1517年、ルターがヴィッテンベルク城の教会に「九五か条の提題」を貼り出し、宗教改革がはじまったとされています。
 そんな記念すべき出来事から500周年の年に、ルターから生まれた「プロテスタンティズム」について書かれたのがこの本です。

 ただし、この本は必ずしも宗教改革だけに焦点を当てた本ではありません。また、ルターやカルヴァンの思想に焦点を当てた本でもありません。プロテスタンティズムがどのような政治的・社会的コンテクストの中で生まれ、そのプロテスタンティズムがどのようにその後の政治や社会に影響を与えていったのかということが、この本の中心的テーマになります。
 ある程度大胆にキリスト教の中にプロテスタンティズムを位置づけ、プロテスタンティズムのその後の展開と政治や社会との関係を描き出す筆致は非常に刺激的で、政治学や社会学に興味のある人にも非常に面白く読めると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 中世キリスト教世界と改革前夜
第2章 ハンマーの音は聞こえたのか
第3章 神聖ローマ帝国のリフォーム
第4章 宗教改革の終わり?
第5章 改革の改革へ
第6章 保守主義としてのプロテスタンティズム
第7章 リベラリズムとしてのプロテスタンティズム
終章 未完のプロジェクトとして

  第1章ではルターが現れるまでのヨーロッパのキリスト教の状況を大胆に説明しています。
 キリスト教は地中海世界で誕生したものでありヨーロッパ由来のものではありませんが、例えば聖人信仰などによって多神教的な要素を取り入れながらヨーロッパに浸透していきます。
 この過程でヨーロッパのキリスト教化とともにキリスト教のヨーロッパ化も起こりました。クリスマスにもみの木を飾ったり、死者の魂が帰ってくるハロウィンを祝うようになったことはその一例です(5p)。

 中世においてキリスト教はヨーロッパにおいて確固たる地位を確立するわけですが、著者はその理由として中世の人々が直面していた「死」の問題に、明確な答えを、しかも言葉だけではなく天国の絵などのビジュアルを用いて提供したことだとし、続けて次のように書いています。
 教会は天国とそこにいたる通路を支配した。教会は「あの世」というきわめて宗教的な問題を取り扱っているのだが、実際には「この世」を支配した。なぜなら人は必ず死ぬからである。(8-9p)

 そこで問題となったのが天国に行くための具体的な手段です。初期のキリスト教では死の間際の洗礼によって原罪が取り除かれるようになっていましたが、中世になると洗礼は生まれた直後に行われるようになるため、それに代わって罪を告白する懺悔などがさかんになります。
 しかし、罪を犯した後、懺悔をする前に死んでしまったらどうするか、といった不安は尽きません。そこで、罪に対する罰を聖職者が肩代わりするというしくみが生まれ、さらにその肩代わりの証拠を贖宥状として売り出したのです。
 そして、この贖宥状を「自らの裁量によって発行できたのがローマ教皇で、それがもっとも消費され、ローマに莫大な収益をもたらした市場が神聖ローマ帝国」(16p)、つまりドイツでした。

 1517年10月31日、ルターがヴィッテンベルク城の教会に「九五か条の提題」を貼り出したことによって「宗教改革」が始まったとされていますが、そもそもヴィッテンベルク城の教会に「九五か条の提題」を貼り出したというのが事実がどうかはよくわかっていませんし、ルターが目指したのも改革というよりは教会のリフォームでした。
 彼はあくまでも贖宥状のおかしさについて討論を呼びかけただけだったのです。

 しかし、この呼びかけは次第に大きな問題となっていきます。
 「ルターの支持者は誰だったのか?」という問題に関しては、都市の住人、読書階級、農民などのさまざまな主体が想定されてきましたが、いまだに決め手はないそうです(37ー39p)。
 しかし、当時の神聖ローマ帝国内では、諸侯がバチカンに賄賂を送って利権のある聖職者の地位につこうとするなど(32ー33p)、神聖ローマ帝国内にはさまざまな問題が山積していました。
 翻ればルターの批判は、神聖ローマ帝国に対して山の向こうから政治的に関わり、巨額の富も得ているバチカンの影響力が強い現在の社会システムと縁を切るための絶好の機会をもたらすものでもあった。そのため、ルターの主張は、都市部の商人、諸侯たち、またドイツの騎士などには早くから理解され。(36p *原文は「され。」で終わっているけど、「た」が脱字か?)

