イトコ義経、蝦夷地のアヤシイ伝説を追え!
CHASING THE LEGEND OF YOSHITSUNE!!
【其の一】奥州藤原氏と蝦夷の交流
1051年から9年間に及んで繰り広げられた、前九年の役で、
安倍頼時と源頼義が合戦、阿倍一族は滅亡。その時、初代奥州藤原氏である
清衡はまだ幼少で、父藤原経清は、阿倍一族に荷担していた為斬首となったが、母が
源に荷担していた武将清原氏と再婚したため処刑の難を逃れる。
その後、1083年後三年の役が勃発、清原氏は滅亡。清衡は、
藤原姓を復活させ、奥州一帯を統治する様になる。
その後、奥州藤原氏は、基衡・秀衡・泰衡と代を重ねていくのであるが、
その中でも秀衡の時代は、対外貿易や仏像建築などが盛んに行われ、もっとも華やかな
ものであった。この秀衡に義経が深く関わりを持つようになるのは、1174年。
義経16歳の時である。
奥州藤原氏が、蝦夷地や諸外国と交流をもっていたという事象は、「東日流外三郡誌」
によると、
■寿永元年(1182年):十三浦築堤
■寿永二年(1183年):木曾義仲京没す
■寿永三年(1184年):源義経、義仲を誅す
■文治元年(1185年):平氏壇の浦に滅亡す
■文治二年(1186年):藤原秀栄(秀衡の弟)十三福島城に君臨す
■文治二年(1186年):此の年唐船十六度十三港に交易す
■文治五年(1189年):義経、平泉を脱して、十三領三馬屋より唐船で長安に遁世す。
といった具合に、藤原秀栄によって、奥州藤原氏と蝦夷地の交流は図られていた様子。
また、「十三落人記」に、次の記述がある。
東日流国は落人の招地なり。天下乱れし落人の多きは長骸彦敗落以来左(下)の如し。
阿倍頼時一族……800人
平泉藤原一族……200人
赤間関平氏一族…600人
判官義経一族……30人
(以下略)
東日流落人の中には、幕府より追る罪人亦は島破り等も亦多し、是等は地民に迷惑
せるに及び、外三郡安東氏、内三郡平氏能く是をぎんみせり。
奥州藤原氏の東北・蝦夷での権威なくして、義経遁世伝説は生まれ得なかったと、
思わずにはいられない。
などと申しておるものの、実は、「東日流国」の意味を知らなかったりするから、イケテナイ(爆汗)。
そこまで調べている時間が無かったし、今また改めて調べると行っても、どうすればいいのか
解かりません。どなたか、教えて下さい。
【其の弐】古典等の文献に残る義経北上記述
「義経死せず。匿れて蝦夷に在り」(日本外史 巻の二)
こんな噂は、文献のあちこちで見られるわりに、どれも確証的でないのはなぜだろう…。
■読史余論 第一巻■
世に伝ふ。此時義経死なずと。思ふに忠衡がもとにのがれしなるべし。
かつ、義経巳に自殺して館に火をはなちしともいう歟。泰衡が献ぜし首真なるには
あらじ。(中略)今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。又、夷人飲食に必まつる。
そのいはゆるヲキクルミといふは即義経の事にて、義経のちには奥へゆきし
などいひ伝へしともいふ也。
「東日流外三郡誌」にも、それをにおわせるような記述があるのは、前段でご紹介
したとおりである。
また、「蝦夷でもどこでもいいから、何とか遁れたいよ〜」などという、少々ナサケナイ
やり取りも、文献に残っている(??)
■応永書写 延慶本 平家物語 十一の卅■
文治元年五月。大臣殿何にしても宗盛父子が命申請給へ、法師に成て心閑に念仏
申て後生助からんと宣へば、御命計はさりもとこそ存候へ、定奥の方へそ渡し奉らえ
候わんすらん。義経か勲功の賞には両所の御命を申請候へしと憑けに被申ければ、
大臣殿よにうれしけにおほして、さるに付けても御涙を流給、
何あるあくろっつかろつほの石ふみ夷か栖なる千島なりとも、甲斐なき命たにも
あらはと思給そせめてもの事とおほへて糸惜き。
同様記述が下記の通りズラリ。
■平家物語 巻第十一
■ハビヤン抄 キリシタン版 平家物語 巻第四の第二十一
■源平盛衰記 巻第四十五の一
■源平軍物語 巻第15
■平家物語 長門本 巻第十八
■平家物語 真字熱田本 巻十一
義経が「この際、蝦夷でもどこでもいいから、なんとかお慈悲を!」みたいな事を
言ったの言わないのというカンジだろうか…。なんにせよ、蝦夷地は当時から
わけのわからない未開拓地ではなかったことは、どうやら確かなようである。
【其の参】民間伝承としての『義経物語』
アイヌの人は、義経を「オキキリマイ」、
弁慶を「ポイヤウンベ」と、呼んだらしい………(爆汗)
読史余論 第一巻では、義経は「オキクルミ」と呼ばれているが、これは
少しチガウ、と、永田方正という方は論じている。
ドウやら、義経はアイヌ人の中では「神」としてたたえてもらっていた様子。
江戸時代の物語であるらしい、松浦竹四郎という人の「蝦夷話」。これに、輝かしくも
ウサンクサイ義経伝承が。
なんでも、アイヌの人というのは、武器を無上の賓品と考えていたらしく、それと
