、錦糸町という
ちょっとこわい街で修行がはじまった。

 炉端焼きの焼き場である。

 だから、ほかの学生のように、
夜から飲みに行こうぜ、とかない。
セロである。

 飲みにいくどころか、飲みをいつも板場から
見ていたわけだ。


 で、なんやかんやで、就職し、
学校で教師というものを24年もしていて、
すぐに結婚もしたので、やはりわたしの
青春の影を拾うことはできなかった。


 彼女がいなかったくせに、
よく結婚ができたものだとおもうが、
そのへんは、ま、お手柔らかに。


 で、しらぬうちに子どもも大きくなり、
結婚をし、その子に子どもができ、
つまり、わたしは、ほんとうの爺様になった。

 じぶんの人生にいったいなにがあったのか、
たぶん、枚挙にいとまないほどなにかがあったのだろうが、
知らぬうちの加齢が、なにも拾えないまま
ここまで歩んできたようにもおもう。


 高校時代の友人はいまではひとり。
大学時代の友人もいまではひとり。
(この友人は、いま「妻」という言い方でもよい)


 うん、なにも残っていない気もする。


 今朝、薬をのんだ。日課である。

 どこぞの芸人ではないが、朝に薬をのみ、
夜に酒をのみの交互の生活だ。


 と、どうしたことか、
薬をのもうと錠剤をとりだしたのだが、
その錠剤をゴミかごにいれ、手に残っているのは、
銀色のパッケージなのだ。


 唖然とした。


 28錠ときまっているから、一粒でももったいない、
わたしは、45リットルのゴミ袋のなかから、
この、米粒ほどの薬をさがすはめになった。


 九十九里浜から一本の針をさがすような作業だった。

 彼女とふたり喫茶店にいって珈琲をのんだり 、
そんな青春を拾うことがなかったわたしだが、
いま、わたしを生かそうとしている オレンジの

ささやな粒を拾おうとしているのである

マツモトコーヒーに行く2016/11/1

 時間が止まっているという感覚はみょうに
ひとを惹きつける。
 
 マツモトコーヒー店。横浜大通公園、真金町の商店街は、
中国系・韓国系の店がずらりとならぶ、位相空間のメッカだ。

 ナムル・キムチ・魚屋にはエビやクロダイ、
東上野を彷彿するアウラがこの商店街には漂っている。

 その、商店街の中ほどを左に折れてゆく、
中国では「胡同(フートン)」というのだろうそのひどくほそい道の
またちょうど真ん中あたりにマツモトコーヒーはある。

 妻が
「え。ここ?」
と言う。たぶん、人生ではじめて入るコーヒー店だろう。
彼女はただ、トイレに行きたいために

「どこか」へ 入りたかったのだが、

わたしが、なにも言わずに

ここに連れてきたのだ。

 そもそも、真金町に来た目的は、
マツモトコーヒーではなく、真金町交差点のところにある、
ジャンクな天丼を食べることだった。

 700円で、うっそ~っていうくらいのボリューム。
エビ・アナゴ・キス・茄子・どんこの椎茸・ピーマン・かぼちゃ
これが、これでもかという存在感でどっさりどんぶりに乗っている。

で、食いすぎでトイレを探すというお粗末さなのだが、
どうせ、ここまで来たらマツモトコーヒー、そうおもったのだ。

 店に入れば、レトロ感まるだし、
低い二人掛けのビニールシート。茶色というのかエンジ色というのか。

 それが二列に並び、狭い店内は十数人で満席となる。
が、わたしたちが入ったときは、店主とひげ面の若者ひとり、
その二人だけだった。

妻が「さっそくですみませんが、トイレありますか」って訊いたら、
「どーぞ」って案内されたのが、ガスレンジのあるカウンターの奥。

つまり、仕事場の奥にトイレがある。

 わたしは、コーヒーを注文し、まだ戻ってこない妻にはミルクコーヒーを
注文した。どちらも300円。(この値段、スタバも見習え)

 トイレから戻ってきた妻に、
「な。なかなかない店だろ?」
って言うと、「うーん」って唸っている。

 この店は、昭和一桁のままの空気をまだ含んでいる。
ここに慣れるには、それなりの覚悟と時間がいりそうだ。

「ここ見てみな」
と、わたしが壁に貼ってある雑誌の切り抜きを見せた。

マツモトコーヒーの店前と店内が載っている。
「え。なんで?」

「私立探偵濱マイクって知ってる?」
「え。わかんない」
「ほら、永瀬なんとかが主演した」
「あ。小泉今日子のもと旦那?」
「ああ、そうかな、あの舞台がここなんだよ」

「え。そーなの」

と、となりの席でタバコをくゆらせてテレビを見ていた
店主がこちらを振り向き「映画、ご覧になりましたか」と
訊いてきた。

「はい、DVDで見ました」
「そうでしたか、いやぁ、永瀬さんのデビュー作ですからね、
濱マイクは、でも、腰の低いいい方でしたよ」

「へぇ、そうなんですか、ほら、そのとき
濱マイクが飲んでいたのがミルクコーヒーだよ」
と、わたしは妻を見ながらそう言った。

「あ。だから」

「あそこの冷蔵庫のところに、松田さんが立っていたんです」
と、店主は続けた。

「あ。松田美由紀さん」

「そう。きれいな方でしたよ、背が高くて」

「きれいですか、そんなには見えないけれど」
「あら、きれいなひとよ」と妻が横から。

「色白でね。わたしは、すぐ横で見られて幸せでした」
店主の思い出話はそれからエンエンつづけられた。

「キョンキョンも二度ほど来ました。でも、スタッフ、
そうだな、三十人くらいいましたけれども、
みんな、小泉さんって呼ぶんですよ。で、小泉さん、
到着ですって言うと、現場がキリッて引き締まるんです。
きれいな方ですよ。それはほかのひととはゼンゼン違って」

「小さい方なんですよね」

「はい。顔なんかこんなに小さくてね。休憩時間となると、
ここで、タバコを何本も吸うんです。永瀬さんといっしょに。
小泉さん、なんのタバコを吸っているのか見てみると、
セブンスターなんですよ。あんな辛いタバコをねぇ」


「神奈川のヤンキーだったんでしょ、
だから、タバコだってそのときのじゃないですか」
と、また、妻が口をはさんだ。

「すっぴんで来たときだって、きれいだったですよ。
で、映画のロケがおわって仲良く帰られたとおもった三日後に
離婚ですよ。驚きましたね」


 マツモトコーヒーの店主の話は
このあと、全国からこの店を訪れた客の数とか、
近所で、あぶないデカのロケがあった話とか、 語りつづけた。


 それは、ノスタルジアの含まれる
なんだかとてもあたたかな空間であった。
 そして、
時間が止まっているという感覚が、
みょうにひとを惹きつけるものだ、
ということを実感していたのである。      (2012.11.14)

信じなくてよい2016/10/28

霊魂を信じる、信じないという話と、
「そういう出来事にあう」という話はべつものである。


 ただ、我が家では日常的に「そういう出来事」がある、
というだけである。


 父が亡くなってすぐ、そのつぎの夜くらいだったか、
三階の娘たちの寝る部屋の窓のむこうから、
「ナナコぉ、ナナコぉ」という声を
ふたりの娘が聞いている。


「ナナコだれかが呼んでるよ」とユイが言い、
ベランダに出てもだれもいない。

 いるわけない。三階だから。

 それから数日後、息子が、

「おとうさん、なんでおれの部屋に入ってくるんだよ」
って、言うから、
「おまえの部屋なんか、ここ数年はいったことないぞ」
と、そしたら息子がつづけて
「おれと目が合ったとき、『おぅ』って言ったじゃないか」
と、言った。

 それを聞いた息子の母が、
「それ、おじぃちゃんだ」
と、すこし弾んだ声で言った。

 「おぅ」というのは父の口癖であった。

 わたしは、我が家では、死にながら生きている、というような
そんな空気を感じている。

 母が亡くなって、翌日、わたしは車で、
病院にさまざな書類を取りに向かったときだ。

 坂をあがったところが、母の妹の家なのだが、
そこで、うしろの座席が、ザッザ・ザと大きな音を立てたのだ。

 わたしは、まず、大型の鳥、カラスが入り込んでいるのかと
おもった。

 じつは、カラスではなくて、後部座席の枕がふたつ、
立ち上がったのである。

 うちの車は、後部座席の枕は通常、
折りたたんであり、人力でもちあげるしかけとなっている。

 だれもいないのに、このふたつの枕が
立ち上がったのだ。

 わたしはすかさず、母だとおもった。

「なんだ、母さんいたのか、いまから、
書類を取りに行くからね」と、だれもいない
後部座席に声をかけて、
神奈川の病院にむかった。


 このあいだ夜に、仏壇に線香をあげ、
声をかけた。

 「たまには、母さん逢いたいね」と。

 と、すぐに家のインターホンが三回鳴った。

真夜中である。

 わたしは、覗き窓から外をみたが、
もちろん、だれもいなかった。


 それが、母のしわざかどうかはわからない。

 ナナコがまだ結婚するまえ、
三階で、ナナコとふたりで、父と母の思い出話をしていたとき、
空中で、「チリン・チリン」と、それはそれは、
美しい鈴の音がしたのだ。


 娘は、目をまん丸くして
「なに?」と言った。

「聞こえたろ? おばあちゃん、来てるんでよ」
と、わたしが言うと、娘は、サーッと鳥肌を立てていたが、
そういうことは、日常にあるものなのだ。


今年の正月は、賑やかだた。

ふたり娘のご亭主もそろってうちにいて、
そこに息子とスコティッシュフォールドと、おまけのように
わたしがいたものだから、我が家の三階は、
駅のホームのようになっていた。


そのときである。

家のインターホンが三回鳴った。


もちろん、だれもいない。
たぶん、母だろう、とわたしはおもった。

妻や息子、娘はどうおもったかしらないけれども、
わたしには確信にちかいものがあった。


さて、妻や子どもたちに言っておくが、
わたしがこの世を去ったとき、
おれは、ふだんなにかとうるさい男だったが、
死んだあとは、しずかにしているから、安心しておけよ。

霊魂なんか信じなくていいからな。

テリーヌ2016/10/27

 アフリカのある部族では、牛の黒の模様すべてに
名前がついているそうだ。
 そうでないと、どれがじぶんの牛だか、
判明しないから。

 その地にわれわれが住んだとしたら、
おそらく、そこに群れいる牛は、
すべて「牛」としか認識できないだろう。

 土佐清水港は、日本有数のカツオの漁獲高をほこる。
そこに水揚げされるカツオは何種類かあり、
すべてのカツオに、なんとかカツオと名前がある。

 その地にわれわれが住んだとしたら、
おそらく、種々の無数のカツオは、
すべて「カツオ」としか認識できないだろう。

必要がなければ名前をつけない。
名前は記号だ。
記号というのは物体を区別する道具、
これをむつかしく言うと、
「世界分節の差異化」という。

分節とはものの見方をいう。

世の中は、記号によって差異化されている。

ヨーロッパ人は、魚を差異化しないから、
ほとんどがフィッシュですむ。

テリーヌにしてしまえば、
どんな魚が入っても分節する必要がない。

デビルフィッシュなんていうと、
タコでもイカでもサメでもエイでも指す。
みんな、おんなじに見えるんだろう。

ナチスドイツが、ドイツ人を見れば、
すべての人に名前と階級を認識した。
差異化である。
が、ユダヤ人をみれば、
すべてが「ユダヤ人」にしか見えなかった。
ひとり、ひとりの人格が見えなかったわけだ。
だから、大量に虐殺ができたのだ。
ホロコーストとはテリーヌなのだ。

アメリカ人は、イラク人をふたつに分節した。
「敵」と「味方」である。
この「敵」を「テロリスト」と名付けた。
そして、テロリストひとりを殺すために、
民間人27人がその犠牲にあうという試算を
知りながら空爆をつづけた。
だから、いっぱい民間人が死んだ。
つまり、ふたつに分節しながら、
イラク人は、イラク人としか認識しないから、
やっぱりイラク人のテリーヌができた。

戦争というのは、敵の「顔」を剥ぐことである。
ひとは、ひとりずつの「顔」を有するが、
つまり「顔」があるということは、
世界分節の差異化が行われたことである。
「顔」のあるひとを射殺することはできない。
しかし、テリーヌなら殺せるのだ。


沖縄のことを悪くいうアメリカの政治家がいる。
いま、沖縄がテリーヌになっている。

見えないものは見えないのだ。

「うち」のエクリチュール2016/10/25

 

ロラン・バルトは言語を三つの層に分節した。

国語にあたるものとして「ラング」。

個人の好みの言い方を「スティル」。

そして、生き方とセットになる物言いを「エクリチュール」と呼んだ。

だから、「おいどんは」なんてしゃべるひとは、

「おいどんのエクリチュール」となり、

飯はたらふく食べるわ、

着物は西郷さんのようになるわ、

歩き方まで「おいどん」の歩き方になる。

 

 さいきん、とくに気になるのは「うち」という一人称である。

そこで、「うちのエクリチュール」についてかんがえてみたい。

「うち」という一人称は、わかい女性のなかでは一般である。

もちろんこの話は、関東エリアにかぎるわけだが、

「わたし」でも、「あたい」でも、「わたくし」でもなく、

この「うち」という語の含意はなんなのだろう。

 

女子高校生の何人かに訊いてみるが、

半数くらいは「うち」である。

 

「うち」は、「内」でも「打ち」でも「撃ち」でもなく、おそらくは「家」なのだろう。

それも、この「家」は包括的な「家」であり、

肉親の血のつながりとは無縁の幻想的な「家」を作りあげているのではないだろうか。

 

つまりは、関西言語の影響もかんがえなくてはならないだろうが、

まず、言えることは、わかい子にとって、そういうしかたでもって、

ひどく使いやすい一人称を選択した、ということである。

ひょっとすると「わたし」や「わたくし」だと、

突出した「じぶん」が屹立するのかもしれない。

世界のなかのひとり、という責任もおびるかもしれない。

 

しかし、「うち」という、内実をともなわない「家」は

「じぶん」という人称の焦点の曖昧性を意味する。

じぶんを宣言するために、あいまいな家族の「場」を要請し、

その精神的なアゴラ(広場)のなかでみずからを代表するのである。

 

そういうしかたで現れた「じぶん」はいわば、

人称の弱体化以外のなにものでもない。

 

ワン・オブ・ゼムではなく、ファミリィ・オブ・ゼムである。

 

それは、どこかに身を隠す「じぶん」がいるのかもしれない。

目立ちたくない「じぶん」かもしれない。

ひどく弱い一人称である。

あるいは、それは、相対的自我構造の余波かもしれないが、よくわからない。

 

そもそも、携帯電話の普及による個別化がすすむ世の中で、

家族との縁も疎になってゆく現状に、

言語的には、たったひとりの確固たる自我をもつ「われ」ではなく、

家族のなかに沈潜するあいまいな

自我構造の「じぶん」という立ち位置を選択する、

このパラドクシャルな事況はなにに由来するのだろうか。

 

 

 個別化のすすむなかで、

自我の曖昧性がうまれるということ。

この理路を架橋するひとつの考量は「自己愛」ではないか、とわたしはおもっている。

 

みな、じぶんが可愛いにきまっている。

じぶんをできるかぎり傷つけたくない。

気づけば、携帯依存になりつつあるじぶんが、

まわりを見回せば、たったひとりの個となっている。

だれしも所属欲求があるわけだから、

こんなときこそ、幻想家族を要請し、

ナルシスチックな「われ」を出現させるのではないだろうか。

個別化ゆえの「うち」だったのではないだろうか。

 

 あくまで、これは推論であり、管見である。

そして、わたしの興味は「うちのエクリチュール」をつかっていた少女たちが、

いつ、このエクリチュールを放棄するのだろうか、ということだ。

 

世の主婦で「うち」なんて言っているひとを

聞いたことがないからである。

 

 

 

 

対幻想の衰弱化2016/10/20

吉本隆明の術語に「対幻想」という概念がある。

 このように、あたらしく作られる概念を「道具概念」とか、
「操作概念」とよぶのだが、
「対幻想」とは、「対なる幻想の共同性」という意味で、
吉本氏によれば、家族の本質は婚姻ではなく、
対幻想という、男女ふたりの心、意識、
あるいは観念の共同性であり、
そこには、男女ふたりで作る、豊穣で広大で深刻、複雑な世界があるという。

 芹沢俊介という評論家は、それを敷衍して、
「対幻想」は家族間でもありうるとした。

しかし、「対幻想」状態の家族は、しだいに減り、
いまでは、自己本位主義が台頭したという。

つまり、家族内部がばらばらになり個別化され、
統一性を欠くようになったのだ。


 このような一種の崩壊状態を「アノミー」とよぶ。
フランスの社会学者、E・デュルケームの術語である。


 自己本位状態は、強固に社会化されていたら
ありうるはずはない。

 社会とは、共有の価値、共有の信念が共同体の
各メンバーの行動を規定し、その結果、
その共同体が統治されている状態である。


 そこにはアノミー化や、自己本位状態はない。

そして、この自己本位化が、携帯電話の普及により、
さらに悪化し、社会空間のアノミー化をひきおこすことになる。


 ようするに、ひとのことはどうでもよい、
じぶんさえよければそれでいい、という個人化の傾向へと
導かれてゆくわけだ。


 そこで問題。

芹沢俊介氏のいう「対幻想は衰弱する」という
意見にたいして、賛成か反対か、あなた自信の意見を
明確にし、その理由を具体的に400字以内で論じなさい。


 これ慶応大学の入試問題。


さて、それをおれに書けと、言うので、
しかたなく書いてみた。


「対幻想」という操作概念の衰弱化は
おそらく加速度的にすすんでゆくだろう。

わたしは、筆者の意見に賛成である。


そもそも、文明は、ニンゲンを便利に
住みやすくするために発達してきたはずだが、
その文明の進歩により、ニンゲンはしだい文明にすがり、
言ってみれば横着になってきた。

ぎゃくにいえば、横着を謳歌するために
文明はあったといってもよい。
しかし、ニンゲンのための文明であったはずが、
その文明によって、
われわれは想像力やさまざまの本能的なもの、
あるいは人間性をうしなうようになった。

そして、文明の不可逆性は自明であり、
つまりは、むかしのようにはもどれないわけで、
そこに携帯電話の普及による個人化がすすみ、
携帯依存がさらに悪化するならば、
「対幻想」なる対人関係における
親和性はより希薄になること明白だろう。

子どもの遊びひとつを見ても、
ひとりはゲームを、ひとりは漫画を、
とばらばらなのが現況だ。

(398字)


 ま、いいか、悪いかはわからないけれど、おもったことを書いてみた。


不思議徳島2016/10/10

義母の四十九日に来ている。

徳島の家は、義母ひとりだったから、
いまでは空家である。すこし黴臭い。

 庭は草が生い茂り、高知から来た妻のいとこたちが、
せっせと草刈をしてくれた。

 刈られた草は燃やされ
白いけむりが空へと立ち上ってゆく。

 法要に来られたのは長女だけだった。
長男も次女も来られなかった。

 すでに嫁いでいる長女なので、
親子三人、顔を合わすのはひどく稀有なことだった。

 さすがに田舎である。トンボもカエルも蜘蛛もバッタも
自然のなかに溶け込むように暮らしている。


「ニンゲンはな、道具を使ったときから、
世の中の『外』で暮らしているんだ。
ほかの、動植物はすべて、世の中の『内』にいるんだな。
だから、お前もそうだろうが、虫が嫌いなんだよ」

「ふーん、そうなんだ」
ユイはどうでもいいような返事をする。


「おれは、どちらかといえば、世の中の『内』で
生きているんだな」


「ほんとかよ」
長女は、やや言葉があらい。


 と、台所でふたりで話をしていところに、
小蝿が飛んできた。妻が、すぐさま殺虫剤をまく。

 おそらく小蝿に命中したのだろうが、世の中の内側の
昆虫は、そのままどこかに飛んでいった。


 と、どうしたことか、わたしの腕に止まっているじゃないか。


それを見てユイが笑った。

「ほんとだ。内側だ」

庭に通じるドアに蛾がいた。また、妻がシュッとした。

そうしたら、そのままその蛾はわたしのところに
飛んでくるではないか。
まるで助けを求めるみたいに。あるいは、
最期を看取ってもらうかのように。


これを見て、またユイは笑った。


このユイという女は、父をどうおもっているのか。
おそらく、ものすごい変わり者とおもっているはずだ。

そして、尊敬も敬愛も情けもない。

歯を磨こうとして、洗面台に歯ブラシを取りにいき、
どこ見ても、歯磨き粉らしきものがないので、
これかとおもい、チューブから出したときに、
それが、クレンジングクリームだったことに気づき、
おもわず蓋をしめたら、ユイはわたしにむかって
ひとこと。

「ざまみろ」

どうも、育て方がまずかったのか、
あるいは彼女の生得的な性格か。

四十九日は、吉野川を渡ったところの、
真言宗のお寺で行われた。

そこには、義父も眠っている。

僧侶は、やさしそうな初老のかたで、
しかし、なにを唱えているのか、ほとんどわからなかった。

おまけに、ずいぶんと長いお経だった。


わたしどもは、椅子に座りながら合掌をしていたのだが、
その絨毯のうえにむこうのほうから這ってくる虫がいた。

ゲジゲシのお父さんのような風体である。

ムカデではない。が、妻もユイもなにしろ虫ぎらいである。

僧侶のお経中にもかかわらず、ふたりそわそわしている。

すると、わたしどものほうまで、
そのゲジゲジっぽいのがやってくるではないか。

妻は、逃げ出した。

ユイが、お父さん取ってよ、というのだが、
ま、いいじゃないか、しぜんの仲間じゃないかというような
素振りをしていたら、なんと、わたしの前で、
このゲジゲジ君、回れ右して、わたしの足元にくるではないか。

ユイが目を丸くしている。


後ろから妻のいとこがティッシュを差し出してくれたので、
わたしは、その訪問者を軽くくるみ、そばにあった紙袋にいれた。

寺で殺生はまずいでしょ。


法要がおわって、その話をユイは、おもしろそうに話す。

「すごいよね。お父さんのところで直角にまがってきたよね」


たしかに、わたしは世の中の内側にいるとか言ったけれども、
それは、九分九厘の冗談で、虫と友人関係にはない。


田舎はふしぎなことが起こるものである。


 今朝は、東京にもどる日である。

 ユイがゆっくり起きてきて、

「きのう、夜中にお父さんトイレに行ったでしょ」

「ああ、一時ころな」

「それから一時間くらいして、トイレのほうから、
白い、うーん、スカートみたいかな、そんなものが
廊下をすーって通っていったんだよ」

廊下はくもりガラスだから、人影がうっすら写るのである。

「でも、お父さんじゃないよね」

「うん、それおばあちゃんだな」

「そーか、お母さんがうえに上がっていったんじゃない」
と、妻が言った。


たしかに、四十九日までは魂はまだこの世に彷徨うが、
その日をさかいに、天にのぼるという。


 世の中はふしぎなことがよく起こる場所である。





保育園開園に反対しよう2016/10/2

 われわれの視線は「面」から「線」に移行してきた。

「面」というのは、ひろく社会を見据えて、
そのなかでの「個人」という立ち位置である。

「線」というのは、感情という旗頭に
みずからの権利を追求する姿勢だ。


日本国憲法は、「義務」よりも「権利」の比重が大きいと、
そう言ったのは石原慎太郎であるが、
それを鵜呑みにするしないはべつとして、
もし、憲法がそうなっていたら、ひとは権利を主張するものの、
義務を果たさない国民になってしまう。

 いわゆるモラルハザードが体現される場(アゴラ)に
日本がなってしまうということだ。


 そもそも、学歴社会の終焉とかいうが、
いま、教わっている先生がどこの大学の出身か、
ということを気にしている生徒や親がもしいるなら、
学歴社会は歴然と存在している。


 そして、教師よりも保護者のほうが学歴が高ければ、
とうぜん、上から目線ではないけれども、
言いたいことは言うようになる。

 その言いたいことは「面」ではない、「線」なのだ。


 「なぜうちの子だけに怒るんですか」
みたいな、馬鹿げたクレームをよせる。

「指導力がないんじゃないですか」
とか。


 すべて、社会を取り込んで、そこからの発言ではない。


 また、吉祥寺では、
私立保育園が住人20人の反対で開園を断念させられた。

 わたしの住んでいる街のとなりでも、
いま、反対の黄色い垂れ幕が壁に貼られている。

 「面」の発想というのは、じぶんたちは共同体のなかの一員である、
というごく当たり前の考量である。

 共同体のなかの一員という考えには、
「我慢」という負の重荷がつきまとう。

共同体感覚を身につければ、 
じぶんだけがよければそれでいい、
という安楽な生き方ができなくなる。

 しかし、そういう我慢、義務を国民が背負って、
国というものを支えてきたはずである。


 諸君の国が諸君のためになにをなし得るかを問いたもうな。
 諸君が諸君の国になにをなし得るかを問いたまえ。


 J・Fケネディの演説だ。


 ケネディは国民に共同体感覚、コミュニティの民度を
高めなさいと、そう説いた。

 いま、安倍さんが、そんなこと言うだろうか。
国民の安全とか、自衛隊とか、なんか
ほんとうの根本をつかんでいないような気がするけれど。


 「線」の思想やものの見方が横行して、
そしてまかりとおる社会。

 これが、宮台真司のいう「感情の劣化」というのだろう。

 じぶんの言うことが、すんなりとおる世の中は、
けっきょく、それでじぶんの首をゆっくりと締め付けてゆくはずだ。


 感情の劣化は、刹那的な有能感をひとにもたらせながら、
じわじわと、民度を下げて、最終的に滅亡への道をたどるのだろう。

 これから、われわれに与えられた、
ひどく至難な道ではあるが、そこにある宿題は、
クレームでもなく、○○反対でもなく、主張でもない。

我慢である。

言っていいものか、どうか2016/8/24

競馬好きのお父さんが
休日に娘を競馬場に連れて行ったそうだ。

「お母さんに聞かれたら、動物園に言った、
そういうんだよ」

 と、口封じである。


 で、いくらか損失を出しながら帰宅。

 「どこに行ってきたの」とお母さん。

 「動物園」

 「なにがいたの」

 「馬」

 「そ。そのほかは」

 「ん。馬」

 「ほかの動物は」
 
 「馬」

 「ちょと、あなた、動物園じゃないんじゃないの」


 ま、こういう話はありがちである。

 これは、またべつの父親の話。

「お父さん、遊園地連れて行って」
と、娘にせがまれ、かれは、いつも、
国道246号線にあるマクドナルドに連れてゆく。

そこには、マクドナルドの庭に大きなジャングルジムがあるのだが、
それを、娘には遊園地とおもわせているらしい。


 住まいは、マンションの6階。部屋は3DKなのだが、
ひとつは、奥さんのグランドピアノが占領し、
ひとつは、父親の釣り道具とレコードでぎっしり、
娘さんの部屋がない。

 「ね、パパ、わたしの部屋が欲しい」
と、娘がいうと、かれは、
「この家、すべてが響子ちゃんのお部屋だよ」と、
そう言っていたそうだ。

 ものは言いようである。

 しかし、ものも言いようではあるが、言ってはいけないこともある。

これは、またべつの話だが、

朝の会議で、ある社員は寝ぼけていて、
ほとんど、その会議の話を聞いていなかった。

 どうも、みな、真剣に悩んでいるようす。


 と、その社員に振ってきたのである。

「君はどうなのかね」

 なにしろ、なにも聞いていないものだから、
なんか、言っておけばいいのだろうとおもい、

 「はい、わたしでよければ、かまいません」
と、無難にその場を切り抜けた。

 無難に切り抜けたとおもいきや、
会議の席で大きな歓声と拍手が鳴り止まなかった。


 「そーか、そーか、頼むぞ」


 いったい、いま、なにが決まったのか、当のご本人さっぱりである。


会議が終わったところで、同僚にこっそり訊いてみた。

「おい、なにが決まったんだ」


 「何言ってんだよ。中国に転勤だろ、お前、いいっていったじゃん」

 かれは、知らぬうちに一週間後の中国転勤が決まってしまった。

 しかし、かれは、ビザもない身であるのに。

コオロギが鳴く2016/8/24

この世の終焉。

 

 すでに、数十年前に、ホーキング博士が、

「これだけ進んだ文明の星は100年もたない」と

断言されて、すでに60年。

 

 

 もう、そこにまで「終わり」が来ているのだろうか。

 

 わからない。

 

 だれにも、わからない。それは、ひとの命と類比的で、

死期を察知出来る人はそうはいないとおもうのだ。

 

 前にも書いたことだが、リップクリーム。

 

 あんなものを塗らないとくちびるがかさかさになる。

 

 ネアンデルタール人でリップクリームをつかったものは

たぶんいないだろう。

 

 

 マスク。

 

 北京原人でマスクをするという風習はなかったろう。

 

 

 日傘。

 

  藤原定家が、日傘で歩く、など『明月記』にあるわけない。

 

 

 リップクリームにせよ、マスクにせよ、日傘にせよ、

大自然に対して、私たちは、生身の体では対応できなくなっているのだ。

 

 

 これは、人類の滅亡の入口なのかもしれない。おわりのはじまり。

 

 

 で、そういうことと似たようなことを、あの内田樹先生も

おっしゃっているそうだ。

 

 

 内田先生は、もうこの世の中は、とりかえしのつかない状態にある、

そう言及されている。

 

 中沢新一先生は、にんげんが道具をつかったときから、にんげんは、

世界の外側にいると説いた。

 

 スマートフォン、あれなど、世界の外側のまた外側の

けっして「ありえない世界」と交渉する装置である。

いわゆる拡張現実。

 

 手触りのある現実ではなく、拡張現実のなかに生きてゆく。

 

 馬鹿学校につとめたていたとき、

馬鹿は、ほとんど休み時間にスマホをいじっていた。

それが、さもあたりまえのように。得意になって。

 

 オリンピックの演技を見ているとき、

演技者、選手のひとりとて、

試合中に、携帯電話などもっていない。

演技中に使用しているひとなど、いるはずもないが、

あの姿に、にんげんのプリミティブさが

投影されているのではないか。

 

 ようするに、スポーツをしている瞬間にしか、

にんげんの根本が残っていないのかもしれない。

 

 へいきで虫がきらいだというひとがいる。

若い子達のことごとく虫が嫌いだ。

 

 これが人類という動物、ホモサピエンスの終焉の左証なのかもしれない。

 

 世界の外側にいる、ということなのだから。

だから世界の内側にいるものと没交渉なのである。

 

 現実世界のなかにいるより、RPGの世界のほうがおもしろいなら、

仮想現実のなかに身をゆだねるだろう。

 それがにんげんの世界を終わりにさせているのかもしれないのだが。

 

 では、どうすればいいのか。

 

 ほんらいの人間性をとりもどすにはどうするのか。

 

その道はひとつである。

 

 不便になればいい。

 

 文明は、人類に便利さをもとめて進歩してきた。

が、その文明が、ニンゲン本来の能力を劣化させてしまった。

 

 スマホが普及してから、ともだちの電話番号を暗記しているひとが

何人いるだろうか。まだ、ダイヤル式の電話だったら、

そらで友人の家に電話できたものだが、いまは、ひょっとすると

家の電話もかけられないかもしれない。

 

 これは、便利さの極度の追求によって、

ニンゲンの能力を激減させたことの、例証である。

 

 防衛本能も種族保存の本能もすでに劣化した。

 

 だから、その本能をとりもどすには不便しかない。

 

つまり、まず、われわれはスマートフォンを捨てることだ。

 

 そこから始まらなければ、未来はないとおもうのだ。

 

世の中が終わる。それにはどうしたらいいのか。

 

 この喫緊の事況を打破するには、よほどのリーダーシップが必要となる。

 

 いまの総理大臣や政権野党は、

どうやって民衆から税金を奪取するかと、

どうやってアメリカのご機嫌をとるかに、

精一杯なので、まったく見込みがない。

 

 じゃ、在野の評論家たちに物申していただくか。

 

 しかし、いまの評論家たちは、実存主義の終焉と、構造主義の台頭を

目の当たりにした人たちである。

 

 実存主義なら、「こうすべきだ」みたいな、強行な物言いが

日常化していたが、その発話者にも、偏見やバイアスがかかっていると、

そう説いた構造主義は、こういう「しなくてはならない」のような

物言いをすべて排除したのだ。

 

 だから、内田樹も、中沢新一も、「こうしなくてはならない」とか、

「こうすべきだ」、という言い方をまったくなさらない。

 こういう言い方を「当為」というのだが、

 いまの識者は「当為」の文体を放棄せざるをなかったのだ。

 

 なぜなら、にんげんには、偏見がまじっているから。

 

 

 いまの世の中は、ポスト構造主義の時代といわれているが、

いまだ、この構造主義の思想がすべて消滅したわけではない。

 だから、当為の文体をみることはほとんどない。

 

 それは、たしかに、時代性として、もっとも正しい言説だったのだろうが、

その反動として、ファシズムのような、強権的な物言いもなくなったかわりに、

心から追随できるようなリーダーも失ったということにほからない。

 

 

 オピニオンリーダーの消滅である。

 

けっきょく、内田先生は、みずから構造主義を説明されながら、

みずからの言説の説得性まで、希薄してしまったという

パラドクにおちいることになるのである。

 

 この世で、だれに従えばいいのだろうか。

 

 みな外の世界で生きているだれに。

 

 庭では、コオロギが夜の世界を凌駕しながら鳴いている。

コオロギは必死で世界の内側で鳴き続けているのである。

 

 

 

布団2016/8/18

まだ父が存命のころだったから、
いまから20年ちかくまえの話である。

 そのころ、よく商店街の空いた店に、
スケルトンのままで、イベント会社風な団体が乗り込んでき、
老人相手に、やれ、玉子を無料で、きょうは、なにを無料で、
と、愛想よくやけにていねいに、慈善団体のように
ふるまってくれる店舗が現れた。

 これは、当時、よく流行っていた、ひとつの詐欺で、
最後に、高額なふとんを買わせる手口なのだった。

 なにしろ、ほとんどスケルトンだから、
明日には、もぬけの殻ということも可能であった。
 

 そこに父は毎日、通っていた。

わたしが、

「よしなよ、最後は、ふとんを買わさせるよ」

と父にいうと、父は歯をむきだしたような顔つきで、

「あの人たちは、そういうひとではないんだ」と怒った。

すでに、「あの人たち」と呼んだ時点で、
あ、これはすっかり洗脳されているなとおもい、
わたしは、それいじょう、父にはなにも言わなかった。


 世の中は、自由社会である。
自由社会とは、それなりの義務さえおえば、たしかに自由である。
 
 みずからの意志でみずからが自由になる、こんなしあわせなことはない。

 そのアンチテーゼが全体主義イデオロギーである。

 軍国主義や強権政治やヒトラーやムッソリーニの社会である。
全体主義は、たしかに、一人ひとりの自由は剥奪されるが、
なにもかんがえずに、ただ言いなりになっていればよかったので、
あんがい、それはそれで楽チンな面もあった。

 欲しがりません勝つまでは、とか、贅沢は敵だ、
とか、ああいうプロバガンダのもと、
しかし、人びとは、負のベクトルではあっても、
一致団結していたのだろう。


 が、社会が自由を取り戻すと、
それは、一致団結した平和と幸福を求めるのではなく、
個人の、平和と幸福を追求するようになる。


 そうすることによって、個人主義は、孤立主義的な方向にはしり、
ついには、利己主義、じぶんさえよければそれでいい、
という考量に横滑りに移行してゆく。


 つまり、自由を追い求めてきた近代社会は、
集団のなかにいながらも、孤立したひとたちを
再生産してゆくことになるのである。


 こういう、社会のなかに混じりつつ生きていながら
その中に孤立した状態を、
「大衆離群索居」という。

 世捨て人は、みずから、俗世間を離れ、極楽往生のために、
孤立する、いわば、積極的な「ひとり」なのだが、
「大衆離群索居」は、
自由と平和と幸福をねがった末の結果論であった。

 幸福を追求した極北が孤立であった。


 家族のなかにいても、孤独なお年寄り。

 そういう、間隙をぬって、このような詐欺まがいの商売が
横行したのである。


 「あの人たちは、わたしたちを歓待してくれている」

 孤独を埋めてくれるように錯覚させて。


 あんまり、自由すぎるとひとは孤独になり、
あんまり、強権的すぎるとひとは自由を奪われ、
あんまり、規制をゆるくすれば犯罪がふえる。


 いったい、どのへんの塩梅がいいのか。


 で、けっきょく、
父は最後に母のぶんあわせて二人分の布団を購入していた。

沼津に2016/8/18

「ついにメロメロの爺さんか」

開口一番、Nさんはそういった。
なにが言いたかったのかわからなかったので、
黙っていたら、

「あんな孫の動画なんてか送ってきてよ」

「あ、わかった、あれね」

「そーよ、なんにも動かなねぇ動画を送ってきて、
人んちの孫なんか見てもおもしろくねぇよ」

「そうでしたか、それははすみませんね」

「そーよ、みんなに話したけれど、みんなバカじゃねえかって、
そう言ってたぞ、おれだって、おれの孫の写真とか、
君に送ったことなんかないだろ」

「そうでしたね。はいはい、すみません」

わたしは、このとき、じぶんの初孫の写真や動画は

ひとに送ってはいけない、ということを認識するのである。


ひとの孫なんか、おもしろくも楽しくもないのである。



今日は、店を休んでNさんと沼津まで釣行である。

運転はすべてわたし。わたしの車。
Nさんが車を出したことは、いちどもない。

くしくもわたしの車が左ハンドルに
なってからは、Nさんはいっさい運転をしなくなった。

となりに、足を組んでどでんと乗っかってくる。

わたしよりも10歳も人生の先輩だから、
ここは、がまんである。


それでも、往復のガソリン代と高速代で3000円くれる。

これは、10年前とおんなじ。


「ね。沼津往復、8700円かかるんですよ、
この3000円っての、4000円にならない?」

と、わたしが恐るおそるお伺いをたてると、

「うるせぇな、昔から3000円って決まってんだ、
おれはこれしか払わねょえ」と、却下。


10歳年上の先輩だからしかたない。


川崎にNさんを迎えに行って、荷物を乗せ、
東名高速にはいる。


Nさんは、饒舌というより、おしゃべりである。

話がとまらない。


「このあいだよ、料理屋いったら、な、おれ、
鍋好きだからよ、したら、上手に飾ってあんだよ。
で、ずっとみてたら、なによ、つゆがインスタントじゃねぇか。
もう、びっくりで、もうおれあそこの店行かねぇんだ。
おれは、鍋にはうるせぇんだ」

と、エンエン話したときに、わたしが、
「Nさん、鍋じゃなくてもうるさいよ」
と、言ったら、

「なんだとぉ」
とか、ものすごく怒っていた。


今日は、車に乗るや、

「昨日な、近くの乗り物の博物館に孫つれていったんだよ。
女の子なのに、好きなんだ。
子どもだけじゃなくて、電車なんか好きな大人だったら、
楽しめるな。でよ、バスに乗せたら、
はじめて乗ったみたいで、気に入っちゃって、降りるよって
言っても降りないんだ。だから、無理やり降ろしたら、
えーんえーん泣いちゃってな」

「いくつ?」

「ん。2歳。で、おもしろいんだ。ナツキさーん、って呼ぶと、
はーいって手を挙げるんだよ。いま、保育園行ってるから、
そこで教わるんだな」

「ふーん」

Nさんは、もうひとりのお孫さんの話もはじめ、
その子も「アイナさーん」って呼ぶと挙手をする話をして、
相好を崩しながら、沼津までエンエンお孫さんの話をやめなかった。

今朝、わたしは、かれから、
ひとの孫の話なんてつまんねぇよって聞いたばかりの
朝であった。

MX4D2016/8/17

シン・ゴジラがおもしろいというので観にゆく。

ネットで調べると、MX4Dというのがあるので、
ちょっと興味がわく。


 なんでも、椅子が動いたり、風が吹いたり、
水しぶきもあがるというじゃないか。

 映画がフィックションであっても、椅子が動いたり、
風や水しぶきは現実だろう。

 それこそ、これはオーグメンティッドリアリティ、
つまり、拡張現実を体感できるチャンスじゃないか。


 で、映画館に問い合わせる。

 MX4Dというものがいかなるものかを確かめるためである。
それと、料金も確認したい。


 確かめると、椅子がうごくだけでなく、振動とかも
あるらしい。これはおもしろい。

 で、値段を訊いてみた。と、映画鑑賞の値段プラス1200円という。

 まてよ。映画が1800円とすると、それに1200円。
つまり、たったひとつの映画で3000円の出費となる。

 しかし、椅子が動いたり、風が吹いたり、
水しぶきに、それに振動である。


 ここは清水の舞台である。飛び降りるしかない。

と、わたしは、一念発起して、MX4Dというシロモノを
はじめて体感したのである。

 映画館にはいると、ずらりとならんだシートは、ひとつひとつが
セパレートのようになっていて、いかにも、これが
じゃじゃ馬のように動きますよというアウラをかもしている。

 荷物はひざのうえに抱えるしかない。
椅子が動くからだ。

 館内の照明が暗くなるや、
予告編がはじまる。と、すでに、ドンと椅子が沈む。

 これには、初体験のわたしはびくりとした。

 震度4くらいの地震に見舞われたときのような感覚。

 予告編からして、こんなに身体にくるのかと、
驚くやら、期待するやら。

 身体の反応を強制的かつ強引におしつける装置が
MX4Dなのだ、ということにいやがうえにも認識する。


 さて、本編のはじまり。

 アクアトンネル崩落事故。

ここから映画ははじまる。すでに、ゴジラ出現への予兆である。

 そして、椅子が揺れる、動く、沈む。
椅子の底のほうからマッサージ機のような振動。
そして、風。水しぶき。

 すごいぞ。

 わたしは、この空間にしばらく酔った。

 が、どういうわけか、MX4Dに身をゆだねていると、
なんだか、むなしい気になってきたのだ。

 映画というものは、二次元に映し出される映像に
わが身体をゆだね、平面なのに、そこに身体の反応というものを
導き出す装置だったはずである。

 つまり、映像だけで観客の身体の反応を参加させるのが
映画の真骨頂だったはずである。

 なのに、なんで椅子を揺らしたり、水しぶきをだすのか。

 それは、観客の想像力の欠如をことごとく証明していることに
ほからないのではないか、と、わたしはおもってしまったのだ。

 ようするに、観客の身体を利用して、映像は語りすぎはじめているのである。

 観客が、その画面から、地響きや吐き出す炎やらを想像しながら
楽しむ、というのが映画ではなかったのか。

 まるで、「これはこういうものですよ」と与えられた
誕生日プレゼントのようなものである。
 開ける楽しみは、本人にまかせてもらいたいものである。

 それをこの中身はこうですよ、と告発されてから開けたのでは、
快楽がひとつ減ったことになる。お祝いされる当事者は、
ただ、パッケージを剥くという行為だけが、
残されたことになる。

 開ける楽しみを奪うことが善なのか。
と、おなじく、想像によって身体に反応させるのではなく、
強制的に、反応させることが善なのか。


 MX4Dという装置は、われわれが想像力を失いかけている
という警鐘なのかもしれない。

お勉強の時間 近代合理主義とは2016/8/11

近代合理主義とはなにか。


現代にいたるまで、
ヨーロッパの歴史を大きく三分すると
古代・中世・近代とわけることができます。


古代ヨーロッパとは、ギリシア神話の世界、
多数の神々が、にんげんのように悩み、生き生きとした
時代でした。


が、中世にはいると、キリスト教の普及とともに、
王政の時代となり、人びとは、その専制的な政治に
苦しみむことになります。

これを後々のひとが、暗黒の時代と呼びました。
人々の唯一の救いは、教会でした。
言い換えれば、人々は、キリスト教的価値観だけで、
生きることができたとも言えます。


しかし、近代に入りますと。この封建制ヒエラルキーが
崩れます。王政の崩壊です。

人びとは、自由を手にすることができました。
そして、キリスト教的価値観からも脱することができたのです。

また、暗黒の時代を忘れようとしたのか、あるいは、
古代の人々のたましいを望んだのか、
自由を手にした人々はは、
古代の精神を見倣おうとしました。
これがルネサンスという文芸復興の精神です。

また、教会の必要性も薄れました。
つらい場からの逃避をする必然性がなくなったからです。
こういう教会の不要を唱えたキリスト教を「プロテスタント」と
呼びます。


さて、近代をむかえ、、
宗教的な価値観から開放された人々は、
理性的な判断を強いられました。

つまり、じぶんでものをかんがえ、
じぶんで判断しなくてはならなくなったのです。

自由というものは、そういう意味では
不自由なのかもしれません。

みずから思考放棄したいなら、絶対的な何者かに、
頼っている方がずっと楽です。

これが全体主義を産む根本的な理路です。


全体主義のなかに身をゆだねていれば、
たしかに、回れ右のような生き方なのですが、
その中に、楽ちんな自由が謳歌できるかもしれないのです。

話をもどしますが、
近代になり、理性的な判断をするようになったことを
「合理」といいます。

これが「近代合理主義」のはじまりです。


「合理」というのは「理性的にものごとを考える」ということです。

この時代に、デカルトという学者を輩出しますが、
かれが言ったのは「コギト・エルゴ・スム」です。

日本訳は「われ思う、ゆえにわれあり」。
つまり、みずから考えることによって、じぶんという
存在があるのだ、ということを言っています。


宗教的価値観にたよっていた人びとに課せられたのは、
「コギト・エルゴ・スム」であったわけです。


その中で生まれた学問が「科学」でした。

科学は、例外を好みません。科学で証明できそうもないことは、
科学の領域から除外しました。

だから、霊魂とか、にんげんの心理などは、
科学の分野から外されたのです。

 科学はいつ、どこで、それを計算や実験しても、
おなじ答えでなければなりません。これを普遍性とよびます。

普遍性とは、再現性のある状態をいい、あるいは、
例外のない状況をいいます。

 そして、科学は、どんどんと対象を、大きなものから、
小さなものへと推移させてきました。いまでは、
ミクロの単位を超えて、それより、はるかにちいさな単位を
研究するようになりました。

 対象をどんどんちいさなものにすることを「要素還元」といいます。
「要素還元」された科学が、いまもっとも課題としているのが、
いままで除外してきた領域もふくめ、もっと、大きな科学として
再構成できないものかと、そういう課題が取り上げられています。
つまり、「マルチサイエンス」の分野です。


と、話が現代にまでおよんでしまいましたので、
近代にもどします。


デカルトは、自然はにんげんに克服されるものだと説きました。

にんげんが自然を支配する、そういう考えです。
これを「デカルト二元論」、あるいは「物心二元論」とよびます。

つまり、二階建ての家で、二階ににんげん、一階に自然がいる、
そんな感じです。

きびしい自然のなかにあるヨーロッパですから、
それもやむをえないかもしれません。

しかし、デカルト二元論などの考えによって、
自然破壊が、今日までつづいてあることは、
看過できないことであることはいうまでもないことです。

おじぃちゃん2016/8/8

 娘に子どもが生まれたので、
わたしは、祖父ということになる。

 陣痛がはじまって病院に連れて行ったのが朝の六時半。
「産まれたよ」という妻のラインを読んだのが、
まだ昼まえだったので、ずいぶん順調なお産だった。

 わたしは、仕事があるので、娘の出産にも立ち会えず、
そして病院で、孫娘にも対面することはなかった。

 ご亭主の家族は、むこうのお父さん、お母さん、
そしてご亭主の妹さん、そして叔母さんまで、
病院で面会して、ガラス越しに寝ている初孫を
ずっと見ていたそうである。


 孫ができるということに、
どんな感慨があるのか、とても喜ばしいことではあるが、
それが実感として、あるいはどうじぶんで喜んでいいのか、
とても不器用にいる。

 ただ、気のおけないひとたちに、
もらった写メとか送って、祝意の返信をいただき、
「リアルおじぃちゃんだね」とか書かれると、
それはまでは、リアルではないにせよ、「おじぃちゃん」だったのかって、
しみじみおもうのである。

わたしはいつのまに加齢したのだろうか、
じつは、まったく意識にないのが不思議である。


青木という高校時代の友人が店にきて、
店の入口で立って笑っているのを見、
徘徊老人がまよって店の前で立っているのかとおもったら、
それが青木だった。


ごくまれに店に来てくれるのである。


青木が帰って、皿洗いをしている妻に
「あおき、ずいぶん老けたなぁ」っていったら、
言下に
「あなたと、かわりないわよ」とあっさり言われ、
友とはじぶんの鏡なのだということに
気づきもするのである。


そういえば、このあいだまで勤めていた
神奈川の高校では「ジィジ」と呼ばれていたから、
やはり、リアルジィジなのだろう。


今朝、娘が孫と退院するというので、
病院に迎えにいく。

「こはる」とのはじめての対面である。

病院の入口には、救急車が止まっていたが、
そのうしろにつけて、しばらく待っていると、
娘が白いちいさなドレスを身にまとった、
ものすごいちいさなものを抱えて出てきた。


車の後部座席を妻が開けると、
娘は、孫娘を抱きながら乗り込んで、
生まれて一週間の子の顔に近づけて
「こはるちゃん、ほら、おじぃちゃんだよ」
と、呼びかけた。


おじぃちゃん。


うーん、まだ、このネーミングには
なんだか慣れないじぶんがいることに、
やはりあらためて気づくのである。

小学6年生のころ2016/8/8

じぶんのしたくないことは、いっさいしない子でした。

夏休みは、自由研究はおもしろいので
かならず提出しましたが、
「夏休みのドリル」というのがあって、
毎日、天候をつけたり、
国語、さんすう、理科と学習のページもあり、
それがいやでいやで、けっきょくやらずじまい。

母から「あんた、宿題はいいの」って訊かれると、
「うん、なんにもないから」とうそをついていました。

と、8月の31日に母は、商店街で、宿題があることを
聞きつけてきたらしく「ちょっと、だいじょうぶなの」と、
わたしをせっつくのです。

「うん、もうおわっているから」とまたうそをつき、
はて、どうしたものか。明日には、このドリルを提出しなくては
ならない。

しかし、まったくの手付かず、白紙です。

おもいあまって、まだ小学校6年の浅知恵なのか、
わたしは、だいたんにも、このドリルを
糊で貼り付けて、簡単そうなところ、3ページくらいを
書き込んで、提出したのです。

あとから、カンカンに先生に怒られても、
もう剥がれませんから、いいやっておもったかも
しれません。

新学期になって、わたしは毎朝がひやひやものでした。

いつ、烈火のごとく叱られるのか。

ところが、先生はけっきょくおこりもせず、
わたしは無罪となりました。

あのとき、先生というものは、夏休みの宿題など、
見ないものなんだなってうすうす気づいたものです。


そんなわたしも、ずっと教師をしております。


しかし、いまでも、嫌いな跳び箱や逆上がりは
人生、いちどもしていません。

助詞ひとつで2016/8/1
 連休やお盆の高速道路の渋滞。

どうにかならいものかとおもう。

 はたして渋滞の先頭とはどうなっているのか、
信号も踏切もないのに
なんで、40キロもだらだらと渋滞するのか、
 いろいろ、疑問はおこる。


 むかし、地下鉄はどこからいれたんでしょうね。
かんがえると眠れなくなっちゃう、なんて
漫才があったけれども、

 渋滞の先頭ってどうなってるんでしょうね。

 
 なんて本気でいいたくなるのである。
頭にくる。

 で、警察ときたら、この渋滞に、もっとも左側の車線、
ここは緊急車両がとおるところだが、
そこをズルしてとおる車を待ち構えているのだ。

 この渋滞の解消を、全力をあげて解決する方策を
かんがえずして、そういう違反車両を検挙することに
躍起になっている。

 だから、警察っておかしいのである。

 さいきんは、検挙率が2割をきって、先進国ワースト2位になったくせに、
そんなちまちまとなさけない取締をする。


 ま、それはそれとして、それより頭にくるのは、
その渋滞のなかにいたときである。

 だらだらとアクセルとブレーキを踏みながら、
追突しないように走っているとき、
高速道路脇の電光掲示板にこうある。


 「ここから渋滞20キロ 75分」

 これが頭にくるのである。

 たまに、べつにこういうのもある。

 渋滞のさなか、「スピードおとせ」。

 落ちとるわい。

 ま、それはそれとして、「ここから渋滞20キロ」
むかつくじゃないか。

 わたしは、それまで、渋滞のなか、
のろのろ運転していたのにもかかわらず、
なんで「ここから渋滞」なのだ。

 いままで渋滞していのだ。なのに、なんで「ここら」なのか。

それじゃ、いままでのわたしの苦労はなんだったのか。
「ここから渋滞ね」

はいはい、わかりました。じゃ、いままでの数十分は、
渋滞ではなかったのね。
すこし、ゆっくりだけれども、渋滞ではなかったのね。

 ね、そうおもうでしょ。

 道路交通財団もすこしはがんかえてもらいたい。

 ドライバーの心理というものを。

 なにが「ここから渋滞」だよ。

 もっと前から、そしてこれからも渋滞なんだよ。

 で、そういうわたしの怒りがどこに起因するかといえば、
この財団の言語能力の低さにある。

 たったひとこと、この電光掲示板に文字をいれれば、
この平和主義者のわたしを怒らせずにすむのである。

 つまり、掲示板にはどう表記すればいいか。
わたしが教えてしんぜよう。

 この表記はこうである。


 「ここらからの渋滞 20キロ 75分」

 「の」を入れるだけで意味合いはずいぶん変わるのだ。
 

歩いてほしい、坂がある2016/7/31

 

電車に乗ったらマンションの宣伝が目についた。

「不動前、かむろ坂」

うん、坂に名前がついているのは
じつにうらやましい。

 

我が家などは、坂の中途にありながら名前がない。

うちの坂は、めずらしく下って登って、一直線。

だから子どもたちの友だちはよく写メを撮っているらしい。

坂を登りきったところに、岩下志麻さんが住んでいらっしゃる。


さて、
川にも山にも名前があるのに、どういうわけか、
坂には、名前があるほうがすくない。

オランダ坂。道玄坂。権之助坂。菊坂。

やはり趣ぶかい。

かむろ坂、いいではないか。

が、その宣伝には、「不動前、かむろ坂」という文字より、
半分くらいのちいさな文字でこう書いてあった。

「歩いてほしい、坂がある」

このキャッチコピーはどうなの?

