前回紹介したような食品で起こった死亡事件の根本原因は、いったい何だったのでしょう?
劣悪な製造が続けられていた背景
“第二の事件”でスープの缶詰をほんの少し食べたサミュエル氏が亡くなった原因は、缶詰の中に発生していたボツリヌス菌がボツリヌス毒素を出していたとことでした。では、どうしてボツリヌス菌がそんなに増殖してしまったのでしょうか?
米国には米国食品医薬品局(FDA)があり、そこから派遣されるインスペクター(検査官)が各種の工場を監視する役目を持っていました。ところが死亡事故を起こしたボン・ヴィヴァントの工場は、1967年から事件の起こる1971年まで、なんと4年間も工場へのチェックがまったく実施されていなかったのです。調査が進むことによって次のようなこともわかってきました。
検査が行われない間に同社の工場の管理レベルはどんどん低下していきました。たとえば、同社が製造するスパゲッティソースの缶詰のなんと50%以上がシール不良で膨張したり液漏れを起こしたりしていたことがわかったのです。缶詰は完全密封することによって細菌の増殖を防止します。しかし、シール不良によって缶内部に微量でも空気が侵入すれば増殖を助長します。このようなことを起こすことは、食品工場としてはあってはならないことだったのは言うまでもありません。
さらに、もっと悪いことに、中の食品が十分に加熱調理されていなかったことも判明しました。食品が十分に加熱されていないと細菌は食品内部に残ります。時間が経つにつれて、それらはどんどん増殖し、毒素を出し続けます。加えて、その食品が調理された温度もまったく記録されていませんでした。だから、その製品が安全であるかどうかはまったく予想もつかない状態だったのです。
とくに、この事件の原因となったボツリヌス菌は嫌気性(酸素を嫌う)で、しかも高温でもなかなか死なないという性質を持っています。ですから、缶詰でこれによる食中毒事故を防ぐには、特別な高温を一定時間以上保つという手順が必要だったのです。しかし、この工場の管理レベルでは、それは望むべくもない状況でした。
実はボン・ヴィヴァントのこの問題については、同社工場に缶詰のシール(封印)機械を納入しているアメリカン・キャン・カンパニーが1962年にその状況を把握しており、殺菌温度が低いことを永年にわたって継続的に指摘し続けてきたのでした。しかし、機械納入業者が顧客企業に是正を強制することはできません。ボン・ヴィヴァントはその貴重な忠告をずっと無視し続けてきたのでした。その結果が、消費者が死亡する事件となったのです。
いいえ。是正を強制できる機関はありました。ボン・ヴィヴァントの工場の劣悪な管理が明らかになると、本来、食品工場を管理監督する役割を担っていたFDAは何をしていたのかということが問われることになったのです。ニュージャージー州のこの缶詰工場への立ち入り検査は4年間実施されていなかったと記しましたが、他の州の工場では10年間もまったく管理監督なしに製造をしていたというさらにひどい例があることもわかったのです。
ヒト・モノ・カネの手当てが不足していました。当時、FDAのインスペクターはたった250名しかいなかった上に、すべての食品工場を定期的に検査するための予算も用意されていなかったのです。つまり、行政自体が食品の安全に十分な配慮をしていなかったことが明らかになったのです。
宇宙開発競争に勝つ要となった宇宙食
人命が失われるという大きな事件がきっかけとなって、米国の食品製造の体制が根本から見直されることになりました。まず、行政の予算が見直されます。1971年には、FDAのインスペクターは6倍の1,500名増員され、それまで1,800万ドルしかなかった予算が8,500万ドルに増加されたのです。
また、前回書いたように、ピルズベリーの食品安全の取り組みがFDAに認められ、民間が国の管理監督機関を指導するという取り組みに発展することになったのです。
では、それに至る経過をちょっと振り返ってみましょう。それには、いったん1950年代の後半まで遡る必要があります。
今ではそんなに不思議にも思わない光景――宇宙飛行士が宇宙空間でプカプカと浮いている映像。しかし、1950年代の末期から1960年代にかけての状況はまったく違っていたのです。