同じ名前で相手を呼んだりするのは、最敬礼に値するらしく、それからいえば、
この義経や弁慶に付けられた名前は、当時のアイヌの武器と同じっぽいので、
恐らく神として崇められたのであろう、という事らしい。
永田方正氏が、「オキクルミ」をチガウとおっしゃる原因はそこらへんにあるらしく、
「オキクルミ」は、武器の名前では無いらしいが……。
実際、北海道には、こじつけとも言えない事はないのだろうが、義経や弁慶に
まつわる岩だの石だのがあちこちに存在する。
●江差のかもめ島・弁慶の足跡
●スツヅの、弁慶の角力場
●雷田岬の、弁慶の刀掛岩
●斜里と知床の間にある、義経の鯨焼岩
などなど。
北海道最古の神社と言われる船魂神社は、今や海の守り神として、
函館の領海を見守り続け、船乗りから厚い信仰をうけているが、ここにも、二つほど
義経伝説が残されている。
《1》義経一行が本州から脱出してきた際に(1190年)、大シケが発生、
あわや転覆という義経一行の危機を救ったのが、この船魂さまであったという伝説。
《2》そうして何とか命を取り留めた義経、今度は水がほしくてほしくてしょうがなくなる。
そんな時、童子神が現れて、「あっち」と指差す方向を見ると、あれ不思議、水が
湧いて出てきた…という伝説。
これらの伝説は、あまりアイヌ民族との関わりを感じるものではないし、いかにも
神社の伝説といった内容なので、事象の信憑性はかなり低いものの、義経が
蝦夷に渡って来たという前提で作られている部分は大変興味深いものである。
永田方正氏は、アイヌ民族の歴史から義経が蝦夷へ上陸した事実を究明するような
論文を発表されているが、書かれたのが明治44年。正直ワタクシには、難解
極まりない文書だった為、せっかくの説明も理解できずじまい。
でも、コレは理解できたナリよ↓。
■義経蝦夷勲功記■(□部分は文字不明)
それ童子の堂下に戯れ遊ぶも甲冑とよろひ太刀を反し手に弓矢を取る形をなして
いはく我は清和天皇の後胤九郎判官みなもとの義経なり弁慶強しといへど相手に
足ずイザ来れ我手並を見よと罵ること世の常なり。□□□□義経公衣川にて
うちじにと聞くに至っては童子な□くも楽ざる色あり抑々義経公の英勇は唯山を
抜き鬼を挫ぐのみにあらぞ何ぞむなしく衣川の館にて亡び給はんや僕奥州に
遊歴の折うら義経公の事実を聞きかつ蝦夷地へ渡海の事を志るせる書を見たり
今其書にもとつきて蛇足に似たりといへどもぎぐるみ大明神の智謀威光
弁慶海存亀井鷲尾の勇士達の忠勇義烈のほどをかきあらはして児童の勇気を
はげます為にすといふ。
嘉永六癸丑陽春
永楽舎一水述
おおざっぱに言えば、コドモのヒーロー義経が、あんなに強いのに衣川でころっと
死んじゃう最期は、なんか、納得できないよな、つまんないよな、などと申す
子供たちに、義経は実は生きていて、蝦夷へ遁れたんだよ!と、義経その後の武勇伝
を書けば、コドモはきっと勇気を掻き立てられる事だろう!
という意味なのですが、蛇足っていうのが、けっこう気に入ったポイント。
さて、物語のあらすじですが。(爆汗)もんですぜ。
文治5年5月11日、この国(蝦夷)に着岸し、建久5年5月に蝦夷地統一。
この間、蝦夷の先住人たちとのいざこざや、追手との激戦が繰り広げられている。
さいごには、蝦夷のアイヌのボスになり、大王と呼ばれる義経。
ボスにふさわしいおなごをドーゾと、秀蘭、秀花、清林という美女三人から
さあ選んでちょうだいと、まさに据膳状態。
迷った義経は、「えー、どこ子も美人だなあ〜、じゃ、とりあえず、
踊ってみて」と、品定めに入る。
結局、秀花を北の方にして、残り二人も妾妃として、末永く寵愛
されたとさ。
しかし、北の方ってあなた、久我姫君は、どうしだんだ?!と、ちょっとツッコミ
入れたくなるような結末ではありますが、この物語を読んで、
当時の児童の勇気をはげますことに、なったのか、ドウか。
【其の四】雑感
実に面白かった。
もう少し、ちゃんと計画していれば、いろいろ深く調べる事もデキタかも知れないが、
本命義仲の私としては、こんなもんで、とりあえず楽しめた。
東北一帯における奥州藤原氏の威力は、思っていた以上に計り知れないものがあった。
特に秀衡は、弟秀栄と共に、奥州開発に尽力し、各地で支持を集めていた様子。
そんな秀衡様がかくまう義経である。地元ではやはり何かと噂の的になったに
違いない。
蝦夷へ逃れてでも、生き延びていて欲しいと願う奥州人のキモチが、発見されない
義経の首とともに、アヤシゲナ伝承を生んだのかもしれない。それが、蝦夷と交流の
盛んな地域で語り継がれ、北海道内に各種縁の場所が存在するようになったのかもしれない。
それにしても、奥州藤原氏が、蝦夷に対してそれだけ航路を開き交流を深めていたからこそ
流れ出た伝説であると考えると、心底おったまげたものである。
しかし、義経よりも、弁慶の方が、どこへ行っても人気者なのは、何故だろう。
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