なんだよ、脚の悪い爺さんに言ってるんじゃないんだよ。

「爺さん、歩いてほしいんだ、歩ける? ほら坂があるよ」

ね、そんなふうに聞こえないか?

だから、
「歩いてほしい、坂がある」は、
「歩いてほしい、坂である」と
ほとんどおんなじに見えるのである。

なにが、このキャッチコピーをひどくしたかというと、
読点(「、」)である。

「歩いてほしい、」

ここに読点(「、」)を挿入させてしまったことに
由来する。

たしかに読点は
現代の文体には不可欠な記号である。

わたしのかわいい、妹の人形。

わたしの、かわいい妹の人形。

これを見れば一目瞭然だが、
読点の位置によって「かわいい」の修飾場所が
ずれてくることがおわかりだろう。

でも、ここではこの記号の存在が
すべてを台無しにしている。

では、どうすればいいのか。じつに簡単である。

もっとシンプルにして、読点というめんどくさいものを捨ててしまえばいい。

それがこれ。



「歩いてほしい坂がある」

どうだろう。
このほうがはるかに
高尚で文学的でさわやかなのだ。

楽しさとは2016/7/29

 「よく、学校がつまんないって言っている生徒を
見かけるが、じつはじぶんがつまんないニンゲンだ
ということを証明してるだけ」


 と、自明とまではゆかないまでも、
いつもおもっていることをツィートしたら、
ふだんの10倍のインプレッションだった。


 リツィートも10件あった。レアなことだ。


 面白さというものは、向こうからやってくるものではない。

面白さ、楽しさというのは、
砂浜から桜貝を拾うように、どこにでもある中から、
じぶんで探し出すものである。


 砂浜はどこにでもある。しかし、桜貝をさがすのは、
そのひとの、積極的な働きかけである。

 桜貝が「ここにありますよ」って告発することはない。

 絵画の本質は額縁にありは、チェスタートンだが、
チェスタートンが言うことは、
横に細い額縁にキリンは描けない。
額縁にあわせた対象物しか描けない。
が、決められた空間でも、そこから創造は可能だ、
ということを、イギリスの批評家は言っているのである。


 つまり、学校というかぎられた空間で、
かつ、校則という縛りのなかで、
それでも、そこから創造性は発揮されるだろうし、
楽しみも、見つかるはずなのだ。


 いつでも、パレードが現前するわけではない。

 それが「生きる力」というものだろう。

 そんな、簡単なことなのに、ツィッターでは
むやみに反応するものだから、
むしろ、わたしは、むしろ心配になってくるのだ。

 
 ♫ しあわせは歩いてこない、だから歩いてゆくんだよ

 水前寺清子もそう言ってるじゃないか。


 自転車には、まずさいしょから乗れる子はいない。
倒れながら、補助輪をつけながら、
徐々に、慣れてゆき、しだいに、身軽に運転できるようになる。

 慣れてくれば、自在に右にも左にも曲がれることができ、
つまり、自転車を支配することができるのだ。

 そこに、ひとは幸福を感じるはずである。

 たしかに、自転車というひとをはこぶ装置はあるが、
それを自在に動かすことは、そのひとの努力である。


 こういう幸福論こそ、ニーチェの説くところであって、
しあわせは、みずからが作り出すものなのである。


 それができないひとは、よくひとの話を聞くことだ。


 マツタケの山があったとする。
その山の管理人が
「いまから、マツタケの取り方を教えっぺ」
と、マツタケ攻略術を伝授してくれた。

そのとき、そのすべてをノートに書くやつ。

うんうん、って聞いているだけのやつ。

まったく聞かずに寝ているやつ。

「んだ、そんじゃ、山さ行ってみんべ」
と、言って、自由時間となる。


ノートに、そのノウハウをしこんでいるやつは、
「あ、あった。ここにも」と、
管理人の言われた通りに行動するものだから、
マツタケをおもいのままにゲットできる。

 聞いているだけのやつは、
どこか情報が抜けるので、ノート君ほどの収穫はない。


で、寝ていたやつである。

「なんだよ、この山はよ、なんにもねぇよ」
と、ただふらふら歩くだけである。

で、なんにも取れずに帰宅してひとこと。

「あの山、つまんねぇょ、なぁんにもねぇからよ」

いいんです、それで2016/7/27

わが街の、ふれあい通り商店街は、
きょうと明日は盆踊りである。


 たくさんのひとでにぎわう。

 え、こんなにたくさんのひとが
暮らしていたのかいってくらい、集まる。

 いま、屋台が10台くらい作られている。

お好み、やきそば、ヨーヨー釣り、たこ焼き、
どこの祭りにもあるような屋台がならぶ。


 なにしろ「ふれあい通り」だから。


 商店街の役員さんも、きっとご心労のことだろう。
お疲れさま。


 盆踊りの中心が、じつはうちの店の前である。

ここに太鼓やら、スピーカーやらが、あって、
ドアを開けるや、すさまじい音が
店内に流れ込んでくる。


 だから、ずいぶん前から、盆踊りの夜は、
店を閉店した。閉店したというより、
閉店せざるをえない状況にあった。


 お向かいの店は、むかしスーパーだった。
そのときの役員さんは、
その日だけは5時に閉めてくれと頼みにきたそうだ。

そして、うちのちょうど店のところで、
スイカ割りがはじまった。

さいきんは、スイカ割りを見ていないので、
いつごろから中止になったのかもしれないが、
そのむかしは、やっていた。

 もちろん、そのスイカは、そのスーパーなんかで
購入したものではなかった。

 なぜって、「ふれあい通り」だから。


 すこしむこうにある日本料理屋の店主が出てきて、
商店街理事長に、店の前に、焼き鳥屋の出店は
置かないでくれと頼んでいた。


 ということは、去年は、日本料理屋の前に
焼き鳥の屋台があったということだ。


 もう記憶も薄いが、うちの店の前では、
ソーセージなんかを焼いていたのではないか。

 とにかく、食べ物屋の並んでいるところの道に、
屋台がずらりと並ぶことはまちがいない。


 いいんです、それでも。


なにしろ、「ふれあい通り」だから。

娘は信用ならぬ2016/7/26
「さっきのお客さん、ユイの旦那さんに似ていない? 」


と、妻がぽつり。


「うーん、ま、真面目な風体だったよね。かれって真面目?」



「そーよ、まじめ、まじめ」


「そーだよな、うちの娘たち、なーんか、おれと真逆の男性えらぶよな」


 と、妻は、くすって笑って、


「このあいだ、ユイもナナコもいたでしょ。
そうしたら、お母さん、よほど疲れていたんだね、
結婚するまえはって、そう話してたよ」



「なんだよ、かんがえが鈍くなっていたから、
おれと結婚したって、そういうことか」



「うーん」
と、また妻は苦笑いをする。



 ひどいよな、そもそも、娘らは、
どうも、おれのことを「変わり者」とおもっているらしいのだ。


 ナナコの結婚式のときも、
最後に、新婦が手紙を読むんだけれども、
そのときに「お父さんは、わかりにくい人ですが」
とか、平気で言ってたものな。


 涙のひとつもこぼさないで、ぬけぬけと。


 そういえば、ユイの結婚式のときも、
バージンロードの赤い絨毯のところで、
ユイがとなりでぼそっとおれに言ったひとこと。


「お父さん」


「ん?」

「笑わさないでね」
音を聴かない馬鹿2016/7/24

 目が見えない動物はいても、
耳が聞こえない動物は皆無だそうだ。

 チョウチンアンコウだって、音は認知しているだろう。

動物の根源は、耳なのかもしれない。

 だから、
鳥越俊太郎が両耳補聴器という噂は、
かなり深刻なんじゃないか、とおもうのだ。


動物学的にどうなのだろうね。

癌だし、うわさじゃ、すこしボケがはいっているらしいし、
それに、他人をけなすことはできても、
じぶんの意見をいうとこができないそうだ。

ま、それはそれとして。


 じっさい、自転車に乗って両耳イヤホンっていう
馬鹿をよく見かけるけれども、
あれは、もちろん道路交通法違反であると同時に、
みずからの耳を塞いで
ほんらいなら、自転車を支配できるはずなのに、
それを放棄している、危険きわまりない馬鹿である。


ニーチェの幸福論は、たとえば、自転車に乗れなかったひとが、
ようやく乗れるようになった。

それは、自転車をみずからが支配できたからである。

そこに幸せがあり、他からのぞむものではない、
というのが、あのニヒリズムの提唱者の考えらしい。

が、両耳イヤホンは、その幸福論のアンチテーゼのようでもある。


なぜ耳があるかといえば、
外の世界を認識するためなのに、
イヤホンで音楽を聴くという行為は、
じぶんの世界に閉じこもるための装置としてあるわけで、
みずからの身体の使い方の誤用じゃなぃか。


むかし、教員をしていたことがあった。

海外研修の引率にもいった。

ユタ州である。

バスで移動したり、遊覧船に乗ったり、
プールで泳いだり、もちろん、勉強もしていたが、
その移動のときに、生徒さんは、ことごとくイヤホンで、
日本の音楽を聴いていた。


情けなかった。


若者よ。

せっかく、アメリカに来たんじゃないか、
アメリカの音や風や匂いを嗅げよ。感じろよ。

バスの窓をあけてさ。

タイタニックの映画のワンシーンみたいに、
両手をひろげて風を受けてみろよ。

なんどもそう言ったけれど、みんなイヤホンで
じっと下を向きながら音楽を聴いていた。


ばか者。


そしてバスは、大きなショッピングモールに着いた。

とにかくスケールが違いすぎる。


生徒がどかどか降りる。


と、ひとりの生徒が言った。

「先生」


「なんだ?」


「トイレどこですか?」


「・・・・」

はじめてきたとこだぞ、おれだってわかんねぇょ。

ばか。

50年以上前の誕生日2016/7/20

・カナリアに逃げられし籠昏れのこりわが誕生日うつむきやすく  寺山修司

寺山修司は47歳で永眠した。
たくさんの名歌と、戯曲を残して。


わたしは、幸か不幸か、寺山の年よりも十年以上、
親友の星野さんよりも3年以上長生きをしている。


あと4年も生きれば、東京オリンピックが見られる。

はたしてわたしは東京オリンピックを見られるのだろうか。

もし見られるのなら、わたしは、
この目で二度、東京オリンピックを見ることになる。


さいしょのオリンピックは、昭和39年の十月十日。

ちょうど、わたしの誕生パーティーを
我が家でおこなっていたときである。

クラスの友だち十数名をあつめて、
ケーキや食事を食べていたのだとおもう。

もう、いまとなっては、なんのプレゼントをもらったか、
はたまた、どんなご馳走がテーブルに並んだか、
すっかり忘れているが、
男子も女子も、うちにきていたとおもう。

もちろん、わたしが主人公である。


なにしろ、誕生日なのだから。


と、わたしが、台所だったか、どこかに行って、
いざ、一階の、みんなのいる八畳間にもどってみると、
そこにいるはずの、すべての友だち(だとおもっていた人)が、
ひとり残らず、いなくなっていたのだ。


六歳の、なんにも穢れもしらない、
よく半べそをかいていた少年に待っていたものは、
お祝いの声でもなく、にぎやかな笑い声でもなく、
たのしい会話でもない、
がらんとした、だれもいない部屋だけである。


唖然とした。


あの焦燥感、悲壮感、孤独感。
じぶんの誕生パーティーの途中で、
人っ子一人いなくなってしまった、悲しみを
じつはいまも忘れていない。


「おまえは、世界の中心になんかいないのさ。
いつだって、ひとりきりだよ」


そういう天からの声を聞いたような気がした。


じつは、このとき、東京の空には、
航空自衛隊が、五輪の輪を、
飛行機雲で描いたときだったのだ。


それを、みんながおもしろがって外に出て
見に行っていたのであり、
しばらくしてわたしの友だち(だとおもっている人)は、
また、ちゃんと八畳間にもどってきてくれたのだ。

が、置いてきぼりの喪失感は、
いまの、わたしの人格のどこかに、
酸が侵食するようにじわじわと
滲み込んでいるような気がするのである。



わが誕生日うつむきやすく、である。



歌会風景2016/7/18

土曜日に歌会があった。

大岡山の北自治会館の二階。

年に4回、開かれる定例会である。

歌会というのは、各自、自作の短歌一首ずつを持ち寄り、
みなで互選し、その優劣、あるいは美点・欠点を
指摘しあう、知的(なつもりの)遊戯である。


 今回、もっとも難解であったのは、

・火影がただの影になるまで声をあげわかるよきみたちの来世は鳥

 新進気鋭の、大学院生の歌。

 歌集を出されたばかり、またその歌集が、
アマゾンで2位になっているという、
注目の歌人の歌である。


 しかし、彼女の歌をわたしはよくわからない。

 これが正直なところである。アマゾンで2位になっている
ということは、その歌集を読む読者がうんといる、
ということだろうが、短歌歴30年のわたしにわからないものが、
短歌をしらないひとに通じるのか、どうか。

 あるいは、すでにわたしが劣化して、
もう「お呼びでない、こらまた失礼しました」って、
植木等のようになっているのか。


・火影がただの影になるまで声をあげわからないきみたちの来世なんかは


ま、こんな歌なら、うーん、すこしはわかるような気がするが。

しかし、歌会のメンバーは、これに、ああでもない、
こうでもないと、コメントをしていた。

偉いねぇ。


さ、休憩。


宮○さんがトイレにいく。

かれは、だれがみても巨漢である。
わたしもかなり太いが、その倍くらいある体格。

性格は温厚で、肉食というより草食系。

恐竜でも草しかたべないやつがいるが、
ま、そんなところだろう。


が、かれは温厚なのだが、あまり他を気にしない性格なのか、
じっさい、他人を気にすれば、もうすこし痩せるのだろうが、
トイレのドアも開けっ放しなのだ。


ジョボジョボ


ものすごい音が会場にひびく。

みな顔を見合わせ、この音を聞く。

そこには、新進気鋭のうら若き乙女も、
上品な女性もあまた出席しているというのに。


ジョボジョボ


「聞こえてきますよ、宮○さん。ドア開けっ放しでやるんだから」

「おい、閉めろよ、しかたねぇなぁ」

と、口々に厠にむかって、
いままさに、巨体がどういう格好かを想像しながら、
大きな声をかける。


と、宮○さんは、言下にこう言った。


「全部、聞こえてますよ、ドア開いているから」

ゴキブリが出た2016/7/13

 ひさしぶりにゴキブリを見た。 

 黒い大きなヤツである。 
ま、大きいっていってもニンゲンからみれば、 
親指くらいの大きさ、ニンゲンに勝てるわけない。 


 しかし、一匹いれば、その陰に30匹はいるとおもえ、 
というのがゴキ君との付き合い方である。 

 ということは、その30匹がいっぺんに出てくれば、 
その裏に900匹がいる計算だ。 

 そして、その900匹がいっぺんに出れば、 
2万7000匹のゴキ群がいることになる。 

でも、いまは、この一匹だけなのだが、 
そのゴキ君、となりの部屋をすばしっこく動いて、 
玄関の隅にもぐりこんだのだ。 

となりの部屋というのは101号室のことであり、 
無人である。わたしが着替えたり、 
風呂にはいったりするだけの、 
ひどくもったいない部屋なのだ。 

だから、ゴキブリがいようと、 
ネズミがいようと、アナコンダがいても、 
ふだんは、我関せず、どうでもよいのである。 

が、やはり、こいつは始末せねばならない。 

わたしはクロックスを構えて、出てきたところを 
一撃、と待つのだが、むこうも殺気を感じたのか、 
隅からぴくりともしない。 

なにしろ、ニンゲンに換算すると、170キロくらいの 
スピードらしい、あの走り方は。 


さっき、コンビニに寄ったので、 
ゴキブリ用のスプレーでも購入しておけば、 
こんなときに役立ったのに、と後悔。 

後悔さきに立たずというが、さいきんは後悔あとに立つ、 
というのもあるそうだ。 


で、この沈黙がしばらく続いてラチがあかないので、 
わたしは、しかたなくハエ・蚊用のアースジェットを 
玄関にぶちまけた。 

玄関は、雲仙普賢岳の火砕流のごとく、 
まっしろになりわたしの足元が見えなくなるくらいだった。 

でも、しょせんハエ・蚊用である。 
太古からの生き残りの、ニンゲンにとっては無用の 
黒光りした生物は、そんなにヤワではないだろう。 

わたしは、あきらめて自分の部屋にもどった。 

それから、しばらくして、101号室のドアを開けたら、 
なんと、あのたくましいはずのコックローチが、 
仰向けて、ヒクヒクしているのだ。 

驚いた。 


ハエ・蚊用でも、ゴキブリは死ぬのである。 

それとも、さいきんのゴキブリは、いまの若者のように、 
軟弱になってしまったのか。 


わたしは、戦勝の喜びよりも、 
むしろ、ここにこうやってひっくりかえり、 
いまにも死を迎えようとしている 
わたしの敵に、

はかなさと情けなさを感じてしまったのである。


「おい、しっかりしろよ。ハエ・蚊アースで死ぬなよ」 


わたしは、心のなかでそうつぶやき、 
クロックスのつまさきでピチュッて 
介錯をしてあげたのだ。 


しかし、虫というのは、こういうふうに害虫とよばれるものから、 
益虫といわれるものまで、種々雑多ではあるが、 
どの虫も、親のしつけがいいのだとおもう。 

あれは、よほど前もって親が教えてないと 
ああはゆかないだろうね。 

ニンゲンなんて、その点、醜いよ。 
戦争映画を見たまえよ、 
だら~として死ぬやつ、丸まって死ぬやつ、大の字で死ぬやつ、 
さまざまだ。 


だが、虫のお行儀のよさったら、 
蜂でも、チョウでも、カナブンでも、ハエでも、そしてゴキブリでも、 
死ぬときは、往生をねがって、 
みな両手をあわせて死ぬじゃないか。

タンポポがはえていた。春の話2016/7/11

毎日鼻血がでる。

だいたい夕方なのだが、それが、ほとんど毎日なのだ。


理由はわからない。

花粉症なのか、
それともかんがえたくないが、
福島からのあのおそろしい物質のせいか。

だいたい7、8分は止まらないので、
止まるまではじっとしていなくてはならない。
けっこう続くから、
それなりの量が見込めるのであるが。


ところが、きょうは日課の
5キロのジョギング中にそれが訪れた。

なんとなく鼻が濡れているな、とおもったら、
すでに生ぬるく錆び臭いものが垂れてきた。

まずい。

そりゃまずいよ、ジョギング中の所持品は、
携帯と財布だけだ。

タオルもなければ、ちり紙などあるはずもない。

わたしは、走りながら、
人差し指を鼻の穴につっこんだ。

だが、これはうまくゆかない。
すぐに手が赤く染まってしまう。

まるでホラー映画だ。

両方の手が血だらけ、
でも、拭くものがない。
鼻血は依然としてたらたら生産されている。

おそらく顔も返り血を浴びているだろう。
なにしろ鏡もない。

それでもわたしは走っていた。

と、舗道のすみっこに
タンポポが生えているのが目に入った。

さすがに春である。
野生のタンポポはすくすくと黄色の花をつけている。

やむをえず、わたしはそのタンポポをちぎり、
まるめて鼻に詰めた。

溺れるものは藁をもつかむ。
いや、溺れるものはタンポポも詰める。

もう、なりふりはかまっていられない。

すれちがった初老のおじさんが
「だいじょうぶですか」
って声をかけてくれたのも、
よほどわたしの姿が凄惨・壮絶だったせいだろう。


血だらけで走りつづけるタンポポ男。


ばかだね。


700メートル先に公園があり、
わたしはようやくトイレットペーパーをゲット。
それをくるくる丸めて
それからは早歩きに変えて帰宅する。


だから、最後の2キロくらいは
わたしは鼻に紙を詰めながらの
ウォーキングだった。

でも、だれもわたしが気にならないとみえて、
みんなネグレクトして通りすぎた。

家に帰るや、
三階から妻と娘が降りてくるときだった。

具合がわるいときは
タイミングまでパッドタイミングだ。

ジャージ姿で鼻に詰め物をした夫や父は
とうぜん、好意的には見てもらえず、
なんか二、三の捨て台詞を言われ、
そしてわたしは部屋に戻った。


でも、タンポポを詰めたところだけは
家族に見られずに済んだのがゆいいつの救いだった。

伝説のひと2016/7/10

生きながらにして伝説となる人物がいる。

 フォーク界なら「高田渡」。
 われらの仲間では「星野清」だろう。
 声楽家としても、カールオルフの研究家としても有名なのだが、

イタリア人みたいに仕事が大嫌いなんで、

大学教授のポストも公立の教員もみんな断ったり辞めたり。
 イタリア、ベルカント唱法の第一人者、

ダルフィヨールに師事、その筋でも名が通っていたのに。


 で、ここ数年は好きな釣りに静岡まで足しげく通っている。

いまでは「静浦」一帯の釣り人をほとんど家来にしている。

 

 


 かれの狩猟本能は伝説にふさわしい。

夜中の防波堤、コールタールのような海。

風もつよく、海の表面は波の高低にしたがい

星のあかりだけが「うねる」ようにしろくひかる。

海は、そういう意味では「いきもの」なのだ。

夜の海は、ゆったりと、

だが、にんげんをこばむように動いている。

防波堤にたたきつける波の音が

あの世とこの世の境のように響いてくる。

 

 

 そのなかにたたずみ釣りをするものは、

どこかに、なんらかの後ろめたさと

畏怖を抱かずにはいられないのだ。

 


 と、なにかに反応したように、

かれは玉網をとりだし、防波堤に腹ばいになりながら、

海面をざばっとすくう。

それは、寝たままの素振りである。

が、網を持ち上げたその中に、なにものかがはいっている。


 ワタリガニだ。


 星野さんの玉網にはワタリガニが入っていたのだ。

十五センチくらいの中型。


 真夜中の漆黒の世界から、

一匹のワタリガニが名人の手によってすくいだされた。

 


 まず、ここの海に「ワタリガニがいる」ことを

「知っている」ことにも驚くし、

この、暗黒の闇からたった一匹のワタリガニを

「捕獲する」のにも舌を巻く。


「ほら、やるよ」


 と、防波堤に揚げられたワタリガニを

わたしにぽんと差し出した。

ヘッドライトに照らされたワタリガニは、

菱形の甲羅にその倍くらいある細いはさみをもって、

じっとしている。カニもびっくりしたろう。

 

じぶんの真夜中の隠密裏の行動を、

ひとりのにんげんに察知され、

こうして、陸に拉致されたのだから。


「あ、ありがと」


 わたしは、この無意味な被害者の背をきゅっとつまんだ。


 と、「やつ」は二本の細長いはさみをのけぞるように

うしろに持ってきて、わたしの手の甲をぎゅーと挟んだのだ。

 

 

 


 不意のできごとだった。

まさか、こんなにふうにはさみが背中にまわってくるとは。

その激痛に、わたしは、おもわず

「うっ。痛っ」と声を洩らした。


 見上げると、星野、笑ってやがる。

それは、ワタリガニとの共謀ともおもえる笑い方だった。



 伝説となるひとは、

やはり、偉大だ。

自然のなかに溶け込んでいるのかもしれない。

だからからか、かれだけ、たんまり黒鯛を釣って、

さあ帰ろうと片付けをしていたときだ。

たぶん夜中の二時をまわっていたろう、

かれは、じぶんのはずしたリールを海におとしてしまった。

 


 名人の手からこぼれたのだ。

かれの所有するリールは、

わたしの持っている五千円くらいのチープなものとはちがう。

七万円はする高級品だ。

玉網ひとつでも五万円くらいするからね。


「あ」とかいいながらも、七万円は海底ふかくに沈んでいった。


「もう、ずいぶん使ったから、いいですよ」


 名人は紳士であった。

けっして、怒らない。

この二十年間、かれが激昂したところを

いちどもみたことはない。


 わたしなぞ、針につけるエサのちいさな

カニにゆびをかまれたとき、

あまりの痛さに、「このやろ」っていいながら、

そいつをとっさに手のひらで、

べちゃっと潰してしまったことがあったが、

それを横で見ていた星野さんは、


「ああ、ひどいなー」

と、困ったような顔をしていた。

 

わたしは、わたしのウィークをよくかれに

目撃された、が、かれは、かれのウィークを

わたしに見せたことはいちどもなかった。

 

 黒鯛は防波堤から「すかり」で吊るされている。

いま、大事なアイテムを失ったばかりの名人は、

動揺も見せないままするすると、戦利品を引き上げた。

 

 

 


 と、そのときだ。

奇跡はおこった。

伝説は伝説を呼ぶのか、

かれには、あたりまえのできごとなのか、

おおきな神がおおきな掌を差し伸べているのか、

わたしにはとうてい理解のつかないことだった。

が、しかし、そのとき、わたしは確実に、

かれが自然と同化していることを目の当たりにしたのである。



 引き揚げた黒鯛の頭にリールが乗っていたのだ。

命日に2016/7/10

相模大野に行く。
O矢君の命日だから。
いっしょにM子と駅で待ち合わせ。

また、M子は遅刻。
O矢君とM子は大学時代からの友人。

いま、県立高校の先生している。
わたしとは25年来の友人だ。

いつもO矢君のうちに行くとき、

彼女の乗ってる小田急線が停まるんだ、ふしぎ。

だから30分遅れで到着。

一年ぶりに会う奥さんは元気そうでよかった。
こどもたちもすくすく成長している。

 2年生のぼくは学研に通い九九のおけいこ。

 お寿司をごちそうになる、
なんでこんなにうまいものが世の中にあるのか、
日本の文化を堪能する。

 関さばってどうしてあんなにおいしいの?

 ちょっとほろ酔いでお線香をあげる。不謹慎だなあ。


 仏壇は2階にある。わたしが素人のお経をあげる。

三回忌の法要をやってないので
ちょうどよかったみたい。


 奥さんもこどもたちもM子も同席。

法華経をすこしかじりお焼香。


 と、ふしぎに身体がかるくなる。
お風呂上りみたい。奥さんもM子も同様に、

とてもすっきり、すがすがしくなっている、という。

「家の空気が軽くなってます」
と奥さんはあたりを見渡す。

 えー。法華経、すごいな。こんなことはじめて。

 O矢君が(43歳で)亡くなってから、

家の電気がかってについたり、電化製品が壊れたり、
こどもを夜叱っていたら、電話が鳴ったり、
(無言電話が鳴ったらしい。

それもナンバーディスプレーにはだれからという表示がでなかったそうだ)


 どうみてもお父さんの存在をしめす信号がでている。

やっぱりO矢君まだいるんだな。

ずいぶん長いこと居座って、

9時ごろおいとま。家族総出でお見送り。


駅までふたりで歩く。

「こどもかわいいね」とM子。
「三人もいるじゃん」
「え、もっと欲しい!」
M子はざんねんながら離婚している。

だからというのではないが、
わたしは彼女を横目でみながら、

「そう、しかたないなあ」

モノレール 推敲ものがたり2016/7/7

短歌に興味のない方は、これより先は、おすすめしません。

 

映画「イキガミ」を観た。

あんな恐ろしい国家権力が発動されたら、
日本はどうなるのか。

で、象徴的なシーンとして「若者の死の宣告」のあとさきに、
モノレールの映像が意味なく(ほんとはあるのだが)流れる。
それも、露出をアップさせて、やけに白い映像なのだ。
そして、その映像は画面が真っ白になって消えてゆく。

この瞬間が歌にできないかとおもった。
そして、そののち歌会の締め切りまで、あと一時間。

ふみまろさんから催促のメール。

焦るぜ。



・なつぞらに白きレールはのびゆきぬ死期へとむかうひかりまといて

「なつぞら」という限定はどんなものか。映画は夏っぽかったけれど。
不要である。「ひかりまといて」もありがち。

・モノレールのレールはそらにのびてゆく明日かもしれぬ死をまといつつ

まだ、ましかもしれない。「のびてゆく」がほんとに間延びしている。
「て」という助詞もいけない。
「明日かもしれぬ」も散文的。

・モノレールのレールが空にのびるごと明日かもしれぬ死がしのびよる

「ごと」はダサイ。「死がしのびよる」徒然草じゃないんだから。



・なつぞらにしろきレールがのびるごとあすかもしれぬ死はしのびよる

「なつぞら」に戻す。が、やはり、季節を限定しないほうがいいだろう。
「死は」の「は」も限定だな。


・なつぞらへ白きレールはみちびかれモノレールという器に乗りて

ここで「みちびかれ」という語を発見する。「器」か、
河野裕子さんみたいだな。なんか、こういう語は、
そう言われる。器というと河野裕子、リテラシィの問題だけれど。


・喩えれば末期のひかり みちびかれモノレールという器はありぬ

・喩えればあまりに明るい死化粧 モノレールという器ははしる

このへんはやけくそ。ふみまろさんの至上命令が出て、
一時間での推敲だから。


・モノレールのレールは夏の空のなか明日かもしれぬ死を連れてゆく

この辺で、あと締め切りまで十分を切る。
決められない。
何とかは、何とかの中、何かを連れてどうしてゆく。
こういう構造は、単純すぎて、すらりと読み流されてしまう。
三句切れはやはり弱い。

最後の手段。二句切れ。そして「合わせ鏡」の手法である。


・死の朝は淡きひかりか みちびかれモノレールという器に乗りぬ

「みちびかれ」も活きている。これをとりあえずの最終形にする。

ちなみに、
わたしは口語短歌だから「という」を「とふ」などには
できないし、この字余りがなんともいいのだ。
舌足らずで。


ま、そののち歌会では、ふみまろさんの同情票以外は、
そんなに高い評価ではないが、一時間のうちに
これだけの推敲をしたのだ。

これはちょっとしたアクロバシィである。


でしょ。

「わ」の話2016/7/6

 商店街の役員のあつまりがあったようだ。

 北本会館の5階に、
お歴々があつまって、
わたしが、ちょうどそこを通ったときに、
そのお歴々が、三々五々エレベータから出てきたところだった。


 わたしは、役員さんとは気の置けない仲ではない。

 むしろ、煙ったい存在だろう。

 なぜなら、わたしはなにひとつ隠しごともしないし、
不正を見逃すことはしないからだ。

 そんな言い方をすると、どこかに不正や
隠しごとがあったようにおもうかもしれないが、
そこは、口を閉ざすしかない。


 武士のなんとかってやつだ。


 だから、北千束西自治会の会長が、
5月にTさんになり、西自治会の会計がTさんの奥さん。
回覧板などすべて仕切っているのがTさんの義理の母のような、
なんでもありの、常識をくつがえす人選にも、
わたしは、看過しているくらい、
温厚なのである。




 ぞろぞろと役員さんが出てくるなか、
最後に自転車屋さんが出てきて、
自転車に乗ろうとしたところだ。

「お疲れ様」

と、わたしは社交辞令をひとつ。


と、自転車屋さんは、「あ、しま坂さん」
と、自転車をくるりとわたしにむけて、なにかを言おうしている。


このとき、わたしは自転車屋さんに借金はない、
不法投棄をしたことがあるわけでもない、
なにか、まずいことを、かれにしたこともない、
と、ほんの数秒で、ネガティブキャンペーンに
すべて、ノーをだしながら、

「はい、なんでしょうか」
と、あいさつをした。


「うちの孫なんですがね。国語辞書」

「国語辞書?」


「あなた、執筆者になってますね」

「あ、むかしね、清水書院」

「うん、なんの本屋かしらないけれど、
孫がもらってきた国語辞書にあなたの名前がででいるんです」


「あ、そうそう書きました、辞書ね」

「いや、それだけです」
と、自転車屋は深々と頭をさげて、しずかに帰って行った。


そーか、そういえば、おれはむかし国語辞書の執筆を
手伝ったことがあった。

すっかり忘れていたのだが、
あのときは、卓上版の国語辞書をすべて机上におき、
それとは、べつの表現をすべく、
何語か、原稿を送った覚えがある。


いまでも覚えているのは、「わ」である。


「ああ、じゃ、しますわ」の「わ」である。

性差のもんだいではなく、男性でも使うときがある。


「行くわ、行くわ、しかたない」

なんてときにも使う。

しかし、このときの「わ」を説明した辞書は、
三省堂にも岩波にも角川にも小学館にもない。


清水書院の「わ」の項目には、こう付記されている。


「消極的な決意・所存をあらわす」

うん、このひとことは、わたしのオリジナルフレーズなのだ。

これは恥ずかしかった2016/7/4

 学生さんで、
それはそれは、大柄な方がみえた。
4人のグループだ。

 おまけに、坊主頭。
三分刈りというのだろうか、
スキンヘッドにちかい。


 大盛ラーメンにぞうすい、と
うちではわりに大食の方のコースである。


 そして、わたしはその学生さんを
よく知っているつもりだったので、
声をかけた。

 と、かれは、

 「ともだちに言われて、はじめて来たんです」
と、答えた。


 いや、そんなはずはない。
ちょくちょくご来店しているはずだ。

 なぜなら、わたしがよく知っているからだ。

 「あれ、はじめてですか。
わたしお客様を知っているんですけれど」

「あ、おれ、いちど見たら忘れないとおもいますよ」
と、笑っている。


 と、すこし考えて、おもいだしたのだ。

駅前の四川屋台である。


 四川屋台は、
大量の、鶏を揚げた油淋鶏を
630円で大放出する店である。


 そこで、かれは、洗面器くらいのどんぶりに
ご飯をいれて、もぐもぐ食べていたのだ。

わたしは、その対面で、担担麺を頼んでいた。


 ちょうどおんなじ時間に、かれと対面で、
同席していたのだ。

 その一回の印象が、脳裏に焼き付いていたわけだ。


 「あ。わかりました。お客さん、月曜日、
四川屋台で、ものすごいどんぶりで、
定食食べていたでしょ」

「あ、そーかもしれません。おれ、あそこじゃ、
いつも大盛のご飯だから」


「あ、そーでした、そーでした」

「あ、あのぉ」

「はい」

「担担麺食べてませんでした」

「あ、そーです」

「わかりました」

「わたしですか」

「はい、担担麺にものすごく野菜いれてませんでした?」

「あ、そーです」

「わかりました。わかりました。
その野菜、コップのなかに落としてましたよね」

「あ、あ、そうです」

だれにも気づかれていないとおもっていたのだが、
わたしは、四川屋台に行くと、いつも、担担麺のなかに、
大量の机の上に置いてある野菜を入れて、
それにかぶりつくという、とてもみっともないことを
していたのであるが、まさか、
それを指摘されるとはおもいもよらなかった。

そして、その野菜をコップのなかに落としてしまったのだ。


ほんの十数分の時間なのだが、
かれは、いちど見たら忘れないという人物らしいが、
わたしなど、まさか、そんなふうに
ひとの脳裏に焼き付くとは。


やはり、ラーメンの中に野菜をどっさりいれるのは、
相当、かわっているのだろうか。

あるいはコップに野菜を落とすやつは
めったにいないのか。


恥ずかしいじゃないか。

白金三人ものがたり2016/6/30

「Mちゃんの彼、どこにすんでいるの?」

「浦安です」

「あ、浦安・・・あの土地悪いよ」

「え。そうですか、そうかな」

「うん、なんかね、沈んでいるっていうの。
むかし関わった人が住んでいてね」


「関わったひと?」


「あ、いいの、いいの。昔のことだし」


「昼何にするか」


「わたしなんでもいいけど、鰻以外」
と、Pよんが口をはさんだ。


「そうだよな、食えないんだよな」


「それとピール」


「じゃ、鰻とピールを一緒に食べちゃうとどうなる?」


「救急車やね。点滴打ってもらわんと」


「ところでさ、『アナフィラキシィショック』って知ってる?」

と、Mちゃんはちょっと首を横にまげた。


「ほら、あるやん、ピーナッツとか蕎麦とか、
食べると湿疹ができたり、ひどいと死ぬよ」
と、Pよん。

「アナフィラ・・・」
と、Mちゃんは覚えられない。

「だから、篠山紀信チョップって覚えればいいんだよ」

「えー、そっちのほうがわからんって」
と、Pよん。

Mちゃんも笑っている。

「ところでさ、Mちゃんてネオテニィだよね、よくも悪くもさ」

「ネオテニィ?」

「幼いまんま大人になることらしいよ」
と、Pよん。

「そうそう、幼形成熟。ま、にんげんはだれしも
ネオテニィの部分を持っているんだけれどね」

「ネオトニィ・・」

「違うよ、それじゃ『ネオ』と『ニィ』みたいでしょ。ネオテニィだよ」

「あ、わたし、以前、だれかからそんなこと言われたことあります。
えっと、あ、アンビバレンツ・・」
Mちゃんはぼそりと言った。

「それさ、全然違うから」

Pよんも傍で笑いながら、
「それって、カタカナだけじゃん、共通しとるの」

「アンビバレンツってのは、
両面感情ってことで、
哀しくてうれしいみたいなの言うんだよ」

「あ、そうですか」

「で、Mちゃん、たまには『やすうら』に行くの?」
と、Pよん。

「あのさ、やすうらじゃなくて浦安でしょ。
もう、方向感覚がないだけじゃないんだから」
そう、わたしは答えた。


「篠山紀信・・」

「それは、アナフィロキシィショックね」

「ネオト・・」

「それは、ネオテニィ」

Mちゃんは二つの外来語を覚え、
Pよんは千葉の片田舎の地名をひとつ覚えて、
三人は、目黒でわかれた。

右耳・左耳2016/6/30

 

 今井美樹のアルバムをもらった。

娘の母からである。わたしの誕生日のお祝いらしい。

ビニール袋に入っていただけで、リボンもメッセージもないものだから、

お祝いかどうかはわからない。

そもそもわたしは今井美樹のファンではないし、

ユーミンのカバー曲だというから、むしろ、これは、妻の好みなのである。

どうも、わたしが聞き飽きたころに、

この寄贈品をじぶんがぶんどろうとしているのではないかと、

そんな邪推が起きるのもしごく当然のことなのである。

ひょっとすると、これは「塩」なのかもしれない。

 

しかし、今井美樹の声はうつくしい。ギフトだ。

妻の声の良さは布袋さんも言及している。

声質だけは、どうすることもできない天性のものである。

うっすらと微笑しながら歌う彼女の姿が容易に想像できる。

 

にんげんの脳は、右半分が感性、つまりパトス脳、左半分が理性、

ロゴス脳に分離されていることは、周知である。そして、

脳の信号は屈折をしているから、左半身は、パトス脳が支配している。

右半身は、その逆、ロゴスの領域だ。

 

 彼女の澄んだ歌声は、つまりは、左半身が反応してインプットされる。

つまりは、左耳がそれを聴くのである。雑音は、右耳が引き受ける。

たとえば、虫の声など、日本人は風流の代名詞みたいに左耳が反応するのだが、

欧州人は、ぱかだから、あれを雑音、つまり道路工事の音と区別つかず、

右耳からインプットされるという。なんと、悲しいことか。

ベンツなんか製造してないで、虫の声に優雅さを学べ。

 ちなみに、電話で恋を語るときは、左耳に電話を持ってゆき、

仕事の電話は、右耳に持ち換えるというのがにんげんの本能的所作らしい。

 

話がずれてしまった。

ようするに、わたしは、運転中に、中央フリーウェイを聴きながら、

そんなことをおもっていたのである。

 いま左耳から、このメロディは流れ込んでいるんだなぁ、なんて。

ん? と、すると、わたしは、

ミスターチルドレンとか、ビーズとか大嫌いなのだが、

ことビーズなんか、歌い出しが、「うりゃ~」とか、

「うぉ~」とか、掛け声のような、雄叫びのような、

そんな悲鳴からはじまる歌ばかりじゃないか、

あれは、わたしには「雑音」なのであるが、

ということは、ああいう、バイオレンスな曲は、

わたしには右耳からインプットされていたのではないか、

と、改めて気づく次第なのである。

 

 そうすると、たとえば、ターザンのあの叫びは、

はたして、おれは、右耳で聞いているのか、あるいは、

左か。うん、微妙じゃないか。

 あ~、あ、あ~。

 ただの雑音か、けものたちを統御する美声なのか。

はたまた、欧米人はターザンのあの声をどっちの耳で

聴いているのか、研究の余地がありそうだ。

 