第二次世界大戦終結後、米国とソビエト連邦は2つの巨大国家となっていきました。そして、米国は自由主義国家の盟主として、ソビエト連邦は社会主義あるいは共産主義国家の盟主として世界を2分し、対立するようになっていったのです。それで表立った戦争(熱い戦争)はしないものの、冷たい対立となったので「冷戦時代」と呼んでいました。
そんな時代の1957年10月、ソビエト連邦が人類史上初めての人工衛星スプートニク1号を地球軌道に乗せることに成功しました。米国は、これによって自国の安全保障が脅かされていることを知ることになりました。人工衛星の技術は大陸間弾道ミサイルの技術と表裏一体だからです。ここから米ソの宇宙開発競争が激化します。
遅れを知った米国はその後緊急に開発を進め、約4カ月に人工衛星の打ち上げに成功してその面目を保ちます。そして、その宇宙開発を継続させるためアイゼンハワー大統領は1958年7月に米航空宇宙局(NASA)を発足させました。さらに、人工衛星を打ち上げるだけでなく、人間を宇宙空間に送り出すことでソ連に水をあけるという大きなプロジェクトに発展していきました。
さて、無人の人工衛星と有人の宇宙船とで最も異なるのは、そこに食べ物が必要かどうかです。この、いちばんの要(かなめ)になる部分の技術開発に携わったのが、1872年設立の米国では老舗と言える食品メーカーのピルズベリーだったのです。
1959年、米軍からという形でピルズベリーのボーマン博士に、同社が宇宙食を製造するのに興味がないかとの打診がありました。博士はいろいろと検討した結果、この申し出を受けることにしたのです。
「失敗モード」をつぶすというアイデア
具体的な仕事は、2人の宇宙飛行士を宇宙に送るNASAのジェミニ計画から始まります。この計画では、宇宙飛行士が食べるキューブ(立方体)状の食品の開発がリクエストされました。これにはいくつかの制約がありました。まず、食品がボロボロと崩れてはならないということ。無重量の宇宙船内でそんなことが起これば、機器類を傷めたり、空気を汚したりしてしまいます。加えて重要なことは、宇宙飛行士がそれらの食品を食べて健康に問題を生ずることがあってはならないというものでした。
最初、ボーマン博士は、それは無理だと応えました。地球上の食べ物を加工して100%安全なものを製造することなど不可能であると博士はNASAに報告したのです。また、その当時のどのような品質管理を適用しても、完全に問題のない食品の製造はできないと伝達したのです。たとえば、加熱調理した食品でも、通常はそれがまったく無菌であるとは言えないものです。
しかしNASAは「宇宙飛行士が宇宙空間に行ったときに、もし食品の中にほんの少しの細菌がいたとしても、飛行士の体調によってそれが重病につながることがあるかもしれない。だから完全に問題のない食品を製造しなければならない」と主張して譲りません。
そこでボーマン博士は「失敗モード」(mode of failure/故障モード)という概念を採用することにしました。それは、使用する食品原料が扱われるときに「食品の中に細菌を入れてしまう失敗をするところはどこなのか」を見つけるという考え方でした。この方法論自体は1940年代にアメリカ陸軍で導入されたと言われていますが、ボーマン博士はこの考え方を食品製造に適用したのです。もちろん、対象は細菌だけにとどまりません――「病原細菌、重金属、危険な化学薬品、あるいは物理的な危険物などが潜在的に発生したり混入したりするところはどこなのか」を事前に考えておくという方法なのです。この「失敗モード」がどこなのかを明らかにし、それを取り除けば、安全な食品ができるという考えにたどり着いたのです。その結果、すべての病原細菌はゼロにして、一般生菌を10,000/g以下とすることをNASAは実現しました。
それまでの米国の食品業界に細菌の基準というものはありませんでした。しかし、NASAに出荷する食品製造会社には、製造前と製造中の細菌検査が義務付けられるようになったのです。また、製造工程についても、場内の温度管理と湿度管理は確実に実施されるように指導されるようになりました。それだけでなく、一部の食品については、ジェミニ宇宙船を製造するマクドネル・エアクラフト・コーポレーションの環境基準と同一のクリーンルーム(クラス100:落下菌12.9/㎡)の環境で造られることも要求されるようになったのです。
これらの成果から、ピルズベリーのボーマン博士は宇宙食品製造の第一人者として認められるようになりました。
そして、NASAのこの取り組みが、米国の食品安全の考え方の基盤となっていくのです。