 さいきん、宇多田ひかるの、ファーストラブを聴いている。

あの曲は、まちがいなくゴーストライターがいるんだろう。

詩もメロディもよすぎる。

悲しいラブ・ソング、なんて語彙がころっと生まれるわけがない。

でも、うつくしい。わたしは、ユーチューブという

すこぶる便利なアプリ(?) でこれを聴いてるのだが、

やはり、今井美樹とおなじく、

左の耳から歌姫の声をインプットしているのだ。

だが、宇多田の画像だけは、右目で見ているのである。

 

 

かれの答えのあとは書きません2016/6/29

 聞き違いってのも
はなはだしいのだが、
むかし、いっしょにPTA活動をしていたひとが、
コンビニのレジにいる。


 
「あら、どう元気?」

「はい、会長もお元気で」

「はいはい、そちらもお変わりなく?」


「え。お金がなくって?」

「ちげぇょ、お変わりなくって言ったんよ。
あ、もちろん金もないけれども、は、は、は」
と、わたしは笑ったのたのだが、
どうすんだよってくらいは、明日も明後日もそうだろう。


こまった、こまった。


昨日の夜は、練馬で授業だった。


環境の話である。J ・J ・ギブソンっていうひとの話。

このひとは、生態心理学の創始者で、
環境は有機体に「刺激」を与えるという概念をくつがえし、
環境によって実在する有機体が
その生活する環境を探索することによって
獲得することのできる意味や価値であると説いたひとである。

と、ま、ややこしいわな。

これをアフォーダンスというのだが、
そんなこと生徒さんに言っても右から左。


だから、手を換え、品をかえ、
余談に花を咲かせ、この場をしのぐのである。


「海で泳いでいるときさ、サメが来たとする、
さて、どんな方法で撃退するか、知ってるか?」


このクラスは、ノリがよく、上流から流れてきたもので、
ひとの生活を知った須佐能の尊だが、
なにが流れてきたか、という発問に「うんこ」と答えた
クラスである。


ほんととは、箸なのだが。


さて、サメの話。


これは、だれから訊いたかわすれたが、かなり
有効な手段らしい。

この解答は「乾電池」である。


乾電池を海に入れると放電がはじまり、
この電波がすこぶるサメを刺戟して、
サメは這う這うの体で逃げ帰るらしい。


乾電池というものは、相当な威力なのである。


で、わたしは、この答えをひっさげて、
端からずっと答えを聞いてみた。

ほとんどの生徒さんが「わからない」と
首を横に振る。

と、毎回遅刻して、毎回予習をせず、
ほとんど成績の上がらないY君が、
口火を切った。

わたしは、かれのこの答えを聞いて、
ほんど仕事をわすれて抱腹してしまったのである。


その答えはこうだった。


「死んだふりをする」

保土ヶ谷を巡る冒険2016/6/28

 きょう、税理士先生のところに行ってくるよ。

わたしがそういうと「じゃ」と妻がいう。


 この「じゃ」とは、崎陽軒の弁当を買ってこい
という合図である。


「でも、いまおれ金ないからな」

「いいじゃなぃ、そのくらい。あのお弁当
いちばんおいしいよ。たけのこも、おいしいし、
なにしろご飯がひかっているから」


 税理士の先生のオフィスは保土ヶ谷にある。
横浜から、横須賀線でひと駅。

 そこから徒歩15分である。


 わたしが税理士の先生のところに行くときに、
大門亭のイワイさんに、麺を届けることにしているのだ。


 大門亭というラーメン屋は、
星川という、相鉄線というほとんど死にかけている路線の、
ほとんど駅前なのに、ほとんど死にかけている店である。

もう40年もつづく老舗で、かつ、
なにを食べてもまずい。

 だけれども、30年来の付き合いの店で、
わたしを「せんせい」と呼んでくれる稀有な方でもある。

 麺は、ミノリフーズから取っていた大門亭だが、
あの、食品偽造の権化のようなミノリフーズは倒産。

で、うちの仕入れている製麺所を紹介したら、
「こんなにうまい麺はない」と絶賛。


 わざわざ東京から宅急便で取り寄せているのだ。
だが、わたしが税理士の先生のところに行くときに、
わたしが、車のトランクに乗せてくれば、
郵送料はタダということで、
たまに、わたしが佐川急便になるのである。


 で、きょうが、その日だった。


 店を2時30分までし終えて、
家にもどり、車をだそうとしたが、机にあるはずの
免許証がない。

 どこをどう探してもない。



 こまった。


 でも、店には150グラム、120食の麺がどーんと置かれている。

総量18kg。


 段ポールの箱はさながら熊本城の石垣のひとつくらいの大きさである。

 今日運ばないと、麺は劣化するはず。

 でも、車がない。


 そこで、わたしはこの段ボールを
電車で運ぼうとおもったのだ。
宅急便なら一日かかるし、金もかかる。

 それに、この麺をまっているイワイさんがいる。

 もともとも、イワの付く名前は妬み、嫉妬の象徴である。

 お岩さん。磐井の姫。

 磐井の姫は木花開耶姫(このはなさくやひめ)という富士山に
祀らている姫をエンエン恨んでいるという。


 倉庫から古いキャスターをだして、
しかたない、わたしはTシャツにバスケットパンツで、
がらがらと18キロを引きずりながら、
駅にむかい、大岡山、自由が丘、横浜、星川と、
東急線、相鉄線と二度、乗り換えながら、
これを運んだのである。


 乗客のつめたい視線をなんどもあび、
ホームへ降りるたび、この箱を抱え、
汗がしたたりおちるのを首に巻いている
ジャイアンツカラーのタオルでぬぐいながら、
星川に着いた。

 が、星川の駅という、瀕死の駅には、
最後の階段にエスカレータがない。


 しかたない、わたしは18キロをまた抱え、
階段を降りはじめる。

 体力の限界のように感じた。

 と、店からイワイさんが出てきた。

「あ、せんせい、どしたの」

「あ、お父さん、どしたのじゃないよ。
電車で来たのよ」

「なんでよ、車は」

「免許証がなくってさ、はい、品物」

「あ~あ、いいのにさ、そんなこと、でも、
階段降りてくるとき、太っとい足でよ、だれかとおもったよ。
どこの百姓が降りてきたかとおもったよ」

「なに言ってんのよ」

イワイさんがつめたいお茶を出してくれた。


「なんか食べてく?」

「いや、これから保土ヶ谷行かないと」

「あれま、じゃ、おれ、送ってやるよぉ」

大門亭の店主は、店を閉めて、わたしを
20年前の軽自動車で保土ヶ谷の駅まで送ってくれ、
わたしは、その足で税理士の先生の事務所にむかう。


 そこで書類をわたし、
横須賀線から目黒線で帰るのだが、
けっきょく、この日は、大井町線、東横線、相鉄線、
横須賀線、目黒線と、保土ヶ谷を中心に
ぐるりと、神奈川めぐりをしたことになる。

 百姓とまで言われながら。


 大岡山にもどると夕方6時であった。
きょうは、このあと、バドミントンを二つ離れた街で
練習会があるので、行かなくてはならない。


 家に帰ると着替えて、
こんどは自転車で20分、会場にむかう。


 とにもかくにも、さんざんな一日であった。

 さんざんな一日なのだが、ひとつだけ、
得をしたことがある。

 それは、車でないと、できないことだった。

 妻に頼まれた弁当を買わずにすんだのである。


箱根路にて2016/6/27

箱根の話

 

いまだに忘れられない光景がある。

 父も母も健在で、三人家族だったわたしどもは、
箱根に旅行にでかけていた。

 まだ、わたしが幼稚園のころだったとおもう。

わたしの父は、カメラが好きで、ペンタックスを愛用し、
当時では、めずらしい8ミリも購入していた。

 8ミリとは、いまじゃあたりまえになっているデジタルビデオの
前身で、8ミリビデオとか、カラーテレビとか、
車とか、そんなものを持っている家庭は稀有であった。

 たしか、ようやく我が家に冷蔵庫がやってきたころだったとおもう。

 たぶん、8ミリは、ずいぶんしたはずだ。
父は、それを自慢げにわたしたちに見せびらかした。

 いまからおもえば、8ミリ撮影のために
箱根に出かけたのかもしれない。

 当時は、我が家には車はなく、父も免許がなく、
バスで箱根山を登っていった。

 富岳百景、たぶん富士も大きくそびえていたのだろうが、
そんなことは、幼少のわたしは覚えてない。

 よく覚えているのは、バスが満員で、
わたしどもは座ることなく山道に揺れていたことだけである。

 どこで降りたかはわからない。
トンネルの少し手前の停留所である。

 わたしどもは、そこで降りて、おそらく宿に向かったのだろう。

と、そのときだ。

父が「あ」と、驚きの声をあげた。

 「8ミリ、忘れた」

 バスの荷台に、あのステータスなシロモノを
おいてきてしまったのである。

 父はよくそういうことをした。

 母は、あきれた顔をしたとおもうが、それも覚えていない。
覚えているのは、三人で、がむしゃらに走って、先ゆくバスを
追いかけたことである。

 走る。走る。

 トンネルのはるか向こうにバスのランプが見える。

「待って~」

 母の金切り声。

わたしは、なぜじぶんが走っているのか、
とにかく喫緊の事態がいま起こっていることはわかるが、
なぜ、バスを人力で追いかけなければならないのか、
よくわかっていなかったとおもう。

 とにかく、父と母のうしろを追いかけたのだ。

その間、ずっと母は、金切り声をあげていた。



 バスはつぎの停留所でわれわれを待っていてくれていた。
だから、難を逃れることができたが、
これも、すべて父の失策である。

 あのトンネル内の激走はいまも脳裏のどこかにある。


 さいきん、鏡を見たり、じぶんの写真を見たりすると、
父に似てきたことに気づく。それは、わたしにとって、
なぜゆえか、いい気持ちのするものではない。


 しかし、加齢するごと、こうやって父に近づいているということは、
まぎれもない事実なのだろう。

 やはり、わたしは、
いまでも父を追いかけているのかもしれない。


つぶやき2016/6/27

ツィッターというみょうなものができて、
勘違いのバカをずいぶん排出させてきた。

 だれでもなんでも発信していいと、
だれが決めたのか。


 文章の存在理由というものは、
ひとをすっかり感心させたり、
ひどくいい気持ちにさせるためにある、
そう語ったのは丸谷才一である。

 「つぶやき」という
ひとを勘違いのルツボにおとしいれる語彙をみつけて、
これにバカが便乗する。


 全世界でそうなった。

 ネット環境の精神的インフラが整わないうちから、
すでにネット社会は、取り返しのつかい方向に
走り始めているのだから、いたしかたないと言えばそれまでである。


 すでに化石化されているミクシィにもつぶやきの
欄が加わった。


 つぶやいてもいいけれども、
つぶやきにはつぶやきのルールと、
ノブレスオブリュージュが付加されることを
ちゃんと理解していないと、
文章を他者に発信することはままならぬ、
ということを肝に銘じてほしいものである。


つぶやきだから、
そこに、とんがった感性があってもいいと
おもいこむのは、それは社会に生きるにんげんとしては、
身勝手な振る舞いと、そうおもいたまえ。

友だちともつきあえず、彼女も彼氏もおらず、
いつも、スマートフォンを恋人のように抱え、
そこに、つばを吐くようにひとことふたこと。

日本というより、世界の終焉はこんなふうにして
しだいに朽ちてゆくのかとおもうと、
いささか気が沈んでくるのである。


と、言いつつ、わたしは、きょうも、
「開店しました」とか、ツィッターでつぶやいている。

身体と音2016/6/15

目が見えない動物はいるのだが、
耳の聞こえない動物はいないらしい。

これはセス・S. ホロウィッツというひとが
『「音」と身体のふしぎな関係』という本で
書いているが、身体と音というのは、
じつに関連しあって存在しているそうなのだ。




赤ん坊の産声、さいしょに泣く音は、A(アー)の音らしい。

ちなみに、時報もAの音だ。
いわゆる「ラーはラッパのラー」である。


 これこそ、もっともにんげんになじみ深い、基本的な音階だという。


 そのことは、きょう、婆娑羅の店主といっしょに
スーパーに買い物にいくときに、かれからおそわったことだ。



 この店主の歌声はプロ顔負け、猪俣公章のところで、
以前、ボイストレーニングを受けてたというのだから、
並ではない。

 
 歌合戦でトロフィーを抱いている写真があったから、
素人、日本一なのかもしれない。

で、かれいわく。


 ソの音は、中心だから、心臓にあたるらしい。

 ドは下腹部よりも下の大事な部分と共通する。


 身体と音とは、びみょうに絡み合い、補完的関係でもって、
存在するいじょう、音楽が、この世からすたれることはないだろう、と。


 「女性の喘ぐ声も、ひょっとするとAの音じゃないか」
と、かれは笑いながら、そう言った。


 なるほど、もっとも基幹的な音なんだから、
そうかもしれない、とわたしはすっかり感心した。


 しかし、それを知るためには協力者が必要だ。
そして、音叉かなにか、音程を測る装置も必要だ。


 そして、また、それを知ったところで、なにになるのだろう。

蝉の話2016/6/11

 高橋叔子の歌集の歌評っぽいのを「蓮」という雑誌に
書いたけれども、高橋さんから、

「まじめに書くときもあるのね」って、褒めてんだか、
よくわからないコメントをもらったが、
わたしとて、たまには、真面目な話もするのである。


ある方が上京して、短歌の話が聞きたいって

おっしゃっていたので、 
この話をしようとおもっていた。


 それは「名付ける」ということ。
そもそも、記号というのは、世界分節の差異化であり、
記号によって、ものとものとが区別されている。

 それが「名付ける」ということである。

 で、ひとというのは、いちど名づけてしまうと、
その本質をわすれるという傾向がある。

 だから、ぎゃくに「林檎」という言葉をうしなったとしよう。
そうすると、わたしたちは、果物屋さんで「林檎」を買うのが、
びどく困難になる。じゃあ、どうするか、「林檎」の本質にあたってみて、
もっとも「林檎らしい」表現をさがさなくてはならない。


 「すみません、すりおろしてもおいしい果物ください」

たとえば、こんなふうに。


 「名付け」てしまうと、ひとはその対象物を考量しなくてもいい、
ということを共有している。


 だから「蝉」。


 「蝉」と名づけてしまうと、われわれはすでに「蝉」の
ほんらいをかんがえずに生きている。


 じっさい、喧騒なほどの鳴き方は、暑さの象徴だ。

 しかし、わたしはあの大木のところで
がむしゃらに鳴いている蝉を見て、友人には、
「あの蝉は死んでいるんだよ」と教える。


 蝉というのは、地中に7、8年生きていて、
余命わずかとなると、のこのこ地から這い出し、
危険を承知で、まったくべつの姿となって世に出る。

 しかし、蝉の成虫にとっての世とは、
死の入口なのである。


 そもそも、わたしは、あれを「成虫」とはおもっていない。


 蝉の成虫は、地中の7.8年の姿だと、わたしはおもう。

 だっておかしいじゃないか、細長い針みたいなのが、
口から出ているのだよ。あれじゃ、捕食できないじゃないか。
長生きしたいなら、強い顎がないと。

 内蔵だってほとんどないはずだ。

 つまり、もう生きることをやめにした姿、ということなのだ。

 点滴だけで生きているひととほとんどおんなじ、
にんげんで言うなら、酸素ボンベひとつを渡されて、
宇宙を遊泳するようなものである。


 その、蝉の人生のほんのわずかの時間に、
あんな姿になって、伴侶をみつけ、そして
子孫を増やそうとしている。


 わたしたちは、あの姿に「蝉の成虫」という名前を
与えてしまったことから、あれが「蝉の成虫」だとおもいこんでいる。

蝉の抜け殻というのがあるが、
じつは、蝉の抜け殻ではなく、そこから這い出してきた、
あの透明な羽と、一本の樹液を吸う管をもった、
あれこそが、蝉の成虫の抜け殻であり、
われわれが、言うところの抜け殻は、
抜け殻が置いていった抜け殻の抜け殻なのであった。

 と、とてもややこしくなったので、
まとめるのだが、


 つまり、われわれが見たり、聞いたりしている、
「蝉」と名づけてしまったあれは、
死にながら鳴いているのである。

古事記の話2016/6/8

 授業ネタである。

 古事記の成立は8世紀、750年ころらしい。

稗田阿礼と太安万侶の合作。



 で、その古事記に、須佐能の尊が現れて、
川沿いを歩くのであるが、そこで、
あるものが上流から流れてき、
それによって、上流には人が住んでいるのか、
と、おもうくだりがある。


 須佐能の尊は、上流で泣いている女性にあう。
理由を訊くと、たくさんの首をもつ蛇に苦しめられているという。


 八岐大蛇、ヤマタノオロチのことである。

 そこで、須佐能の尊はこの蛇を退治するという
話ではあるが、さて問題。

 上流から流れてきたものはなんでしょう。


 答えは「箸」である。

 つまり、すでに8世紀のころから、わが国では、
箸をつかった文化がうまれていたことの左証となる
くだりなのである。


 生徒には、もちろん答えを言わずにフリートークさせてみた。

 「はい、マイカ」

「え。桃しかかんがえられません」


 「桃? それ桃太郎じゃないんだから。
 そういえば、さいきんの桃太郎の話、知ってるか、
川上から大きな桃がどんふりこって流れてきた。
そうしたら、お婆さんは、あら、こんな大きな桃、
おじいさんと食べましょって、家に持って帰ったのは
それはいいのだが、
お婆さん、もの忘れが激しいんで、
すっかり、桃があったことを忘れて、
『あらいけない、桃を切りましょ』って言って、
腐った桃を切ったところ、
そこからは、腐った桃太郎が出てきたそうな」


 ま、こんなくだらない話にも、みな笑ってくれて
ほっとする。


 さ、じゃ、なにが流れてきたか、はい、君。


 「死体」


 「あのさ、たしかに浮くものですよ、
でも死体が浮かんでは来なかったさ」


 じゃ、君。

 わたしは、かれのこの答えを準備していなかったものだから、
なんか授業中なのだが、
腹のそこから笑ってしまったのだ。



「うんこ」

高級ドライクリーリング2016/6/5
 うちの店の斜め前が
高級ドライクリーニング、イワモトランドリーである。


 どこが高級なのか、店は昭和初期まるだし。
客が入る場所といったら、ドブ板くらいの幅しかない。

 仕事場はおそらく6畳くらい、その奥に、四畳半くらいの畳。
ここで、イワモトさんは奥さんと住んでいる。

 もちろん、風呂もない。

 ひとりお嬢さんもいたが、これが、また父親似で、
でかい。でかくて、なかなか嫁にゆかなかったのだが、
数年前にやっと、引き取り手が現れて、
いま、葛西のほうで農業をしている。

 
 いつもランニングを着ているイメージだが、
酒は飲まない、飲むものはコーラだけだったが、
糖尿がひどくなってコーラもやめた。


 軽自動車で取引先に洗濯物を取りに行っていたのだが、
駐車場の大家と喧嘩したらしく、
車を、毎日、路上に止めていたが、
ついに警察につかまって、
イワモトさん、車を捨てた。


 だから、いまは新聞屋からもらった、
レトロな自転車で、お得意周りをしている。

 「おい、その自転車貸してくれ」

 ついこの間である、西小山のスーパーに行くのに、
じぶんの自転車が重すぎるので、
わたしの電動自転車を借りに来たのだ。

 それから、それがずいぶん楽だったと見え、
しょっちゅう、わたしの自転車を乗り回すようになった。


 ついでに、空気入れもわたしのを使っている。

 
 夫婦仲はいいらしく、このあいだは、
夫婦ふたりで店を閉めて、どこぞに出かけようとしていたので、

「どこ行くんの」って訊いたら、

「ヤマダ電機行ってよ、マッサージあたってくんだよ」

 ま、そうやって生きてきたのだろうな。


 先日は、うちと取引をしている米屋の米を
10キロ分けたのだが、「安いなぁ」って喜んでいたが、
「あんまりうまくねぇな」ってしぶしぶ。

 「そーかな、じゃ、うちで炊くから、味見してみ」って
翌日、うちの炊飯器で炊いた米をもっていったら、
すぐ、うちに来て、
「ぜんぜん、違うよ、べつもんだ、あれ、おれんちのは、
1万円くらいの炊飯器だからよ」

やはり、すこしいいのを買わないと。


 九州男児で、恰幅もよかったが、やはり病気のせいか、
すっかり痩せてしまって、いま、町をあるくのも、
よろよろである。

「はい、200万円」

いまどき、こんなこというやついないよな。

「となりのエミよ、おれとあってもあいさつもしねぇんだ、
だからよ、おれは、あいつとあっても、なんにも言わねぇょ」


イワモトさんのことを、わたしは「海坊主」って呼んでいるが、
この海坊主は、お向かいのラーメン屋のおやじとも仲がわるいらしい。

うちの店のとなりもラーメン屋なのである。


そのラーメン屋のおやじに言わせると、
「洗濯屋と印刷屋は寿命がみじかいんだよ」って言ってた。


「え、でも、イワモトさんは長生きだよ、もう70だろ」


「んー、あいつはべつだ」

やはり、嫌いらしい。


わたしが、店を終えた3時ころ、海坊主が奥さんと
洗面器をもって立っていて、わたしを見て、笑っている。


「これからよ、ニューヨーク行くんだ、ニューヨーク」

いまどき、こんなこというやついないよな。


去年のクリスマスは・・2016/5/27

 プラグマティズムというのは、デューイというひとが
提唱したかんがえかただが、
いわゆる実用主義とか訳されている。


 日本人が、こうも他国の催しを日本風にしながら、
それを日本文化に取り入れてしまう、このはしたなさと言おうか、
器用と言おうか、そういう心的動向は、
そのプラグマティズムによってである、と、
よく説明されている。


 クリスマスなんて、その最たるもので、
聖なる日であった降誕祭が、日本にわたってくるや、
乱痴気騒ぎのメッカみたいになって、
パーティーだ、とか、お祝いだとかいって、
はしゃいでいる。

 まったくもって俗なる日に変貌させてしまった。

日本人のクリスチャンは1%未満である。
クリスチャンでもないくせに、ちゃんとクリスマスだけは、
お祝いするのだ。すばらしい。

 しかし、だれのためになんでお祝いするのか、
おそらく、その本質を理解して祝うひとがどれほどいるのか。


 そして、一週間も経たぬうちに除夜の鐘。
あれは、仏教だ。

 そして、その翌日。神社に初詣。
あれは、神道だ。

 そして、数ヶ月経つと、バレンタインデー。
クリスチャンでもないくせに。
おまけに、手作りチョコート。

 ただ、湯煎でとかしてどろどろしたものを
もう一度固めるだけを「手作り」と称している。

 手作りなら、カカオから作れよ。

 それは単なる「移動チョコ」である。

日本人は、なんでもこんなふうに日本風にやりたがる。



 よその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が
伝統化されているのが日本文化だというが、
まさに、プラグマティズムの権化である。


 そういう日本人、あるいは日本を
ひとことで言うと「キョロキョロ」だそうだ。


 ただし、ペリーが来航して開国を迫ってきたとき、
このとき、日本が植民地にならずに済んだのは、
その当時のひとたちの功績といってよい。

 明治政府、というかそのときの日本人は、
江戸というのんびりした時代、これを岸田秀というひとは、
「苦労知らずのおぼっちゃん」と評したが、
そのおぼっちゃんが、つきあいたくもない背と鼻の高い
外国人にお愛想をしなくてはならない。

 付き合いたくないけれども、付き合わなくてはならない。

このとき、当時はどうしたかといえば、
建前では、ペコペコし、本音は、こいつら嫌いだっておもっていた。

 日本人の本音と建前は、このへんから生まれたらしいのだ。

 つまり、そういう二重人格的なやりかた、
もっと言えば、精神分裂を病むというソリューションをとったがため、
どうも植民地化されずにすんだ、というのが、岸田秀というひとの
言説である。

 ただ、植民地化されないかわりに、日本人、あるいは日本の政府に、
ぬぐいがたい亀裂と傷痕とが残ったのである。

 世界は無菌室ではないので、さまざな他国とのつきあいや、
それにともなう痛手を負いながら、国は動いている。

 
 そして、われわれはそういうことにひどく無関心である。

 どこかから注入された流行りものに、じぶんも随行し、
遅れてなるものかと、その流行りものに飛びつく。

 なぜ、それをするの?

 という質問に、「だって流行だもの」と答える愚かさを、
愚かとおもわずに生きられるのも日本人のいいところかもしれない。


 さて、こんな話を授業でしようとしたのだが、
まずは「まくら」ということで、
「みんなはさ、去年のクリスマス、どうしてたんだ?」
と発問した。

 いちばん前にすわっているマリン(仮称)という子、
神奈川のトップ校に通っているのだが、その子に訊いてみた。


「マリン、君は、去年のクリスマスなにしてた?」

と、マリンは「え?」って言ったきり、赤面して下を向いたまま
なにも答えないのだ。


「え。おい、マリン。お前なにしてんだよ」

最後は淀川長治で2016/5/27

これは、江戸時代の記録です。


だから、気象庁もそれを認識していないかもしれません。


 江戸時代。

 300年つづいた、のんびりとした時代。


 家康は火薬の不要説をとなえ、すべての火薬を
廃棄させました。火薬の含有量は、戦国時代、
世界一位であったのですが。


 で、その火薬は、すべて瓦に練りこんで
瓦にしました。いまだに、石川県などに残る瓦は、
黒い色をしています。あれは、火薬が混ざっているからです。


 江戸時代は、不便、ということに重きをおきました。
橋は造らないし、馬車も作らない。


 橋をつくる技術は、日本橋をみれば一目瞭然。

 この不便さが、地方の活性化を撤退させ、
みごと、300年間でGDP1%という、すこぶるひくい水準を
達成しました。

 だから、1650年に生まれたひとも、1750年に生まれたひとも、
そのロケーションに変化はなかったとおもわれます。

 この伸び率、すごいよね。


 が、しかし、ペリーというひとが浦賀にやってきて、
ここでもんだいが複雑になります。


江戸時代という「苦労知らずのお坊ちゃん」が、
亜米利加という国と付き合うことを強いられている。


 開国論と尊皇攘夷論との二項対立といってもいいいわけです。

 日本は、しかたなく開国します。

 が、そのとき、いやがうえでも、つきあいたくない外人と付き合う、
という自分。これを外的自己といいます。

 その、ソリューションを否定し、じぶんはじふんだっていう、
妄想的な美的な自己、これを内的自己といいますが、
そのふたつの心情を、もちあわせながら、
亜米利加さんとつきあうことになったのです。


 これが、いわゆる「本音と建前」の発生となりました。

 そして、このいやでも付き合う「外的自己」と、
じぶんはちがうじぶんがいるという「内的自己」との
言ってみれば、精神分裂症を病むということを、
政府も個人もしたために、植民地化されなかったというメリットがありますが、
それゆえ、救いがたい傷痕を、個人も政府も受けてしまったという
歴史的な事実があるわけです。


 これは、岸田秀というひとの「唯幻論」にくわしいのですが、
そんなことより、じつは、江戸時代の記録に
地震の記事があるらしいのです。

 その記録をわたしは、実地で見てませんので、
ここからはあやしい話です。


 その記録によれば、まず、東北で大きな地震があって、
津波がきたそうです。でも、温暖化による海面上昇もないので、
今みたいな被害はなかったそうです。

 その次の地震は九州です。

 かなりの被害があったようです。

 そして、そのつぎは、広島。

 広島に大きな地震がおきたと記録は語っています。


 ちなみに、いま、四国沖で、プレートに大きなひずみがある、
という発表もありましたね。

 東京大学の地震研究所は、莫大な予算を与えられて、
なおかつ、いちども地震予知をしたことがない、という、
「おまえ、なんのためにあるのかよ」っていう場所もありますが、
それは、それとして。


 で、広島で地震が起きたら、お待ちどうさま、
それこそ関東に来るんです。

 それが江戸時代の記録に残っているんです。


 いわゆる南海トラフという、あれですね。

 南海トラフのプレートは、チリのプレートと類比的で、
いつ、それが滑り出すかわからないらしいです。


 いや、こわいですね。


 おそろしいですね。

 では、みなさん。サヨナラ・サヨナラ・サヨナラ

ある社会現象について2016/5/25

小金井市で二十歳そこそこの子が刺された。
冨田真由さん。

 大学3年生で、かつ、芸能活動をしていた子である。
「地下ドル」とか「ライブアイドル」とか言われた報道もあるが、
どうもそうじゃないらしい。

 「地下ドル」とは、メディアにはほとんど出ず、ライブや
イベントで活躍するアイドルのことを言う。

 被害者は、もともとは役者で、その傍ら、
さまざまな活動をしていたらしい(シークレットガールズにも所属)が、
メディアは、こういう、個別的な事情は煩雑だから、

「地下ドル、刺される」

 こういうふうに「概念化」して報道したほうが、
ニュースバリューもあるし、文字も少なくてすむ。


「概念化」するというのは、個別案件がすべてネグレクト
されるので、ひどく都合がよい。

「いじめ」と言ってしまえば、「あのいじめ」、「このいじめ」が
なくなる。

ほんとうは、さまざまな「いじめ」があるはずだ。
その「いじめ」には、それが発症した瞬間(この瞬間を「零度」という)や、
そのプロセス、結末、すべて、違う経路があるのに、
「いじめが起きました」といえば、それですむ。


だから、「概念化」というものは、「そういうものなのだ」という
ことをわれわれが理解していれば、それでいいのだ。


ところで、この加害者であるが、冨田真由さんのファンだったらしい。

さいきんの、アイドルは、壇上に立ち、近寄りがたい存在とは
すこし違って、ひどく卑近な距離にある。

AKBが現れてからの現象なのか、あるいは、それより前か、
サイン会や、もっと身近にアイドルと接することができるようになったのは、
たしかなことである。


ほんとうは、ファンというのは、顔があってはならない。
アイドルは顔が必要だが、ファンというものは、顔をもってはならない。


ようするに「ファンのひとり」という立ち位置が正しいのだとおもう。

それが、おそらくSNS、ネットの世界の隆盛で、
アイドルと接近する機会が増えたのも原因だろうが、
ひどく身近である。


だから、アイドルにプレゼントをすれば、個別的案件として、
その子の喜びは、じぶんに帰ってくるとおもいこむ。

顔をもたないファンはアイドルからの跳ね返りを期待してはならない。


ところが、まったくの無反応、あるいは拒否的な行為は、
加害者をストーカーにさせた。


ストーカーの、もっともだいじなことは「嫌われる」ことである。


ターゲットに「絶望的疲労感」を味わわせることにつきる。

そうすることによって、その子の心の深奥に、マイナスの感情で
棲みつくことができるのである。


それは、いっしょにいたい、という気持ちの
とても捩れた感情であるのだが、そうすることによってしか、
相手におもわれないのなら、それしかないのだ。


ほんらいのストーカーは、この段階でストーカーの任務は達成されるので、
この段階のまま、それを担保していた。

おそらく、こういう時代が続いたのであろう。

が、さいきんは、にんげんが劣化してきているので、
心が弱くなってきている。


心の弱さは、「抑圧」という精神状態におちいることに、
地続き的に容易である。


「抑圧」とは、みずからに都合の悪い情報を心の番人が、
みずかの無意識にその情報を送り込むことをいう。


詐欺師も、じぶんが悪いことをしていることを抑圧するから、
詐欺ができるのだ。


「抑圧」のはじまった、ファンで、かつ、ストーカーは、
どうして、ぼくがこれほどおもっているのに、
あの子は、ぼくに振り向いてくれないのだ、
という気持ちになる。


ストーカーという、卑劣な加害者が、
あわれな被害者となる瞬間がここにある。


心理学的には「認知的不協和」の逆作用である。


「認知的不協和」というのは、
じぶんがこれほどあの人のためにしているのは、
あの人にじぶんが好意をもっているから違いない、
と、錯誤することをいう。


じぶんが、これほど、好意をもって、
さまざな物的な負担もしているのに、
あの子が、無関心なのは、認知的不協和が作動していない、
と、そうおもう。


これが、殺意の発端である。


ま、こういう一連の心的好意を「馬鹿」といって片付けてしまっても
いいのだけれども、感情の劣化は、こういう
社会現象を、酸が侵食してゆくように
じわじわとうまれているというのが事実である。


まずは、ともかく、冨田さんの回復を祈るのみである。

当事者いろいろ2016/5/23

 「当事者の時代」とう本がある。

 佐々木俊尚というひとの本。

「いつから当事者でもないくせに、
弱者面して、憑依をしてでたらめをしゃべる
ようになったのか」

 たしかに、九州の地震でも、
ちょっと芸能人が、ふざけたことを言ったり、
メディアの車が横入りしたりすると、
まったく当事者でもないくせに、
被害者に憑依して、悪口雑言、さんざん叩くのだ。

 CC化。クレージークレーマー化である。


 と、そんなことを書いたこともあったが、
こんどは当事者の話。


 まだ、分煙されていないレストラン。
サラリーマン風の数名がタバコを吸っている。

 料理が運ばれていないからだ。


 わたしどもも、まだ注文をしていない。

 店はタバコの臭いで空気が淀んでいる。

 と、4名のサラリーマンに食事が届く。
とうぜん、タバコは灰皿に回収される。

 4人が食事をしているあいだは、
空気が清浄になる。そして、わたしたちは、
頼んだ料理をまつ。


 ようやくわたしどもに食事が届けられるころ、
サラリーマンたちが食事を終える。

 と、食後の一服がはじまる。

 それは、わたしどもが食事をし始めたときと
重なるのだ。


 そんな店に行かなきゃいいじゃないか、
というもんだいではない。

 
 喫煙の当事者は、他人の貴重な時間に
土足で侵入し、暴力的にみずからの快楽を
満喫しようとしているようにおもえてならない。


 むかし、まだ職員室がタバコありのころ。
わたしは、職員室が煙いので、冬でも窓をあける。


 副流煙というものは、もっとも害なのだ。


 と、タバコ吸いがこう言う。


 「寒いよ」


 ふざけんな。「寒い」で死ぬやつはいないのだ。

 でも、「煙い」で死ぬひとはいるやもしれぬ。


 当事者には、そういう理路が通じないのである。


 いま、となりが改築にはいった。
ものすごい地響きと、コンクリートを破壊する工具の音。
さながら、行ったことないけれども戦地のようだ。

 三階建てのアパート形式の家だから、
これを壊すのにひと月くらいかかるのじゃないだろうか。


 近隣は、まず昼寝はむりである。


 埃もまっている。

 
 この騒音と地面の揺れと空気の汚れのなかに、
わたしどもはしばらく暮らさなければならない。

 が、この家の主はいまごろ、べつの家を借りて
住んでいることだろう。

 当事者はここにはいないのである。

わからない2016/5/16

 まだわたしが高校の教諭だったころ、
「この子見てください」って女子がひとりの男をつれてきた。

 たしか、一階の生徒のくつろぐスペースで見たとおもう。


 だいたい、男子を見るのは好きじゃなぃ。


 なんで、そいつを見てくれと、女子が言ったかもわすれた。


 しかたなく、左方のすこしうしろ、つまり肩甲骨あたりに
触れて、なにがあるか見た。

 じぶんに、どんな能力があるか、あるいは、
それがどれだけ正しいのか、じぶんでじぶんがわからない、
けれども、なんとなく向こうから語るものがあるから、
わたしは、それを答えた。


「きみさ」

「はい」

「大好きだった先生、女の先生だ、いたでしょ」

「え、はあ」


「その先生、亡くなっているんだけれども」

「はあ」

「その先生ね、白い服着て、『湖ににゆくな』って言ってるよ。
なんか、湖に行くことある?」

わたしも、なんでじぶんが、こんな唐突なことを言いだしたのか、
きゅうに湖だもんな、あるわけない。テキトーなのだ。


「いえ、ないです」

「だよな、ま、いいや、そんなことしかわかんない」

そのとき、四五人はわたしを囲んでいたのだが、
それきり、みなと別れて、わたしは職員室にもどった。


で、その翌日である。

昼ころ、わたしあてに職員室に電話がかかってきたのだ。
めったにないことである。


訊くと、あの男子の母親からだという。


わたしは、まずいことをしたとおもった。


いわゆるクレームだとおもったからだ。


「はい、もしもし」


「わたし、○○の母親ですが」

「はい」


「じつは、こんどの夏休みに、山中湖に旅行に行くことになっているんです。

そのことは、あの子には行っていません。

そして、小学校二年生の担任の先生が

亡くなっているんですが、あの子、゛大好きだったんです。

たぶん、その先生が教えてくれているじゃないかと。

あのぉ、旅行とりやめたほうがいいでしょうか」


わたしは、わたしが言ったことに責任を持たねばならない
ような気になってきた。


ここで取りやめたほうがいいですよ、とも言えないし、
なんとなく頭にうかぶことをご返答した。


「そうでしたか、水に近づかなければいいんじゃないですか。
ボートに乗るとかしなければ」

「あぁ、そうですか、ありがとうございます」

と、母親は電話を切った。


すべてテキトーに答えたわけだ。



このテキトー感を、霊感というひともいるかもしれないし、
能力というかもしれない。あるいは、偶然。
ひょっとすると、お導きと呼ぶのかもしれない。



しかし、はっきり言えることは、じぶんにはわからない、
ということである。



なかよくやろうよ2016/5/12

 ヨーロッパ近代は、自然を克服するのがにんげんの知性だ、
というようなかんがえが横行した。

 三匹のコブタの話などは、典型的な寓話である。


 狼という自然のメタファがけっきょくレンガには勝てない、
というわけだから。


 デカルト二元論などは、その代表選手である。


 じっさい、ヨーロッパの気候は、父性的で力強く、
にんげんにきびしいものであるから、そういうかんがえが
しぜんにして浮かぶのだろうが、

こと、日本は、やわらかい母性的な四季のある自然、
トトロがへいきで飛び出したり、
マックロクロスケがちょろちょろする世の中だった。


 良寛さん、しかり、一茶しかり、しぜんと溶け合って
生きていた(はずだ)。


 ・焚くほどは風がもてくる落ち葉かな  良寛


が、さいきんのひとといったらどうだろう。


自然と調和もとれなければ、共存もできなくなってきた。

まず、いちばんはじめの兆候は、くちびるだった。


冬になるとカサカサで、リップクリームをつけなければ
やってゆけない世の中だ。


三四郎や坊ちゃんが、リップクリームを塗りたくっていたなんて、
そんなくだりはどこにもない。


あんな寒いところに住む駒子でさえ、リップなどつけていた
形跡はない。


それから、紫外線の強さ、これに耐え切れず、
ついに、雨も降らぬのに傘をさすようになった。

このごろは、日傘をもって自転車を漕ぐ女性もいる。


夏は、日焼け止めのクリームがよく売れるだろう。


それから、マスクである。


さいきんは、マスクが多くなった。

花粉、ウィルス、埃、さまざまな外部の「汚れ」を
マスクが守るような時代となった。


わたしが、子どものころにマスクをしているひとを
ほとんど見たことがなかったのは、
とくべつな事情でもないだろう。


むかしは、いたよな。半ズボンにランニングで一年中
ほっつき歩いていたガキが。


オゾン層の破壊をいち早く発見したのは、
日本の越冬隊員である。

 ポカンとでかい穴が天空にあいていたのだ。


もともと、自然破壊をもたらしたのは、
ヨーロッパの産業革命と、デカルト二元論などである。


あれから40年、いや、もっとだな、アメリカや中国や、
諸国あらそって二酸化炭素や有害物質をばらまくものだから、
ついに、にんげんは、自然と仲良く暮らすことができなくなってしまった。


もともと、ヨーロッパ人は自然と敵対的なかんけいにあったから、
それはそれとして、これだけ自然とともにあゆんだ
我が国が、リップクリームにマスクに日傘をつかって
生きてゆかなくてはならなくなったのだ。


そろそろ、にんげんという生物の終焉が訪れるのだろうか。

ホーキング博士によれば、地球はあと二三十年で、
だめになる、と予知しているけれども、どうか。


そういえば、自然と共有できなくなったことの
端的な例は、いまの若いやつらは、
虫がきらいなのだ。



うちの店でも、暑いから入口のドアを開けていたら、
学生さんらしきひとが、ドアを閉めるのだ。


「寒いんですか」

と、わたしが訊くと、かれはこう答えた。


「虫がくるんで」

わからないけれどもね2016/5/11

 田園調布親睦会館にゆく。

 雨。


 あつみ姉さんが事務員としている。


 ここの会館の一隅に田園調布グリーンコミュニティの
事務所があって、そこが、なんだかおかしいというので、
わたしが見にいったことがあった。


 担当者がぞくぞくと具合が悪くなるという。


 わたしにそんな力がないけれども、
お役に立てばということで出かけていった。

 と、驚くことに、畳の部屋なのに、みな、土足であがっている。
そして部屋もすこぶる汚い。

 そして、もっと驚くのは、窓の外に、なにやら得体のしらぬ
不気味さがただよっている。なんだろ。

 たぶん、子どもの霊かも。

 で、あつみ姉さんに訊いてみた。

 「この窓の外ってなんか水が出てなかった?」

 「えっとさ、昔、そういえば井戸があったらしいよ」

 そーか、その井戸のまわりで遊んでいた子達が、
この部屋を通り抜けているんだ、けれども、
その部屋がこんなに汚れていたんじゃ、
なんとかしてくれって、そう言っているのかもしれない。

 わたしは、おもうままに、この話を姉さんに話した。

彼女が信じるかどうかはわからない。


 が、こういうことがわかるのは、
とりあえず、わたしだけなのかもしれない。


 で、いまでは、その部屋は土足厳禁、
部屋もかたづいてすっきりしている。

 病人も出ていない。

 であるけれども、なにか、さいきん、この会館が気になってしかたない。

 だから、わたしは電話をして、
いちど、ここを見てみたいと申し入れたところ、
快く姉さんは了承してくれて、
「それなら、見てくれる?」ということで、
この月曜日にグリーンコミュニティを見に行った。

 と、どうだ、まだ、さわやかな風がしずかに流れているではないか、
なんにも心配することはなかった。

 「だいじょうぶ、取り越し苦労でした」
と、わたしはあつみ姉さんに申し上げ、会館を出ようとしたら、
姉さん、「どう、夕飯、なんか取ろうか」ということで、
わたしは、銀寿しをおごってもらうこととなった。

 たいそう満腹になったところで、いちど洗面所にゆき、
これから、月曜日のバドミントンに行こうとしたとき、
わたしは、ものすごい咳に見舞われたのだ。

 この咳は、病気ではない。

 「なにかがある」ときの兆候なのだ。

 それは、トイレの向かいにある部屋だったのだ。


 そこは、納屋のような場所で、子ども用の神輿が安置されていた。
が、その神輿は斜めに保管され、かつ、「火の用心」の
旗指物がやはり斜めにその神輿にもたれている。

 その奥は、ものでいっぱいである。

 わたしはそこで見てしまった。

 ものすごい数の子どもの目である。

 恨んでいる。怒っている。


 おそらく昭和初期か、二十年代の子どもだろう。

 ぼくたちの場所を汚さないで、そんな叫びのようなものを感じた。


 わたしが、親睦会感に行かねばならないと感じたのは、
この部屋からの要請だったのだろうか。


 とにかく、わからないことだらけだが、
どこかで、むかしながらの独楽を用意して、
この場所に置いて、あの子たちに遊んでもらうおうか、
そうおもっている

店にもどるという、単なる話2016/5/3

「ユミちゃん!」

彼女をそう呼んだのはこれが初めてである。

わたしが店を出るや、彼女が射撃の的のように
わたしの前を横切ったのだ。


「はい」

びくっとして、彼女は立ち止まり、右手を軽くあげた。
きゅうに指された生徒のように。

「いまお帰り」

「うん、あ、びっくりした。いつもちがう格好ですね」

「うん、塾に行くときだったら背広だから
もっとちがいますよ」

「あ、まだ、先生を」

「はい、夜はまだやってます。
これから25分帰れないんで、
店でチャーシュー作ってるんです。
25分かかるから、このへん、ふらふらしようとおもって、
あ、そうそう、駅まで送っていきますよ。夜道はあぶないし」


「そうですか、はい」

おそらく、これもなにかのお導きかもしれない。

「ご迷惑?」

「いえ、先生ってなに教えているんですか」

「ん。国語」

わたしたちは、自転車をおしながら歩き出した。
いつも、いま流行りのショルダーを背中に背負って、
ややうつむき加減に彼女は歩く。


「本を読むの好きなんですか」

「うーん、あんまり」

「そうなんですか。わたし、好きなんです、読書、
村上春樹はいつも読んでます」


「むつかしいよね。羊をめぐる冒険は」

「あ、読みました」

「ダンス・ダンス・ダンスは」


「うん、読んだ」


「『羊』が出てくるとおもしろいよね」

「うん、そうそう。国語って、なに教えるんですか」


「出題者がへんてこだと、答えがわかんないです。
そういうの教えてる」

「あ、わたしの塾のせんせいもそんなこと言ってた。
明日もお店やるんですか」


「はい、毎日。でも、明日は昼だけ。また、よろしければ」


「はい、明日は早番で8時には行かないと」

彼女は、うちの店のとなりのとなりで、
ロッククライミングの店で働いている。

実家は九州で、ひとりぐらし。
さいしょにうちの店に来たときより、
髪の毛があかるい茶になって、眉毛もその色にあわせている。


さいしょのころは、なんにもしゃべらず、
ニコリともしない娘さんだったが、
いまじゃ、よくしゃべり、よく笑う。


こんふうに、いっしょに夜道をあるくことはなかったけれど。


「ご実家、たいへんですね」


「あ、そうです、うちは平気なんですけれども」


「そろそろ駅です。よかったですね。
無事にきました」

と、彼女は笑って、

「はい。じゃ、さようなら」

と、さっき挙手をした右手を
こんどは横に軽く振って彼女はホームに入っていった。


いっしょに歩いて気になったのは、
彼女のストレートネック、
ずいぶん若いのに凝りが溜まっているだろうことだ。


そんな機会があれば、すこし
治してあげようかなって、
余計なことをおもいながら、わたしは店にもどった。

事故でした。痛っ2016/4/27

 一流選手は怪我をしないというが、
二流の料理人は、しょっちゅう怪我をする。


 きょうは、つけ麺を運んでいるとき、
溝にのっかっているステンレスの板を踏み外し、
そのまま転倒、そのステンレスの板の端っこが
わたしの足のすねに直撃、だらだらと流血した。


 もちろん、つけ麺は放り出され、
お客様を待たせるはめとなった。

 血はひとすじの流れとなってくるぶしをまわり、
そのままクロックスにおちていった。

 
 ひさしぶりに見るわたしの悲惨な光景に
わりに傷とか、病気とかに冷酷な妻なのだが、
いささか心配しているようであった。

 昼すぎだったので、病院はしまっている。


 そこで、がまんしてそのまま働き、
三時になって近所の整形外科にいく。


「ははぁ、こういう傷は縫いません。
そのままにして傷をなおしてゆくんです」

「せんせい、このルゴールみたいなのはなんですか」

「医療用のルゴールです。
下水などでの怪我ですが、
こういう傷で心配なのが、
ガス壊疽菌と破傷風菌です。

ガス壊疽になりますと、
二三日で、すうっと腫れて、このへんまで膨らみます。
このへんを押すとプクプクしますので、
すぐわかります。

そうなったら、荏原病院に行ってください。
だいたいは切断ですね」

「切るんですか」

「はい、そうでないと、その菌が体中をまわりますから。
破傷風になりますと、四五日で口があかなくなります。
それが破傷風の特徴です。

そのときも荏原病院に行ってください。
三人にひとりは死にます」


「わたし、破傷風の免疫注射、子供のころに打ってますが」

「ははぁ、それはもう免疫、切れてます。
ま、東京じゃあんまり
発症しませんが、
心配なら、駅のむこうに沼部クリニックがあります。

あそこに破傷風の予防注射ありますので、
打っておかれると安心です。

うちでは、こういう患者さんあまりいないので、
うちには用意がありませんので」


名医なんだか、正直なんだか、
臆病なわけではないわたしだが、
なんか、背筋にさむいものを感じながら医院をあとにした。


 しかし、転んでもどんぶりは割らなかったので、
二流といいながらも、
そのへんはしっかりしていたじゃなぃか。

あえて申し上げるけれども2016/4/25

名古屋を本拠地とする「まぜそば」の大手が
大岡山に出店した。

 歌志軒という。名古屋あたりで六十店舗をかまえる、
有名どころである。

 その東京第一号店が、ここ大岡山。

 なにゆえ、都会の田舎、大岡山に来たのか。

 その理由はひとつしかない。「こころ」である。

 
  東工大から歩くこと7,8分、
商店街のもっとも奥にある、「まぜそば」屋、
それが「こころ」だ。

 出店したときから、食べログの評価が4.0だった。

 出店当初から4.0という店をわたしはしらない。

 「こころ」もやはり関西系の店で、中規模の店である。

わたしは、食べログの評価を、すべて信用するわけではないが、
なんで、「はじめから4.0」になる店があるのか、
その仕組みがなんなのか、これは憶測しかないが、
「相当な操作」がなければ、ああはゆかないはずである。

 もともとうちの街は、東工大の学生さんでもっている街だから、
理系の頭だと、数字の評価というものが、
すこぶる影響するらしい。

 4.0はいまや3.6くらいに下降ぎみだが、まだ評価は高い。

ちなみに、食べログ評価3.5以上の店というのは、

全体の4%しかないそうだ。

 そのせいか、仄聞するところ、「こころ」は、東京の出店のことごとくが、
失敗しているが、こと大岡山だけは、ひどく調子が良い。

 数字に反応できる人口が多いからだ、とわたしは
おもっているが、歌志軒は、
どうも、大岡山の原住民はまぜそばに反応するみたいだ、
と、タカをくくってやってきたのではないか、
わたしどもは、そう推察している。

 もっといえば、歌志軒の東京進出は「こころ」つぶしにある、
といっても過言ではないだろう。

 開店するや、数百メートルの列。

 おぅ、やはり、ここの原住民は、よく反応するものだ。

 わたしは開店当日、夜の11時に行ってみたが、
地下の店から地上まで、まだひとが並んでいた。

 だから、わたしは、その日は断念し、
きのう、店がおわった11時ころに、パートの紫陽花さんと、
この、大手まぜそば屋に押しかけたのである。

 と、さすがに、日曜日の夜、
並ぶことなく座ることができ、
ピールとともに、ませそばを注文する。

 となりの席では、ラーメン通のよう男が
麺をかき混ぜながら、ビールを飲んでいる。

 能書きをみれば、机に置いてある、
酢とラー油を一回半かきまぜてから、
熱いうちに食べてくれとある。

 「熱ければ、どんなもんでもうまいんだよ」
という、婆娑羅の店主、Mさんの話をおもいだす。

 と、ビールをちびちびやっているところに、
お目当てが届けられる。

 白い丼のそこのほうに
かたまった麺と、わら半紙のようなチャーシュー、
メンマが二三本、刻み海苔がささやかに。

これで680円。

 これは儲かるにきまっている。

 紫陽花さんは、海苔のトッピング、50円。

 この海苔のトッピングは小皿に、
雀の餌くらいの量であった。

 さ、言われるままに、お酢をいれ、
氷イチゴの赤い液のようなラー油をいれ、
かき混ぜる。

 そして一口。

 まず、醸造酢のツンとする臭いが鼻につく。

 米酢でも、鹿児島の高級な酢でもない。

 もっとも廉価な酢の臭い。

 そしてラー油。

 本格的なラー油、つまり、四川屋台でもしま坂でも
自家製ラー油をつくるが、

 ラー油にひつようなものは、生姜・ネギの青いところ、
それに、一味、陳皮、八角、中国山椒、桂皮、
それをごま油にあえてつくるのが本筋である。

 Mさんちは、ごま油をつかわないらしいが、
しま坂は、ごま油もふんだんに使っている。
また、しま坂は、韓国の一味もいれている。

 が、名古屋の大御所のラー油には、
一味のみで、ごま油の味もしない。

 たぶん、自社での製造だとおもうが、
あのラー油は、一味にキャノーラではないか。

 ほとんど、わたしどもが提供する本格的なものと、
真逆なところにあるラー油である。

 麺は中太で、小麦の香りのすくないもの。
あの香りのなさは、「あびすけ」に匹敵する。

 ま、それでも、よくかき混ぜ、かき混ぜる。

 けっきょく、味は醤油らしき味と、
下級な酢と、下流志向のラー油の味が
混在する、スープの一滴もはいらない、
「お前、ひとを馬鹿にするなよ」っていうシロモノになっていた。

 わたしは、名古屋の方の味覚について、
なにひとつ偏見があるわけではない。

 地域地域によって、価値観は変わるからだ。
構造主義を学んできたものなら、
じぶんは、あるイデオロギーを常識として
とらえている偏見の時代を生きている、ことくらい、
じゅうじゅう承知している。

 名古屋には名古屋の味がある。

 ただ、その味が、東京の、ここ大岡山で、
定着するかどうかは、べつものである。

 わたしは、一言だけ言いたい。

 「東工大の諸君、きみらは愚弄されているぞ」

 わたしどもが、なにかひとつやりきれなさを
もちながら席を立とうしたときに、

 となりの通は、2本目のピールを飲みながら、
「うまい、うまい」と麺をかき混ぜていた。

いたどり物語2016/4/21

義父にはよく吉野川に連れて行ってもらった。

 家から車で十分程度の川原である。
野生のクレソンとか、つくしとか、いたどり。

 つくしは、もいで、「へた」の部分をむいて
きんぴらにする。


 クレソンは、そのまま食卓に。


 いたどりは、細くきざみ塩漬けて、山椒の葉とともに炒める。

 すべて春の味覚である。


 義父は、いたどりを折って、口に含み、
わたしにもやれという。

 その青くさく、酸味のある味は、
美味というのとはすこしちがった。

 「春の味や」

義父は、ぼつりと言った。

 すこぶるあかるい性格というのでもなく、
ふざけたことなど見たこともない。

 実直で、ひとのためにいつもひたむきに
なにかをしてくれるひとだった。

 わたしのことを好きかといえば、
そうではなかったろう。

 ただ、ひとり娘の選んだ男、ということで、
わたしを歓待してくれているのだと、
徳島を訪れるたびにそうおもっていた。


 義父は身体も弱く、胸を患ってもいたし、痩身である。
だから、その娘は、父とは真逆の、
叩いても壊れそうもなく、でぶで、どこかふざけたやつを
選んだに違いない。


 義父は、よく鳴門に釣りに連れていってくれた。

「さびき」という素人釣りだが、筏に渡船してもらって、
一日あそんだ。アジ、サバ、いわし、ときにはヒラメ。


クーラーいっぱいになった魚は、義父がさばいて、
晩飯にふるまってくれた。


 鳴門にむかう車からは、蓮の畑がみえた。
いちめんに蓮の葉の緑がかぜに揺れている。


 そして、ところどころから、この世のものとはおもえないような、
うすい桃色の蓮の花が背伸びをするように咲いている。

 蓮畑の農家は、この時期には徹夜で、
この花を守らなければならないということも父から教わった。

 この花を盗みに来るものが毎年いるのだそうだ。


 「蓮とレンコンってどうちがうのだろう」
わたしが、助手席でひとりごとのように言ったとき、
父は、まっすぐ道路のほうを見ながら、ひとりごとのように、


 「おなじや」



 あのとき、なんて馬鹿なことを言ったのか、
いまでも、赤面のいたりである。


 その義父が亡くなって13年が経つ。

 みずからの死期もわかっていたらしく、
すべて葬式の段取りも決めて、亡くなった。


 葬儀のあいさつはわたしの役目だった。


 ・段取りをすべて終わらせあっさりとつくしのころに父は逝きたり   




 昨日、田舎から「いたどり」が届いた。義母が送ってくれたものだ。
それを、娘が料理してわたしの部屋に届けてくれた。


 酸味と苦味と、やはり春の味である。

立っているだけなのに2016/4/19

わたしども短歌の仲間が二次会などすると、どういう集まりですかって、

店の方は気になるのだろう、よく訊かれる。

 たしかに、(へんてこな)老若男女がわいわいやるものだから、

不可思議な集団に映るにちがいない。

 わたしが、短歌をはじめるきっかけは、

小野茂樹の歌だった。ちょうど『サラダ記念日』が話題になっていたころだ。

 

 ・あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

 

 ふるえた。この喚起力、すなおな筆運び、

かつ、新鮮でさわやかな空気感、

わたしはすっかり舌を巻いた。

 

こんな作品をつくってみたい、そうもおもった。

しかし、まだインターネットも普及してない時代、

どこに問い合わせればいいのか、さっぱりわからない。

さて、当時、昭和の終わり頃、わたしは、高校の教員で、

かつ、学校案内の作成委員だった。

委員はわたしひとり。

 

おまけに、中学校向けのポスターも手がけており、

それらのすべての権限も与えられていた。

そこで、わたしは、写真好きの教員が撮った北海道の畑の写真に、

この小野茂樹の歌一首だけを据え、

学校名だけの、じっさいなんのポスターかわからないようなシロモノをこしらえた。

 

けれども、だれからもクレームがなかったから、「しめしめ」なのであって、

どうやって短歌界に参入してよいかわからない

わたしにとっての、ひとつの発信になったのである。

 

 と、ポスターが中学校に貼られたころ、

おもいがけず、学校に電話があった。

 それは、ポスター作成者の方と話がしたいという電話であり、

わたしが電話口に呼び出された。

 

それが下南拓男先生だったのだけれども、

わたしは、その電話に舞い上がった。

 

 

「わたしどもは、小野茂樹と懇意していたものですが、

どうか、あなたとお会いしたいのですが」

 

柔らかな電話口の声。

わたしは、二つ返事で了承した。

 

昭和から平成に移るころは、

こういうアナログなしかたでしか繋がることができなかったのである。

 

「鎌倉駅で、土曜日の十一時に、われわれは待っています」

「かしこまりました。

でも、わたしは、みなさんのことを存じ上げませんが」

 

「わたしたちは、立っているだけでわかりますから」

 下南先生とは、そのような電話であった。

 

 

 立っているだけでわかる、どういうことなのだろう。

さっぱり見当のつかないまま、

わたしは、鎌倉駅に行った。土曜日の、ややにぎやかな改札を出ると、

タクシー乗り場のすぐそばに異様な集団が立っていた。

 

それは、事後的に知るのであるが、

甲村秀雄であり、下南拓男であり、小村井敏子であった。

なんだろうか、あの独特なオーラ。

「いた、いた、あれだ」

歌をなおしてみよう2016/4/17

・さんぐわつの扉の外の夜気あまく沈丁花の香ただよふばかり  


はしるさんの作品だ。


「さんぐわつ」「三月」、月日を入れてくるのは、
かなり勇気がいる。

「七月六日」は、歌人ならもう使えない、永久欠番のようなもので、
「三月」だって、ものすごい名歌があったなら、使いづらいだろう。


わたしが「三月」といっておもいだすのは、

・三月のたそがれは妙に水っぽくわが都市アトランティスを沈めをり


松平盟子のこの歌である。

どうも「三月」というと、すこし大きく構えないと
支え切れないようなきがするのだが、
これは、個人的な感情。


身構える必要がある、とでもいうのだろうか。


はしるさんの歌は「あまく」と「沈丁花」と、
どうもイメージの重なりが気になるところで、
ただ、この雰囲気は、とてもよくわかるし、
沈丁花のもつ「なにものか」も感じることができる。

ただ、それを「ばかり」でくくってしまうのもどうか。



じゃ、どういうふうな歌がいいのか、
もちろん、わたしがどうのこうのという筋合いじゃないし、
歌会では、はしるさんのほうが断然点数が高いのだが、
あくまで個人的なこのみとして、



・さんぐわつの扉の外の夜の気が沈丁花の芽をふるわせてをり


これは即興だけれども、
すこし大きな自然を相手にして、その自然とじぶんが対峙するような
そんな方向にもってゆくのが
短歌的じゃないかと、おもいますが、 どうかな、はしるさん。

嘘だったらごめん2016/4/14

相州屋のえみちゃんが亡くなったという話は
ミズグチから聞いた。


 そんな。


 えみちゃんは、結婚して横浜に住んでいて、
子どもが三人、たしか孫もいたはずだ。
 旦那さんは、銀行マン。


 相州屋のえみちゃんとは同い年で、
幼稚園はわたしとおなじく若竹幼稚園。

 いっしょにブランコに乗った記憶がある。

 あのころからわたしはえみちゃんのそばに行くと、
緊張した。色白で美人だった。

 だから、彼女のことを大岡山小町と呼んでいた。
そう呼んでいたのは、わたしだけだったかもしれないが、
相州屋のえみちゃんとは一度だけ話した覚えがある。

 彼女が大学生のころだったとおもう。

 フェリス女学院に通っていた。

 「フェリスだとどの辺に行くの?  十番館とか、そのあたり?」

 と、ほんとうにつまらない質問をした。
なにしろ、緊張するのである、えみちゃんの前だと。


 「ううん、十番館には行きません」

そんな答えが返ってきた記憶がある。

 わたしが彼女と話したのは一生のうちでそれだけである。
幼稚園のブランコを除けば。

 でも、どこかに彼女がいつもいたような気がするのだ。
それは、恋でも好意でもなく、ただ、わたしを緊張させるひと、
という存在だったわけだ。


 しかし、大岡山小町が死んだとは。
ミズグチは嘘をいう男ではない、
が、どうしてもわたしは信じられなかった。


 で、妻に訊いてみた。


 「おい、知ってるか、相州屋のえみちゃん、死んだそうだよ」

「え。そんなことないよ。
このあいだ、でも、このあいだっていってももう何年も前かな、
わたし、えみちゃんとしゃべったよ」


 妻も信じられないという風であった。

 彼女としゃべったのが、ついこの間のような気もするし、
ひょっとすると、もう何年も前のことなのかもしれない、
そういう存在なのだ。


 で、わたしは、この事実をつきとめようと、
床屋のジュンの奥さんとちょうど道であったものだから訊いてみた。


 「え。ちがうでしょ。このあいだ、わたし会いましたよ」

と、奥さんは言う。


 「それ。いつのことよ」


 「うーん、最近かな、いや、もっと前かな」
と、じつは奥さんもわかっていないのだ。

 「じゃさ、とにかく調べておいてよ」
と、わたしが言うと、


 「わかりました」と言って奥さんと別れた。


 そして、きょう、やなか珈琲に行っていたとき、
向かいの大野屋さんの奥さんが珈琲の代金を払いに来たので、
わたしは、大野屋さんにも訊いてみた。

「相州屋のえみちゃん知ってる?」

 「うん、知ってるよ」

「死んだって」

 「え、うそよ、いま横浜に住んでいて、お子さんは三人で、
旦那さんは横浜銀行に勤めているのよ」


 「そんなこと知ってますよ。なんか癌だって言うんだよ。
鞄屋のミズグチがさ」


 「え、だって、このあいだ、ここの通り歩いていたわよ」

 「それ、いつのことよ」

 「あれ、いつだったっけ」

 「ほら、わからないでしょ」


 えみちゃんというひとは、時間というものを
ねじまげる妖力をもっているのだろうか、

それとも、わたしたちが、日々、変わらぬ生活を
だらだら過ごしているせいで、
何年も前のことが、まるで昨日のことのようにしか
おもいだせないでいるのだろうか。


 どちらにせよ、えみちゃんが死んだにしろ、
まだ生きているにせよ、わたしたちのなかでは、
彼女は確実に、この街を歩いているし、
おしゃべりもしているのである。

◎の多い話2016/4/13

 努力とか、製品開発とか、さまざまな言い方はある。

 藪蕎麦の醤油も、うわさによれば、
地中に埋まっていめ瓶にいれて三日寝かせ、それからつくるらしい。

 そうすると醤油にまろやかさがでるそうだ。

 江戸時代からつづく老舗はやはり格がちがう。



 それが、ことラーメンとなると、いささか話がちがう。

 インチキと紙一重のワザである。


 荻窪の老舗のラーメンは、
鶏と豚の骨というふれこみなのだが、じつは牛の骨を
混ぜているそうだ。


 他店と差をつけるためには、
「ほかの店とすこしちがう味」というものが必要なのだ。


 と、なんでこんなに詳しいのかと言えば、
毎週、わたしは「婆◎羅」の店主の車に乗せてもらって、
業者用のスーパーに買い出しに行っているのだが、
そこで、かれからいろいろ聞くのである。


「婆◎羅」の店主は、「六◎舎」の社長とも懇意で、
そこから情報がはいってくるそうだ。


「六◎舎の使っている調味料わかったよ。
理研の化学調味料だ」

と、わたしに教えてくれた。

だが、うちは、化学調味料をつかわないので、
それを聞いても、なんにもならない。

なんでも、「婆◎羅」では、おんなじ調味料を混ぜているらしい。

わたしは、わたしでチャンプ石神さんがうちに来店したとき、
ひとつだけ教えてもらったのは、
「山頭◎」の白濁したスープが、じつはコンデンスミルクだということ。


コンデンスミルクをラーメンにいれることが御法度、
ということを申し上げているわけではない。

自助努力、ということである。


「天下◎品、知ってるだろ」

「ああ、あのこってりでしょ」

「あれ、何入れてるか知ってるか」
と、婆◎羅さんは聞く。

「いや」

「じゃがいもだよ。平和◎ーシングの社長に聞いたんだ」

「じゃがいも?」

「そう、あのとろっとしたスープ、なんで作っているのか、
平和の社長にきいたら、そう答えてたよ」

そーか、わたしも人生、いちどだけ
天下◎品の「こってり」というのは頼んだことがあったが、
なんで、あんなに粉っぽいのかとおもっていた。

わたしのとぼしい想像力の回答は「米粉」だった。

たぶん、「なにかの粉」を入れている、そういう結論だった。

それは、練馬の「濃◎麺 井の庄」にも共通した
「粉っぽいこってり」なのをおもいだす。


それは、粉ではなく、じゃがいもなのか、
あのじゃがいものでんぷん質がスープにとけ、
どろどろとしたものを作り出す、が、舌に残るざらっとしたもの、
あれはじゃがいもなのか、なるほどね。

わたしは、それがインチキとは申し上げるつもりはない。

すべては、自助努力なのだ。

財布をめぐる冒険2016/4/12

まだスタッダレスタイヤを履いている。

 たぶんもう雪は降らないだろう。
自動車屋のクボイさんに電話したら、
「まだ履いてんの。はやくしろよ」と言われる。

 クボイさんとは、PTA会長いらいのつきあいだから、
友だち感覚で話せる。


 しかし、タイヤを交換っていっても、
毎日、店に出て休みなし、夕方からは予備校だから、
そのひまがない。

 もしあるなら、月曜日のほんの数時間、
月曜日の夜だけは、バドミントンの練習なので、
この数時間しかないのだ。

 日曜日、電子レンジがいかれてしまったので、
店のおわったあと、ドン・キホーテに買いにゆく。

 夜中の2時までやっている、というのは
わたしにとってパラダイスである。

 もっとも廉価なレンジを購入し、店に置き、
そして家にもどる。それが日曜日。

 そして月曜日はふだんどおり店に。

 さ、店がおわった、これからタイヤ交換だ。

 じつは、この月曜日は、バドミントンを休んで
小学校の仲間と数十年ぶりに銀座であう、という
イベントがあったので、時間的にも二時間くらいしか許されていない。


 じゃ、出かけるか。

 というときに、免許証がない。


 どこ?


 車のなか?


 なんべん車の中を探したろう。

 しかし、わたしの車は免許証を置くようなスペースはない。

 コート?

 なんべんも見た。


 行動半径は、風呂場かソファか、このパソコンのあるテーブルか、

そんなとろこである。


 あるいは、ドンキホーテに落としたか。


 が、不思議なことに、入口のドアに
購入した、電子レンジの領収書が磁石でとまっているではないか。

 だれが、ここに貼ったのか。おれしかいない。


 この事態は、免許証がわたしの部屋まで戻されたことを意味する。


 それで、わたしはじぶんの部屋があやしい、
と睨んだのだが、いつも置いてある場所にない。

 わたしは、じぶんがそろそろ痴呆のかけらが
混入していることに自覚しているから、
車のキー、免許証、財布、すべて、
ルーティーンで、おんなじ場所に保管することにしているはずなのだが、
そこに「ない」となると、頭が白くなる。

 焦る。汗る。

 やはり、どこにもない。

 で、ついぞ、クボイさんに電話して、
事の事情を話し、タイヤ交換はおあずけとなった。


 免許がなければ、蒲田までゆけないから。


 で、けっきょく、わたしは、免許証もそのなかにあるパスモも
使えないまま、銀座まででかけた。

 だから、きょうは切符である。

 いま、切符の改札は少ないのでずいぶんとまどった。

 銀座での四人は、わたしよりみな偉い奴らばかりだった。

 でも、ター坊が、「こいつ、同窓会の会長なんだ、
このあいだまでPTAの会長だったし」とわたしを紹介したものだから、
マザー上場したミズや東証の社員ののりおも、

「へー、偉いじゃん」とか言っていたけれども、
すこしも、うれしくなかった。

 「お前、前より若くなったな」ってミズに言われたのは、
すこし、われながら相好が崩れたようにおもったが。


 四人の会食は、盛り上がりもなく、ひどくおとなしいもので終了し、
さすが、金持ちのミズがタクシーをひろい、大岡山までもどった。
のりお以外は、みんな大岡山の実家に住み続けている。


 そのあと、早く寝たので、こうやってパソコンにむかうことができるが、
わたしはまだない、免許証をさがなければならなかった。


 置いたはずの机の上、
置いたはずの机の下、
路地裏の窓、向かいのホーム、
旅先の店、新聞の隅、
こんなとこにあるはずもないのに♪



 まさか、とおもったが、わたしはソファをどかしてみた。

と、その真ん中あたりに、わたしが丸一日さがしていた
免許証が、ぽつんと置いてあったのである。

 なんのはずみか、そんなところまで転がっていたのだ。

 コールハーンのやわらかい皮。

 いとしい肌触り。


 やはり、わたしは、いつもどおり、いつもの場所に
免許証を置いたいたはずなのだが、
どういうはずみか、それが落ちて、そのままソファの下まで
転がったのだろう。


 じぶんが、もっとも信じられないので、
自信をもって、ここに置いたはずだと、おもえないじぶんが、
ひどく情けないのである。


 おんなじことをしているはずなのに、
すこしでも、それが変形すると、
わたしは、小鳥を仰向けにすると動けなくなるみたいに、
まったく、なにもできないやつになってしまう。


 もっと、じぶんを信じなければならない、
そうおもうのだが、そのじぶんにやはり自信がないのだ。

行くか行かぬか・・・2016/4/9

小学校のときに五人組というのがいた。

 ミズ・のりお・ター坊・ケイジロウ、そしてわたしである。

 だれが名付けたのか、たぶん大人か先生だろうが、
なぜそう呼ばれたのか、とにかく一括りにされていた。


 この五人はよく行動をともにした。

 探検とかいって、小川のような下水道を懐中電灯を片手に、
線路の下をくぐって洗足池のほうまで歩いていった。

 当時、懐中電灯という装置は、子ども心に火をつける
なにかを偶有していたとおもう。

 帰路、母親たちに、探検がばれ、
怒りの顔で道路からわたしたちを睨みつけ、
そのあと、こっぴどく叱られたものだ。

 たしか、あのときも、あの五人だったような。


 

 そのミズからひさしぶりに電話があった。


 「いまだいじょうぶ」

 「うん、どうした?」

 「きょう、鐘ならしに行ったんだよ」

 「あ、マザー上場だっておめでとう」

 「あ、うん、どうも、そうしたら、そこにイワサキがいたんだよ」

 「のりお?」

 「そうそう、かれね、東証で働いているんだって」

 「のりおって、小学校一年の内科検診でパンツまで脱いだやつだろ?」

 「知らねぇょ、そんなこと」

 「あ、そ。それで」

 「うん、ひさしぶりで会いたいんだって、
でさ、このへんに住んでるのは、お前とター坊くらいだろ」

 「ま、たしかに、ケイジロウはハワイだし」

 「で、いつなら空いてる?」

 「あ、ごめん、おれね、空いているの月曜日しかないんだよ」

 「そっか、わかった、じゃそれで調整してみるよ」

 電話はこんなようすだった。


 ミズは、ゴルフ関係の雑誌の社主で、
今年度からマザー上場の会社を育てた男である。
ゴルフ場もいくつか購入しているはずだ。

 のりおとは、中学以来、あっていないから
40年以上消息をしらなかった。しかし、東証の社員か‥。

ター坊は生保の社員としてぱりぱりである。



 うん、じゃ、おまえはどうなんだ、というじぶんの声。


 うーん、ちっぽけな会社の取締役という、
文字通りの名だけの存在。文字遠り・・・


 友がみなわれより・・・


という気持ちは拭えない。

 

 しかし、わざわざ、わたしに日程をあわせてくれるというので、
それを断るわけにもゆかない。


 それから数日たって、ミズからメールが来た。

 今度の月曜日、場所は銀座だそうだ。

たくさん言うな2016/4/6

 あたらしい校長を迎えて、
入学式が挙行された。


 わたしは、この小学校の同窓会の会長なので、
いつも、式典には来賓でよばれる。


 「せんせいから、ふたつ、お願いします」

 こんどの校長先生は「ふたつ」であった。

 前任の校長は三つだったけれども、

このふたつのお願いは、あいさつをすること。

 もうひとつは、探究心をもつこと。

 だったようにおもう。

 じっさい、わたしのような老成の身にも、このふたつが
覚え切らないのだから、まだ6歳になったばかりの
お子たちに、このふたつがこころに響いたであろうか。


 まず、わかってないだろう。


 よくいるよね。結婚式でも、

「わたしから三つの袋をあげましょう」
とか。

 なんとお仕着せなことを言うのかしらんとわたしは
いつもおもうのだが、つまり、
そんなのあんたからもらわくってよいわい、って
おもうのだ。

なんだっけな、堪忍袋、玉袋・・・うん、わすれた。


 どうも、スピーチとなると、三つとか、ふたつとか、
そういう数字がでてきて、その三つ、あるいは、ふたつが、
覚え切らない。


 やはり、あいてのこころに達するのは、「ひとつ」である。

 「わたしからもうしあげることは、ひとつです。
お父さん、お母さんを大切に使用」


 ね。インパクトあるでしょ。


 ま、つまり、ワンワードポリティクスなのだ。

これに限る。


 これで成功したのが、小泉純一郎である。

 かれは、「うん、やる」

 しょっちゅう、この一言だった。


 「うん、やる」

 しかし、そう言いながらほとんどやらなかったけれども。

失語ものがたり2016/3/31

 この数日、よくものを忘れる。

 
 一昨日は、免許証をわすれて練馬に行ってしまった。

 いわゆる「免許不携帯」である。

 ま、これは違反や事故を起こさなければ、もんだいない。

 ふだんは、どうか追突してくれって頼みながら
運転しているのだが、その日にかぎっては、頼むからぶつけないでくれ、
って願っていた。

 追突でもしてみろ、もう痛がる、痛がる。


 う~、とか言って、過剰にぶんどってやる。


 それが、貧乏人の底力だ。

 また、警官に止められても、
「任意ですか強制ですか、強制ならその罪を言ってくれ」
っていえば、だいたいは免許証を見せずにすむ。


 で、はたまた、きょうは、長財布をわすれてしまった。

蕎麦屋に入って、いざ「おわいそ」のときに財布のないことに気づく。

 やや青ざめる。


 それまでは、練馬で、550円で「たぬきそば」の食べられる、
とても良心的な店をみつけ、よろこんでいたのに、財布がない。

 が、きょうは、わすれず免許証を持ってきたから、
そこに、いざというときの隠し金1000円をもっていたので、
難をのがれた。


 カバンの底をさがすと小銭いれはあったから、
まだ1000円くらいはありそうだ。


 で、この蕎麦屋であるが、「たぬきそば」に、「カレー南蛮」と、
試してみたが、あとは、「もりそば」である。

 あるいは、「ざるそば」、いずれかである。

 値段のわりに、そこそこの味なのだ。



 ところで、「もり」と「ざる」とは、
ただ、海苔がふりかかっている、だけではない。
上質の蕎麦屋なら、「ざるそば」のほうが、つゆが濃いのである。

 だが、ケチくさい店だと、おんなしたれである。


 ちなみに、蕎麦屋のよしあしを見極めるには、
「たまごとじ」がもっともよいらしい。

なぜなら、「たまごとじ」は、たれを濃くするものだそうで、
そうすると店の味がひとめでわかるという寸法である。


 わたしはまだ「たまごとじ」を頼んではいないが、
こんとば、「もり」か「ざるそば」を頼もうとおもって、
おもいきって店の店員さんに訊いてみたのである。

 それが企業秘密ならしかたない。あきらめる。


 つまり、「もり」と「ざる」とつゆはおんなしかどうか。


 わたしは、免許証のなかに折りたたんである1000円を
渡しながら、その女性に訊いてみた。

 「えっと、答えられなければいいんですが・・え、もりと・・・」

 「はい」

 こともあろうに、わたしはここで失語したのである。

 免許書、財布、そして語彙、毎日なにかを忘れるのである。


 それは、「ざるそば」という言葉が、その瞬間、
すっかり脳から消え去ってしまったのだ。
で、とっさに言ってしまったのは、


 「あの、『もり』と『かけ』とはおんなじつゆですか」


 「あ、いえ、ちがいますけれども」


 「あ、ど、どうも」

 わたしは、軽く礼を言ってから店を出たのだが、
そのあと、すこしかんがえたら、
わたしは、とんでもない
愚問をしてしまったことに気づいたのだ。

「もりそば」と「かけそば」ってつゆちがうにきまってるじゃん。

予備校・・・2016/3/30

 練馬の予備校の春の講習会、3日目であった。


 予習?? そんなもんしない。


 もう、何年もやってきたのだから、
なにをどう説明するか、なにをどう覚えさせるか、
それは、すでに頭に焼き付いているのである。


 こと練馬の生徒さんはノリがよくて、わたしの
好みの授業ができている。

 現代文では、もうすでに、ジャック・ラカンの言説とか、
モーリスブランショの語ったこととか、そういうことを
板書して、理解してもらっている。

 
 が、現代文より古典の参加者のほうが多いのである。

 
 なんで、現代文をとらないのか。


 古典なんか、たしかに、古文が読解できるようにはなるが、
ただ、それだけ。でも、現代文を受講してもらえれば、
いろいろ、哲学、倫理学、心理学の入口を学べて、
にんげんが、大人になれるというのに。

  
  現代文は、にんげんを成長させる、それに気づいてほしいね。


  で、きょうも古典から参加する生徒さんが数人いた。


 なんとなく、そのひとりに訊いてみた。

 「ここで、英語はだれに習っているの?」

 物静かな女子である。

 「英語はここでは習っていません」

 「あれ。じゃ、ここではなにを受講しているの?」

 「これだけです」

 「古典だけ?」

 「はい」

 「じゃ、ほかの科目は?」

 「予備校でおそわっています」

 「・・・・」


 あれ、おれ、どこで教えているのかな。


フルハウス丼という海鮮丼をたべた物語2016/3/28

 さいきん、海鮮丼を食べる回数がふえた。


 わたしごとでもうしわけないが、

わたしは、牛肉より豚肉、豚肉よりも鶏肉。

 鶏肉よりも大トロ、大トロよりも中トロ、
それよりシマアジ、シマアジよりもヒラメ、
それより、アジ、アジより、じつはサバ、

サバがもっとも好きなのである。

 サバの野趣めいた味、あの力づよさ、すこし下卑た脂。

 うーん、たまらん。しめ鯖でも関サバでも松輪サバでも、
なんでもござれ、これがたまらん。


 沼津に釣りに行くときには、沼津港で海鮮丼を食する。

 が、値段のわりに、それに見合うものが出てこない、
というのが、いままでの経験である。

 2000円ちかくする海鮮丼なのに、
量はすくないは、ネタはそれほどでもない。

 ましてや、イクラときたら、これはホンモノではない。

 イクラの偽物が流通しているし、そっちのほうが廉価だから、
店としては、その雁物を飯のうえにパラパラ撒いていたほうが
経営には安直な方法論である。

 が、イクラのニセモノはすぐ露呈する。

アルギン酸ナトリウム水溶液と
塩化カルシウム水溶液と植物油脂で人工イクラがつくれるのだが、
この、人口イクラは、水のなかにいれても、
まったく姿を変えない。

我関せずの様相で水のなかで、どーだ、ニセモンだぜとばかり、
水底に沈んでいるのだ。

 ところが、鮭さんのお腹にいたイクラさんは、
水のなかにいれると、すぐさままわりが白濁する。


 やはり、命をつなぎ止めようとする息吹は、
人口では作り上げることはできない。


 だから、どの店にいってもわたしはイクラをひとつまみ、
それを水のなかに、ポトンと入れてみる。

 と、どの店も白濁どころか、
つんとおすましのイクラもどきが底にころがる。


 なんだい、高額な商品がニセモノか。


 まったく客を愚弄することこのうえない。


 このあいだも、ある漁港に行ってきたのだが、
この、店オリジナルの海鮮丼。

 2400円もする高価なシロモノ。

 わたしは期待して、メニューでもっとも高いそれを頼む。


 そして、ささやかな雲丹や地魚といいながら、
なんでサーモンが乗っているのか、あるいは中トロがあるのか、
不思議がりながら、やはり、そこにパラりと散らばるイクラを
ほうじ茶のなかにいれてみた。


 と、ん? 

 白濁しない。


 そーか、この店もやはり・・・


 2400円は240円じゃない。

 安いお弁当かっても490円
でも味噌汁つかない・・(さだまさし「わたしは犬になりたい」から)


 確かに、味噌汁もついていたし、
生しらすもあった、でも、イクラは偽物だよ。


 と、すこしあきらめ加減でわたしは
この定食を食べていたとき、
主人らしいひとが、ご丁寧に、お茶の差し替えに来てくれた。


 で、わたしの茶碗を見るや「あっ」という声をあげ、
そそくさと、わたしの茶碗を引き下げてしまったのである。


 そのとき、わたしの茶碗には、ひとつだけ、
その、なまいきな人口イクラが沈んでいたのである。

 めざとく見つけた店主がなにをおもったか、
それは、海焼けした店主にロングインタビューしたわけではない、
が、おそらく、かれにもわたしのメッセージが届いたのだろう。


 あたらしくなったほうじ茶とともに、
わたしたちだけに、珈琲が届けられたのである。


 ほかにお客がいるのにである。


 
 「もしよければ、いかがです」

とても丁重な、海男らしき店主。


 わたしは、すなおに礼を言い、その珈琲をすすった。


珈琲は、ほとんどインスタントな味でうまいものではなかった。

小学校の卒業式によせて2016/3/27

小学校の卒業式にでる。

「わたしの夢」「6年間のおもいで」など、
一人ひとり壇上にあがれば、
それを、胸をはり、声を張り上げ語る。


 おなじみ「サッカー選手」もいれば、
「医者」「パティシェ」「幼稚園の先生」「小学校の先生」
などなど。

 ひとり、ひどく喫驚したのは、ひとりの少年。

 「ぼくの夢は、ユーチューバーになることです」

 堂々と、そう言った。


 ユーチューバーって、家に閉じこもっている
ニートとちゃうの。

 わたしの認識が古いのか、あるいは、あの少年が新しいのか、
とにかく、時代はかわったんだとおもった瞬間であった。


 時代はかわる。


 じっさい、蛍の光など歌わない。

 「山並みは萌えて・・・」

 これである。


 わたしは、この歌の途中の「こころふるわせ」の部分がきらいだ。

 あれほど、ゆっくり揺蕩うように歌うのに、
なんで、「こころふるわせ」の「こころ」だけ
つまったように歌うのだろう。

 ひどく急いて作歌したようにおもえてならない。


 そして、もっと意外だったの、卒業生が、
「仰げば尊し」を歌ったことだ。


 あの意味、わかるのだろうか。


 ♪仰げば尊し・・・・仰げばうとうとし?


 我が師の恩・・・・和菓子の音?


 教えの庭にもはやいくとせ・・・教えの庭にも早い「くとせ」?

「くとせ」ってなにかな。


 思えばいと疾し・・・思えばいととし? 「おととし」じゃないの。


 いまこそ分かれめ・・・・いまこそ分かれ目?

  ※この「め」は、「こそ」を受けた推量の助動詞「む」の已然形、
つまり、係り結びである、念のため。


  いざさらば・・・「さらば」って何、「サラダ」じゃね?

 

 ま、これは、わたしの小学6年生の脳裏を想像して
みたことだから、ちゃんと理解している子もいるのだろう。


 しかし、もう、仰げば、ではないような気もするが、
どうなのだろう。


 ところで、小学生にアンケートをとったところ、
卒業式で歌いたい歌ナンバーワンはなにかといえば、
もちろん、仰げば尊しでもなく、蛍の光でもなく、旅立ちの日にでもない。
桜の雨である。


 桜の雨という歌が、もっとも人気のある卒業ソングらしい。

で、調べてみたら、この歌の主は、「初音ミク」である。


 人工知能がこさえた、アンドロイドみたいな女である。

 しかし、いまの子たちには、もっともなじみ深い歌手なのだ。

 その歌詞とは、こういうものだ。


 ♪それぞれの場所に旅立っても

 友達だ 聞くまでもないじゃん・・・

 

 うーん、あの厳粛な会場で「聞くまでもないじゃん」
これ歌うのかよぉ。

 

 

墓穴をほった話 その22016/3/24

墓穴をほった話 その2

この話に出てくる名前はすべて仮名である。



わたしがまだ高校の先生だったころ。
夏休みになると三者面談という、
すこぶるメンドーなものをしなくてはならなかった。


教員でもっともメンドーなのは、
試験監督、それから、採点、それから面談である。


おしゃべり好きの議論ぎらいといわれる日本人だが、
おしゃべりと、三者面談とはやはりちがう。

それも、むこうは15分程度なのだが、わたしは、ひとり、
だいたい一日、5組から6組、ものすごく疲弊するのだ。


ただ、むかしは、中元・歳暮なんてものは、
あたりまえで、理科の田中なんかは、面談のおわったたんびに、
ビール券の束をみせびらかしていた。


神奈川の田舎だったから、
畑でとれた、トマトとかその他の野菜をもってきてくれる親もいた。


ただし、エアコンなどないものだから、
とにかく暑かった。


面談日の何日目かはわすれたが、
櫻井君ちがやってきた。


とっぽい男で、中学のころからタバコで指導を受けていたやつだ。


なにを話したか、だいたいわたしはテキトーに話す。


ただ、面談をした、という事実さえあればいいのだ。


やはり、数十分話したろう、と、櫻井君の母が、
手提げのなかから、ごそごそ取り出している。



「せんせい、すみません、遅くなりまして」
と、母親。


「いえ、そんな、いいんです、お気をつかわなくて」
は、わたしの常套句。


「ほんとすみません」

と、言いながら、櫻井君の母は、机のうえに茶色の紙袋を出してきた。


「いやいや、おかまいなく」
と、わたしが手で制止する格好をしながら、
その紙袋をのぞいたら、
それは、ビール券でも、野菜でも、高級な菓子でもなかった。

ぞうきんが三枚。


「すみません、春にもってゆかなくてはいけなかったんですが」


「・・・・」

おれは、春のはじめに家庭からぞうきんをもってくることを
たしかに頼んでいたのだが、
このタイミングでもってくるとは。


わたしは、櫻井君ちのぞうきんを丁重にお断りしていたのである。


鮭のおにぎり物語2016/3/19

 何十年かぶりで、セブンイレブンのおにぎりを買う。


 そもそも、おにぎりが苦手である。

 だれが、ソールフードと言ったのか。
ま、有間皇子も、草枕旅にしあれば椎の葉に盛る、なんて、
おにぎりっぽいものを食しているのだから、
ソールフードなのかもしれない。

 かもめ食堂のメインもおにぎりだったし。


 ただ、おにぎりは、いくつ食べても
満足感が得られない。みかんといっしょだ。

 もうひとつ、もうひとつ、と、どんどん食べてしまう。

 手づかみがいやだというのではない。

 道具をつかわずに食べられるという
手段は、かなり、効率がよい。

 ナンとか、タコスとか、ケンタッキーとか、
もちろん、おにぎりも、
手づかみはプリミティブな気がして、これはこれでよい。

 われわれのDNAに残された原始的なものを よびさます

「なにか」が手づかみにはあるんじゃないか、 とさえ、おもうのだ。

 ただ、コンビニのおにぎりはよくない。

 仄聞するところ、コンビニのおにぎりは、
48時間、外気に放置していても、大腸菌が発生しないという。


 自然の食品なら、一日も経たないうちに大腸菌は、
山ほど発生するらしい。

 なのに、なぜコンビニのおにぎりは、そうではないのか。

 あのつやつやしたごはんの粒のなかに、
大量の農薬くらいの薬品が入っているといううわさである。

 わたしは、それを聞いてから、コンビニのおにぎりを
買わなくなった。買わなくなって、おそらく30年は経つだろう。

 ヤマザキパンに勤めているひとが、ヤマザキのパンを
けっして買わないのと類比的である。


 が、このあいだ、ちょっと見たテレビで、
セブンイレブンの直火焼きの鮭のおにぎりを
やっていて、お、なんだい、ずいぶん手の込んだことを
してるじゃないかと、すっかり感心し、
うん、いちど、食べてみるか、と、重い腰をあげたのであった。


 で、今夕、その「直火焼き鮭」を買ってみた。

 棚にならんでいるさまざなおにぎりと違って、包装も豪華で、
他のものとの差異は歴然である。

 これには、ほかと違うのよ、というアウラが
コンビニの天井まで登りつめていた。


 いそいそと、さっそくおにぎり試食開始である。


 まず、三角の上の部分をやぶって海苔とごはんを
合体させる。これ、うまくできてるよね。
 海苔がパリパリだもの。

 と、このシールをおもいきり破ってみる。


 は?


え、どうしたの。



 なんと、ビニールとともに、海苔もいっしょに破れてしまった。

 はい?


わたしは、すこぶる哀しくなって、いや、
やぶれかぶれになって、この鮭のおにぎりを
くるんでいるビニールをびりびりに破いたのである。

 そうしたら、それとともに、海苔もびりびりに砕かれてしまったのだ。


 なんだい、これは。


 わたしはしかたなく、
この、2006年の新宿・渋谷エリートバラバラ事件の被害者のような
海苔をかき集め、丸はだかになった、
やや輝きをみせるごはんの塊にぺたぺたくっつけながら、
はんぶんやけくそで食べ始める。


 と、うーん、ご飯に塩気がない。

 そーか、鮭のうまさを引き出すための配慮なのか。

 しかし、量的に満足ゆくものではなかった。

 わたしには、おにぎりとの相性がよくなかったのか。

 など、おもいつつ、

 やはり、運転しながら、おにぎりを剥いてはいけないのだな、
ということにおもいは馳せたのだ。

墓  穴2016/3/15

墓穴を掘った話。

それは、ふたりの娘がまだ高校生と中学生のころの話である。

うえの娘が夕食をとりながら、
ふと、次女に
「ね、ロードって知ってる?」
と、訊いたのだ。

となりで聞いていたわたしは、これは父親のカンってやつ、
次女が答えるより前に、

「おまえ、カラオケ行ったろ?」
と、訊いた。

と、長女は食べていたものを、ぷっと吹き出したのだ。


「ん。それも、年上と行ったろ?」


ユイはまた「ぷっ」と吹き出した。


「そしてよ、全部おごってもらったろ?」


「え、なんでわかった?」

親だもの、ぜんぶわかるさ、と答えておいたのだけれども。


たった一言の「ロードって知ってる?」。


でも、それは簡単な理路である。


あんな若い子がロードなんて歌、知るはずない。


ロードって歌は、男がカッコつけて歌うカラオケの定番である。

それも、ずいぶん年上の男。


それなら、高校生の娘に金を出されせるはずはない。

そのくらい親なら、だれでも読むさな。



そして、娘は最後にこう付け加えた。


「わたし墓穴ほった?」

だめじゃん2016/3/13

むかし、「天才たけしの元気が出るテレビ」があった。

 どんな内容だったか、知悉しているわけじゃないけれども、
あの頃は、よくテレビを見ていた。

 今、テレビを見る、という行為は皆無である。

 まったく見ていない。

 
 三階では、妻が録画をしているものもあるので、見れば、
ほとんどお笑い芸人が司会をつとめている
三流のわらいの番組ばかりだ。



 「元気が出るテレビ」でいまもおぼえているのは、
「傷心バスツアー」である。


 恋のおわってしまった女性、じぶんから捨てたのか、
あるいは、捨てられたのか、
その心を癒すためのバスツアーが企画され、
数名の女性が参加、バスで高原の湖にいく。

そして、その湖に、おもいでの品を抛りなげ、

「バッキャロー」
「さようなら」
「もっと素敵な恋をしてやるぅ」

と、さまざまなセリフを言う。


 写真立てを投げたひと。

 人形を捨てたひと。

 宝石箱。



 そして、ペンションにもどり夕食である。

「どうですか、みなさん、すこしお気持ちが晴れたでしょうか」

 
 進行係のアナウンサーが聞く。


 「はい、すっかり晴れました」

と、口々の声。

 たしかに、参加者には、
憑きものから開放されたような、
なにかさっぱりとした表情がみなぎっていた。


 「じつは、きょう、特別ゲストをお呼びしています」

と、実況のアナウンサーがカーテンを開く。


 そこに現れたのは、
なんと電子ピアノと沢田知可子だった。

 そして、なにも言わずに歌いだす。


 ♪ビルが見える教師で・・・・


 ♪今年も海に行くって いっしょに映画に行くって
約束したじゃない・・・・

  ♪ 会いたい~



  このときのテーブルは、
涙でぐずぐずに崩れた女性たちの映像であった。



  ね。


 恋にやぶれ傷ついた女性に、
泣きっ面に蜂、追い打ちをかけるようなこのアッパーカット。

 そして、視聴者はこれを見ながら腹をかかえて笑ったのである。


 むかしは、こんな番組があった。

 いまなら「けしからん」と、抗議殺到かもしれない。


 しかし、しかしだ。

 そのくらい、ちょっと前までの国民は強かったのだよ。

 どんなに、精神的にいじめられても心の奥底では、
それに打ち勝つ「こころ」をもっていた。

 いまは、♪きみをわたしが守るから‥

とか、背中を押されたとか、


 個人情報とか、セクハラとか、

とにかく、一個体が軟弱になっているのは間違いないことだ。


 こんなことでは、政府のいいなりになってしまうぞ。

 一人ひとりが弱く、そしてみずからの主張を失った
そこに現前するのは「全体主義」しかないのだよ。


 ヒトラーやムッソリーニの時代がそうだったように、
デモもしない、騒がない、そんなときに「安保法制」や、
原発再稼働、声を大にして反対しないから、
すでに、全体主義的な潮流がまさに起ころうとしているではないか。



 少なくとも、沢田知可子の「会いたい」の時代まで、
遡行することはできないものだろうか。

 あの時代、流行っていた歌は
ほかには、たとえば「はじまりは雨」だったな。


 あれ、あれアスカだ。だめじゃん。

ほんとうはちがうことを言いたかったけれども2016/3/13

 そもそも我が国の民は「自我」というものがなかった。

 アイデンティティとかいうらしいが、こんなもの、
江戸時代までは存在しなかったのだ。

 じぶんらしくなんて、江戸の町民はおもったことない。
すべては、時代の要請として生きていた。

 だから、武士は主君を守るために、ひたすらつくした。
農民は、米作りにいそしみ、なぜ、じぶんが米作りをするのか、
それに疑問をいだかなったはずである。

 ましてや、旗本が
「じぶんらしく生きるため、武士を捨てる」
なんてありゃしない。

 たしか、今みたいなセリフを
暴れん坊将軍のなかで、言った旗本がいて、
みな、おぅ、とか言って、拍手喝采だったが、あれは、虚偽である。


 個人情報だって、ついこのあいだまではなかった。

 「個人」は、「individual」の訳語だし、
「情報」は、森鴎外の造語である。

 どっちも、日本人がつむいできた言語とはちがう。

 日本人が、ほんとうに身についている言語は、
とっさのときに発するときである。

 びちってだれかを叩く。

と、「痛っ」って叫ぶ。この「痛っ」こそよくわかる言語だ。

 ヤカンに触れて「熱っ」、この「熱い」もそうである。

「痛い」ときに「激痛!」とか言わないでしょ、とっさには。

 つまりは、大和言葉というものが、
われわれの身にしみついている言語なのであり、
それは、よく理解できるが、
こと、造語なり、訳語なりにふりまわされると、
造語や訳語は、身体に根付いていない
頭だけの言語だから、うーん、よくわかんないよ、
ということになりかねない。


 話がとんでしまったけれども、いつから、
この国民は、個人情報とか、セクハラとか、
体罰とか、そんなことにきびしくなったのだろう。


 おれなんか、よくひっぱたかれたな、先生に。

 文明がすすむにつれ、にんげんが弱くなったてきたのだろうか。

 どうもそんな気がする。

 そのくせ、電車のなかで食事するやつとか、
道徳が欠如してくるやつも増えてきた。


 ようするに、高度文明の陰には、
にんげんの弱体化とモラルハザードとが、
偶有するようになってしまったのではないか、
ということである。

 
 一年くらいでいいから、
どうかな、個人情報とか、セクハラとか、
そんなことを言わない年がないものだろうか。

 それから、消費税

言わなくていいこと2016/3/10

 店を閉めて自転車に乗ったところに、
学生風の4人が立っていた。

 「うち、に、ですか?」
と、わたしが訊くと、四人はにやにやしながら、

「え、ま、そうですけど」
と、煮え切らない物言い。

 すこし躊躇もあったが、わたしはこころよく
というより商魂たくましく四人を迎え入れた。
 
 準備に時間がかかるが、いいといったからである。

 四人の学生さんの三人までが、
リクルートスーツ姿であった。


 いま、ちょうどそういう時期なのである。

 
 ひとりが、つけ麺、あとはまぜそば、ラーメン、
おひとりだけ、ミニラーメンだった。

 ミニラーメンとは、お子様メニューである。

 しばらく待ってもらって、お湯の準備が整い、
すべてをお出ししたころに、わたしはミニラーメンの方に
訊いてみた。

 「量、足りないんじゃないですか」

 「明日、検査なんです」と、かれ。

 「検査、あ、就職のための?」

 「はい、ぼく、悪玉コルステロールが高いんで、
いま、我慢しているんです」

 「えー、そんな若さで、だいじょうぶでしょ」

 「いえ、数値が、もうすこしで薬を打たないと
いけないくらいで」と、かれは、すこし微笑みながら答えた。

 じぶんのことを、まるで他人ごとのようにしゃべるひとだ。


 「あ、それ糖尿病になるやつですね」

 「そうなんです」

 あとの三人の学生さんも、この会話に笑っている。

 「糖尿病って、目が見えなくなったりするんですよ。
それから、足先から壊死したり」

 「それは聞いています」

「こんなね、注射をダイヤル回して腹にじぶんで刺したり
するんです」

 「ご経験があるんですか」と、学生さん。


 「いえ、ありません、ありません」

 いけね、学生さんとはいえ、お客さんだ、
そのお客さんに、こんなことを言ってはいけない、と、
いまごろ気づくが、後の祭りだろう。

 そういえば、このあいだ大学の同級生のミーコが
息子さん連れてきたときも、わたしは余計なことを
ずいぶん言ってしまった。

 「もう、きみ就職?」

 「はい、警官になります」

 「へー、どこ、県警?」

 「いえ、警視庁です」

 「あ、東京か、よく受かったね、そういえば、
このあいだ、川崎で、警官撃たれたね、四発」


 「えー」と、細い声で悲鳴をあげたのはミーコだった。

 「だいじょうぶだよ、ミーコ、銃撃戦は、あさま山荘以来
まだ、ないから、あ、あのとき、ふたり殉職したな」

 「えー」と、またミーコ。

 「でも、殉職すると二回級特進だから」

 「えー」と、ミーコ涙ぐむ。

 「あとな、拳銃撃つときはね、たんぼのなかとかダメだよ。
薬莢をさがすまで帰れないから」

「そうなんですか。はい」

「たんぼで撃ったらいけないんだって」とミーコは
繰り返す。


 「なに、危なくなったら、逃げればいいよ」

 「そーよ、あなた危なくなったら逃げなさいよ」と、
息子にむかって彼女は言った。

 どうも、過保護に育てたらしく、じぶんの息子が警官になることを
そんなによろこんでいないみたいだった。

 すこしおそろしいことを言いすぎたと、
このあと、いささか反省する。


 わたしは、明日、検査の学生さんが、
まるで、もうすぐに糖尿病になるような話をしてしまって、
あ、まずいなっておもったのだが、
なんとか、フォローする言葉はないか、
わたしはその言葉を探したのだ。


「でもね」

「はい」と学生。

「壊死っていっても、徐々にですから」

ジンが来た2016/3/9

 いつも陽気な薬屋さんが来た。

 店に数ヶ月、さまざな薬を置いていって、
使ったぶんだけ支払うという、いわゆる富山の薬売りの現代版である。

「あ、社長、お元気そうで」


 と、満面の笑み。


 ちょうどそのとき、タッパーの蓋がすべて変形しているので、
クレームをその会社に陳情したら、なんと、すべて交換してくれる、
というありがたい返事、そして、その新品のタッパーの蓋が
宅急便で届けられたときであった。


 「社長なんです、それ」

゜ あ、これね、タッパーの蓋が変形したから、
すべて取り替えてくれたんです。ね、こんなふうに、
無料で、誠意をもってしてくれる会社もあれば、
何ヶ月にいっぺん来て、なにが欠けているて
金ふんだくる会社もあるんですよ」


「あ、痛っ、痛っ。それ言われると・・」


 多少にくまれ口を叩いても平気なひとなのだ。


 「さ、薬しらべてくださいよ」

 「あ、はいはい」

と、薬屋さんは店の奥に行ってごそごそ薬箱を取り出す。
狭いところなので取りにくいのだ。


 えっと、とかれは、薬箱からいちいち薬のバーコードを
チェックしながらなにがあって、なにが使われているのか
調べ始めた。


 「きょうは、なにも使われていないようですね」

 「あ、じゃ、きょうはただですか」

 「はい、そうです」

 「なんか、無駄足だったですね」

 「いや、そんなことありません。社長。
ところで、どうして『しま坂』という名前なんですか。
わたし、そういうこと興味ありまして」

「これ、会社の名前なんです。志麻坂企画」

「はぁ、なぜ志麻坂と」

 「うちの坂の上に岩下志麻さんが住んでるんです。
で、わたしの家って坂の中途なんで、坂には
名前があるといいと10代のころからおもってまして、
だから、わたしは、勝手にじぶんの坂を志麻坂と
呼んていたんです。それがそのまま、店の名前になった、
ま、そんなところです」

「はぁ、面白いですね。じつは、私の名前は「ジン」というんです。
それも、なんだか、ふらっと来たひとに、名前なにがいいですかって
うちの親が聞きましてね、それで決まったんです。
ですから、わたし名づけたひと知らないんです。
テキトーにつけられたから」

「ジンってにんべんの?」

「そうです」

「中山仁の仁ですね」

 「そうです、で、きょうはラーメンいただこうと
おもいまして」

 「はい、あ、そうですか、それはありがとうございます」
と、わたしも急に態度が変わる。

 ちょうど、お湯もあたらしくしたところだし、
コンディションはよいところ。

「じゃ、とくべつに玉子と海苔サービスいたします」
と、どうだ、この変わり身の速さ。


薬屋さんは、ラーメンのスープまでけろりと飲み干し、
800円を払い、わたしからは、1銭も受け取れず、
愛想よく帰っていった。


帰っていったあと
カウンターには、またあらたに薬箱が置かれていた。

裏の置き場に戻し忘れのだ。


「おい、戻しておけよ、ジン」

シラガ2000物語2016/3/5

「この下に、これ置くのやめてくれって、
ユウコが言っていたけれど」

「なんで?」

「なんかね、汚れるのが嫌なんだって」

わたしは、シラガ2000を指呼してそう言った。。

「シラガ2000」とは、白髪ネギをつくる機械である。
板状にしたネギを本体の上に差込み、
取っ手を回すと白髪ネギが簡単にできる。


それまでは、白髪ネギは包丁で切っていた。
が、それは面倒なんので、東急ハンズに、
白髪ネギ専用のカッターがあり、
それでガリガリやっていたのだが、
ナナコの母が、そのおかげで腕があがらなくなった、
と、これみよがしに、膏薬を何枚もひじあたりにはって
わたしに陳情したのである。

 そんな様子を毎日見せられてはたまらないので、
やむをえずシラガ2000を購入したのだ。


 定価5万円である。


 痛い。


 おしどり夫婦という死語があるが、
わたしどもは、昼のほとんどをいっしょに働いている。

 けっして仲良しではない。

 だいたいわたしが言うことに、笑いもしないからだ。

 「どこにこのシラガ2000置けばいいかね」

「ないんじゃない、置くところ」

 「うーん、この炊飯器の下もいっぱいだしな。
そうそう、この棚、むかしはなかったんだぞ、覚えているか」

 「そうだったっけ」

 「そう、あのうすいブルーのうちにあったテーブルだった」

「あ、そうだ、でも、あなたって棚好きだよね」

「え、好き?」

「棚、買ってくるの好きじゃない」

「うーん、収納が好きだからな」

 妻はめずらしくこのひとことで身体をくねらせて笑った。

 「収納が好き? は・は・は、ナナコ今日くるから言ってみよ」

どーせ、おれの部屋は汚いよ、うるせーな。


 そういえば、さいきん、シラガ2000で白髪ネギを切ってから、
ナナコの母は、こんどはひじよりすこし上のほうが痛くなったと、
べつの場所に膏薬をはりはじめていた。

はじめてバイトに来た日に2016/3/5

 きょう、はじめてヒトミがバイトの見習いにきた。

 彼女は今年から大学生になる。


 冷蔵庫の扉に番号があって、一番、とか、二番とか、
来客への声かけ、皿の洗い方、手の洗い方、
ま、覚えることはこれからだ。

 きょうのパートナーは、ナナコの母だから、
教わるのにはちょうどよかった。

 彼女は、他人にはひどく優しいのだ。

 ちょうどよいはずだったのだが、
ひとつあての外れたことがあった。

 野田さんが来たのである。
それも、お知り合いの女性をつれて。

 ま、野田さんは独身だから、だれと、
どうなろうと、また、大人というより、老人だから、
どうなってもいいのであるが、
はじめてヒトミが来た日くらい、平穏に済ませたいじゃないか。



 「あのね、店のことをこの人に教わってもいいけれども、
人生の相談とかしちゃだめだよ。すぐ、
下ネタにはしるから」


 おいおい、そんなことデカイ声で言わないでよ。


 「あ、はい、わかってます」
と、ヒトミまで言うしまつ。


 「へー、わかってるねぇ」と、野田さん、
感心したようすだ。


 「そーよ」と、ナナコの母まで笑いながら言った。
「うちの娘だって、お父さんには相談しないもの」


 「あ、そーだ、この間のときも
お前にはなんか相談したけれども、おれにはなかったな」


 「うん、いいんじゃないってお父さんが言っても、
そうかなってならないとおもうよ。あたしなら、
そうね、でも、こうしたほうがいいんじゃないとか言うから」


 この会話を野田さんも野田さんの彼女も、
またノゾミまでもが、大笑いした。


 たしかに、もう上の娘は30にもなるが、
おれに人生の相談をしたことは皆無である。

 下の娘も、兄も、わたしと人生や、生きる道や、
仕事上の問題や、友人関係におよぶまで、
相談されたことがない、ということに
いまさらながらに気づくのである。


社会学的に「父」というのは、権威の象徴だし、
社会は「父」を要請している。

 
なぜなら、わたしたちは「世界には秩序の制定者などいない」
という「真実」に容易には耐えることができないからである。

(内田樹「邪悪なものの鎮め方」より)


 世界に一気に正義を実現し、普遍的な秩序をもたらそうとする運動は、
必ず「父」を要請する。(「同書」)


 なんてむつかしいことを言ってもしかたないけれども、
要は、世界でも、家庭においても「父」は要請されるものなのだ。


 うーん、わたしはだれからも相談を受けたことがない存在なのだ。

なんだか、それはどうなのだろうと、
いまになっておもうのだ。

 と、いうことを野田さんに相談してもはじまりっこない。

歌は世につれ2016/3/3

 マイミクのNさんと話す機会があった。

 むかしの音楽の話に花が咲く。

「山田パンダの『風の街』しってます?」

「知りません」

「そうですか、拓郎の作詞作曲で」

「そうなんですか」

「アレンジが瀬尾一三なんですよ」

「あの、一二って書くひと?」

「そうそう、その瀬尾一三さんは、シュガーベーブを気に入ってね、
コーラスをずいぶん頼んだそうです。
ユイ音楽工房の仕事を頼まれたんです。
だから、『風の街』のコーラスは、山下達郎とター坊です」

ター坊というのは、大貫妙子のこと。


「そうなんですか、ちょっとユーチューブで調べてみます。
ね、くもさん、こういう話ゆっくりしましょうよ」

なんて話にわくわくする。

まだ、高校時代は、拓郎、泉谷、古井戸、それに龍と薫だった。

スダコは、当時からSヤイリのものすごくいい音のするギターを持っていたが、
わたしは、グレコのアコギだけ。でも、当時で35000円。

スダコのヤイリは、当時で16万円だった。

かれのギターはまだ健在で、いまもマーチンコピーの
すこぶる良質の音を奏でている。


Nさんと、こんどカラオケねって約束をするのだが、
なんだか、雨が空から降れば、とか、翼をくださいとか、
それをギターで練習しておけ、というミッションが出された。

だから、わたしは、こんな夜更けにヤマハLD-10を抱えている。

いまは亡きヤマハのアコギ、買えば当時で6万円、いまなら10万するかな、
でも、たいしたものじゃない。


泉谷の「義務」


♪きょう、だけは人間らしくいたいから

 デモの列に歩いてくるよ、陽気にね

 と、言うと、女房はこどもをあやしながら・・・



 これは、高校時代は、女房だの子供だの、そんなの
いないから、歌うのにはばかった。

 が、いまはどうか。女房はいるにはいるが、すでに、
子供はふたりも嫁いでしまって、この歌とはかけはなれている。



 古井戸の歌「年の瀬」

♪しまい忘れた 風鈴がひとつ 

  冬の中で泣いてます

  今年も暮れるんです

  ・・中略・・

  これ以上 やせないように

  これ以上 減らないように

  これ以上 しゃべりすぎぬように・・・・


 あ、だめだめ、でぶなんだから、身にそぐわない。


 五つの赤い風船「遠い世界に」


 ♪ボクらの住んでる

 この街にも明るい太陽顔を見せても

 心のなかはいつも悲しい

 力をあわせて生きることさえ

 みんな忘れてしまった

 だけどボクたち若者がいる・・・


 いや、だめだ。若者でない。

 なんだい、けっきょく、むかしの歌を歌うようなじぶんは
どこにもいないじゃないか。

 とほほ

35年ぶり2016/3/2

 「ね。覚えてます?」

 店に大学生風の息子さんをつれてきた 女性が、

にこやかに話しかけてきた。


 よく見ると、そーだ、大学時代のおなじゼミの・・えっと。

 「あ、みー子だ」


 「そー、そー、よかったぁ」
と、みー子は軽く手をたたいた。

 「ひさしぶり、わざわざ来てくれたの」

 「そうよ、元気そうね」

 「うん、元気、元気、たしか、神奈川に転居されて」

 「うん、大倉山、ここまでわりに近いのね」


 「そうだよ、急行ならすぐ」

 みー子とは、卒業以来会っていないから、
35年ぶりくらいじゃないだろうか。

 そんな長い時間がすでに経っているのである。

 「ねぇ、覚えてる?  みー子がさ、風邪ひいて、おれ、
みー子の残した缶コーヒーもらったら、
その次の日から高熱が出て、うつったんだよ風邪」
 
 わたしは、息子がいるのにもかかわらず
ずけずけと訊いてしまった。


 「え、覚えていない」


 「たしか、ゼミ旅行だったとおもうよ。忘れたか?」

 「うん、ね、くも君(ほんとはここは本名)さ、ゼミ室で、
ひとりだけ珈琲、いれて飲んでたよね。みんな、そんなこと
できなくて」

 「うっそー、知らない、知らない」

 「覚えていないの?」

 「まったく覚えていない」

 「あら、ゼミ旅行、京都だったでしょ、おいしいところ連れてゆくって、
それでみんなを案内してくれたところが、不二家よ」

 「え。そうだっけ。覚えていない、そんなことしたっけな。

あ、そういえば、おれさ、 みー子んちに行って、なんかむつかしいパズルをといたことあったよ」

 「あら、そうだったかしら」


 35年以上も経ってしまうと、
ふたりとも、トリビアルなことだけを個別に覚えはいるが、
共通する思い出というものが、ほとんどないことに
気づかされるのだ。


 わたしは、大学時代、
臆面もなく、堂々と珈琲をひとりいれていたなんて、
そんな度胸があったものか、
むしろ、そうやって聞いてみると、
知らないじぶんに会ったような気もするが、
同時にすこしおもはゆい気もしてくる。


 「元木、校長になったらしいよ」

 「え。あの元木君が」

 「そう。いつも、おれがゼミ長で決めたこと、
あとから、呼び出して、ああでもない、こうでもない、と、
影でおれにこそこそ言っていたろ。キライだったよ。
なら、あそこで言えよ、な」


 「そうそう、あったね、そういうひとが校長になるのね」

 「いまごろ、嫌われているよ、きっと」


 35年ぶりの再会で、共通した話題は、
北海道で教員をしている、いやな奴の話だけだった。

短歌との出会い 2016/3/2

わたしども短歌の仲間が二次会などすると、

どういう集まりですかって、

店の方は気になるのだろう、よく訊かれる。

 たしかに、(へんてこな)老若男女がわいわいやるものだから、

不可思議な集団に映るにちがいない。

 わたしが、短歌をはじめるきっかけは、小野茂樹の歌だった。

ちょうど『サラダ記念日』が話題になっていたころだ。

 ・あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

 ふるえた。この喚起力、すなおな筆運び、

かつ、新鮮でさわやかな空気感、わたしはすっかり舌を巻いた。

 

こんな作品をつくってみたい、そうもおもった。

 

しかし、まだインターネットも普及してない時代、

どこに問い合わせればいいのか、さっぱりわからない。

いまなら、アマゾンでものを買うように、

クリックひとつで短歌の世界に足を踏み入れることができる。

 

だから、ネットを駆使できる、それも著名な方なら、

その権威をもってたくさんの仲間を青田刈りもできる時代である。

さて、当時、昭和の終わり頃、わたしは、高校の教員で、

かつ、学校案内の作成委員だった。委員はわたしひとりである。

 

おまけに、中学校向けのポスターも手がけており、

それらのすべての権限も与えられていた。

そこで、わたしは、写真好きの教員が撮った北海道の畑の写真に、

この小野茂樹の歌一首だけを据え、

学校名だけの、じっさいなんのポスターかわからないようなシロモノをこしらえた。

 

けれども、だれからもクレームがなかったから、

「しめしめ」なのであって、どうやって短歌界に

参入してよいかわからないわたしにとっての、

ひとつの発信ができたのである。

 

 

 と、ポスターが中学校に貼られたころ、

おもいがけず、学校に電話があった。

 

 それは、ポスター作成者の方と話がしたいという電話であり、

わたしが電話口に呼び出された。

 

 

それが下南拓男先生だったのだけれども、

わたしは、その電話に舞い上がった。

 

 

「わたしどもは、小野茂樹と懇意していたものですが、

どうか、あなたとお会いしたいのですが」

 

 

柔らかな電話口の声。

わたしは、二つ返事で了承した。

 

昭和から平成に移るころは、

こういうアナログなしかたでしか繋がることができなかったのである。

 

 

「鎌倉駅で、土曜日の十一時に、われわれは待っています」

「かしこまりました。でも、わたしは、みなさんのことを存じ上げませんが」

「わたしたちは、立っているだけでわかりますから」

 下南先生とは、そのような電話であった。

 立っているだけでわかる、どういうことなのだろう。

 

さっぱり見当のつかないまま、

わたしは、鎌倉駅に行った。

 

土曜日の、ややにぎやかな改札を出ると、

タクシー乗り場のすぐそばに異様な集団が立っていた。

 

それは、事後的に知るのであるが、

甲村秀雄であり、

下南拓男であり、

小村井敏子であった。

 

なんだろうか、あの独特なオーラ。

「いた、いた、あれだ」

時間とお金2016/2/27

 むかし、星野さんが言ったことだ。

 「男ってお金があると、高級な家に住み、高級な車を買うだろ。
だいたい、金があると、家と車なんですよ。

 でも、ぼくは、家もいらないし、車もほしくない。
 
 だから、お金いらないんです」


 ふーん、なるほど、わたしはあのとき、
すっきり感心してしまって、そーか、
家も車もほしがらなければ、お金はいらないのかって
納得したことがある。


 でも、星野さんは、買取のマンションに家族で住んでいたし、
ボルボやベンツを乗り回していたけれど。

 ひとり娘の響子ちゃんは、それでも、
家が狭いことを苦に、「わたしの部屋が欲しい」って、
父に哀願したこともあったそうだ。

 そのとき、かれは、

「この家、ぜんぶが響子のお部屋なんだよ」って、
ま、うまいこと言ったもんだ。


 なにしろ、娘が遊園地に行きたいって言えば、
ちかくのマクドナルドに出かけて、
そこにあったジャングルジムのようなもので
遊ばせ、それを遊園地と言っていたことを
おもうと、「ものは考えよう」という常套句が
脳裏をよぎったものである。



 星野さんは、せっかくの小学校の先生、つまり公務員だったのに、
それを辞めて、大学の講師の依頼も断って、
ずっと高校の非常勤講師でいた。

 仕事をしたくなかったからだそうだ。

 奥さんから、もうすこし働けばって言われると、
これいじょう働くと、ふつうのひとになっちゃうじゃないか、って
そう言っいたそうだ。

 ま、それに、うなずいている奥さんもじつに変わっているとおもうが。


 きょう、珈琲屋さんに寄って、
そこで、小半時、しゃべっていたのだが、

 「もし、お金があって時間があったとき、なになされます?」

 と、パートの女性から訊かれた。


 じつは、わたしはそのとき即答できなかったのだ。

 なぜなら、時間も金もないからである。


 「時間があって、お金があって」
という事況を想像したことが、ここ数年、
想像したことがなかった、ということに、
むしろ、じぶんで喫驚しているぐらいである。


 「時間とお金のつぎにやりたいこと、
それがそのひとの、ほんとうにやりたいことらしいですよ」
と、彼女は付け加えた。



そーなんだ。知らなかったよ。


 はて、さぁ、時間と金がある生活。うーん、
家もぼろいけれどあるし、車もぼろいけれどある。


 じゃ、なんだろ。

 そうだな、横にはべらすひとでもさがすか。

 なんと、そんな情けないことしかおもいつかなかったのである。


 これは、この数年、創造的な生活をしてこなかったひずみが
いま現前しているんだ、ということに
いまさらながら、気づかされてしまったということかもしれない。

 やだね。

 さて、むしろ、 わたしは、みなさんに問いたい。

 お金と時間があったら、そのつぎになにをしたい?



短歌について 2016/2/24

 ・磐代の浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

 有間皇子の歌である。万葉集所収。ご存知のとおり。

 和歌はこうあるべきだ、なんてことはわからないし、
おこがましいし、
そんな当為の文体が通用する世界でもない。

 だが、ひとつの方向性として、有間皇子の歌には
「いのち」が吹き込まれている。

 このあと、すぐ処刑されることがわかっているからだ。
「ま幸(さき)くあらば」などありえないのだ。

 だから、つづく、

 ・家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 この歌を、家持は「羇旅」ではなく、巻2の「挽歌」の冒頭に
据えたことでも、有間皇子の沈痛なおもいが伝わるのである。

 家にいれば、お椀にもるご飯も、旅の途中だから、
椎の葉に盛るのである、という、この平易な意味の
裏側に、謀反の罪で殺される悲劇の皇子のものがたりが、
くりひろげられている。

 まるで、みずからを鎮魂するような、
この歌の重みは、いまの世でもじゅうぶん通ずるのだろう。


 和歌。短歌の歴史は、古今集、新古今、
時代ごとに、それぞれ特徴をもちながら、ゆっくりと動いてきた。

 現代では、ライトヴァースという時代から、
いまは、なんの時代だろうか、若い方が、若い詠みかたをされる。


 葛原妙子や水原紫苑のような、やや難解といわれる歌もあった。
俵万智のような、平易で共感する歌もあった。


 ・ゲーテは大き寝台に死にしかないますこしひかりをなどと呟きて 妙子

 ・殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤蜻蛉(あきつ) 行け 紫苑

 ・親は子を育ててきたというけれど勝手に赤い畑のトマト  万智


  三者三様の歌。葛原さんの歌や水原さんの歌は、わかりそうで、
うーん、どうなんだろう。でもリリカルであることには間違いない。
 
 俵万智さんの歌は、教科書にもあるくらい、わかりやすくて、
うん、そのとおりってところ。

 で、このわかる、わからないという読者の立場は、
経験的な読者にちかいので、そういう評よりも、
叙情性、詩性があるか、ないか、あるいは、そこに作者が見えているか、
いないか、という感想をのべるのが、読者としての、
ひとつの正しいスタンスなのではないだろうか。

 
 作者がみえる、あるいは、作品の裏側にものがたりがみえる、
奥行きがある、そういう捉え方をして、短歌のいい、わるい、
と、言えるのかもしれない。

 よくわかんないんだよ、ほんとは。

 すくなくとも、好き、嫌いではないとおもうが。


 さいきんの歌を見てみると、さまざまな歌会で揉まれてきたせいか、
じぶんの歌を否定されたくない、キズを指摘されたくない、
というおもいで作歌している方がいるのではないか、
わたしは、そうおもうときがある。

 ひどく難解なのだ。


 で、その難解さが、葛原短歌や、水原短歌ては質がちがっている。


 ・紺青のせかいの夢を翔けぬけるかわせみがゆめよりも青くて 井上法子


 次世代を担うだろう、若き歌人。
わたしは彼女が、
まだ高校生だった頃から、
賞という賞を総なめにしたきた頃から、注目していた。

 言葉遣いの巧さ、音感のよさ、抜きん出ている才能、
まったく舌を巻くほかないのだが、
すこし、気になることもある。


 これが、あなたの等身大なのだろうか。

 もちろん、歌に虚構も、よそ行きの言葉もありだとおもう。
ただ、気になるのは、あ、これ「君らしい歌だよね」とはならないのだ。

 うまいんだよね、でも、気になる。

 歌会、批評会、などで頭角をあらわした彼女だから、
言葉の運び用は、すこぶる上質である。

 わたしの邪推なのだろうが、悪い意味ではなく、
言語武装してないだろうか。いや、してないかなぁ。

 つまり、個性的な言葉でリリカルさを担保していながら、
ほんとうの自分の弱さとか、キズとか、裏にもつ物語性とかを、
封鎖してしまってはいないか、ということなのだ。

 そんなこと言うなら、わたしの歌を読まなければいいんですって
言われそうだけれども、年寄りの、ある短歌観から、
そんなおもいを抱くわけである。


 有間皇子のような、「迫りくる死」を詠もう、とはいわないけれども。


 
 

身のほどを知ろう2016/2/21

にんげんには「身の丈」というものがある。

 それはこんな話だ。

 結婚式に呼ばれたA子さん。
なにひとつおめかしなんかしないA子なので、
指輪もネックレスもろくなものがない。

 そんな話をおとなりのセレブB子さんに話したところ、
気安く、胡桃ぐらいのオパールの指輪を貸してくれた。


 A子は、欣喜雀躍、よろこんで式に出かけ、
夜おそくに帰宅する。さて、指輪を返そうとしたところ、
台座から、あの深部からかがやく七色の石がないではないか。

 どこかに落としたのだ。


 A子の動揺は並大抵ではない。

 もういちど、式場までもどり、すでに閉館している会場を
開けてもらい、隅から隅までさがした。


 ない。


 駅では、拾得物係りに問い合わた。

 しかし、ない。

 A子は、自宅と会場と二回も往復したが、
けっきょく見つからなかったのだ。


 B子に、なくしました、とは言えない。さあ、どうする。
旦那さんにも言えない。


 しかたがなかった。

 A子は、ひとり宝石売り場にゆき、
この台座にあうオパールをローンで買ったのである。

 そしてA子はお隣のセレブに頭をさげに行った。

 「ごめんなさい。じつは、この石落としちゃって」
と、A子が勇気をだして誤ったところ、言下にB子が答えた。


 「あら、いいのよ、あれガラスだから」

酒のはなしあれこれ2016/2/19

買い物がすきなせいか、
あるいは酒がすきなのか、
 酒屋に行くのがたのしい。

 雪が谷大塚という鄙びた街に、
なかなか種類のそろった酒屋さんがあって、
買うならそこにしている。

 ナナコの母にその話をしたら、
ついてくるという。

 ナナコの母も買い物がすきなせいか、
酒好きか、あるいは財布はわたしなので、
そのせいが大きいのだろう。

 お前、このあいだ買った日本酒もうないのか。

 ないわよ、あんなの。もうずいぶん前でしょ。


 ほんとかよ。ついこの間じゃないか。

 と、おもうが、それいじょう言うと大喧嘩になるので、
口をとざした。わたしは、彼女が、あぐらをかきながら、
湯飲み茶碗で日本酒を飲んでいるところを想像するのだが、
そんなことを、言ったら、これまたたいへんなことになる。

 店は昼でもほの暗く、いかにも酒屋さんという
オーラがただよっている。

 一升瓶が、堂々とした佇まいでずらりと並んでいる。

 わたしは若い店主に訊いていつも一本を買うことにしている。


 「四季桜の花宝はないんですよね」

 「はい、うちは四季桜やっていないんです」

 「得月は、よく飲むんですが、あんな高いのではなく、
ああいったフルーティなのがいいんですが」


 得月という酒は朝日酒造、つまり久保田を作っている酒造メーカーである。
久保田というのは、杜氏さんの名前。新潟には久保田さんが多いそうだ。

 で、その朝日酒造のフラッグシップが得月である。
萬寿とか千寿とか言っているのは序の口。


 ちなみに、四季桜の花宝は、一年に一樽しか作らない、
これも四季桜のフラッグシップたる酒である。

 四合瓶でだいたい4千円。

 得月も、それよりすこし高い。


 で、店主が出してくれたのたが、上喜元。
山形県酒田の酒である。

 よく日本酒となると、どこの酒、と聞く人がいるが、
地域を訊いてどうなるんだろうっていつもおもう。

 やはり、味のわかるひとは、山形の地を
目をつむりながら想像して飲むのだろうか。


 ワインは、その点、
とくに貴腐ワインはフランスの畑が
想像できるくらいのシロモノである。


 いちどだけ、貴腐ワインの最高峰、
シャトーディケムの1945年というのを
飲んだことがあるが、あのときは、震えた。

 口中にそれこそ、フランスの太陽と畑がひろがったのだ。

 かんたんに言えば、感動したのである。


 たぶん、もう、あんな上質なおもいは二度と
経験しないだろうとおもうが、
このあいだ、渋谷のバーでディケムがあったので、
値段を訊いてみたら、70CCで3000円だった。


 高いじゃん。ま、ディケムだから。
で、わたしは、店員に交渉した。

 「ね。7CCでいいから、300円でどう?」


 これは、言下に却下された。



 けっきょく、わたしはこの店で、獺祭の酒粕と、
妻が抱え込んで飲む一升瓶と、いづつワインと、
4合の上喜元とで、約7000円也を支払い店をあとにする。


 なかなか来られないので、最後に店主に訊いてみた。

「この店でもっとも高い日本酒はどれ」


「はい、これですね」
レジから出てきて、棚の一番うえを指した。


 やはり獺祭だった。
4合瓶二本で37000円である。 


「へー、3万円を越す酒があるんですね」

 「んー、まぁ、ワインに比べれば安いものです。
しかし、この獺祭は、どのくらい削っているのか、
まったくスペックの詳細を明かしていないんです」

「飲んだことあります?」

「わたしはあります」

「得月よりもうまい?」

「おいしいです。繊細というのか、質がいいです」

「ふーん。そうなんですか」

「こちらの4合は7000円ですが、こちらのが
3万円です」

 かれは、二本並んでいる片方を指呼しながら言った。

 おんなじ瓶のようにみえるが、
ひとつが三万円らしい。日本酒で三万円。


 わたしどもは店をあとにしたが、
ものすごく高価ですばらしいものを見た、という感動より、
おそらくいちども手にすることのできないものを見た、
という脱力感といおうか、諦念といおうか、
そんながっかりしたおもいで店を出たのである。


 数本買った酒は重かった

ひかりの海2016/2/16

 「ひかりの海」という絵本が完成された。

  出版元は、東京法令出版株式会社。



 ユキコの夫ノブオさんは、人間魚雷の回天に乗り他界する。
ユキコは、人間魚雷がなんなのかも知らないまま、
終戦の半月後に、兵庫県の自宅に夫の訃報が届けらる。


 文は、佐藤溯芳さん。さっぽう、と読む。
 絵は、熊谷まち子さん。

 絵は、やさしいタッチのいかにも絵本作家という描き方。


 文章も、平易で簡潔で、これも絵本らしい。

 いま、この本が山口県のある地域、具体的には、
ひかり市あたりで話題となり、子どもに読み聞かせがあったり、
行政が乗り出し、児童に配布したりしているそうだ。


 さまざな機関の推薦図書ともなっている。


 わたしは、この企画に参画している
ある女性と知り合いなので、
この本を東京でも広めたいと願う彼女のために、
地元の小学校に出向いて、
この本を推薦しなくてはならないのだ。


 「あれから10年が過ぎ、日本は平和をとりもどしました。
そのころ、アメリカ人の元艦長が、平和の研究をつづけるなかで、
太平洋でじぶんと死闘をくりひろげた「回天」の搭乗員が、
ノブオであったことをつきとめました。(中略)
 ノブオののった「回天」は勇かんに艦長さんの船にむかって
いきましたが、おいつくことはできなかったそうです」
 (『ひかりの海』より)


 夫は、海の底の藻屑となっていったのである。

 日本の負の遺産として、こういう話を子どもたちに
語りつないでゆこうとする行為は悪いことではない。

 そして、この本のエンディングはこうである。


 「かなしい出来事が いまでも毎日 おきています」
 「命や心は ただひとつ けっして 
  人も自分も 傷つけてはなりません」
 「命の歌や 心の歌を 世界のみんなで合唱できる
  平和な世界を」
 
 それが いまの ユキコの ねがいです ♪ ♫ ♪
 (『ひかりの海』より)


 なにも間違いはない。平和を希求することは
万人共通、崇高なことである。

 ユキコの結婚生活は10日にも満たなかった。
そしてノブオが戦死して70年、ユキコの願いは世界平和である。

 正しい。

 しかし、最後の「♪ ♫ ♪」はなんなのか。


 音符が三つ並んでこの哀しい絵本は終わるのだが、
なにゆえの音符なのだ。

 企画者の知人の女性も、絵を担当した熊谷さんも、
また、この本にかかわるひとのほとんどが、
最後の記号がいらないのではないかと、
作家の佐藤さんに進言したそうだ。

 たしかに、現在は絵文字文化ではある。

 (笑い) なんかも絵文字にカテゴライズされるだろう。
絵文字がなければ伝えられないなら、
わたしは、その文は価値のないものではないか、
すこし大げさに言えば、そのくらいにおもっている。

 もともと、過不足なく文章は語れるものではない。
言いすぎたり、言い足りなかったり、
しかし、それを絵文字で補うという発想は、
文字に対する冒涜だと、わたしはそうもおもう。


 ましてや、文筆家を名乗るいじょう、
「♪」で締めくくるなよ。言葉を大事にしようよ。


 まるで、悲しかったけれど、最後は「ジャンジャン」みたいじゃん。
はしたなくはないのかな。


 ところが、佐藤さんは、ここはけっして譲れない、
そう言い切って、強行突破、いまのカタチとして
発刊されたのである。


 わたしは、この「ジャンジャン」をもって学校に
行かねばならない。


 不謹慎を承知でものを申すが、
さながら特攻隊のような気分なのだ。


最後はみかんの話2016/2/14

 釣りに行っても、持って帰ってくるのが、
みかんと干物だからね。

  これは、娘の母がぼそりと言ったひとことである。


 たしかに、妻のひとことは正しい。
正しいけれども、ひとつもおもしろくない。


 干物屋さんは、うちの店の隣に数回、イベントで出店した店で、
ひどく懇意になって、くしくもわたしどもの行く釣り場のすぐそばに
工場があるため、沼津に行くたびに、
この工場によって、サバの干物を買うことになった。


 魚じゃ、中トロでもなく、キンメでもなく、ノドグロでもなく、
鯵でも、シマアジでも、ボタン海老でもない。サバだよ。

 あの野趣味ゆたかな、ちょっと下卑た、力強さこそ、
これが日本だ、わたしの国だ♪

 みかんも、釣り場のすぐそばに、販売所があって、
一袋、入れ放題で200円と破格。

 で、そこは、ほとんどひとがいないのでわたしが
3袋も買おうものなら、販売所の女性は喜んで、
「もっと入れてください、もっと、もっと」
と、加勢してくれる。

 遠慮ぶかいわたしなので、まだ余力のあるうち
ビニール袋を結ぼうとすると、
「もっと入れて、入れて」
と、哀願するような声で言うのだ。


 これを野田さんは横で聞いていて、にやにやしていた。
野田さんは、きっとちがうシュチエーションを想像したにちがいない。

 なにしろ、すけべ爺さんだから。


 むかしから、みかんは好物で、これは、わたしの母のまた母。
つまり祖母からの影響である。

 祖母は、長崎の生まれで、
みかんは伊木力にかぎる、と、いつも言っていた。

 伊木力という地は長崎のある地域で、
温暖な気候と急斜面の土地ゆえ、みかんがよく育つ。

 そこで育った伊木力みかんは、他の長崎みかん、
あるいは、三ケ日みかん、静岡みかん、などくらべものにならないほど、
味が濃く、甘く、上質なのである。

 祖母の言う通りで、伊木力のみかんは、他のみかんとは
値段的にもはるかに上なのだ。

 牡蠣でいうなら、広島よりも、北海道厚岸(あっけし)の昆布盛のほうが
はるかに上質なように。

 
 で、娘の母が、みかんが食べたいというので、
清水の舞台から飛び降りるつもりで、
伊木力みかんを注文したのである。


 散財である。


 で、10キロの箱がとどく。

 
 さっそく味見。

 
 美味。


 言葉にできない♪


 このおいしさは、みなに共有しなくてはならない。

 わたしは、ナナコの住む練馬に届けた。


 と、ナナコは、届けるや、そのおいしさをLINEで返してきた。

 味が濃くて、甘くて・・・・


 そう、そりゃそうだ、伊木力だもの。

 ナナコの母は、わたしの母の妹、つまり叔母にも届けたのだ。

 叔母はもう90歳を越しているのだが、拙宅の二軒先に住んでいる。
ついこの間まで、町会長を務めた街の重鎮である。

 ナナコの母は、みかんだけではもうしわけないと、
五目寿司とともに叔母のところにもっていった。


 と、叔母はこう言ったそうだ。

 「あら、伊木力のみかん。ねぇさんが好きだったわね」


 うちの母も好きだったかもしれないが、
あなたのお母さんが好きだったんですよ。


楽したのしいバレンタインデー2016/2/14

 バレンタインデーがわが国で
これほど盛り上がったいきさつをしらない。

 カカオから作ったわけでもないのに、「手作りチョコ」を作り、
義理チョコ、はたまた女子同志に送り合う、何とかチョコ。

 毎年、すこしずつ姿を変形させながらエンエンと
つづいている行事である。


 ま、義理でももらえればうれしいにきまっている。

 しかし、この風習はどこから来たのか。

 じつは、まだ、これといった研究はされていない。
ここは、ひとつ、民俗学にがんばってもらうしかないだろう。

 歴史の生成された瞬間にもどることを「零度」という。
ロラン・バルトの術語である。

 「零度」には、その歴史が背負わされたもろもろのもの、
バイアスのかかってしまった瑕、そんなものがない。

 なぜ、それが発生したか、その原点が「零度」である。

 では、日本におけるバレンタインデーの零度はどのへんか。
アバウトでいうなら、1970年の後半あたりらしい。

 前述したとおり、はっきりわかっていないのだが。


 高度経済成長の終焉とチョコレートの隆盛と、
どうも因果関係があるらしいのだが、それもまだわからない。


 とにかく、わが民族は、他国の文化を
よくもまあ、自己流に変えてしまうものだと、つくづく感心する。

 
 そして、もっとも崇高なことは、そういう変脱を、
恥ずかしいとか、はしたないとか、微塵もおもわないところである。



 ぎゃくに、手作り? うっそ~、カカオから作ったかよ、
なんてやつは、そのコミュニティから葬り去られる。


 と、言いつつ、わたしも娘や、その娘の母から、
毎年、それなりのチョコをいただいていて、
うーん、またか、とおもいながらも、
すこしはうれしくおもうという、なんともちぐはぐなおもいで、
2月14日を過ごしているわけだ。


 とにもかくにも、この国に住んでいるいじょう、
日々、どこかにちくはぐさを感じなければならない気がするが。


 今朝、バイトにいつもどおりユーコが来た。

 手を洗いながら、彼女がはっと気づいたように言う。

 「あ、きょうバレンタインデーだ」

 「ん。そうだよ」

 「あ、どうしよ。なんにも用意してないや。うん、
でも、いいか、だれにも会わないし」


 「・・・」

 おれは?

好意というものは2016/2/13

仕事に休みがなくなっておよそ一年。

 一日たりとも休日がないのだが、年に数回、
おねだりをして店を休む。休むときは、
いつも、沼津への釣行である。


 鍋にはうるさい、といいながら、
なんにでもうるさい野田さんが、毎回同行してくれる。

 というより、わたしの行ける日に、
かれが仕事をやすんでくれるという、わたしには、
ひどくありがたい方なのである。

 沼津に行けば、そこには、これも毎回、
ヤマダさんという名人が待っていてくれる。

 むかしは、ゴン・ヤマダというあだ名があった。

ごんずいしか釣らなかったからだ。
が、ヤマダさんは、こと釣りに関しては学究肌で、
すこぶる研究を重ね、いまでは、ほとんど毎回、
黒鯛をあげている。

 そして、野田さんとわたしときたら、
ほとんど、ボウズ。ナッシング。ゼロ。


 妻が言うには、さいきん、みかんしか持ってこないよねって。

たしかに。

釣り場のそばで売っているみかんを買ってかえるのだが、
沼津の土産はそのみかんだけなのだ。


 そんなことがつづいたせいか、ヤマダ名人、
じぶんの使ってるしかけのことごとくをわたしたちに披露してくれた。

 それは、手作りのウキ、手作りの錘(おもり)、
すべて手作りである。そのうえ、ものすごく精巧でうつくしい。

 ウキ下の長さはこのくらい、そこにガン玉をこのくらい、
ことごとく名人のいうとおりのしかけができあがる。



つまり、ヤマダ名人のしかけが横に三列にならんで、
海にむかって出されたわけである。


 が、このときは、三人ともボウズ。ゼロ、ナッシングであった。


 ヤマダさんはすこぶる親切で、受益より他人のため、
という心優しい方である。

 ただ、わたしどもは、これから沼津に行くたびに、
ヤマダ流の釣りをしなくてはならなくなった。

 野田さんとわたしのしかけを
完全に用意してくれたからである。

 釣りというのは、自宅にいるときからはじまっている。
季節や天候、場所をかんがえながら、じぶんの頭で
想像し、道具やしかけや服装をかんがえる。

 それが、ひょっとするともっとも楽しい瞬間かもしれない。
換言すれば、釣りにおける知性的な領域である。

 釣りの現場では、そんな知性はちっとも役に立たない。
そこには、自然と対峙した本能的な釣り人しかいない。


 しかし、すでにしかけが決まってしまったいじょう、
わたしは、家にいながら、つぎの釣りのための想像が
できなくなってしまったのだ。


 ヤマダさんの好意はいたいほどわかる。
ありがたい。

 じぶんの秘密を、こうもたやすくわれわれに指南してくれるなんて。

  が、その好意とおんなじくらいの分量の楽しみも失ってしまったのだ。

 さて、3月の後半にわたしは、沼津釣行を計画している。

 そのときまでに、じぶんはどんな楽しみ方をすればいいのか、
また、べつの想像力を発揮しなくてはならなくなったのだ。

203号室2016/2/8

あるひとの話である。

 新築のアパートの203号室に越してきた。

 201号室は、初老の男性の一人住まい。

 とても愛想のいい方だそうだ。

 そして、202号室は、毎朝、顔をあわすのだが、
とても若くて、かわいらしい女性。

 ああ、ここに越してきてよかったと、そうおもったそうだ。

 ところが、困ったことは、204号室である。

 夜中になると、壁をドンドンと叩いてくる。

 毎夜、毎夜、そうやって壁を叩いてくるので、
むかついて、こちらからもやり返してやったそうだ。

 そうしたら、それ以上に激しい音で叩いてくる。


 業を煮やして、不動産屋にクレームを言ったそうだ。

 「あの204号室のひとが、とてもうるさくて困ります」と。


 と、不動産屋はひどく困ったような口調でこう言った。

 「あの、あそこのアパートに住んでいる方は、あなただけなんですが」


 「・・・・・」

 
 じゃ、201号室のおじさんは。202号室の女性は。


 そこで、それ以上なにも語らない不動産屋さんなので、
じぶんで、このアパートの過去を調べたのだ。

 そうしたら、このアパート、その前は、公園だったそうだ。

 そして、公園の前は、おんなじようなアパートだった。
が、そのアパートは火事で全焼し、
住人のことごとくが亡くなっていたそうだ。

 この話、信じるかどうか、実話らしいのだが。

ナットをめぐる冒険2016/2/6

 

 

 

 電動式自転車のうしろのねじが取れた。つまり脱落である。


 このナットが脱落したということは、後々、後輪が脱落するということだ。
ぶかぶかのスラックスでベルトしていないようなものである。

 
 しかし、この自転車、文字通り「ただもの」ではない。
中国製のものすごく廉価なシロモノである。
もう少しいうと、「ただもの」にもっとも近いシロモノだ、ということである。

 専門家に言わせると、「ありえない」そうだ。

 で、娘の母は、近所の自転車屋さんにもってゆくが、
日本製のナットではないそうだ。日本製は、15ミリ規格のナットなのだが、
それよりもはるかに穴が大きいのだ。

 で、その自転車屋さんが言うには、「この自転車には乗らない方がいい」と。

 その、中心部分のねじがないということは、スタンドもぐらぐらなのである。

 そうしたら、どうしてもこれに乗りたいのだろう、娘の母は、あいかわらずの、
トンチンカンであるので、そこに針金を巻いて乗ろうとしたのだ。

 わたしが、やめろというのに、針金自転車は自由ヶ丘まで
出かけていった。

 そんな危険極まりないものが家族にいては、いけないというので、
わたしはホームセンターに行き、だいたいあうだろうナットを
数種類購入して、車軸に合わせてみた。
が、どれも微妙に合わないのだ。

 うーん、しばらくは針金か、とおもいつつ、
あ、そう言えば、田園調布にわたしが以前購入した、
サイクルスポーツ専門の店があったな。

 わたしは、すぐにその店に電話した。

うちは、ママチャリやってないですから。

そーですよね。でも、車軸のナットが合わないんです。
困っていて。

そーですか、それならうちまで来てください、なんとかやってみます。


わたしは、その優しい言葉に甘え、針金で車軸をとめた自転車で
田園調布まで出かけた。

ちょっと怖かった。時間もすでに夜の11時ちかくである。

 うーん、これが合うかな。と、じゃらじゃら出したナットの中から、
ひとつを取り出し、かれはそれを締め付けた。

 が、あれ、途中までははいるんですが、それからは入りません。
じゃ、そこまでワッシャーかまして、とりあえず応急処置をしますが、
ちゃんと直さないと危ないです。

 と、自転車屋の主人、と言っても若い方なのだが、
ぺらぺらとカタログを見て、

「あ、これかもしれません。うちのが、M12の1.5のピッチなんですが、
これで、入らなかったから、1.25のピッチか1.75のピッチで入ると
おもいます。ホームセンターに売ってるとおもいます」

と、親切にも調べてくれたのである。
おまけに、もっと親切なのは、工賃もただ、部品もただだった。

「これは、売り物じゃないから、お金取れません」


わたしは、最敬礼をし、その店を後にした。
とりあえずは、ぐらぐらせずに乗れるようになったのだ。


 たくさん買ったナットの中に、M12の1.75ピッチがあったので、
この中国野郎は、きっと1.25ピッチだとおもった。

 わたしは、翌日、ホームセンターに行き、ピッチ1.25を求めた。
そうしたら、店員が「1.25はありません、それは特殊なもので、
ネジ専門店にしかないですね」という返事であった。


 そうか、特殊なんだ、
あ、そーだ、ネジ専門店は環七の世田谷通り沿いにあったはずだ、
あとでそこに行ってみよう。

 わたしは、まず家に帰った。

 と、自転車はなかった。妻がどこかに乗って行ったものとみえる。
ナットも特殊だが、もっと特殊なものがいたのである。

 

 

余計なこと2016/2/4

世の中には余計なことを言う輩がいる。

 

部活動の練習を終えてから食事に行った。

しばらくぶりにからだを動かしたものだから、

腰もぐりぐり痛いし、肩もあがらなくなっている。

バレーボールは四十を越してからはやるものでないと、

T教諭が言っていたことをおもいだし、

文字どおり骨身にしみてわかったようなきがする。

 食事は友人と行った。このへんについてはふかい詮索はご無用。

 なにしろ部活動の練習着のまま、

つまりジャージ、で車に乗り込み出かけたから、

高級な料亭にはゆけない。

 

目黒通り添いに、イタリアレストランがあったから、これも文字どおり、

行き当たりばったりで入ってみた。

 

店内は、平日の夜だからか、がらんとしていた。

もうすこし自由が丘よりだとちょっと瀟洒なイタリア料理屋もあるが、

そういう場所は食事だけでも席料を取ったりする場合もある。

このあいだ行ったレストランなど、地下にとんとんと降りると、店内、満員。

ピザいちまいとスパゲティ二皿で、たしか五千円をすこし出ていた。

高い。あとから調べたら、席料でひとり五百円かかるそうだ。

べつにたいしてうまくもないのに、なんでだ。

こういうのをむつかしくいうと不条理という。

 きょうの店はどうも席料はないらしい。

値段も手ごろ。客のすくないのがたまにきずで、

居心地はかえってよくないけれど。

と、明るい女店員が来て、メニューを置いていった。

見ると、広島産のカキのスパゲティがある。

写真ではあるがすこぶる美味に写されている。

そのふれ込みは、岩のりとあさりのだしとで

和風の風味が加味されているという。

なおさらうまそうじゃないか。

が、良くそのメニューを読んでみると、ニンニクがはいっているのだ。

じつは、わたしはニンニクが駄目なのである。

 

けっして食べられないわけではないが、

ニンニクという食材はすべての味をニンニクにしてしまう。

横暴である。

外から帰宅して足も洗わずにこたつに入ってきた高校生のような

自己中心的な乱暴さと無神経さと強引さをわたしはニンニクに抱いている。

口のなかがあの強いかおりに凌駕されてしまうのが不快なのだ。

「この料理、にんにく抜けますか」

「えー、たしかだいじょうぶだとおもいますが、

でも、これはニンニクがおいしいんですけど」

 と、メニューを運んできたさっきの店員が言った。

「にんにく、だめなんですよ。だからそう言ったんですがね」

 ニンニクがうまいかまずいかはひとの勝手だ、

あなたの判断など聞いていないのだ、と言いたかったけれど、ここはぐっと我慢をした。

と、彼女はこう付け加えた。

「カルボナーラの卵を抜く方もいらっしゃいますから、

たぶんだいじょうぶだとおもいます」

「あ、そうですか。それではお願いします」

と、わたしはその他にピザと友人はカルボーナーラロッソを注文した。

 だいたい、カルボナーラに卵を抜く客がいると、

なんでカキのスパゲティにニンニクを抜くことがだいじょうぶなのか、

そのへんの因果関係がすこぶる希薄に見えたし、だいいち余計なことだろ。

それに、そもそもだいじょうぶとはどういう意味でどうだいじょうぶなのか、

とても疑問であったけれど、

これいじょう話がこじれるのもなんだから、

わたしは紳士的に沈黙を守ったのだ。

と、この女店員はこう言った。

「うちは量が一人前半はいっていますので、

お二人だとけっこうありますけど、よろしいですか」

「え。そんなに入っているの」

「はい」

この情報はありがたかったね。

「じゃ、カルボナーラロッソはいいや」

 友人もそれに同意して、

われわれはカキのスパゲティだけに注文をしぼった。

 しばらくするとさっきの店員がワイングラスに

細長い竹ひごのようなものを運んできた。

「スパゲティの揚げたものです。どうぞ」

 サービスらしい。

「あのぉ」

「なに?」

 わたしは訊いた。

「あのぉ、さっきから気になって、言おうかどうしようか迷ったんですけど」

 と、その娘は言った。

「なに?」

 わたしは気になって店員を見上げた。

と、その娘はすこし背をかがめてわたしにこう言った。

「お客様、耳から血がでてるんですけど、どうかしましたか」

 そういえば、さっき車の中で電動ひげそりでじょりじょりやっていたら、

耳元でがりっと肉をはさんだのである。

 

どうもそこから血が出ているらしい。

だが、傷は浅いし、耳の中からとろとろ

脳挫傷みたいな出血をしているわけでもない。

もっといえば、余計なお世話だ。で、わたしは、

「あ、いいの、これ、さっき傷つけたんで」

「あ、それならいいんですが」

 いいなら、ほうっておいてくれよ、とわたしはこころの中でつぶやいた。

レストランに出かけて、

耳から血が出てます、なんて店員に指摘されたことなどわたしには未曾有の経験であった。

 しばらくして、ピザが来た。

トッピングにはアンチョビ。あれはうまい。

アンチョビは食材というより香辛料に近いね。

西洋のお新香みたいなものだ。お次にカキのスパゲティ。

アルデンテに仕上がっていて、カキにもきょくたんに火が通っているわけではなく、

じつに美味であった。

 

これなら、ニンニクはまったく使わなくて平気である。

ベースになっているあさりのソースも軽く、

かおりもよろしくわたしは全部飲み干してしまったくらいである。

わたしたちがすっかり舌鼓をうっていると、

違う店員が、おまちどおさま、と言いながら、

もう一品届けてきた。

 

見ると、トマトソースベースのスパゲティ。

真ん中に卵黄が乗っている。カルボナーラロッソである。

えっ。わたしはおもわずその店員の顔を見上げてしまった。

「あのー、頼んでないんですけど」

「あ、そうですか」わりに冷静な声で彼女は言った。

「もう、召し上がれませんか」

「いやー、もう腹いっぱいですよ」

「もしよろしければお召し上がりになってください」

 と、言うことはこれはロハ、

只ということらしい。どんなに満腹でも、只、無料、サービスと聞くと

、高度文明時代の欠食児童は触手がうごいてしまうのだ。悲しい性である。

 

 

「あ、そうですか、それでは」と言いながらわたしたちはきれいさっぱりこのロッソを平らげてしまったのである。

意地汚いったらありゃしない。

舌鼓、腹鼓、赤ずきんを食べたあとのオオカミのようになっていたわたしに、さっきの女店員がやってきた。

「さきほどはたいへん失礼しました。わたし伺っていたはずでしたが、どうも勘違いしまして」

「いやー、いいんですよ。むしろすっかりおなか一杯になってしまいました」

 と、わたしはあいさつした。

「ほんとですね。汗かいていますよ」

「・・・」

 うるせーな。おれが汗かこうが、恥かこうが勝手だろ。

これは腹一杯で発汗してるんじゃないんだよ、

特別辛いタバスコの類似品をだぶだぶピザに振りかけて食べたから汗かいてんだ。

まったく余計なこと言いやがって。

レストランに出かけて、汗かいてますよ、なんて店員に指摘されたことなどわたしには未曾有の経験であった。

 ま、なんであれ、すっかり満足なわたしどもはレジに向かった。

「ほんとに失礼しました」

 さっきの店員だ。

「いや、かえってすみませんね」

「三千二百二十円になります」

 やはり、カルボナーラロッソの値段は入っていない。

わたしは料金を支払い、「ありがとうございました」とあいさつする彼女にそっと千円を渡した。心遣いへのチップである。

と、とっさに彼女は、

「いえ。うちはそういうことしていませんから」

と言って、急いでわたしにその金を返そうとした。

「いいよ。とっておいてよ」と言ったら、

「困ります。困ります」と言ってわざわざわたしのところまで小走りで返してきたから、

そこまで言うならしかたない、わたしは千円をまた自分の財布に納めたのである。

「悪いね」とわたしが言うと、

彼女は

「とんでもありません。ところで体育の先生ですか」

 と、訊いてきた。たしかにジャージだったけれど、わたしは苦笑して、

「ちがうよ」と答えた。

「なんで、そうおもったの」と訊くと、彼女はこう答えた。

「だって、耳から血、出しているし」

 

ラ・レ・ド#・レをめぐる冒険2016/2/3

  昨日からひとつのメロディの断片が頭をよぎってはなれない。

 ギターであわせてみると、ラ・レ・ド#・レ。

 「レ」の音は「ラ」より高い音。

 だれが歌っていたか、そして歌詞もわからない。

 ただ、ラ・レ・ド#・レ。


 しかし、ノスタルジアのある響き。そして、深淵なおもむき。

 そして、それいじょうに昏く暗い。冬の歌か。


 だれの歌なのか、なんで浮かんでくるのか、
まるで、母胎のなかにねむる胎児にとどくようなメロディ。

 あるいは、暗黒の森林の一本道の
はるか消失点にともるひとすじの光明にむかって歩いているような感じ。

 どこかに死のイメージ。

 とにかく、さびしい。

 ただ、響く声は清澄な天使にも似たような記憶である。
そして、ひどくメゾフォルテになる箇所があったはずだ。


 きっと、よく知っている楽曲なのだろうが、
それを邪魔する、無意識のじぶんがいるのかもしれない。


 それを知るとなにかいけないことが想起されるので、
脳が防衛本能的に遮断しているのか。


 しかし、おもいだせない。メロディもわからない。歌手もわからない。
歌詞もわからない。手がかりはほとんどゼロである。

 
 ラ・レ・ド#・レ


 たぶん、女性のヴォーカリストだろう。


 ・ベクトルは死者のたましい階段をあなたにひかれのぼりゆく そう

 ずいぶんまえの拙歌。


 うん、そんなじぶんの哀れな場面に付着した歌だろうか。

 とにかくおもいだせない。ポケなのだろうね。

 ラ・レ・ド#・レ・・・

 ここしかわからない。そうやって一日がおわった。


 そして今日である。

 ダリの描いた不気味な景色から
 世界の黎明期がおとずれたように氷解したのだ。

 今朝、きゅうにその歌のすべてをおもいだしたのだ。

 
 それは、倉木麻衣の「白い雪」だった。

 ♪オレンジ色 灯した 部屋の窓


 わたしは、この「オレンジ色」というメロディーだけが、
脳裏を去来していたのだ。


  ♪白い雪 まだここに記憶の 棘


 そうそう、こんな歌であった。

そうだ、この歌が流行ったころ、
わたしは、24年間はたらいた職場に「退職願」をだしたのだった。

踏んだり蹴ったり2016/2/2

まだ、わたしが横浜の高校に勤めていたころの話だ。

 日帰りの遠足があった。
わたしのクラスはB組だったような記憶がある。

 バス10台を連ねての某ランドの帰り。
すでに、夕方5時ちかくになっている。

 学校の坂の下にバスが止まり、
さて、さいごの担任からの注意である。

 マイクで男子生徒53人にしゃべるのは、
そのときは、まだ若くてそんなに得意ではなかった。

 「いいか、家に帰るまでが遠足の一貫だから、
寄り道するなよ、わかったな。それでは解散」

 わたしはそういうとさっとバスから降りようとした。

 なにしろ、これから担任だけの打ち上げがあるからだ。
横浜駅の地下の寿司屋で、
ものすごいマグロのカマを用意してあるというのだ。
 頭はカマでいっぱいである。

 わたしがバスから降りようとしたそのとき。

 たしかになにか、水をこぼしたような、
あるいは、なにかを撒いたような聞き覚えのある音がしたのだ。


 「先生! タケウチが吐いた」

 バスのなかでタケウチは我慢していたのだろう、
高校一年にもなって、しかし、バスで吐くなんて。


 「もう遠足はおわったんだ、お前らで処分しろ」

 わたしは、そう行ってバスを降りた。
いまからおもえば、ずいぶん無責任な担任だ。

 しかし、カマには勝てないだろう。

 「待て、それでも担任か!」

 バスのうしろから、おんなじ野球部の飯島の声。

 「うるさい」

 わたしは、やつらを見捨てたのだ。


 小雨のそぼ降る中、わたしはそそくさと駅に急いだ。
横浜までは、30分かかる。

 振り向くと、タケウチと飯島とそのほかのやつらが
かれの学ランを拭きながらトボトボ歩いているのが、
遠くにみえる。

 知らねぇや、わたしはさっさと歩いて行った。


 そのあと、かれらがどうなったか知らない。なにしろカマが待っているから。


 翌日。職員室にタケウチのお母さんという方が見えた。


 「じつは、うちの息子、あのあと車に轢かれまして」

 「え、知りませんでした」

 ゲロを拭きながら傘をさして、背中を丸めながら歩いていたので、
左折してきた車が気付かなかったらしい。

 「はい、鴨居病院に搬送されたんですが、さいわい、
車のボンネットに乗っかっただけで傷はなかったんです」

 「そうだったんです、すみません、知りませんで」


 「いえ、息子はもう教室におりますので、よろしくお願いいたします」

 「は、はい」

 わたしは、すこし青くなっていた。いまの言葉でビビったのだ。
 監督不行き届きとも言われそうな事故だったが、
怪我ゼロというお母さんの言葉にわたしは救われた。

 わたしが、朝のホームルームにいくと、
タケウチ君、教室の真ん中にちょこんと座っていた。

 「タケウチぃ、だいじょうぶか、大変だったな」

 「はい、でも大丈夫です」

 わたしは、どうやってタケウチをねぎらうか、
ま、わかんないからいいやって、わたしはこう言ったのだ。


 「な、タケウチ。踏んだり蹴ったりってあるけど、
おまえ、吐いたり、轢かれたりだな」

急げ2016/1/26

 月曜日は予備校の仕事をいれていない。

 バドミントンをするためだ。
なんにも金銭的にプラスにならないのだが、
コミュニティ主催の飯島さんから言われたので、
しかたなく引き受けている。


  もちろんラーメン屋も月曜の夜は開店休業である。


 バドミントン会場まで、駅でいうと5つくらい離れているので、
わたしは自転車でむかう。

 5つといっても所詮、東京、20分くらいの道のりだ。


 きょうは、気温が4℃。厚手の手袋に毛糸の帽子、
それにグラサンもかけて出発。

 グラサンをかけないと目が痛い。
ドライアイなのだ。

  商店街は、この真冬でも人通りは多い。
わたしは、老人やおしゃべりしながらの主婦を避けながら
背中にテニスバックを背負い自転車を走らす。

 と、駅前ちかくになったところで、
向こうから、主婦なのだろうか、自転車を漕いでくるひと。
しかし、それは、ふだんでは見られない、異様な光景だった。

 その自転車を横から倒しながら男が怒鳴っているではないか。

 乗っているのではない。
その女性は斜めになった自転車を倒れないよう
にハンドルを押さえながら歩いている。


 自転車を鷲掴みにした男は、それでもなにか怒鳴っている。
いまにも自転車は転倒しそうだ。

 女のひとはひどく狼狽しているようにみえた。

 どういう事情でそうなったのか、わたしどもにはわからない。

どうすればいい。

 と、そこへ、べつの男がどこからか飛び出してきて、
とっさにその男に飛びかかったのだ。

 自転車の男は、その男とともに地べたに倒れた。
そこは、珈琲屋のまえで、数台の駐輪している自転車があり、
そのすべてをなぎ倒してふたりは倒れた。

 さながら場外乱闘である。さながら平家物語の壇ノ浦。


  当事者の女のひとがどうなったか、
もみくちゃになった男ふたりがどうなったか、
わたしはしらない。

 なぜなら、わたしはその場をそのまま離れたからである。


 だが、わたしはその足で交番に向かったのだ。

 交番までは目と鼻の先である。


 交番までゆき、わたしは自転車に乗ったまま
呼びかけた。
 
  なかには、ひとりの一般人とふたりの警官がいた。

 「喧嘩です。喧嘩。すぐ行ってください」

 と、ふたりの警官はわたしを見た。

 あれ、ひとりはあいつじゃないか。
おれを、こともあろうに職質したあいつじゃないか。

 「あ、ヤマカゲくん、すぐだよ、ドトールの前な」

 と、ヤマカゲは、なんかすこし困ったような
(なんでおれの名を知っているのか)
そんな顔をしたけれども、
すぐさま自転車に乗っていった。

 そこでわたしは、自転車に乗ってゆくかれを見ながら言った。

 「ヤマカゲ、急げ!」

仕事はやり残せ2016/1/24

後顧の憂いがない、というのは
他界するときの、これほどの幸せはないだろう。

 なにかひとつでも心に残したものがあれば、
黄泉路を安くは行きやられじ、と、まあ、こうなる。

 だが、日常生活では、後顧の憂いがあったほうがいいらしい。

つまり、ルーティンワークでも、勉強でも、短歌作りでも、
とにかく、「やり残す」というのが、
心理学的にじつにいいらしいのだ。


 すっかり、「けり」をつけて一日を終えると、
脳がそこで安心する。安心すると、つぎの日のスターターが
なかなか動かず、集中力もままならぬことになる。


 だから、どんな仕事でも、なんでもやり残す。
そうすると、就寝しても、脳の裏側では、そのことが気になり、
寝ながらでも、脳の深部が動いているそうだ。


 それが、明日の集中力に繋がる、と、まあ、こういう図式である。


 「風と共に去りぬ」のスカーレト・オハラの、
「いいわ、明日になったら考えましょう」という名セリフがあるが、
これなど、その典型じゃないか。

 にんげんの知性は「保留」することであるが、
それと類比的である。コンピュータのもっともひとに劣るところは、
保留ができずに、エンエン演算しているところである。
サメなども、目標物がなんなのか、わからない限りは行動しないという。

 「保留」「やり残し」これこそ、にんげんたる所以だろう。

で、こういう事情を、心理学のテクニカルタームで、「ツァイガルニク効果」という。

ソビエトのツァイガルニクというひとが実験した。

 目標が達成されない行為に関する
未完了課題についての記憶は、
完了課題についての記憶に比べて想起されやすい。(以上、ウィキペディア)


 これが集中力を高める処方箋なのだ。

 だからから、わたしは、ここ数年、まだ黒鯛をあげてないのだが、
(つまり未完了課題)、
そのせいで、いつも釣りのことが頭からはなれない。
(つまり想起されやすい)


 なるほど、なるほど。

遊びの文化2016/1/20

乗り放題というチケット、
あれを入手すると、「元を取ろう」と躍起になる。

 そういうひと多いよね。



 食べ放題、これも「元を取るまで」と根性がいやしくなる。


 リフトにきょうは何回乗ったから、ラッキー、とかいう。
白銀の世界を心地よく滑り降りることよりも、
そういうひとは、
何回、リフトに乗れたかのほうが、目的になっているのかもしれない。


 もうこれいじょう、無理、とか言いながら、
まだソフトクリームをドロドロと機械から出している。

 たしかに、元を取ったかもしれないが、
それによる代償は、幸福を飛び越して、
満腹のうえのさらなる地獄の苦しみと向き合うことになる。

 そんなひと、いるよね。


 食文化というのも、どこかに「遊び」の要素がほしい。
「遊び」それは「楽しむ」ということにほからないのに。


 ディズニーランドなんかでは、
何回そのアトラクションに乗れたかではなく、
その空間でどうやって楽しむのか、
という、みずからの鋭敏な感性が発揮される場だとおもうが、
どうもそういうひとはすくないようだ。

 話はずれるが、ディズニーランドは、
すべての楽しみ方がランド側から与えられていて、
つまり、受動的なわれわれがいるのだから、
そこで、わたしたちが、想像力を発揮しなくてもいい空間となっている。
与えられたものを受ける、そういう場である。
だから、何回乗った、とかそんな情けない
個別の喜びしかないのかもしれない。


ま、ディズニーランドを文化にカテゴライズさせるかどうか、
それはもんだいだが、
しかし、百歩譲って、それも文化として考えれば、
つまり、すべての文化的なことがらが、義務化されているということだ。

 もともと文化とは非合理なものだから、そこに義務が
発生するのは不可思議なのだが、どうもそうらしい。


 食べログに、いちいち、デフォがなんとか、着丼に何分、
動線がわるい、とか、まあ、それはわからないこともないが、 
そういうコメントを書く方は、どこかに食べログに書くことに義務を感じているのではないか。

 もっとおおらかに楽しんだらいかが、と、わたしはそうおもう。


 これは、日本時的気質がそうさせているのだろうか。
じゃ、日本人ってなんなんだろう。

 やはり、この根底に「働き者」というDNAが潜んでいるのかもしれない。

日本国憲法は、義務より権利のバランスが強いといわれているが、
なになに、日本人は、しっかりと遊びまで義務化してますよ。

 ご安心を。


 と、言いつつ、そういうわたしも、
いつもなにかをしてなくてなならないような、
どこかに強迫的なあるなにかが作動している。

 ぼーっとできないのである。


 もっと、遊び文化を啓発して
ゆかないといけないのではないだろうか。うん、反省。



 という気持ちもあいまって、
わたしは唯一、釣りをしていて、ほとんど坊主におわるのだが、
それを残念とおもったことがない。

 
なぜなら、遊びだからである。

ラジオの魅力2016/1/18
 大沢悠里のゆうゆうワイドが今年3月で
終了する。きょう、大沢さんがラジオで報じた。

 30年つづいた長寿番組である。
つまり、わたしがまだ高校につとめてまもなくの
放送だったわけだ。

 TBSラジオ、森本毅郎さん遠藤康子さんの
スタンバイが終わりまして8時31分。

 みなさまおはようございます。
大沢悠里です。病気療養中のみなさんも、
どうぞお聞きください。

 きょう、お誕生日の方、おめでとうございます。


 こんな感じで、ゆったりと話がすすむ。

 大沢さんはもうすでに70歳を越して、
まだ余力のあるときに辞めると言っていた。

 この30年間、脳梗塞で入院したときくらいしか、
休んでいないそうだ。入院中に、ほかの患者さんから、
大沢さんのラジオをいつも聴いています、と言われたことから、
毎日、病気療養中の方というひとことが加わった。

 また、あるおばあさんの、わたしはいままで、
いちども誕生日をお祝いしてもらっていない、
というひとことから、誕生日の方、おめでとうございます、
というひとことが加わった。


 すべては、気遣いである。

 そういう気遣いや、ときには、派遣労働者に対するねぎらい、
政府の対応の悪さ、など、こちらがうなづくことをなんども
おっしゃっていた。

 大沢さんの番組には、そういう「教え」があった。

 同じく、土曜日は、永六輔の土曜ワイドラジオ東京が終わったばかりだ。
永さんは、教えの宝庫である。

 粒ぞろいとは、粒がそろっていないこと、
そんなことも教わった。

 永六輔にしろ大沢悠里のしろ、なにかしら与えてくれるものがあった。
それは、人格と地続きである。


 ラジオ番組は、顔がみえない、みえないけれども、
声は、すぐ隣で聞こえてくる。

 そのひとの人格と隣り合わせで聞こえてくる。

 それがラジオの魅力だとおもう。

 いま、土曜日は、永さんに代わって、
ナイツのちゃきちゃき大放送を流している。

 が、残念ながら、ナイツには「教え」がない。

 大沢悠里さんのあとは、伊集院光だそうだ。

さて、はたして伊集院さんに期待できるのだろうか。

 聞いてみなければわからないね。

 以前、小島慶子が大沢さんのラジオに登場したことがあったが、
そのとき、大沢さんは、ラジオでぼそりとこう言った。


 「しゃべりかた早いよ、お年寄りも聞いているんだから」
初夢がよくない2016/1/1

たぶん昨日の夢なのだろう。

 わたしたち5人は自動車に乗っていた。

いったいじぶんがいくつなのか、大学時代?

ゼミ? しかし、すべて男子、なんでだろう。

海だ。それも砂はまではない。東尋坊まではゆかないまでも、
岩場だな、ここは。


 なぜ5人なのかもわからない。
そして、わたしを含めた4人まではだれだかわかっているが、
あとの一人がわからないのだ。

 知り合いなんだろうが、顔もよくわからない。
君はだれ?

海の音はリアルにわたしの耳元にひびく。

 で、この夢はつづきがある。

 すでに家にもどり、そのときの写真が手元にある。

 4人で写っている。みな知っている顔だ。
知っている顔なのに、いまでは一人とて名前が出てこないが。

では、あとの一人は?

 そうだな、カメラを写している、もうひとりだ。
だれが写している?

 やはり、知らないだれか、であろう。

 そんなとき、ふとあるおもいがわたしの頭をよぎる。

 ひょっとすると、この写真はタイマーで撮ったもので、
カメラマンなどいなかったのではないか。

 つまり、最後の一人はすでにもうこの世に存在しない友が、
わたしたちに追随してきたのではなかったのではないか、
と。

  
 ま、そんなこともあるよな。

 ほんとうは4人の旅行だったのだ。


 そうおもいながら、あるブログの日記をなにげなくのぞいていた。

 それは、こういう日記だった。


 ○月×日

 わたしは、海に行った。

 砂はまではない。

 なつかしい友のことを思いつつ、わたしはひとりで海に行った。

 親しい友人も数人いたが、いまではもうだれもいなくなってしまった。

 わたしはそこで、ひとりで写真を撮り帰宅した。

最後は靴下の話2015/12/31

 古舘伊知郎さんが、ニュース番組を降板する。

 もうしわけないけれども、
古舘伊知郎という、あの軽快、洒脱なトークは、
ニュース番組にはミスマッチだとずっとおもっていた。

 そもそも、「これはひどい事件ですね」など、
キャスターが意見を述べるという構図は、
あんまり感心できない。


 NHKのように、淡々と出来事を羅列してもらえれば、
常識ある受け手は、ことの善悪くらい、
みずからでもって判断するものだ。

 つまり、「手垢」をつけて報じないでくれということである。


 もともと、こういうふうにキャスターが、じぶんのかんがえを
さらさら述べるという仕組みを作ったのは、記憶が確かなら、
久米宏である。
ぴったしカンカンの司会。あれで一躍有名になった(のかな)。

 久米宏のあとが古舘である。そして、その後継はいない。

 いま、久米さん、「らじおなんですけど」という軽い番組を
土曜日の昼に担当している。

 後継がいないということは、政界でもおんなじで。

阿部さんのあとがいない。小泉ジュニアが待たれるところであるが、
その間を担う人物がいない。で、自民党は、橋下徹を引き込もうとしている、
といううわさもある。小渕ジュニアは、金銭問題で、すでに
その名簿からはずされた。あれは、総理補佐官の脇の甘さが原因であるけれども。

 話をもどせば、いま、テレビで自民党批判の強いのは、
この古舘さんと、毎日の岸井社主らしい。

 岸井さんは、うわさによれば、ずいぶん圧力をかけられていて、
社主の座も危ないらしい。



 さいきんの政治は、たいそう高圧的になってきたものだと、
つくづくおもうが、それにしても、
 古舘さんはずいぶんつらいおもいをしたのだろう。

 言ってはいけないことが山ほどあるからだ。
 
 言ってはいけないことが山ほどあるうちの、
ほんの裾野をしゃべると、与党からの圧力。


 日航機123便の事故から30年いじょう経つが、
じつはまだ事故原因がわかっていない。

 あの事故の7年前に、ボーイング747は大阪でしりもち事故を起こし、
ボーイング社が修理していて、そのときの修理の仕方が
悪かったと、事故からすぐにボーイング社が、
コメントをだしている。

 つまり、747の機種の欠陥ではなく、あの123便だけのミスだ、
そうボーイング社は結論づけた。


 事故調査委員会も、そのコメントに同意している。

 しかし、では、どういうミスだったのか、あるいは、
どういうふうな修理をしたのか、そのあたりは、まだ、
ボーイング社からも、事故調からもコメントがないままである。


 当時、747ジャンボジェットは、世界各国を飛び回っている
主力の飛行機であった。日航のジャンボは、サイズがやや小さい
ショートボディで、あれは日本だけのものだったが、
とにかく、ここで747ジャンボそのものに欠陥があるということになったら、
ボーイング社にものすごいリコールの風がふく。

 それを避けたというのが、あのときのコメントだった、
そんなことをテレビで言ったら、どうなるか。


 あるいは、田中首相が、アメリカに内緒で中国と国交を結んだ。

そのすぐあとである。ロッキード事件が起きて、
田中角栄は、首相の座を下ろされる。

 アメリカの怒りをかったのである。

 ロッキード事件と日中国交正常化交渉とは
地続きの一連の歴史なのだ。


 そういうことを、歴史の教科書でも、
ニュースでもドキュメンタリーでもやらない。


  ハワイで数年前、海岸で、わかい邦人女性が現地の男に撲殺されたが、
このニュースは、どの局も新聞も週刊誌もとりあげられなかった。

 後藤健二さんや山本美香さんよりも悲惨なできごとだったかもしれないのに。


わたしたちは、ある篩にかけられ、あるいは、バイアスをかけられ、
角のとれたやわらかいニュースに浸っている。

 
 世の中の裏で、何が起きているのかじつはよくわかっていないのである。

 とういうことは、この世の中に、やはり、
パラレルワールドがある、ということだよ。

 そのパラレルワールドは、
ある選ばれたひとたちの受益のため、しずかに動いているのである。

 しかしだ、ともかくも、
おれのなくした靴下だけは、
その世界からはやく取り戻そう。

劣化2015/12/20

モラルハザードという言葉が、
そろそろ死語になってきたような気がする。


 道徳の低下である。


 ついこのあいだ、北海道でのこと。

顔に障害をもつ16歳の子をこっそり写メして、
それをツィッターにあげた17歳の女子高生がいた。

「笑いとまんない 死ぬ」とあったそうだ。

この悲劇は、16歳の子の母がそれを見つけ、
警察に被害届けを出し発覚、侮辱罪で起訴された。


 これは、モラルハザードを通り越して、
感情の劣化とでもいってよい事況である。


 しかし、「笑いとまんない、死ぬ」とつぶやいた、
その向こう側に「やめなさいよ、あんた」というセリフがなかったことが、
もっとおそろしいことなのだ。


 SNSという媒体は、どれをとっても「顔」がない。
ま、わたしは、ひゃひゃひゃもパンタタさんもテキさんも、
みんな知り合いだけれども、基本的に顔がない。

 そういう、まだ法整備が整っていないところの、
「顔のない集まり」 で、このような感情劣化がおこっている、
という荒涼とした現況がある。

 で、もし「顔のない集まり」にひとりでも正義感から、
「よしたまえ」という正しいひとことを発しようものなら、
いっしゅんにして、ノケモノにされてしまうのだろう。


 正義は異分子として処理されてしまうのだ。

 このような負のスパイラルをを定式化、つまり術語にしたひとがまだいない。


 法インフラもさることながら、その現象すら
いたちごっこで後追いしているにすぎないのである。



 ジョン・ロールズ(1921-2002)は、
正義論で有名な哲学者だが、

君がわたしでもそれに耐えうるか、君がわたしでも同じ行動をとったか、
それを考えろ、と主張する。これを「無知のベール」と呼ぶのだが、
立場の入れ替えの可能性が公平・正義をうむという。


 相手の立場になれ、なんてだれでも、
「さわやか三組」で教わることなのだろうが、
そんな、あたりまえのことができなくなっている。


 おなじく、リチャードローティー(1931-2007)というひとも、
感情劣化に対しては、憤ることが肝要だと述べている。

 もうすでに、この世の中に「知性」の教育を施すことが
大事ではなくなっている。
それよりも「感情の教育」、
センチメンタル・エデュケーションこそが、生存条件であると
主張する。


 つまり、いけないことには、
ひとは声を大にして怒っていいのである。

怒れ! やろうども。


 「笑いが止まらない、死ぬ? なんだと、じゃあ・・・・」

このあとのセリフを言うと、わたしの感情劣化がバレてしまう。

 

 

注 この話のもとは、宮台真司氏のポッドキャストにくわしくあります。

藤原定家2015/12/20
 後鳥羽院という平安から鎌倉にかけての天皇がいた。

 才覚あふれる天皇である。

 和歌にすぐれ、醍醐天皇の「古今集」をこよなく愛し、
ゆえに「新古今集」を勅命し、醍醐朝にあった和歌所を再興し、
旺盛に文化の興隆に寄与された。


 藤原俊成は長命で、90歳の祝いを後鳥羽院がもよおし、
その息子、定家には「新古今集」の編集を命じたほど、
藤原氏とは親密な関係にあった。

 当時の歌人、30人を選出し、
歌人ひとりずつに100首の歌を作らせ、右・左にわかれて
つまり、3000首の歌を半分に分けて、
1500回の歌の優劣を競わせた、
いわゆる千五百番歌合は、わが国最大の歌合として有名である。


審判、つまり判者には、
後鳥羽院みずから、あるいは俊成、定家などがついた。


が、藤原氏との関係も、新古今集編纂のころからいささか
あやしくなる。定家と院とに意見の対立があったようだ。

そもそも、定家は俊成のスパルタ教育で、わりにみみっちい性格らしく、
歌は、丈高く立派なのだが、どうも性格は内向的だったらしい。

 よく知らないけれども。

きっと、あの堂々たる後鳥羽院に、チクチク言ったにちがいない。
それも、影口とか。

だから、新古今集が1205年に出来上がるころには、
ふたりの不仲説はかなりうわさされていたようだ。


これからおおよそ20年、1221年、
後鳥羽院はごぞんじのように、幕府倒幕の罪で隠岐島に流される。

このとき、定家はこの難を逃れているのである。

政治とわれとは無関係である、と宣言したという。

しかし、隠岐島の後鳥羽院の怨み、怒りをおそれていたことは明らかである。


じっさい、院は二度と京都の地をふむこともなく、
都よりはるかはなれた日本海の孤島で亡くなるわけである。


定家は、後鳥羽院の魂を鎮めるため、なにをしたか。
一服の絵を描いたのである。

水無瀬には、後鳥羽院が愛してやまない離宮があった。
その水瀬離宮の絵を壁にかざって、院を鎮魂したのだ。


が、しかし、水瀬離宮の絵をそのまま飾っていれば、
幕府の役人になにを詰問されるかわらない。

そこで当時の文学のリーダーは、
水無瀬の絵をこまかく区切って、
区切った半紙いちまいくらいの風景すべてを
和歌に変換して、壁に貼ったのだ。

その作業たるや並大抵の努力ではなかったはずだ。
それも、みずからの歌ではない。

他人の歌を百首あつめ、
なかには後鳥羽院御歌、息子の崇徳院の御歌まであり、
その百首を貼りつつ、その裏に透けて見える、
水瀬の風景を、かれは心のなかで念じながら、
祈っていた。

院の心よ平らかになれかしと。

それは、大魔神の身許で涙する高田美和のごときである。
(といってもわからねぇだろうなぁ)


だれにも悟られず、ひとり静かに後鳥羽院の魂を
鎮める日々は永遠につづいたことだろう。


これが、みなの知るところの百人一首となって、
いまも世に残されているのである。




付記


これはフィックションではなく、ある学者の説である。
なぜ、それに気づいたかといえば、
その歌人のおもて歌があるのに、わざわざそれより下る歌を
なぜ定家が選んだのか、というひとつの疑問から、
逆算して、このような仮説にいたったということである。

おしまい







 





風景とわたし2015/12/20

 いちど日記に書いたけれども、
街に老人が多いとおもうのは、
じぶんが老人だからである、という
じつに残酷な事実にきづいてしまった。


 そういえば、まだ子どもがベビーカーに乗ってるころは、
やけにこの街には、ベビーカーがあるものだと、
感心したおぼえがある。


 もっと前にもどれば、わたしが高校生のころには、
他校の生徒に目がいった。


 そこで、塾の生徒さんに訊いてみた。
そうしたら、やはり、他校の子が気になると、
口をそろえてうなずいていた。


 宮台真司氏は、じぶんの知り合い以外は、
すべて風景になっている、と現実を把握しているが、
わたしはそうではないとおもう。

 じぶんの事況と同質のものが風景となっている、
そうかんがえたほうが、わたしの日常にふさわしい。

 じぶんとは無縁のものは、風景にもならないのである。

 みずからを含む風景を俯瞰することを、
ヘーゲルは「自己意識」と呼んだ。

 おなじことを、フッサールは「超越論的主観性」と言った。

が、それとはすこし異なるが、じぶんの見える風景こそが、
自分自身なのである。

 それをヘーゲル的に言えば、
「自己意識的風景」というのだろうか、
フッサールで言えば、
「超越論的主観性状況」かな。

 「おれの学校、つまんないよな」
なんて言っている生徒、よくいるが、
それは、学校がつまらないのではなく、
お前じしんがつまんないやつなのだ。


 じぶんがつまらないということを無意識に宣言しているだけなのだ。


 世の中、つまらん。

 ま、これも、おんなじ構図である。

 見えている風景こそ、じぶんであり、風景が鏡となっているのだ。

いや鏡は、対象と反対に映るから、鏡ではない、
きみ、そのまんまが投影されている、そうおもえばよいようだ。


 だから、それを一言で言えば、こうだ。

 「風景はわたくしだ」

店に4人2015/12/13

ひさしぶりにナナコが店にきた。

 ユウ君もいっしょだ。

 「なんかお前疲れてるなぁ」


 「疲れたよ、あ、これ、うちにあった柿とほうれん草。
もう使わないからもってきた」


 「あ、柿、うれしい」と、店の奥からナナコの母がいった。

 「食べる?  ユウ君も」


 「あ、ぼく柿苦手なんです」


 「でも、剥くわ」と、ナナコの母は板場にもどった。


 「あのフライパンどうよ」

 「うん、あれ、すごくいい、上手に焼けるよ」

 「はい、あれ、いいです」と、ユウくんもうなずいた。

 「うちにはないけどね」
と、ナナコの母が包丁を動かしながら言う。

 「そういえば、あの風呂のマットはどうだ」

 「あれ、あれもいいね」

 「だろ、珪藻土マット。おれも使ってる」

 「うちはないけどね」と、またナナコの母。

 「お前、ミルキーがおしっこするからいらないっていったじゃないか。
ところで、お前たち、明日から沖縄だろ」

 「は、なんで沖縄、タヒチだよ、タヒチ」


 「え、沖縄じゃなかったんだ」

 「ボケてんじゃないの」とナナコ。
ああ、これは禁句である。
ほんとにそろそろボケがはじまっている父にたいして、ビンゴなひとこと。


 「ボラボラ島行くんでしょ」と母。

 「うん、たぶん」

 「インターコンチに泊まるんだって」と母。

 わたしは、そのときナナコの隣にすわって、
もう、しなびてしまっているほうれん草と、
その横におかれた柿をみていた。
と、それは柿ではなく、トマトだった。

「なんだい、これトマトじゃん」

 「そうだよ、よく知ってんね」

 「ばか、当たり前だろ、トマトくらいわかるわ」

 「ちがう、インターコンチの話」

 「ちょっと、頭おかしいんじゃない」
とナナコの母が情けなさそうに笑った。


 「あ、トマトの話じゃないのね」

 「柿とトマトとほうれん草持ってきたの、明日からいないから」


 たしかに、ナナコは明日からいない。
 明日は、若いふたりの新婚旅行である。

ようするに明日は、わたしの二番目の娘の結婚式なのである。

片思いのひとを本気にさせる2015/12/7

片思いの相手を本気にさせる方策があるらしい。

 これは、聞いた話なので、その真意はわからないが、
なかなか説得性のあるものである。


 本田路津子の「風がはこぶもの」では、


♪ 風のなかにきっとわたしの声がする

 ・・いつもわたしは愛のおもいを
       風の中に告げているのよ ♪

 なんてあって、自然に託すのである。


 わたしのような繊細なやつなら、この風の音を聞きつけて、
すぐ、そっちに走るだろうが、みなの衆そうはゆくまい。


 では、それはどういうミッションか。

 えって驚くプレゼントをするのでもなく、

ひとの手を借りて裏工作するのでもなく、
おもいきり白状するのでもない。

 ぎゃくに、おもいのひとに無理な頼みごとをするのである。

 ここが急所なのだ。

 「ね、いちど食事に誘ってくださらない」

 これでいい。


 相手は、しぶしぶながら行くだろう。

 「ふざんけな、このブス」

 こう言われたら、ここでミッション終了なのであきらめましょう。

 ま、行くわな。で、そのとき、できれば、法外な値段の店にゆく。
そして、相手に、その法外な金銭をすべて払わさせるわけだ。

このとき、

 「ふざけんな、てめぇが誘ったんだろ、このブス」
って言われたら、ミッション終了。あきらめましょう。


 ま、払うわな。そして、丁寧な挨拶をして別れる。

 これが、すべてのしかけである。

 で、これがなんで、相手がこちらを向くことになるのか。

 それを心理学では、学究的に証明しているのである。


 つまり、なんにも関係のない相手に、
じぶんは、おもいもよらない出費をさせられた。

 なぜなのか、なぜ、なんにもおもいもない他人に、
わたしはここまでやらなければならないのか。
 まてよ、わたしの胸のうちに、あのひとを大切にしようという気持ちが
あったのではないか、そうじゃなければ、
わたしは、あんな痛手をこうむるはずがない、
と、無理やり、整合性をみずからにもとめるというのだ。


 じぶんが、つらい目をあわされたのは、きっと、
あのひとに好意があるからに違いない、そうおもうらしい。


 これを専門的に「認知的不協和」という。


 じぶんの心の不協和、つまり「よくわからない金を払わされた」という
不快を、「愛するものへの奉仕」とシフトすることによって、
みずからの精神的安定を、みずからで構築するわけだ。


 これは、吊り橋効果とよく似た現象である。

 吊り橋の前のどきどき感を知らぬうちに、
横にいる異性への興奮と勘違いする、あれである。


 ジェットコースターに乗ったり、お化け屋敷に行ったり、
肝試しなどは、吊り橋効果の発揮される現場である。


 相手に頼みごとをする。これは、高額な依頼でなくてもいいらしい。

「ね、この荷物、あそこにあげてくださらない」
 
 こんな、ことでも、認知的不協和は発生するらしい。

 
 恋人に欠落しているひとはぜひ試してほしいな。

 で、相手がすこしでも、こちらに気があるようであるなら、
そこで、ダメ押しである。

 「あなたといると、なんか安心する」

 こんなこと言えば、もう「大当たり」だろう。

 「ねぇ、どうかしら、わたし。ブスだけど」

ダークツーリズム2015/12/4

ダークツーリズムという概念は、そんなに古くない。

90年代後半、スコットランドのある大学でふたりの学者によって
提唱された、いわゆる負の遺産をめぐる旅である。


 戦争跡地や、災害被災地への旅行である。

 そういえば、わたしも修学旅行の引率で、
雲仙普賢岳を、バスで遊弋(ゆうよく)したことがあるが、
あれこそ、ダークツーリズムだったわけだ。

 ひとびとが犯した罪、あるいは、
ひとびに与えられた自然の脅威、
それを次世代に繋げるためにも、こういう概念は、必要なのだろう。

 ウクライナのチェルノブイリや、
ルーマニアのブラン城、
ニューヨークのグラウンドゼロ、
広島の平和記念公園、
カンボジアのトゥール・スレン虐殺犯罪博物館、
そして、なんといっても、
ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所。

アウシュビッツはドイツではなくポーランドに位置する。

そういう意味では、福島第一原発は、まだ、その概念下にはない。


たしかに、子々孫々に語り継ぐことは
わたしたちの責務なのだろうが、
ただ、われわれが気をつけなくてはならないことは、
こういう空間を、利益追求、金儲けの種にしないことである。

また、まだ、その瑕から脱することのできない被害者が
存在することも忘れてはならないことである。

なんてことを、授業の最後に語ったのであるが、
そのとき、ひとりの男子生徒が
授業の最後とあって、多少疲れがあったのだろう、
うーん、と椅子に座りながら「伸び」をしたのだ。

と、なんと、その痩身で背の高い男のへそと、
へそのまわりに繁茂する毛、いわゆる腹毛が、
もののみごとに、露わに露出されたのだ。

わたしは、おもわず、唸ってしまった。
唸ったのを最後にその授業を終わらせた。

だから、わたしは、最後にこう言ったのだ。

「はい、じゃ、きょうはこれでおしまい。
しかし、こんな近くで
ダークツーリズムできるとはおもわなかった」

失態2015/11/27

 一日二食になった。
10時すぎに朝飯と昼飯のファジィな一食。

 あとは、仕事場で、ものすごいチープな食事。


 これが一日のわたしである。


 仕事場というのは塾の講師室である。
というより、講師室はない。
食事もチープだが、職場もチープであり、
カウンターひとつはさんで、だれもが座れる椅子とテーブルがあるだけ。


 もちろん、じぶんの席などはない。

 だれが使うかわからないパソコンが
テーブルごとに置かれていて、個人のUSBはウィルスがはいるからと、
禁止となっている。

 そんな衆人環視のなかで食事をする、ということは、
まるで動物園のゾウである。

 あ、せんせい、サンドイッチですかなんて
訊かれたこともよくある。

 見りゃわかるざんしょ。

 これが、バームクーヘンに見えるかよ。

つまり、塾の講師が食事をするのを、
生徒は、ささやかな興味で俯瞰するのである。


 やだね、こういうの。

 わたしは、じぶんが食事をしているところを見られるのは、
そんなに得意ではない。もちろん、箸のつかいかたなど、
たぶん、人並みにできるとおもうが、やはり、
食事という、生理的欲求なものを、ひとまえでやる、
というのは、ひどく抵抗があるものだ。


 が、しかし、背に腹は変えられず、やむなく、
わたしは、ひとつのテーブルに座り、
コンビニで買ってきた夕飯を開くのである。

 と、事務の女子は、すべてを了解しているので、
わたしが座ると、そのテーブルの上のものを
すこしずらしてくれるのだ。

 ありがたい。

 きょうの晩飯は、セブンイレブンのおでん。
ちくわぶとがんものふたつ。

 それと、キャベツの千切りとポテトサラダ。

 キャベツの千切りとポテトサラダは、おでんを食べたあとの
容器にいれて、ぐるぐるかきまわして食しようという魂胆である。

 これ以上肥満がましてはいけない、というので、
このごろは、すこし食事を控えているのである。

 まずは、おでんに手をつける。
ちくわぶは、なんでだろうか、からしをつけながら
箸でつまんで食べるわけだが、おいしいよね。

 セブンイレブンのがんもも、中身にさまざまな具が
混入していてたのしい。

 と、そんな幸福をあじわっていたときである。

 なぜだろうか、わたしは、おでんの入っている
発泡スチロールの容器をことりと倒してしまったのである。

 なぜ、倒したのか。わからない。

 わたしは呆然となった。

 が、事務の女の子は、だいじょうぶです。
と、キーボードから手をはなし、いそいで、ティッシュやら、
ウェットティッシュを持ってきてくれて、
ことごとく放流されたおでんのつゆを、手際よく拭いてくれた。

 わたしは、その場からただ見守るだけで、
ころがっていった、ちくわぶと食べかけのがんもどきを、
箸でころころ転がして、つゆの入っていない、
容器にもどすのが精一杯であった。

 彼女は、何枚もティッシュをつかって、机の悲劇を
拭き取ってくれた。

 そのときである。
わたしは彼女に対して謝罪しなければならい状況にあった。

 わたしがこぼした、いわゆる「おそそ」を、
なんにも関係ない、事務の女の子が献身的に
そのミスをぬぐい去ろうとしているのである。

 どうやって、この事況を穏便に打開できるのか。

 わたしは、このとき、生まれてこのかた
いちども言ったことのないひとつのフレーズを、
人生はじめて発語したのである。

 それは、どこかに諦念もあるだろう。
しかし、ただ、食べているだけのおでんを
なんで、ぱたりと倒すのか、それも、どこかに痴呆が
まぎれこんでいるのかもしれない。

 そんな気持ちが、即座によぎり、
そして、机を吹いてくれている彼女に、わたしはこう言ったのだ。

 人生初のこのひとこと。


 「年寄りに免じて許してくれ」

センター試験まであとわずか2015/11/27

わたしたちの時代は、
共通一次試験といった、全国共通の大学受験の関門は、
いまは、センター試験という名にかわり、
すでに、27年が過ぎようとしている。


 当時は、国立試験を受験するひとたちの、
通り抜けねばならなぬ関所のようなものだったが、
現在は、私立大学も参加し、ほとんど全受験生が
受験をするシステムとなっている。

 センター試験とは、すべてマーク方式であり、
わたしの知るところの国語という領域は200点満点、
毎年、全国平均が115点くらいである。

 うわさによれば、大学教授が数名で隠密裏に
2年間かけてつくりあげているという。

 つまり、お国の命により、選ばれしものがつくりあげる、
いわば勅撰問題なのである。

 だから、なぜその答えになるのか、
ちゃんとした理由がある。


 たとえば、古典。
「心づくしげなる秋の空なるは」の「こころづくげなる」は
どういう意味かと問うのだが、
その設問は5択であり、ほとんどものが2者択一までたどりける。

 それが、このふたつ。

  ③物思いの限りを尽くさせるような  
  
  ⑤深く心にしみ入るような    


 おんなじようにも見える。
が、この③と⑤の差異はよくみると、
「させる」が③にはある。使役の助動詞だ。
使役の助動詞というのは、他者がいなくては機能しない。

「ありがとよ、楽しませてくれて」って言えば、むこうにだれかいる。

「ありがとよ、楽しんだぜ」
これだと、ひとりでいい。


つまり、使役の助動詞をつかった文には、
おのず対象となる「なにか」の存在が必要なのだ。


そこで、「こころづくしげなる」である。
「こころづくし」は形容詞、うれしい、とか、かなしいという部類。
「こころづくしげなる」は形容動詞、うれしそうだ、とか、かなしそうだ、という部類。


ようするに、センター試験は、形容動詞とは
どういうものですか、という基幹的なことを問うているのである。

これ、きみへのプレゼント。はい。


え、うれしい。


ははぁ、うれしそうだね。


センターは「うれしい」に傍線をひいたのではなく「うれしそうだ」に
傍線をひいたことになる。


「うれしそうだ」のように相手の様子を表す物言いを「客体表現」という。
「こころづくしげなる」は客体表現なので、
客体表現の物言いをさがすのである。

 ③物思いの限りを尽くさせるような  
  
 ⑤深く心にしみ入るような  

答えは③である。⑤は「こころづくし」という形容詞の訳であった。

つまり、センター試験は、形容動詞は客体表現になるからねって
われわれに教えてくれているのである。

ここが、私立受験とおおいにちがうところである。

センター試験は、かそけきながら、なにが重要か、
受験生に教えてくれているのである。そのささやかな声を
耳にすることのできる受験生がこの国家プロジェクトを
制覇できるのである


だから、わたしは、生徒さんに「センターは会話だよ」って教えている。
その声に耳を貸しなさいと。



さ、もうセンター試験まで50日である。

どうだ、お前たち、まだ50日あるのか、
それとも、もう50日になっちゃったか、
どっちよ。

と、わたしは教室で訊いてみた。

ほれ、どう?

と、いちばんまえの生徒が「もう」という。

つぎ。

「もう」

その後ろ。

「もう」

はい、きみ。

「もう」

縦一列、すべて「もう」である。だから、わたしは言ってやった。


「お前ら、牛か」

不謹慎2015/11/21

3.11から数年が経った。

 

あのときのことをおもうと、電気ひとつをつけるのにも

近所を気にしたし、世の中がすっかり昏くなった。

テレビも、オシム監督と、どこぞの女優の病気のはなしばかり。

「エイ・シ~」がやけに耳についた。

 

そんなとき、わたしは、どういうわけかやたらと不謹慎な日記を書いていた。

それを下記に掲載。

 

 こんな喫緊の事況に
どんなにんげんも失ってしまうのが「想像力」だ。

 原発に携わっている方々は、
それは寝ずの番で、
そのうえじぶんの能力を超す事態に、
生きた心地はしないとおもう。

 自然を甘く見ていたかもしれない。

 しかし、こういうときにこそ、
壮大な想像力が人類を救うのである。


 と、言いつつ、不謹慎ではあるが、
むかしやっていたテレビ番組、
「ご長寿早押しクイズ」のご老人の珍回答、
ああいう飛び抜けた発想が
ひょっとすると、なにかのどうしようもない事態の
解決策を生むかもしれない。

いや、ないな。


問い「サザエさんの弟の名前は?」

老人「さば」



問い「孫悟空が持つ棒は?」


老婆「用心棒」

ブ・ブー



問い「大晦日に食べるものといえば?」

老人2「赤いきつねと緑のたぬき」

ブ・ブー

老人3「赤いきつねとみだらなたぬき」



問い「オードリーヘップバーンが
ローマの休日でスペイン広場で食べていたものは?」
(正解は「アイスクリーム」)


老婆1「わんたん」

ブー

老人2「綿菓子」

ブー

老婆1「味噌おでん」




問い「北極の反対側は?」

老人3「ありません」

ブー

老人2「あります」


問い「レーガン・クリントン・ブッシュといえば?」

老人「カタツムリ!」


問い「西條秀樹の曲、やめろと言われても、その後の
会場の掛け声は?」

老人3「やめるな」


問い「アマゾン川でひとも食うと言われている魚は?」

老人2「ヘルニア」



問い「遠山の金さんの背中にある入れ墨の模様は?」

老人2「さつまいも」
老婆1「無地」
老人3「花子」


問い「英語でアップルとはどういう意味でしょう」

老人3「ふたり」

出題者「それはカップルです」

ふたたび老人3「ふたり連れ」

ブ・ブー

老人2「五人」



問い「日曜日の和田アキ子さん司会の番組、
あっこになんでしょう?」

老人2「あっこに殺される」
老人3「食べられる?」



問い「武田信玄の旗印には漢字四文字が書かれていました、
さて、なんて書いてあったでしょう」

老婆「臥薪嘗胆」

ブー 

老人2「心筋梗塞」

ブー

老人3「男女同権」

ブー

老婆「結婚退職」


問い「自動車を運転するとき、道を曲がる前に出さなくては
ならないものはなんでしょう?」


老人「横チン」




問い「スピルバーグの映画で人食い鮫の名前は?」

「ギョーザ」



問い「白雪姫にキスをしたのはだれ?」

「北島三郎」

問い「北斗の拳でケンシロウの胸には七つの何がついているでしょう?」

松治さん「ごはん粒」

コトさん「まぜご飯」

松治さん「五目乳首」

司会者「そうではなくて敵につけられたものです」

正武さん「悪いあだ名」

コトさん「いかしたキャッチコピー」

松治さん「素敵なバスロマン」

司会者「どうしましょう、これ」

松治さん「年寄りは太陽熱で温めよう」

 


問い「花咲か爺さんの愛犬の名前は?」

老人2「しげる」

ブ・ブー

老婆「しげらない」

ブ・ブー

ふたたび老婆「たま!」

ブ・ブー
ふたたび老人2「さお!」

ブー

ふたたび老婆「ふくろ!」


問い「ダックスフンドはほかの犬より何が長いでしょうか?」

老人「下積み時代」

問い「エジソンが残した名言。天才は99%の努力と1%・・の何?」

松治「水分」

コト「肉汁」

松治「果汁」

司会者「そうじゃくて急に頭に浮かぶものありますね」

正武「うんちく」

司会者「すいぶんすくないうんちくですね」

コト「やっぱり臭みがあるワケだから」

司会者「え」

コト「そこを気をつけなくちゃね」

司会者「なんの話をしてるんですかね」

コト「うんちが硬ければ」

司会者「なんのことかわかりません。ヒラメなんとかって
聞いたことないですか」

松治「あ~、ヒラメのムニエル」

司会者「ムニエルにしないでください」

コト「ヒラメにおびえる」

松治「まぐろにてこずる」

コト「まぐろは大きいからてこずっちゃう」

司会者「え~、なんだったっけ」

コト「怖がっちゃって、他の魚は」

司会者「えっと、そうじゃなくてね、急に頭に浮かぶものありますよね」

松治「うん、だから、結局だきあったんだよね。愛情が入ったんだ」



ただ、疲れたときは、笑うといいのだ。
ベータエンドルフィンが出て、疲労回復になる。

ベータエンドルフィンは体内麻酔ね。

 

(2011.3.16)



「エイ・シ~」というキャッチコピーが翌々日くらいから消えた。

視聴者からクレームがあったらしい。しかしテレビは、オシム監督と、

どこぞの女優の病気のはなしだけ。そして、さいごは無音。

わたしは、その無音のところで、じつはこっそり「エイ・シ~」と口ずさんでいたのだ。

コマのプー猫を釣る2015/11/21

知人に「コマツ」さんがいる。コマツさんは、
ちょっとビンラディンに似てるんで、
コマツビンラディンと呼ばれる。
あるいは、
あんまりにも吝嗇(リンショクと読む、つまりケチ)なんで、
まるでプー太郎とおんなじじゃん、ということで、
「コマのプー」とも呼ばれている。


 で、コマのプーさん、釣りに行き、「ごんずい」を釣ったそうだ。


 まだ、コマのプーさんが初心者のころ。
風が強いとじぶんの仕掛けがじぶんに戻らないで、
鯉のぼりみたいにヒラヒラするのね。
 で、それを取ろうするんだけど、なかなか取れない、
それも夜中。
彼は、右手に竿をもち、ひだり手を高く空にむけ、
じぶんのエサが手許にくるのを、じっと待っている。
だが、なかなか、手許に来ない。不動の姿勢。

それ、はたで見ていると、なんかローマの彫刻みたいで
おかしかった。



「ごんずい」って毒があって、やたらには触れないんで、
プーさん、もたもたしていたら、
なんと、すきをついて子猫が「ごんずい」くわえて逃げていった。
こりゃたいへん、コマのプーはあわてて竿をふりあげた。


なにしろ、じぶんのものに固執するのは、天下一品。

フランス旅行で、バイクの二人づれの盗賊に
リュックをひったくられたとき、
石畳のうえをずるずる引きずられても、
けしてリュックから手を放さなかったという、
豪傑というより、やはり吝嗇の権化みたいなひと。



だから、猫に「ごんずい」取られたとあったら、たいへん。
執着心すこぶる強し、身体が勝手に反応すんだね。
「ごんずい」はまだ、針にかかったままだから、
ふりあげた竿には、「ごんずい」をくわえた猫が、
ぶーんと大の字になって空に舞いあがったそうだ。
コマのプー、猫を釣る。

卵のはなし2015/11/21

 卵を剥かなくてはならない。

 黄身がとろりとした卵である。
白身はつややかにひかり、剥いたあとは
赤児の頬のように初々しくてやわらかい。

 出来のいい卵とはそういうものだ。

 その天使のほっぺを作るのには、いろいろなコツがある。

 まず卵に穴をあける。
ほんのささいな穴でよい。ダムならそこから決壊するのだろうが、
その穴からたっぷり湯が卵のなかにはいりこみ、
剥くときに、つるりとなるのである。

 沸騰した湯に6分漬ける。これも季節によったり、
時間によったり。また、その湯の状態によって、
いささか時間にズレが生じる。

 卵を入れたらかき回す。
黄身が片方に寄らないためである。

 しかし、いつでも優等生のやつらではない。

たまに、とくに夏などはひどくへたばったらしい卵が
業者かから届くので白身が黄身を支えきらずに、
ぼろぼろに壊れてしまうのである。

 ようするに使いものにならない、というやつだ。
商品としてだせないものだから、ひとつやふたつは
店主の口に抛りこむのだが、そんなに卵ばかりを口にはできない。

 剥き方というのは、コンコンって叩いたら
卵を縦に人差し指で剥いゆく。ズボンのチャックをはずすように。
そうして、縦に白身が出てきたところから左右にするっと剥く。
これは、すべて水中の仕事である。

 だいたい、上出来の卵だったら、ひとつ
20秒かからないとおもう。

そして、マリリンモンローのおしりのように
きれいに剥けた卵ちゃんたちは、
うすい醤油の中に陳列される。

 そうすると一日で、とろりとした黄身に
ほどよく味がつくのだ。

 しかし、さいきんの卵は、やはり、体調がわるいのか、
するりと途中までうまくゆくのだが、
最後の最後で、白身が殻のほうについてしまって、
「はい、それまでよ」ってことになる。


 白身が崩壊してしまったモンローは、
もう舞台に立てやしない。お払い箱てある。

 もったいないがごみ箱に安置されることになる。
 
 そうさせたくないものだから、
卵剥きは慎重による慎重さが必須なのだ。


 しかし、そうおもっていても最後の最後で
「ああ」ってことになって何個、葬ったことか。


 悔しい。


 この悔しさを喩えるならば、
さしずめ、9回に韓国に逆転された日本のようなものなのだ。

けなげさとは2015/11/14

井上靖の小説に『姨捨』がある。1955年発表。

母親が「姨捨山に棄てられたい」と言ったことに
「私」はおどろき、それを空想したり、気にしたり。
 そして、そんな「私」が九州に公演に行くのだが、
そこで、遠賀川ちかくの仕事場にいる妹に会うというくだりである。

 妹の清子は、離婚してふたりの子どもも手放している。

「東京へ帰りたいけれど、当分はね」
清子はそんなことを言って、ちょっと淋しそうに笑った。
「同じ働くなら、東京でもいいじゃないか」
「でも」
意味不明な表情をとったが、
「もうしばらくここで働いて技術を身につけますわ。技術を身につける
ということから言えば、相手が外人さんだからここがいいと思うんです」
技術の習得の問題はともかくとして、清子は恐らく自分が出て来た
家から少しでも離れて住んでいたい気持ちであろうと思われた。


 実家から出て家族関係を断ち切り、子どもや夫も捨てて、
ひとり、九州の炭鉱町の片隅でつつましく暮らす妹。

 たしかに、ひとりという自由な境地、しかし、
それは、反面、孤独な境遇でもある。

 なにしかしらじぶんを支えるものがなくては、
か弱き枝は根元から折れてしまいそうである。

 小説はこう続く。

「お手紙出していいですか」
「いいも悪いもないだろう」
「では」
清子は擦り抜けるように改札口を通り抜けると、右手を上げて、
掌だけをひらひらさせた。少女のようだった。
苦労している女性の仕草ではなかった。


 この「ひらひら」に、
清子という人物のけなげさがにじみ出ているようにおもうのだ。

このけなげさというものは、
 あえて孤高な境遇に身を置き、その一方で、
ひとりになった自由の身という、アンビバレントなおもいを
できるだけ痛みにならぬようにふるまう、
そういうけなげさなのだ。

 もっと言えば、心の均衡をたもとうとする、
切ない自助努力なのだ。

 こういうしかたで、ひとは、みずからの負の遺産を
担保しようとするわけである。

 わたしは、この小説にふれて、ひとつおもいだすことがあった。

 この前まで勤めていた高校は、
薄給で有名で、おまけに非常勤講師などは、
コンビニでバイトしていたほうが「まし」なくらいの給与であった。

 え、これだけ、ってなんどおもったことか。

 でも、そこに、10年も非常勤講師をつとめているひとがいた。
もうひとりは8年目だったろうか。
どちらも社会科の先生である。

 8年目の先生は、妻子がおり、奥さんも働いている。
あたりまえである。暮らせないから。


 で、そのふたりは、第二職員室、
つまり非常勤講師の部屋で、いつも、
「え~、ここまで進んだの」
「わたしは、これで精一杯」
「あのクラスは、よく聞いてくれますから」

 など、とにかくクラスの雰囲気とか、
どこまで進んだとか、そういうはなしだけ、
空き時間に、とことんしゃべりだしているのだ。

 わたしは二年間そこにいて、
なんだか、すこぶるむなしい気持ちにおそわれていたのである。


 そんなことを言い続けなれば、
みずからを担保できないのかよって。

 つらい生活、すくない給与、そんなことを語ってしまえば、
じぶんがみじめになるだけである。だから、
「え~、そこまでやったのぉ」とか、
「はい、ここまで教えました」とか、
そういう、専任がけっして言わないだろう、
進度のはなしや、授業のはなし、そればかりを言い続けているのである。

 わたしは、その職場をあとにしたけれども、あのふたりは、
たぶん、あしたも、その次の日も、おんなじように語り合っているのであろう。




 井上靖の『姨捨』では、母親の煩瑣な日常から逃れたいと願ったのと
おんなじように、妹も、人間関係から逃れたいと願うわけで、
つまり、母も娘もおんなじ心情であったということなのである。


 みな、ひとは瑕を瑕としないように「けなげ」に生きているのである。

花の歌など・・・2015/11/12

カイエの編集長から、「花」をテーマに7首つくりなさい、
というミッション。


ネットプリントにするらしい。3号の宣伝もかねて。


編集長の命に応じないわけにもゆかないけれども、
わたしは、花は苦手である。

よくしらないのよ。


ジョギング中に鼻血が出て、なんにもないから、
タンポポを鼻につめたことはあるけれども、
そんなのは歌にはならない。

しかたないので、昔の歌でもなんでもいいから
なんとか集めて、それで、すこし改変して、花の名前を
無理やりいれこんで、
なんとか7首にしてみた。

いや、おはずかしい。

それがこれ。

・ともかくもおれのせいだが木蓮のひそか舗道に待つしかなくて 

・死人のあまた埋もれるこの花の周辺ひと肌色にあかるし

・湧くばかり桜のさかり 急行は伽藍の屋根をかすめてゆきぬ

・人の世の岐路とはなにか金文字のひかる位牌を直す 沈丁花

・青年はつくしのようにねむりだす車窓を春の額縁にして

・山百合に触れてるような吐息 うん いまなら秘密のひとつやふたつ

・饒舌はカンパニュラの花 むすびめがほどけずにいるあわき春の夜


「青年は」の歌ね、これはよくわかるけれども、三句切れでかつ「て止め」
これは、わかっててやってるねって、どこからか天の声。

は、は、確信犯であります。はい。

「死人」は「しにひと」と読むんですね。は、はい。
んー、「この花」とは桜ですね。は、はい。
ま、桜と言わないことくらいですかね、よかったのは。は、どもです。


と、天の声ばかりを気にしてはいられない。

カイエ、3号、もうすこしで発刊です。


2015/11/10

 「旅」にもさまざまな要素がある。

 芭蕉のような漂泊の旅。しかし、あれは、なにかダブルミーニングがあって、
たとえば、隠密であったとか、忍者だったとか、
まだ、語り明かされない領域がありそうだ。


 じぶん探しの旅というものもある。
はじめての地に降り立ち、その風景と対峙して、
じぶんの小ささや、わき立つじぶんの心を含む風景を、
その風景に押し込めて、それをすこし遠いところから眺めている、
いわゆる「自己意識」を、その地で味わっている。
言い換えれば、
感動しているじぶんを他所から感動して見ようとしている、など。


 東急ハンズの買い物なども、じぶんさがしの旅である。
と、いっきに景気悪い話なのだが、
東急ハンズに行くには、なんの目的もなく行くのがいい。

 ふらふらと商品を眺めるだけである。

と、たまに、あ、これ便利そうじゃなぃか。
しらなかった。うん、これ、うちのあの部屋にこうやって使ったら
いいんじゃないの。と、

 しらない商品と出会い、それをじぶんのスケールに
当てはめてみる、という幸福感である。

 これがじぶん探しである。
こういうじぶん探しには、ささやかな想像力が必要である。


 また、男と女とはちがう旅をする。

 と、これも男と女と簡単に分けるでない、
それは、あんたの偏見だ、なんて言われそうだが、
ご勘弁。


 男は、過去をひきずって旅をすることが苦手である。
微細な想像力さえ使わなくてもいいからである。


が、女(これは、わたしの知っているかぎりという注がつく)は、
過去を旅する。

 それも、過去に染み付いている創痕を
ひとつひとつ紡ぐ旅をする。

 あなたは、昔、こういうことしたでしょ、
あれも、あれも、おばさまも言っていたよ、じぶん勝手にさ。

 ま、こんな具合でひとに言ってくる。
男は、言われたことに覚えもあるが、忘れていることもある。

 男は、女の「過去への漂泊」についてゆく気がしない。
だから、その旅の模様を聞くたびに、すこぶる昏い気持ちが残留する。

 こういう女の旅は、呪いである。

 なんども、もうしあげるが、そういう女ばかりではないんですよ。
でも、そういう女もいるのである。

 呪いはとけることがない。呪いをとくためには、
未来というカンフル剤がなければならない。

 あなたはこういうことをしてきたのだから、
これからは、こういうふうにしたらいいんじゃないの。
わたしも協力するから。


 これが、処方箋である。
ま、すくなくとも、わたしはこういうことを身近な女性から
言われたことは皆無である。

 
 永井真理子の「ZUTTO」という歌があった。

 ♪ふたりはちがう人間だから、いっしょにいられるの♪

 えらいなー、よくそんなことが言えるな。
呪われるぞ、いいのか。


 男は、その先がどうなろうと、未来に旅する。
過去と他人は変えられないけれども、
じぶんと未来は変えられるかもしれない、
そう、とても甘い根性で旅をする。

 ちょうど、宝くじを買うのと似ている。
当たらないくせに買い続けるのである。


 よく言えば、ロマンチスト、悪く言えば、馬鹿である。


 じゃ、女の馬鹿と男の馬鹿と、どっちを選びますか、
という、究極の選択があったら、わたしは後者を選ぶ。

 やはり、先を見て旅をするのだ。
そこに、しらないじぶんがいるかもしれないじゃなぃか。


 日々旅をし旅を栖とす、と言った芭蕉は
はたして、男女の旅をどうおもったのだろうか。

 そうか、芭蕉は男好きだったかな。


呆けではない2015/11/7

 むかしの話だが、
職員室でわたしをふくめて三人で立ち話。

 そのとき、わたしが、さいきん人の名前がわからなくて、
なんて話から、そういえば、あの俳優なんだっけ。

 ほらほら、酒を飲むと強くなる、そ、あれ、あれよ。
酒飲んだらカンフーが強くなるひと、えっと。

 と、そこまでは、ただのボケだったのだが、
つぎのセリフが決定的だった。

 ほら、ジャッキーチェンじゃなくてさ。


 この発問のもっとも致命的なのは、
まさに、回答である人名を否定したところから
始まったところである。

 相対性理論はアインシュタインでなくて、
ではだれでしょう。

 と、おんなじことである。

 「美しい日本のわたし」といったのは
川端ではなくて、ま、これとおんなじだ。

 だから、男三人文殊の知恵、うーんと、唸りながら、
「え、ブルースリー?」

「ちがうでしょ、それアチョーじゃん」

 この悲喜劇的なループはエンエンつづいた。

 で、けっきょく「そーだ。ジャッキーチェンだ」と
答えに逢着するのに、数十分かかったというお話。

 これはきっとボケの兆候だったのだろう。

 あれから20年。

 携帯はなくすわ、出てこないわ、
人の名前は忘れるわ、歯医者の予約も忘れるわ、
どうだ、すごいだろ。


 ま、もっとたいへんな話をきいたことがある。

 渋谷で女学校時代の友人に40年ぶりにばったり
あった方がいた。

「あら、久しぶり。どうしてここに」

 「なに言ってんのよ、
きょう、あんたとここで待ち合わせしたんでしょ」

うん、ここまで、おれはひどくはないとおもう。

 また、こんな話もある。

 人の名前を覚えられないとか、忘れるというのは、
ボケではないらしい。

 加齢すると、さまざまな情報が過多に入り込んでくるので、
頭が混乱するのだという。 

 それは、痴呆ではなく、ただの情報をインプットしすぎた
状態だということである。

 それを聞いて、その人は、すこぶる嬉しくなって、
それをかれの妻に話したそうだ。

「おい、それってボケじゃなくて、情報の取り込みすぎらしいぞ」

と、妻は、すこし困った顔をしてかれに言った。

「その話、わたしがあなたにしたのよ」

野田(仮名)さん来店2015/11/5
 「なんともなかったよ
しばらくは死なないってよ」
と、喜んで店にはいってきたのは野田さんである。

 甲状腺異常という健康診断で、
青山の病院で精密検査を受けた結果が今朝だった。


「なんだ、すこしは弱ったほうがよかったのに」

「きみは、いつもそうやって年寄りをいじめるんだからよ」

「いつもうるさいから、すこしくらい静かになったほうがいいですよ」
と、毎回にくまれ口を叩くのだが、
そんなことではへこたれない。


「祝いにビールだ」と、
野田さんは400円を払う。


まだ、12時前である。昼からビール、おつだね。

この日、たまたま、娘の弁当にと、
わたしは、きのうから厚焼き玉子と唐揚げ、
それに、きのうの夜、半額で買ってきた刺身と、
じつにもりだくさんの食材が、
冷蔵庫にはいっていたのだ。

だから、わたしは、
野田さんに、酒のつまみにそれらをお出しした。


「お、ラーメン屋なのに刺身か、へー」

「ま、どうぞどうぞ」

「しかし、おれが来ること知らないのによくこれだけ
用意したものだな」

「いえ、ま、あったもんで」
このへんの事情を説明すると、ややこしいので、
野田さんには割愛した。


「なあ」

「はい」

「祝いにビール一本ご馳走してくれよ」

(ということは、おごれ、ということらしい)

わたしは、エビスビールを一本カウンターに置いた。

「はい、どうも」
と、二本目に突入。


そろそろ、しま坂にもお客さんたちが詰めかけてきて、
野田さんは、いちばん端っこに追いやられたが、
帰る気配はない。


「野田さんなんか食べます?」


「ん。いいよ、すこし手が空いてから」

この日は、むやみに大勢がいらしたので、てんやわんやだった。
妻も、なんでネギが少ないの、とかブーたれていた。

だから、しばらくうるさい野田さんもしずかにすわっていた。

一段落したところで、つけ麺のたれが残ったので、
わたしは、野田さんのために、100グラムくらい
茹でて、つけ麺をお出しした。

「食べる?」

「ん、おう」

うちのつけ麺は、もちもちで食感がよく、それにかおりもよい。

わりに評判のよい麺である。

つけ麺が好きな方は、これしか頼まない。


「どう?」

「おれはよ、細麺が好きなんだ。これ太いな。
でもいちばんこの店で好きなのは、黄金麺だ。
あれがいい」


「おい、サチコ、黄金がいいっているぜ」

と、皿を洗っていた妻は、にこりとした。


「じゃ、そろそろ帰るわ。また、釣り行ける日があったら
連絡してくれよ、前もってな。みんなきみに合わせてるんだから」


「はい、すみませんね」


「じゃ、ごちそうさん」

と野田さんは背中を見せ、かるく手をあげて店から出て行った。


けっきょく、かれが使ったお金は、
さいしょのビールの400円だけであった。
もっとも悪い教師2015/10/30

 いい先生というものは、教え方の悪い先生である、と
パラドクシャルな物言いに聞こえるかもしれないが、
それが「真」というものだとおもう。

 だってそうでしょ、このひと何言ってるかわからない、
じゃ、じぶんで真理を追求しよう、読解法をみずからあみだそう、
もし、そういう生徒がいれば、藍より青く、その先生を越すではないか。


 あんまり、ものの見事な読解法と、教授法で生徒に接すれば、
受験や、模試ではいい結果が得られるかもしれないが、
それは、カンフル剤でしかなく、その先生より大きくはなれないのである。


 世阿弥というひとがいた。能の大成者である。


 このひとの「至花道」という書物には、「体用」(これを「たい」「ゆう」と読む)について、
かたるくだりがあり、これが、真実の能に達成するための正しい稽古について述べた、
最終部分である。


 能には「体」と「有」とがあり、「体」というものは心でまなぶもの、
「有」とは、目で見てまなぶものである。
 初心者は、目でまなぼうとするが、それはいけない。心でまなびなさい。
心でまなぶ、すなわち「体」をまなべば、おのずと「有」が備わるものである。
「体」とは花や月である。「有」とは、その匂いやひかりである。
「体」がなければ、「有」はない。

 ま、めんどくさいからこのくらいにするけれども、
じゃ、けっきょく「体」とはなにか、「有」とはなにか、
それについては、語っていないのである。
 
 「体」というもの、つまり心でまなべば、それに付随して「有」が
備わっている、けっして「有」をまなんではいけない、というけれども、
それの本質には到達していないのである。


 ニーチェが、「超人」という概念をうちだし、それを理想としたが、
ニーチェじしん、「超人」とは如何なるものか、ということには
言及しておらず、「超人」でないものはどういうものか、それだけを
語っているのであるが、その理路と類比的な構図である。

 
 この、本質的なこと、
もっともその言説の急所の部分を語らない、
これがじつは、弟子をつくる大きなファクターとなるのである。


 はっきりものを言わない、ということは、それは暗号である。
暗号というものは、これが暗号ですよ、と語ることはない。

 それは、まるで暗号でないように見せながら、その奥に、
「表層とは別の意味」を含有しているわけである。
 
 そこにたどりついたものだけが、「わたしだけに送ってくれた暗号だ」と、
すっかり気持ちよくなるものなのである。

 だから、世阿弥のお弟子で、あの「至花道」の
「体有」のコールサインに気づき、
そこにダブルミーニングがあることを理解し、
「この本の真意がわかっているのは私だけ」という有能感にひたる読者、
弟子を世阿弥は期待しているのではないだろうか。


 はっきりものを言わない師、それこそが弟子たちを
多く排出する師なのだとおもうのだ。

 だから、よくわかんない説明をする師の、そのダブルミーニングに気づく
生徒こそ、師を乗り越えてゆく学徒なのではないだろうか。


 映画でも、あ、このシーンの裏側にあるものにきづいたぞ、
これは、監督とわたしだけの、パイプラインだっておもえば、
その監督の作品を、全能感をもちながら、今後も観ることになるのだろう。


 そういえば、わたしは、「おくりびと」という映画で、
ものすごい斜めからその映画を見ると、あるシーンで、
ひとの顔が映ることがあった。あれはスタッフかなっておもって、
正面から観ると、そのフロントガラスに映る顔が見えない。
で、また、じぶんのデスクの椅子に腰下ろし、ものすごい斜めから
観ると、ガラスに映るひとの顔。

 これは、監督とのパイプラインではなく、
もっと深淵なる世界からのわたしだけへのメッセージではないかと、
そう感じる(誤解?)わけであった。


 ということは、結局つまりだ、

わたしは、もっとも悪い先生ということになる。

伝説のひと2015/10/27

 

生きながらにして伝説となる人物がいる。

 フォーク界なら「高田渡」。
 われらの仲間では「星野清」だろう。
 声楽家としても、カールオルフの研究家としても有名なのだが、

イタリア人みたいに仕事が大嫌いなんで、

大学教授のポストも公立の教員もみんな断ったり辞めたり。


 イタリア、ベルカント唱法の第一人者、

ダルフィヨールに師事、その筋でも名が通っていたのに。


 で、ここ数年は好きな釣りに静岡まで足しげく通っている。

いまでは「静浦」一帯の釣り人をほとんど家来にしている。

 

 


 かれの狩猟本能は伝説にふさわしい。

夜中の防波堤、コールタールのような海。

風もつよく、海の表面は波の高低にしたがい

星のあかりだけが「うねる」ようにしろくひかる。

海は、そういう意味では「いきもの」なのだ。

夜の海は、ゆったりと、

だが、にんげんをこばむように動いている。

防波堤にたたきつける波の音があの世と

この世の境のように響いてくる。


 そのなかにたたずみ釣りをするものは、

どこかに、なんらかの後ろめたさと畏怖を抱かずにはいられないのだ。


 と、なにかに反応したように、かれは玉網をとりだし、

防波堤に腹ばいになりながら、海面をざばっとすくう。

それは、寝たままの素振りである。

が、網を持ち上げたその中に、なにものかがはいっている。


 ワタリガニだ。


 星野さんの玉網にはワタリガニが入っていたのだ。十五センチくらいの中型。


 真夜中の漆黒の世界から、

一匹のワタリガニが名人の手によってすくいだされた。
 まず、ここの海に「ワタリガニがいる」ことを「知っている」ことにも驚くし、

この、暗黒の闇からたった一匹の

ワタリガニを「捕獲する」のにも舌を巻く。

 

 

「ほら、やるよ」


 と、防波堤に揚げられたワタリガニをわたしにぽんと差し出した。

ヘッドライトに照らされたワタリガニは、

菱形の甲羅にその倍くらいある細いはさみをもって、じっとしている。

カニもびっくりしたろう。じぶんの真夜中の隠密裏の行動を、

ひとりのにんげんに察知され、こうして、陸に拉致されたのだから。


「あ、ありがと」


 わたしは、この無意味な被害者の背をきゅっとつまんだ。


 と、「やつ」は二本の細長いはさみをのけぞるようにうしろに持ってきて、

わたしの手の甲をぎゅーと挟んだのだ。

 

 


 不意のできごとだった。まさか、こんなにふうにはさみが背中にまわってくるとは。

その激痛に、わたしは、おもわず「うっ。痛っ」と声を洩らした。

 見上げると、星野、笑ってやがる。それは、

ワタリガニとの共謀ともおもえる笑い方だった。

 伝説となるひとは、やはり、偉大だ。

自然のなかに溶け込んでいるのかもしれない。

 

だからからか、かれだけ、たんまり黒鯛を釣って、さあ帰ろうと片付けをしていたときだ。

たぶん夜中の二時をまわっていたろう、

かれは、じぶんのはずしたリールを海におとしてしまった。


 名人の手からこぼれたのだ。

かれの所有するリールは、わたしの持っている

五千円くらいのチープなものとはちがう。

七万円はする高級品だ。玉網ひとつでも五万円くらいするからね。
「あ」とかいいながらも、七万円は海底ふかくに沈んでいった。
「もう、ずいぶん使ったから、いいですよ」
 名人は紳士であった。けっして、怒らない。

この二十年間、かれが激昂したところをいちどもみたことはない。


 わたしなぞ、針につけるエサのちいさなカニにゆびをかまれたとき、

あまりの痛さに、「このやろ」っていいながら、

そいつをとっさに手のひらで、べちゃっと潰してしまったことがあったが、

それを横で見ていた星野さんは、


「ああ、ひどいなー」

と、困ったような顔をしていた。

わたしは、わたしのウィークをよくかれに目撃された、

が、かれは、かれのウィークをわたしに見せたことはいちどもなかった。

 
 黒鯛は防波堤から「すかり」で吊るされている。

いま、大事なアイテムを失ったばかりの名人は、

動揺も見せないままするすると、戦利品を引き上げた。

 

 

 


 と、そのときだ。

奇跡はおこった。

伝説は伝説を呼ぶのか、

かれには、あたりまえのできごとなのか、

おおきな神がおおきな掌を差し伸べているのか、

わたしにはとうてい理解のつかないことだった。

が、しかし、そのとき、わたしは確実に、

かれが自然と同化していることを目の当たりにしたのである。



 引き揚げた黒鯛の頭にリールが乗っていたのだ。

 

益田という男2015/10/24

「龍園行って中国食べよう」

そんなCMがあった。ずいぶんむかしだ。
そのとき、益田は「どうやって中国食べるんですか」って
龍園に電話したらしい。

それも中学生のとき。 

アイスコーヒーには氷が入っているから、コーヒーが少ないと嘆き、
ホテルで、氷無しのアイスコーヒーを頼んだそうだ。
そうしたら、コーヒーはコップの半分しか入っていなかったとか。


益田はつわものだった。

中学の同級生であるが、わたしは転校生だったから、
かれとは一年のつきあいである。

 おんなじ剣道をしていた。たぶんわたしのほうが
強かったとおもうが、かれの方が目立っていた。


 たしか生徒会長もやっていたはずだ。


かれは、学校のベランダから突き出ている先っぽに
するする出ていって、その上で直立不動の姿勢を取って
みなを驚かせた。

 三階の隅の風のびゅうびゅう吹く中で、
真下は校庭、手を十字に拡げ立っているのだ。

 あるいは、三階の手すりから外に出て、ぶらぶらぶら下がり、
二階で授業していた佐野先生が、
窓越しに両足だけぶらぶらさせているのをみて、
あわてて三階にあがり、このときは、こっぴどく益田は殴られた。

修学旅行の写真コンクールでは、かれは、
畳半分くらいのでかいモノクロ写真を出して優勝した。

 準優勝は、わたしである。

わたしのほうが夕焼け空を白黒で撮って、美しかったのだが、
わたしのはキャビネで、かれの写真の十分の一くらいのサイズだったので、
みなの投票が、すこし足りなかった。

益田は、どこぞの社長の御曹司、金の力では勝てなかった。


つわものと言えば、体育の荒くれ教師と
取っ組み合いの喧嘩を目の当たりにしたこともあった。

 わたしよりも勉学は劣っていたはずだが、どういうわけか、
かれは、日比谷高校に合格した。

 わたしは、それよりちょっと落ちる学校に入学した。
(当時は群制度といってじぶんで学校を選べなかったのだ)
 

 益田は、たしか父親の仕事を受け継いで、
貿易関係の仕事の取締役になっていると聞いていた。


が、きょう、タカシが店に来て、益田が死んだことをわたしに伝えた。

脳梗塞で入院し、血がさらさらになる薬がもとで
却って死期を早めたらしい。


まだ、60歳にもならないのに。


子どもは四人いてすでに成人しているから、
後顧の憂いのない旅立ちであろうが、
それにしても早かった。


にんげんに、勝ち負けなどはないとおもう。


ただ、わたしはいちども益田に勝った、という記憶はない。

でも、かれは死んだが、わたしはまだ生きている。


箱根にて2015/10/23

 いまだに忘れられない光景がある。

 父も母も健在で、三人家族だったわたしどもは、
箱根に旅行にでかけていた。

 まだ、わたしが幼稚園のころだったとおもう。

わたしの父は、カメラが好きで、ペンタックスを愛用し、
当時では、めずらしい8ミリも購入していた。

 8ミリとは、いまじゃあたりまえになっている、
デジタルビデオの前身で、8ミリビデオとか、カラーテレビとか、
車とか、そんなものを持っている家庭は稀有であった。

 たしか、ようやく我が家に冷蔵庫がやってきたころだったとおもう。

 たぶん、8ミリは、ずいぶんしたはずだ。
父は、それを自慢げにわたしたちに見せびらかした。

 いまからおもえば、8ミリ撮影のために
箱根に出かけたのかもしれない。

 当時は、我が家には車はなく、父も免許がなく、
バスで箱根山を登っていった。

 富岳百景、たぶん富士も大きくそびえていたのだろうが、
そんなことは、幼少のわたしは覚えてない。

 よく覚えているのは、バスが満員で、
わたしどもは座ることなく山道に揺れていたことだけである。

 どこで降りたかはわからない。
トンネルの少し手前の停留所である。

 わたしどもは、そこで降りて、おそらく宿に向かったのだろう。

と、そのときだ。

父が「あ」と、驚きの声をあげた。

 「8ミリ、忘れた」

 バスの荷台に、あのステータスなシロモノを
おいてきてしまったのである。

 父はよくそういうことをした。

 母は、あきれた顔をしたとおもうが、それも覚えていない。
覚えているのは、三人で、がむしゃらに走って、先ゆくバスを
追いかけたことである。

 走る。走る。

 トンネルのはるか向こうにバスのランプが見える。

「待って~」

 母の金切り声。

わたしは、なぜじぶんが走っているのか、
とにかく喫緊の事態がいま起こっていることはわかるが、
なぜ、バスを人力で追いかけなければならないのか、
よくわかっていなかったとおもう。

 とにかく、父と母のうしろを追いかけたのだ。

その間、ずっと母は、金切り声をあげていた。



 バスはつぎの停留所でわれわれを待っていてくれていた。
だから、難を逃れることができたが、
これも、すべて父の失策である。

 あのトンネル内の激走はいまも脳裏のどこかにある。


 さいきん、鏡を見たり、じぶんの写真を見たりすると、
父に似てきたことに気づく。それは、わたしにとって、
なぜゆえか、いい気持ちのするものではない。


 しかし、加齢するごと、こうやって父に近づいているということは、
まぎれもない事実なのだろう。

 やはり、わたしは、
いまでも父を追いかけているのかもしれない

6分 都市化2015/10/22

 わたしは東京のはずれに棲んでいる。

 駅まではゆっくり歩いて6分。子どものころは駅まで遠いと感じていたが、
まわりの方がたを見れば、まだ、ましな距離である。

 駅には、ふたつの線路が通っていて、片や溝の口や日吉という
神奈川の真ん中まで行けるし、片や、埼玉県まで一本で行ける。

 その間には、目黒駅や自由が丘があるから、
渋谷にも、新宿にも、原宿にも、中華街にもなんなく行くことができる。

 おそらく便利な土地だとおもう。


 電車は、ほぼ時間通りに到着し、
ぎっしりと密集したダイヤを乱すことなくこなしている。

 これが都市というものだ。すべてがぎっしりと詰まっている。

 わが街には、空き地がない。公園はあるが、空き地がない。

 公園といっても砂場には柵がはりめぐらかされ、
さながら金網デスマッチのごとし。これは猫が侵入しないための方策らしいが。

 だから、公園でも、自由になにかをすることはほとんどできない。
サッカー禁止、キャッチボール禁止。

 できることはささやかな鉄棒と滑り台、それに砂場。


 すべて大人が「こうしなさい」と言った通りの空間である。

 かくして、子どもたちは自由な空間を失った。


 街は都市化がすすむと、自由気ままな空間が消滅する。
自由な空間とは、にんげんの手が加わっていない領域である。
言い換えれば、すべてが「管理」された場になったということだ。

 都市の対義語は「自然」であるが、この自然のなかに自由がふくまれる。

 子どもたちには、都市の中では、
みずからの想像力でもって遊ぶ空間がほとんどない。
おとなの「こうしなさい」のなかでのみ、遊ぶことを許されているのである。
あるいは、おとなの手垢のついたものでしか遊べないといってもいい。


 ああすればこうなる、という図式こそ都市を形成する考量である。
つまり、因果の図である。


「部長、こういうイベントを組みたいのですが」

「うん、じゃ、これをするとどういうことになるのかね」

 ああすればこうなる、という設計図を示さなければ、
あたらしい提案は廃案となる。

 結果がわかっているならさいしょからやらないほうがましだ。
 ここには、無限大の自由なる結論は皆無である。

 都市もしかりであって、
ことごとく「意識」のなかに組み込まれてしまっているのだ。

 すべては因果という意識が都市を形成している。それもぎっしりと。
そこには、自然とか自由とか、このさき何が起こるかわからない、
という危機感は、とっくに排除されてしまっている。


 子どもというものは自然である。


 このさき、その子がどう行動するのかわからない。
因果がないのである。

 それが子どもというものだ。

 意識化に組み込まれた都会において、自然の申し子である子どもが、
のびのびと育つのには、無理があるというものではないだろうか。


 と、そんなことをおもいながら、傘をさして
6分の道のりを自宅に急ぐのであった。

星野(仮名)さん親子来店2015/10/22

今夜は、星野(仮名)さん母子が来店した。

 響子(仮名)とはじめてあったのが小学生だったが、
もう立派な成人、大学院までいって仕事をちゃんとしている。

 ながいつきあいだ。ながいつきあいなのだが、
その肝心の星野さんだけは他界しているから、もう会えない。


 「海にもぐってたよね、星野さん」

 「そう、あわびとか、こんな大きいのもって帰ってきたわよ」
と、ビールを飲みながら奥さん。

 「え、あわびですか」

 「そうよ、素潜りでとってくるのよ」

 「え、あわびですか」って驚いているのは、パートの紫陽花さん。


 「あの海仲間、ほとんど死んでしまってますね」
と、わたしが言うと、

 「そーね、みんないなくなったわね」

 アメリカのでかい車に乗り込んで、4人で千葉や伊豆の海にいって、
サザエとかあわびとか、黒鯛、石鯛などを
熊手でほじくったり、槍でつついたり、そんな仲間がいたことを、
星野さんはよくわたしに話してくれた。


 地元の漁業組合のひととはしょっちゅういざこざがあったことも。

べつに、放流しているもの以外は、だれが獲ってもかまわないらしいが、
漁業組合の漁師たちはそれがおもしろくないらしく、
警察ざたになることもしばしば。

 が、星野さんたちもつわものだから、
警官に「よく来てくれました、このひとたちがからむんです」とか、
そんなことを言って、警官を困らせた。

 
 星野さんは、また、横浜、川崎の市街地で
猟銃で、鴨や野バトを撃って食べていたのだ。

 もちろん許可証もあるから、違法ではない。
そのしとめた鳥は、家で毛をむしり、しばらく逆さにつるして食する。

 その胸の肉は、プロイラーの鶏しかしらないわれわれには、
想像もつかないほど美味らしい。

 そんなことも話してくれた。

 そういうむかし話をわたしと奥さんとでしている間中、
紫陽花さんは、え~とか、わぁ~とか、驚きながら聞いていた。


 とにかく、かれは、自給自足の権化のようなひとだった。


 釣りが好きで、ついにはじぶんで竹竿をつくりはじめた。

わたしも何本か、星野謹製の釣竿をもっている。
もちろん、有料である。

 響子は、そういうわれわれの話にちゃんと便乗して割り込んでくる。

 「こんど、釣りに行ったら、うちにもってきていいからね」
とか、なんとなまいきな。


 「おまえさ、ともだちいるの」
と、わたしはそんなことを訊いてしまった。

 「いますよ、あなたとはちがいますから」
とか、またこじゃれたことを言う。


 「でも」

 「なに」

「ともだちいるのって、それってずいぶん失礼なんじゃないですか。
わたし、この一年で、いちばんひどいことを言われた気がする」

「あ、そーですか、それはそれは」
わたしもテキトーにうながす。



 星野母子が来店するとにぎやかになる。

 

 しかし、それは、それで、なにかが浄化されたような気にもなるのだ。

 星野さんは56歳という若さで死んだが、
われわれのなかでは、いまでも生きているのである。

捨ててきたもの2015/10/22

 子どものころは脂性だったので、よく手に汗をかいた。

だから、フォークダンスがきらいだった。

オクラホマミクサーのときなんぞ、
お相手の女子は、わたしの番が終わると、
ごしごし手を拭いていた。


それは、まだ純真な少年の心に瑕として残った。

が、いつのまにか、手はさらさらになって、いまじゃ、
紙を配るときなぞひどく困っている。

 前にも書いたが、だんだん燃えやすくなっているのだろう。
にんげんも、セミみたいに死期がわかっていて、
なるべく世間様にご迷惑のかからないような
構造になっているのだとおもう。


 あんまりむかしを振り返るのは好きじゃないけれども、
いろいろなものを捨ててきた。


 30歳になる前に、タバコを捨てた。
灰皿も捨てた。

 タバコをやめてはじめてわかったことは、タバコを吸っていたのではなく、
タバコに吸われていた、ということだ。

 出がけに、えっと、タバコは、えっとライターは、
と、身体をとんとん叩きながら、確認する、そんなことをしなくてよくなった。

 これは、タバコの呪縛である。
ようするに、わたしはそのとき開放された、そうおもった。

 これは、健康のことよりも、精神的な開放感が
わたしを幸福にさせた。

 40を過ぎて、櫛を捨てた。

 わたしの髪は、やわらかく癖のない細い髪だった。
風が吹くと、トトロのさつきのように髪がなびいた。

 だから、その素敵なつややかなささやかなものは、
しだいに消滅の一途をたどったのである。

 ユイに「お父さん、遠くからでもわかる」と言われた。
「頭に、穴あいている」とも。

 もっと簡単に言えば、二文字で言えるのだが、
娘は、そうは言わなかった。

 50半ばで、仕事を捨てた。
天職かとおもった教員をやめたのだ。

 じぶんではかなり優れた教師だとおもっていた。
先輩の先生でも、後輩でも、そのひとから
なにひとつ教わったことがなかったのは、まわりに
わたしより、ものを知っているものがいなかったからだ。

 わたしの周りにかぎってのことかもしれないが、
「切れ者」はいなかったのである。


 そのせいなのか、わたしは、いつものけものにされていた。
能力の問題ではなく、性格的なものかもしれないけれども。


 じぶんのまわりのものを削ってひとは生きている。
しだに身軽になろうとしているのだ。

 いま、机にすわり、こうしてパソコンを打っているが、
じつは、わが部屋には無数の本が並んでいる。

 ホンテッドマンションの途中にある本棚みたいである。

これはゴーストライターたちの本なのです、みたいなところ。

 還暦を迎えるまでに、この本を処分しようかとおもっている。

 故事類苑、大漢和辞典、日本古典全集、各種総索引、
日葡辞書、九種節用集、国書総目録、国歌大観などなど。

 売れば、足元見られて二束三文だろうが、もう、使わないとおもう。

本に囲まれている、というのが幸福論だった若い頃は、
もうすでに過去となっている。


 だいたい、本をめくるのも手が滑ってめくり難いのだ。

隠れん坊について2015/10/22

街を歩けば、学習塾にいく子どもたちの姿。

 仕事をリタイアしたひとか、再就職か、旗を振って子どもを
誘導する大人。

 こういう風景はいたるところで見かける日常である。

 いわゆる英才教育を猫も杓子もさせようとする。
あるいは、習い事。すべては、「人並みのこと」をさせようとする
親の思考法である。

 「人並み」というのは、この世の中で「人並み」ということだ。
いや、世の中という語は少し錆び付いて、いまは「社会」と言うのかも。

「社会」のなかで生きてゆくための「人並み」なもの、
これが正しいのだろう。


しかし、ほんとに社会があるのだろうか。
ソサエティの訳語としての造語だから、
社会があって、「社会」という言語が発生したわけではない。

日本にあったのは社会ではなく、世の中だったのだが、
それはそれとして、
もし、造語のまま社会が形成されているのなら、
この社会は、幻想なのかもしれない。

この世には、幻想はいくらでもある。

民主主義、紙幣、芸術、みんな幻想である。

ただ、これをみなが同意、承認しているからこの世に存在する。

幻想は、承認によって存在しはじめるという、
あたりまえの図式をたまに人びとは忘れる。

 日本の民主主義は、ある世代のひとが共同的につくりあげた、
脆弱な制度だから、みんながそれを無視したら、
あっというまに消滅するのである。

 紙幣だって、あんなの紙じゃんって言った瞬間、紙になる。

その、あるかないのかわからない社会なのだが、
英才教育は、その子に、その幻想たる社会さえも我関せず、
自分さえよければそれでいい、という思想を
植え付けさせてはいないだろうか。

つまり、社会のなかの一人前になるために、
いや、社会のリーダーになるために、
社会というなんだかわからないものを振り捨てて、
個人主義に迷走しているのではないだろうか。


 仄聞するところ、英才教育を受けた子が、
成人すると、衝突もおおくなり、そういう教育を受けなかった子より、
三倍も重罪で逮捕されているという。
(ピーターグレイ氏の研究)


そういえば、近ごろ、隠れん坊をする子どもたちがいなくなった。
缶けりも。

たしかに、場所がなくなった、という地理的、空間的なことも
関係するだろうが、それだけではない。



 隠れん坊とは、藤田省三氏によると、


 
「急激な孤独の訪れ・一種の砂漠経験・社会の突然変異と
凝縮された急転的時間の衝撃、
といった一連の深刻な経験を、
はしゃぎ廻っている陽気な活動の底でぼんやりと
しかし確実に感じ取るように出来ている遊戯なのである。」

と述べている。さらに氏は、、


「原始的な模型玩具の如き形にまで集約して
それ自身の中に埋め込んでいる遊戯なのであった。」
と付記する。


ようするに、隠れん坊とは、
遊びをとおして、社会の厳しさを、
みずからの内部に骨肉化させることによって、
社会に順応させる装置だったということである。

 いま、こういうしかけがどんどん失われている。
ボンナイフ、どこかに消えた。
馬跳び、なくなった。ながい横ブランコも。


 子どものうちから、そういう装置がはずされ、
業績主義的な個人主義におかされて日々を送っている。



でも、サピックスに通う子たちのいく人かは、
信号が青に変わるや、ばたばたと走って向かっている。
それも、無邪気に。




左ばかりが・・2015/10/22

ひだりの足の小指をいやってほどぶつけた。


 そこにベッドがあったなら、わたしはおもわず、
それにダイビングして、おもいきりの声を張り上げていたはずだ。
繭のように丸まりながら。

それ以外に、どこに向けていいか分からぬやるせなさを、
昇華させてやる方策がないのである。




 だが、そこにはわたしを救う装置はなく、
ただ、足をひきずってわが部屋に戻るしかなかった。


 で、その悲惨な現状を見るのは、とても怖かった。

にんげんというものは、不思議なもので、
じぶんに不都合なことが起こると、それを回避しようとしたり、
ネグレクトしたりするものである。


 ジンジンと痛むわが小指を、わたしはネグレクトした。
だって、怖いからね。

 
 そして、その激痛と対面したのは翌日のことである。
どんなになっているのだろう、おそるおそる。
勇気をふるって。


 と、わが小指は、三倍くらいに膨れ上がり、
みたこともない色に変色していた。

 ザクロの実、ほどよく焼けた中華街の叉焼、非加熱ロイヤルパープルサファイア、
ま、いろんな形容をしても、痛いものは痛い。


 しかし、老い先短し、ほっとけとばかり、いまも放置している。

 その次の昼、白髪ネギを切る機械で、ひだりの薬指を切った。

 白髪ネギを切る機械を購入して、まだ日は浅い。

無数の歯が円盤状になっていて、そこをネギを通すことによって、
白髪ネギがいとも簡単に作れるというシロモノだ。

 ただ、それを洗うのに手間がかかる。ネギがはさまってとれない。

ハンドルをぐるぐるやりながら
水で流しながら洗っているとき、支えていた左手に
その歯が触って、指がきれいに直線に切れたのだ。

つまり、薬指がネギとおんなじ運命をたどったということである。

傷口は、まず、ぱっかりと開き、そして、すこし遅れて、
なじみぶかい血液が流れ始めた。

横でみていた紫陽花さんも「わっ」とか言っていたような。


その傷は、コロスキンというボンドのような液体の薬で固めて、
どうにか難を逃れたのだが、痛いことにはかわりない。


 その夜である、わたしが寝につこうとベッドに向かうとき、
なにか足の裏に痛みがはしった。これは、小指のものとはべつものである。

 うおの目かとおもった。わたしはすこし引きずりながらベッドにもぐって、
こんどは、その痛い部分をさすってみた。

 と、ご存知かとはおもうが、ガラスが刺さっていたのだ。
もちろん、左足である。

 そういえば、昨日、ワイングラスを割って、掃除したのだが、
そのグラスの残骸がまだあったのだろう、そいつが、
わたしの左の足の裏に直角にささったわけだ。


 なんで、こうも左ばかりに難が訪れるのだろう、

大難が小難に、小難が無難に、となぜならないのだろう。

 左手は、わたしのささやかな霊感のかんじる部位である。
右手にはない。
左手をかざしていると、相手の悪い部分とかが、見える時がある。
右にはまったくそういう能力はない。
ということは、何者かが、わたしのそれを抹殺しようとしているのだろうか、
あるいは、邪魔をしている・・・

 うーん、おもいあたることがない。

 そんなことをおもいつつ、セブンイレブンで買った惣菜を食べようと、
箸をふくろからだそうとしたとき、なかに入っていた楊枝が、
ぐさって指に刺さったのだ。

 こんどは右の人差し指だった。

田中さん武勇伝2015/10/16

田中さん(仮名)をつれて自由が丘を通った。

 釣りに行く途中、忘れ物をしたわたしの拙宅に
もどるところだった。


 「自由が丘か、懐かしいな」

 「そうなんですか」

 「おれはよ、美容院の女とつきあっていたんだ」


ここから、田中劇場は独り舞台となる。

 「でも、おれには妻も子どももいてな。
それ、ないしょでつきあっていたんだ。
ところが、バレちゃってよ。
 その子と会ったあと、そいつは、おれんちまでつけてきて、
仕事の休みの日に朝から、隠れて見ていたんだよ。
そうしたら、おれはサラリーマンだから、仕事に行くだろ。
そんときにそのときの母あとチュなんてして、
子どもも抱いてるんだよ、それ全部見られてさ。
それから、しばらくしてその子に会ったとき、
ジュークボックスあるだろ、そいつなにかけたとおもう。
中条きよしの『うそ』だぞ。
それで、おれもわかったんだよ。なんでわかったんだって訊いたら、
そいつと歩いていたとき、
向こうから、若い母親が子どもを抱いていたんだな、
それ見て、おれが、お、かわいいなって言ったんだって、
でも、そのとき、あれ、一歳6ヶ月くらいだなと言ったんだよ、
子どものいないやつなら、あれが一歳6ヶ月なんてわかりゃしない、
そうあいつはおもったんだって。
このひとには、子どもがいる、そう感づいたらしいよ。
それで、こっそりあとつけてさ、みんなバレバレよ。
でも」

田中さんは、また続けて言った。

「その子とおんなじ会社の子とも、同時期、つきあっていたんだ。
ハ・ハ・ハ、おれが喫茶店に行ったら、そのふたりがいっしょに座っているんだ。
あ、もうおしまいだなっておもったよ」

「それで、どうしたの」

「うん、その子が、わたしを取るの、この子を取るのって訊くんだよ」

「ふーん」

「だから、おまえも知ってんだろうけどよ、おれはに妻子がいるから、
どっちも取らねぇよって言ったやったよ。
その子、仕事辞めて、北海道帰るっていうとき、
奥さん捨ててわたしと来て、とか泣くんだよ。
いいスタイルしてたな。すらっとして顔はどうでもいいけどよ」

「田中さん」

「なんだよ」

「あなた、指つめたほうがいいよ」

森田童子というひと2015/10/15

 高校時代だったろうか、森田童子というひとを知った。
カーリーヘアにサングラス。まずは性別がわからなかった。

 声はちょっとガーリーで、たぶん女だろう、そのくらいの認識。
わたしは、レコードを買って、ひとりで夜、よく聴いたものだ。

 まだなんだかわからない夢を抱きつつ、学生運動も下火になっていった時代、
わたしは、なにかを求めていたはずだ。

 だから、古井戸とか、高田真樹子を聴いた。龍と薫もいた。
そのひとりに森田童子も。「さよならぼくのともだち」という歌はよかった。
学生運動で死んだ子の歌らしい。

 だれひとり、森田童子を知る者がいなかった。

それが、脚本家の野島伸司というひとが、
高校時代同級生に誘われてライブハウスで
歌う彼女を知り強い印象を受けたらしく、
それが、「高校教師」の主題歌となり、人口にカイシャすることになる。


 しかし、あの歌詞がいまだによくわからない。


  ♪春のこもれ陽のなかできみのやさしさに
  うもれていたぼくは弱虫だったんだよね


 この「きみ」は女性である。童子は女性だが、一人称は「ぼく」なので、
そういう設定なのだろう。彼女の作品は「ぼく」が多用される。

 つまり、甘えすぎた「ぼく」がいた、ま、そういうことだ。

 ♪きみと話つかれていつか黙りこんだ
 ストーブ代わりの電熱器、赤く燃えていた


 これは、どうも同棲しているような含み。それも貧乏。
 そこまではよい。


 ♪ぼくがひとりになった部屋にきみの好きなチャーリーパーカー
  みつけたよ。ぼくを忘れたカナ

 このへんから事情がややこしくなる。

 たぶん、この「きみ」とは別れたのだろう。「きみの好きなチャーリーパーカー」は
だれのものだ。きみのものか。なら、この貧乏くさい部屋を出て行く時に、
好きなチャーリーパーカーを置いていった、ということだろうか。

 それほど、急激な別れがこの二人に訪れたのだろうか。

 「ぼくを忘れたカナ」

 やめてくれよ、そんな言い方って、、ね。


 ♪だめになったぼくをみてきみもびっくりしただろう
 あの子はまだ元気かい 昔のはなしだね


 ということは、だめになっていった事後的なことを「きみ」は
目撃したということになる。どこかで遭ったということなのか、わからない。
ところで「あの子」ってだれだ。男か、女か。
 それも「あの子」というのは「昔の」ことだから、
同棲した時代にいた「あの子」のはずだ。彼女のともだちだろうか。

 これもよくわからないのだ。

そもそも、森田童子という芸名は、本名もわからないまま、
1983年、芸能界から去っていった。いま、存命なら63歳のはずである。

 すべてが「謎」なのである。

 高校時代、森田童子はわたしのものであった(はずだ)。
それが、1993年のあの「高校教師」というドラマで脚光をあび、
一躍、有名な歌となった。

 ほとんど無名な歌手だったが、
それこそ、ご本人「きみもびっくりしただろう」である。

 たしかに、神田川と、どこかに共有するアンニュイで退廃的、
70年代のわかものの、
いわゆる「三ない主義」の潮流の作品であったことはまちがいない。

 学生運動も、その無意味性に学生じしんが気づきはじめ、
「いったいおれたちは、なにをしているのだろう」と、そんな
空気が世の中にあったころだった。

 
 そして、なによりこの歌のタイトルがなんとも言えないのだ。

「ぼくたちの失敗」

 わからないことだらけである。

クラッシュ2015/10/14

2005年の映画「クラッシュ」。監督はポール・ハギス。

クリスマスを間近に控えたロサンゼルス。
1つの交通事故を起点に、多民族国家であるアメリカで暮らす様々な人々を
取り巻く偏見・レイシズムを下敷きに、オムニバス的ではあるのだが、
そのひとつひとつが微妙に絡み合っている、つまり「クラッシュ」しているという
なかなか手の込んだ映画である。

その作り方によるものか、あるいは、テーマ性の事情のせいか、
本命と称されていた『ブロークバック・マウンテン』を押さえ、
第78回アカデミー賞作品賞を受賞した。


ロサンゼルスからはほど遠い日本ではあるが、「クラッシュ」のような
繋がりがあるのだろうか。おそらく、仏教圏の本国では、それを「クラッシュ」とは
言わずに「お導き」というのじゃないか。

あるいは「因果応報」とか言っている。


今朝、一ダース買ってある、炭酸飲料を仕事場に持っていくとき、
キャップを軽くしめていたおかげで、カバンにこぼしてしまった。

まいったな、細野商店の帆布である。汚したくない。が、
甘ったるい液体がその布にしみこんでゆくので、
しかたなく、わたしは、新品のタオルで拭き拭き車に乗った。

車にタオルなんてめったに持っていったことなんてない。

そういう意味では、非日常的なことなのだ。


きょう、学校は昼で終わりだったから、昼休みに学校を後にした。

そのときだ、体育館に駆け込んでゆく女生徒。

「ジージ、帰っちゃだめ。バレーボールやるよ」

ご存じかどうかは知らぬが、わたしは、学校では「ジージ」と言われている。
つまり、すでに「終わった人間」ということである。

「はやく、はやく」

琴音と舞子がわたしを呼ぶので、
わたしもバレーボールは嫌いじゃないから、
靴下になり、ワイシャツのままわたしたちは6人で
トス・パスをした。

新築の体育館は、床がピカピカで気持ちよかった。

おかげで、わたしは汗だくである。

体育館を後にしたとき、もうワイシャツはすこし重くなっている気がした。

車にもどって汗の引くのを待った。

ん。あ。タオルがある。

おう、これは好都合じゃないか。

わたしは、頭から首筋、顔と後部座席に置いてあったタオルで
しっかりとぬぐう。

そーか、きょう、炭酸をこぼしてタオルを車に入れたのは、
このためだったのか。

すべては、お導き、クラッシュして世の中はうごいてるのであった。

「ゆい」を呼ぶ2015/10/14

 店に「ゆい」を呼んだ。
実家にもどっていたから呼んだら、すぐ「行く」という返事が来た。
ゆいは、10時を回ったころに来た。

黒いつばつきの帽子をかぶっていた。
ファッションなのだろう、夜なのに。

「酒、用意したんだけど、飲むか」

「うん、いいね」

わたしは、冷蔵庫から、買っておいたシャンパンを出した。
スパークリングワインではない。
シャンパーニュ地方の白ワインである。

「フランスのシャンパーニュ地方は、飲み水にすでに
炭酸がまじっているんだ。それで作るワインは、
こんな風に、泡が出てくるってわけだ」

シャンパンとスパークリングワインとのちがいを
知らない娘に、偉ぶった講義をし、
このワインがどれだけ高級なものかを説いた。

このへんが、貧乏人のいやらしい根性というものだ。

パートの「ゆり」さんと乾杯した。

どんなに高級であっても、コップは店のプラスチックなので、
気分は最高、なんてもんじゃない。
場末の雰囲気。


「わたしさ、バカだったから、全国模試の成績が、いちど、
びりから2番というときがあってさ」

「へー、びりから2番」

「そ、驚くでしょ。でも、それでもこうやって
ちゃんと仕事してんだよ。勉強ができなくても、
だいじょうぶなんだから」


「そうな、お前、成績わるかったもんな」

「お父さんさ、わたしが勉強しないからって、
わたしの勉強道具、カバンごとゴミで捨てたことあんだよ」


「へー、ゴミ箱に?」


「ううん、外の網のなかに」

「え、おれが」


「そーだよ、覚えてないの?
わたし、泣きながら取りに行ったんだから」



「ふーん、知らない。覚えていない」


「あ、覚えていないんだ。なんて親だとおもったね」

「な、ひどい親だな」

「じぶんだろ」

「覚えてないってことは、それが日常だったんだな」

「よく叱られたな」

「そう? なんにも覚えていない」

と、カウンターの三人の宴会は、わたしの性格の
破綻したことで盛り上がった。

パートの「ゆり」さんは、

「覚えていいないというのがすごいですね」
と、あきれたように笑っている。


「わたし、そういうこと忘れないからね。
記憶力だけはいいからさ」

とうもろこしのつぶのようにすらりと並んだ、
銀歯のひとつもない白い歯で、ゆいも笑っている。


「ね、ゆりさん、ゆいの歯、きれいでしょ、これだけだよ、
自慢できるの」


「ほんとですね。きれいな歯」


「いいよ、その話は」

「おれが、お前に教えたのは、箸の持ち方と、すしの喰い方だけだからな」

「ほんと、それは感謝している」

「けど、かわいそうだったよな、コウゾウなんか、
寿司屋でひっぱたかれながら食ってんだもんな。
そうじゃないだろ。こうやって食うんだ、とか言われながら」


「お兄ちゃん、かわいそうだったよね」


「でも、娘さんに、お前って言うのいいですね。わたし、
言われたことないですよ」
と、パートのゆりさんは、ぽつりと言った。


「そーか、おれは、ゆいって呼ぶか、お前って言うかだな」

それにあんまり親らしいことしていないし。

しばらくしてゆいは帰っていった。
父親特製の厚焼き玉子や、シギ焼きをすべて平らげて。



シャンパンも三人で飲むので、すぐに空っぽになってしまった。

たいした話もしなかったが、「わたしの娘」としての
最後の時間は、いつもどおりの父親の悪口でおわった。


明日は、娘の結婚式である。

よく寝られた2013/9/12

子どものころ、庭のさるすべりの木を使って、
秘密基地のようなものを作った。

 子どもは、そういうものを好む。
ディズニーランドに、トムソーヤの家だったか、
ああいう大木をそのまま家に改造することに、
ものすごく憧れたものである。

 ちなみに、いま、エアコンのない一階の我が家は、
窓という窓、南と北と西、を全開にして生活している。
網戸はあるけれども、風や、もちろん埃もすべて
さえぎるものなく部屋を通り抜けてゆく。

 窓の外は、若々しい木々の緑が、風にゆれているのが見える。
我が家と庭は、決して隔絶したものではなく、
なだらかに繋がっているのである。

 それは、むかし憧れた、大木の中の家と、
どこか通じるものがあるのではないだろうか。

今朝、地響きのような雷がなった。

徐々にその音が大きくなってゆく。
それとともに、スコールのような雨音。
庭にある葉という葉に、ひとしく叩きつけてゆく。
乱暴だけれども、それが自然というものだろう。

わたしの枕元数十センチのところが網戸なので、
外の音は、そのままわたしの耳元に届く。

 各地で、この大雨による被害もあったろうけれども、
わたしは、なんだか自然のなかに包まれているようで、
それは、ささやかな快感だったのだ。

 雷でたしかに目を覚ましたけれども、
なにかに包まれる感覚のまま、
それからあとは、よく寝られたのである。

師匠の来店2013/4/3

横浜磯子にあるラーメン店「亜舵夢巣」。

これで「あだむす」と読む。
星野さん(享年56)が見つけたラーメン屋である。
正統派の丸鶏ベースの醤油ラーメン。


そのご店主と、奥様、息子さんがご来店。

はじめてのことである。

つまり、わたしのラーメンの師匠が、わざわざお越しくださった、
ということである。


「亜舵夢巣」

むかしは、ベイサイドマリーナの正面で、
ヨド物置のような、数名のカウンターしかない店だったが、
いまは、移転してレストラン風の中で営業している。

「食べログ」で「亜舵夢巣」をみると、
酷評から絶賛まで、さまざま。

あれほど評価が分かれる店はないだろう。
「日本一まずい」とか「スープのだしがわからない」とか。


わたしは、師匠からこのスープの作り方、
ネギ油の作り方、麺の値段(ここは自家製麺)、メンマの作り方、
チャーシューの焼き方、すべてを教わっている。


(以前、営業中にもかかわらず、いっしょにコストコまで
ついていってくれて、チャーシューの窯などを
みつくろってもらったこともある。
第一、うちにある券売機はここから「ただ」でいただいたものなのだ)


だから、この酷評を書くやつをみて
「なんにもわかってないな、こいつは」ってほくそ笑んでいる。


黄金色のスープで
麺はストレートのしっかりした腰、
チャーシューは炭火で深みのある出来、
あれをまずいというやつは、
たぶん、アメリカ人よりも舌の出来の粗悪なやつなのだろう。


が、このあいだわたしが「亜舵夢巣」に行ったとき、
わが師匠は、げっそり痩せて、なにしろ声が出なかった。


気さくな奥さんは、「もうねぇ、ひと月もご飯たべなくってねぇ」
なんて笑っているが、わたしはそのとき予感した。

「・・・」

「亜舵夢巣」に行くときは、いつも土産を持参するのだが、
そのときは、備長炭をひとケースもっていった。

それがうれしかったのか、あるいは、そうでなくて、
十数年のつきあいで、一度は、「しま坂」を見てみたかったのか、
あるいは、・・・。



ご家族は、ラーメンとぞうすいを召し上がった。

「あら、きょうはお父さん、よく食べたじゃない」
奥さんは、いつもあかるい。

師匠も「お・い・し・い。想像・し・て・た味・だよ」
と、喜んでいるようだった。

息子さんがいまでは製麺しているらしく、
こんど、調理師免許を取りたいそうで、
わたしに保証人になってくれと、いうので、快諾した。

磯子から大岡山まで往復70km。


とつぜんのご来訪は、驚きであり、このうえもない嬉しさであり、
そして、わずかばかりの切なさをわたしに残したのだった。

零度2013/4/3

ロラン・バルトというひとが、
ある制度が生成した瞬間のことを「零度」と名づけた。

だいたい、歴史は生成した瞬間から、
審問され、バイアスがかけられ、その起源には
なかなか立ち戻れないものだ。

 第二次世界大戦がなんで起きたか、
というよりも、敗戦国がどうすべきかとか、
戦後の日本は、なんて、世界大戦の零度よりも
そのあとの文脈に重きをおくものだ。

 その点、アメリカという国は、
たいしたものである。

 オバマ大統領の就任演説でも、
建国の精神を語り、民衆をおおいに発揚させた。

 つまり、アメリカ国民は、
この国がなんで存在しているのか、
その意味をひとりひとりが内在している。
骨肉化しているのである。


 だって、二百年前くらいに、
われわれはこうしようって作った国じゃないか。

 だから、すぐ建国の精神に戻れる。

これは、便利ですよ。

 胸に手を置き、斜め四十五度の空に向かって
合衆国国歌をたからかに歌い上げれば、
すぐ、ナショナルアイデンティティが発動し、
「よし、おれたちはがんばるぞ」みたいな気になれるのだ。
ようするに、
アメリカの開拓史の「零度」にすぐ回帰できる回路を、
かれらは持ち合わせている。

♪Oh, say can you see,by the dawn’s early light


 一発で効く。零度だ。

そのときの、合衆国国民は、
ベトナム戦争を忘れ、
エノラゲイの原爆投下をネグレクトし、
ケネディの暗殺を無視し、
イラク戦争の犠牲も顧みず、

ただ、ひたすら建国の「あの時」に戻っている。




 こんなふうに、国民意識が構造化されていては、
いざ、スポーツでの一騎打ち、というとき、
いかに、これが有利に働くことか。

 その点、日本は、なんでこの国があるのか、
それを知っているひとがいないので、
そして、それはだれにもわからない。

 気づいたら、ここにいる、みたいな国民で、
はなはだだら~んとした国歌を歌っても、
国家生成の零度になんか戻れるはずはないし、
いつもどこかに被害者意識と諸外国への劣等意識を
抱えながら、裏声で「君があよ~」なんてやってもな。




うーん。


やっぱり、勝てるわけないじゃないか。


スポーツも、戦争も、政治も。

麻婆豆腐だぜ2013/3/21

 ヨシムラ君が来るというので、
なんか作っておこうとおもい、麻婆豆腐をつくる。

 といっても、東急ストアにたどり着いたのが、午前11時40分。

 千葉県での仕事の帰りだと、この時間になってしまうのだ。

 彼からはメールが届いており、
彼も多忙な人生で、そちらにうかがのは12時すぎくらいで
よろしいでしょうか、という内容だった。

 ちょうどいい時間だが、
一般的な感覚だと、12時から拙宅に来て、酒をのみはじめるのは、
どうかんがえても異常だろう。

 きっと、わたしどもは、その異常の中で
暮らしているのだとおもう。

 いや、みな異常を異常ともおもわずに、
民族誌的奇習の中に生きているのかもしれない。

 と、むつかしい話はどうでもいい。

夜中のスーパーなので、にんにくの芽はなく、
しかたなく、ニラを買い、豆腐と合いびきも買い、帰宅。

 すべての材料は、冷蔵庫にある。

 豆板醤・豆鼓醤・オイスターソース・豆鼓・甜麺醤・コチジャン。

これに、わたし特製のラー油がはいる。

 漢字が読めないといけないので、すべてカタカナで表記すれば、

「トーバンジャン・トーチージャン・オイスターソース・トーチー・
テンメンジャン・コチジャン」

 すべて、肉まんに平気でダンボールを刻んでいるおとなり中国の品だ。
タクマラカン砂漠で平気で核実験をし、死の灰を日本に振りまいて、
なおかつ、おとなり北朝鮮の核実験を反対している国の品、
と、いっても同じである。

「豆板醤」も、二種類あるが、麻婆豆腐には、そら豆のものがよい。
「豆鼓」は、豆を発酵させたもので、
袋にはわけのわからぬ言語が印刷されている。
つまり、 大丈夫ですか、と言われるほど、
中国の調味料だけで作られるものなのだ。

「他国が気になってきょろきょろしている日本」のものは
なにひとつないのだ。



 麻婆豆腐は、だいたい15分あれば完成である。
帰宅して、さっさと作って、と、ちょうどヨシムラ君が来たものだから、
部屋で待っていてもらい、アツアツのを出した。


ビールを飲みながら、待っていたかれは、ひとこと。


「豆腐スープですか?」

(違ぇよ)
わたしは、心のなかでそう言った。

「辛いですよ」
肉体から発せられたのはこの一言だった。


一口、かれが口にして言ったのは、


「和風ですね」


 かれは、いまもとなりの部屋で眠っている。

鈴文2013/2/17

「おしっこしたあと、手洗った?」

「おぅ、右手だけ」

「ねぇ、そばに寄らないでくれる、汚いから」

「なんで?」

「汚いよ。石鹸で洗ってよ。せんせいの持っている
カートのとこだってもう触れない」


 鈴文に行くまえにM子とスーパーに寄ったのだが、
なにしろ、彼女は潔癖でかつ口うるさい。 

 きょうの目的は蒲田の鈴文にいくことである。

わざわざ「M子」は、T公園から来た。
なんとか公園、つまり井の頭公園、芦花公園、日比谷公園、
みな「公園」が地名に冠されるとおしゃれになるのだが、
埼玉県のT公園は、
それにどうもカテゴライズされてないみたいだ。


 蒲田の鈴文は、M子一家がよくいく店で、
その味はお墨付きというので、楽しみである。

 しかし、蒲田という大田区の場末の街は、
一方通行と猥雑な道路で駐車もままならず、
けっきょくナビで近所まで行って、
ランダムな気持ちでコインパーキングに入れることにした。


 ただ、このふたりは、いちど、
銀座のデパートから車に戻るまで、
弥次さん喜多さんよろしく四苦八苦し、
お互いを罵倒しつつの小旅行を経験しているので、
もしや、という気持ちもあったが、
とにかく、鈴文に行きたい気持ちが優先し、
だいたいの方角に歩き出した。


「わかるのか、場所」

「え。わからないよ」

「だって、何度も来てんだろ」

「忘れちゃったよ、ちょっと待って」
と、彼女は携帯で場所検索をし始めた。

「あれ、4キロも先になってる」

「んなわけないじゃん。5丁目だから、このへんだぞ」

 M子は、携帯を縦にしたり横にしたり、
つまり、どっちが「北」なのか、
それさえよくわからず、スマホの中に表示されている、
小さな青い三角形を凝視している。

「だからさ、どっちに歩くかもわかんないんでしょ」

「これさぁ、アプリおかしいんだよね」

このとき、わたしはアプリがおかしいんではなく、
M子の脳味噌がおかしいんだと確信していた。

「待てよ、おれもやってみるから」
と、わたしは鈴文をネットで検索し、
地図をタップし、歩きますマークのようなものをまたタップし、
その方角に従った。

生まれてはじめてナビウォークというものを
使ったのである。すばらしい!



M子は、面倒だっていうんでそぼ降る雨の中、
傘を車に置いてきた。
しかたなく、わたしの折り畳みにふたりは入ることになる。

「いいよ、濡れてもへいきだから」と、
言いつつも、彼女はしっかりと傘に頭だけ突っ込んでくる。


きっと、あの後、石鹸で手を洗ったから、
そばに寄ることができたのだろう。


鈴文は、歩き出して20分くらいかかってようやく
見つけ出した。

白木のカウンターに10席ほどのとんかつ屋である。
(奥にテーブル席があった)


鎌倉時代から生きている、とんかつ一筋のような
店主が不愛想に「いらっしゃい」と声をかける。

店内は、数名の客。ほとんどピールやワインなど、
酒が出ている。

わたしたちは、「特ロースかつ」を頼んだ。
2100円也。


どうも、歳を取り出してから、小水が近くなり、
トイレを拝借。と、そこには石鹸がなかった。

これは、M子にはけっして言えない事況である。

とんかつが揚がるまで、店主は、
いちども箸でかき回したり、ひっくり返したりしない。

じっと油に目を落としているだけだ。

まるで水琴窟の音に目をつむるように、
さながら香道の極意を極めたように、
彼は、とんかつが揚がる音をただ見ている、と言った感じである。

そうなのだ。音を見ているのだ。


しばらくして、300グラムの特大とんかつは、
まな板に乗せられ、包丁でさくさくと切られることになる。

まな板は、ちょうどわたしたちの目の前である。

切る前にいちいち、油に包丁をつけて、
それからさくっと切る。

と、中がまだ赤い。半生である。

だが、店主は、ひとつも表情も変えず、「お待ち」と言って
われわれにそれを手渡した。

と、どうだ。さっきまで赤かった肉が、
しだいに揚がってきているのだ。


つまり、鈴文は、「ぎりぎり」の揚げ方で、
客に提供しているのである。

この「ぎりぎり」はおそらく名人でしかなしえない
偉業なのだろうとさえおもった。

だから、とうぜん味は至高である。厚いのにやわらかい。
となりでソースをべちゃべちゃつけているM子を
横眼で見ながら、わたしは和からしだけで食した。


やはり、ここでもおなか一杯、胸●っぱいで、
店を後にする。

が、御多分に漏れず、珍道中がはじまるのだ。

「ね。どうやって帰るの?」

「え。なんとかなるだろ、お前ちゃんとしろよ」

「せんせい、大人でしょ。しっかりしてよ」

「お前だって、もう大人でしょ」

「こういうときは、大人がしっかりするんでしょ」

うるせぇなぁ、頭小突くぞ、いいのか、手洗ってないけど。

祥子に連絡2013/2/16

どこに送信しても届きません。

悪いな。

お茶をする2013/2/8

港区白金台。
白金台の駅から2分ほどの並木道の中ほどに
「レトルダムール グランメゾン白金」はある。
 
 その界隈では、有名なケーキ屋だ。
「LETTRE D’ AMOUR(レトルダムール)」とは
フランス語で「ラブレター」の意味で、
パティシエの心意気が込められているという。

 インチキフランス語しか知らないわたしには、
「レトルダムール」が「ボン・ジュール」の次に覚えたホンモノのフランス語かもしれない。


「モンペ ト クワ」(農業)
「シッポマデ ア〜ン」(たい焼き)
「ジュッテ・モッタ?」(捕物)
「マダ・モタ〜ン」(捕物その2)
「シャセイ・ジュセイ」(妊娠)


と、こんなものがいままでのわたしの知識である。


文月さんとも真紀さんとも、あやかとも、
この店でお茶をして、上質な時を過ごしたこともあったが、
きょうは、ナナコとナナコの母をつれてきた。

ナナコが大井町というちょっと薄汚れた街のデパートで
チョコレートを買い占めていたのを拾って、
ここまで来たのだ。

われわれは目黒で金垣さんの見舞いの帰りだった。

ナナコもナナコの母も二階にあがるのは
はじめてらしく、きょろきょろしている。

店内は、シロガネーゼの主婦たちでいっぱいだ。

そう広くはない店だが、
外苑西通りの、風で揺れる木々が窓越しにみえて明るい。

わたしは「カネガネーゼ」なのだが、
奮発して、全員にケーキセットを注文した。

ほどなくケーキ登場。

白い皿のちょうど真ん中にちょこんと行儀よく
しかし、あくまで誇らしげに、
そのまわりを、さらさらの砂糖が飾り、
まるで王妃の初夜のようなおもむきでケーキは置かれていた。


ここで、真紀さんなら写メを撮って、
これよって見せるのだが、わたしにそんな技術はない。

想像してもらうしかないのだ。


ナナコの母は、数秒でアイスティーを飲み干し、
王妃を数分でたいらげ、ナナコは、それを横目で見ながら、
時間を楽しむようにケーキにフォークを入れている。


40分間のティータイムを終え、われわれは階下に降りると、
すでに、母はバケットにいくつかの菓子を入れている。

フォンダンショコラも4個入りを買っている。

だが、ナナコの母は一銭も金を持ってきていない。
すべて、わたしの財布から「お足」は出て行くのだ。

すぐに出ていくものだから「お足」と言った、
むかしのひとの語彙感覚に敬意は評したいのだが、
なにしろ「カネノネーゼ」にはつらい。

けっきょく6000円くらい払わされ、
われわれは車にもどった。


「日常品じゃない、こういうのがいちばんうれしいね」
と、母が言った。

「ま、ぜいたくだよね」
と、娘はぼそりと。

「フォンダンショコラは4つ買ったんだろ」
と、わたしが訊くと妻は
「そーだよ」と答えた。


おれの分がまた入っていない・・・


外苑西通りの坂を少し下ったとろこに
車を停めていたので
われわれはしばらく歩かなければならない。
日差しはあっても冬の風は冷たかった。


この坂を降りて右にまがると、「アザブジューバン」である。

菜箸・あれこれ2013/2/4

 さいきん、ティッシュペーパーがばかに廉価になったきがする。
ま、どこぞの王子が100億円使い込んだり、
そいつは、80億円を借財したりで、製紙業界は景気がよさそうだが。

たしか、懲役4年の実刑がでたはず。

(それで4年なら、内柴の5年は重すぎするきもするが)


さてさて、ティッシュペーパーだが、
いま、ほとんどが5個セットで売っている。
ありがたいことに、おんなじ材質(ビニール)で
持つところまでが付着していて、便利だ。

たしかに便利なのだが、いざ、
ひと箱を取ろうとすると、あの全体を覆っているビニールを
どうやってとっていいものか。
けっきょくホッケーマスクのジェイソンのように
めちゃくちゃに掻きむしるように剥がしている。

わたしは、ああいうところに、ささやかな悪意を
感じてしまうのだが、被害妄想か。

CDなどを購入しても、似たようなラップに包まれていて、
たしかに、ここから剥きなさいのようにはなっているが、
うまくいった試しがない。

これも、けっきょくハサミの先でツーッって傷つけて
剥いている。
これは、「羊たちの沈黙」の犯人の皮剥きに似ている。

どうも世の中には、
「必要以上の過剰なもの」で溢れているのではないかと、
つくづくおもってしまうのだ。


料理にかかけないのが菜箸。

わたしは、あの菜箸の長さが好きである。
長い箸で料理を盛り付けるときの快感は筆舌につくしがたい。

だから、わたしの店では菜箸はとことん長いものを
使っているが、若い店長はそれを使いこなせない。
(かれは、ことごとくわたしの命令に忠実ではないのだ)


3、40センチくらいの菜箸は
おそらく盛り付ける仕草を美しいものにしていよう。
だが、しかし、廉価な菜箸なので、
箸の頭に細いタコ糸がついていて、あれの意味がわからないのだ。

箸に穴までついていて二本がつながっているので、
わざわざブチって切るのも忍びないし、
なにかをつまもうとすると、あれ以上箸が広がらないので、
掴みづらいときもままある。


帯に短し、たすきに長し、
しかし、どうしても必要かと言われれば、そうでもないし、
ヤクザくらいの必要悪か、といえばそんな大袈裟なものでもない。


じゃ、あの菜箸についてくる紐はなんなのだ。

切ればいいのか。

切って自由に使ったとき、あの菜箸の頭にあいている
小さな穴をどうすればいいのだ。

なにかであるはずのものをわざわざ壊して、
その残骸だけを残すなんて、
平和主義のにんげんにはつらいことなのだ。


だから、いつもは、菜箸はそのまま使って、
しぜんに切れたときは、しぜんにまかせて、
そのまま使っているのだが、
そんな消極的な生き方を、わたしはしたくないのだ。


と言って、13日の金曜日の犯人みたいに、
アナーキーな破壊行為をしたいともおもわない。


どうすればいい。

よい参考書2013/2/1
「小論文の書き方」


 
そんな参考書が山ほど出ている。

「小論文」とは謎である。

「小論文」とは、大学や企業が課するひとつの考査手段なのだろうが、
はたして、査定する側はそれを査定するだけの能力があるのかどうか、それすら、わからない。

そもそも、なにを基準にしているのかも、きっと、千差万別の気がする。


「小論文」という領域が誕生したことにより、それに乗っかって、後続したところもあろう。

そんなところに、歴然とした基準などないはずだ。



ほんとに謎だらけなのだ。




 で、首をかしげながら参考書を見る。

と言ってもわたしは、ひとの本を読むのが苦手なんで、斜め読みなのだが、


おおよそ、どの本も、まずは、結論。

そしてその結論に寄り添って、
「その理由は」とくる。


「理由、その一」「理由その二」、
そこに、卑近な具体例でもあればなおのことよし、
それが、滞りなく説明し終えると、「だから」と、冒頭にあった結論をもういちど、
最終章に配置して、「はい、出来上がり」と、ま、こうなっているようだ。


つまり、結論を冒頭と末尾に据える、
いわゆる「双括式」の文体を推奨している。


起承転結で言えば、
「起」と「結」が同文になるという構図である。



な、はずないじゃん。


わたしは、ここ25年大学入試の評論を見てきたが、双括式の文体なんか
いちども見ていない。


双括式の文章をよくやるのは、本居宣長くらいなもんだ。
あの人は江戸のひとだからね。


やはり、専門家は尾括式の文体を採用するものである。
結論は末尾箇所。


だから、書くときはまず結論を頭におもいうかべ、
そして本論を頭にうかべ
(頭の中でチャート図ができていなくてはならないが)
そして冒頭は、すこしゆるい話からはじめるものなのだ。

それを「まくら」と呼んでいる。
落語でも、評論でも、小論文でも、この「まくら」がだいじである。

「さいきん、景気がよくありませんわね。
だから、ケチなひとも多くなりましてな」
なんて、話からはじめ、
「与太、となりの旦那から金槌借りてこい」
「へぇ〜い」「ごめんくだいな」
「なんだい、与太か。どうした」
「へぇ、なんでもうちの旦那さまがお宅から金槌を借りてこいって
そう言うもんですから」
「ほぅ、金槌。なにに使うんだ」
「金槌っすから、たぶん釘の頭でも打つんじゃないでしょうか」
「ああ、そうすると金槌が減りますな、
それはお貸しできませんわな」
「さよですか、ほな、さいなら」
「おぉ、与太どうだった」
「はい、なんでも金槌の頭が減るって貸してくださいませんでした」
「なんていうケチなお方だろうね。しかたない、うちのを使おう」

なんて、ま、長い「まくら」があって、それから、
本論につなぐ、フレーズを考えるのだ。

つまり、「まくら」「本論につながるフレーズ」「本論」「結論」と
こういう構成になる。で、
これが、結果的に起承転結のすっきりした文章になっている、
というものなのである。


だが、そんなことを書いてある参考書はたぶん皆無だろう。


みんな双括式の、ステレオタイプの「だれでもいっしょ」の間違いで、
教わっているのだ。


そもそも、参考書に「よいもの」があるはずがない。

それに、ほとんどのひとが気づいていない。


高校野球といえば、横浜高校。

あそこのピッチングコーチはプロからこっそり伝授されたものを
高校生に教え込んでいる。だから、牽制なんかプロ並みなのだ。
松坂が西武に入団したとき、
「すでに、お前には教えることはなにもない」と、
プロのスタッフに言わしめたほど、横浜高校は
間然するところがないのだ。

で、その教授法を野球の教本として売り出したとする。
「わたしは、こうして松坂を育てた」なんて
タイトルで。

まず、ほとんどの野球関係者は買うだろう。
へたすれば、ミリオンセラーになるかもしれない。

が、その内容が人口にカイシャしたとき、
すべての高校野球が、横浜高校野球になっているのである。


ね。だから、そんな参考書書くはずないでしょ。

それとおんなじように、予備校の先生が、
じぶんの根幹となる教授法を、参考書に書くはずはないのだ。

つまり、参考書とは、もっとも急所のところが脱落している指導書ということになるのである。


それを盲信して買い込んで、せっせと勉学にいそしんでいる生徒をみると、
なんだかせつなくもなるものだ。


参考書の使い方のもっとも正しい方法論は、
「なにが書いてあるかではなく、なにが書いていないのか」を探ることなのだ。


きっと、小論文の書き方を書いている先生は、教壇では、
ちがう教え方をしているのに違いない。

そしてこんなことを言っているかもしれない。


「小論文は謎です」
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