 第3章のタイトルが「神聖ローマ帝国のリフォーム」となっているのにはそうした理由があります。
 バチカンはルターの告発に対応するために、ドミニコ会の神学者シルヴェストロ・マッツオィーニにこと、プリエリアスを派遣します。彼はルターを裁くために贖宥状の問題を避け、ルターが教皇を批判しているとしてルターの言動を問題にしました。
 これに対してルターが反発し、自分の立場が聖書にもとづいて異端だと示すように教皇に要求したことから、問題は教皇の権威をめぐるものへとシフトしていきます。

 ローマ教会は1520年にルターに対して「破門脅迫の大教勅」を出し、1521年1月にはルターを破門しますが、このころルターは聖書によって教皇の権威を否定する議論を行うようになっており、万人祭司の考えを固めていきます。 
 最初は贖宥状への批判と教皇への批判を結びつけていなかったルターですが、バチカンが教皇の権威の問題を争点にしたために、教皇の権威を問題とせざるを得なくなったのです(57p)。

 このルターを助けたのが神聖ローマ帝国内の政治的・経済的に反ローマの立場をとる諸侯でした。また、オスマン帝国による圧迫も神聖ローマ皇帝カール5世の行動を制約しました(64-66p)。
 
 神聖ローマ帝国内でのルター派をめぐる争いは、ルターの死後に開かれたアウグスブルクの帝国会議で一つの決着を見ます。
 この会議では領主が自らの領邦の宗教を決定できること、領主と異なる信仰を持つ者の領邦外への移住についての取り決めが行われました(80-82p)。
 ここで著者はカトリックのリフォームを目指した運動が、ルター派(アウグスブルク信仰告白派)という宗派を生み出したことに注意を向けます。
 「プロテスタント」という言葉はカトリック側がルター派を「福音主義者」という言葉で呼ぶことを避けるために使われた言葉ですが、ルター派からすると、この会議の決定によって「プロテスタント」という名において法的地位を確立したと考えたのです(86-87p)。

 1555年の「アウグスブルクの宗教和議」と呼ばれる決定によって、神聖ローマ帝国内の宗教問題については一つの妥協が成立しましたが、ルターが提起した宗教的な問題が解決したわけではありませんでした。
 また、プロテスタントはバチカンという権威から完全に切り離されることになりました。プロテスタントは、教皇の代わりに聖書をその権威としましたが、聖書という書かれた文書の解釈はさまざまです。そのため、プロテスタントはその解釈の数ごとにさまざまな分派を生み出していくことになるのです。

 この本では第4章でカルヴィニズムやアングリカンについても簡単に触れていますが、ここでは第5章の「改革の改革」を主張する新プロテスタンティズムについての議論を紹介したいと思います。

 「アウグスブルクの宗教和議」では、プロテスタントが認められたものの、信じる宗派を決定できるのは政治的支配者であり、個人がその信仰を選択することはできませんでした。これに対してバプテストやその他の洗礼主義は個人の信仰の自由を主張し、幼児洗礼も否定しました。幼児のときの洗礼は自らの主体的な選択とは言えないからです(102-105p)。

 神学者のエルンスト・トレルチは、これらのグループを「新プロテスタンティズム」と読んで区別し、近代の自由思想や人権、抵抗権、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与したと考えました(106-109p)。
 ルターやカルヴァンの改革は「一つの政治単位の支配者や制度と結びついた改革」(111p)であり、その点はカトリックと変わりませんが、「新プロテスタンティズム」は自由な教会を自発的につくり上げようとしたものなのです。

 この違いを、著者はルターやカルヴァンの「古プロテスタンティズム」を公立の学校に、「新プロテスタンティズム」を私立の学校に喩えて説明しています。
 公立学校は、税金で運営され、その地域に生まれた子どもを自動的に受け入れ、基本的に全国一律の教育を行います。一方、私立学校は教育方針に賛同する人からお金と生徒を集め、特色のある教育を行います。
 黙っていてもある程度信者が集まる「古プロテスタンティズム」と違い、「新プロテスタンティズム」においては、常に信者の獲得のために努力をしなければなりません。ここに「今日の企業家精神と似たものが芽生えてくる」(115p)のです。

 この「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」の違いが、同じくプロテスタントがマジョリティとなっているドイツとアメリカの社会の違いに影響を与えています。
 ドイツのルター派中心のプロテスタンティズムは、ドイツ統一時にルターと宗教改革がナショナル・アイデンティティとして用いられたこともあって、基本的には保守的な立場を取りました。
 ナチスの時代において、プロテスタンティズムはドイツ・ナショナリズムの高揚のために利用され、またプロテスタンティズムの側も特にナチスに対して抵抗を示すことはありませんでした。
 
 戦後においても、プロテスタントとカトリックは税務署が教会への献金を代理徴収できるなど特権的な宗教として扱われています(147-148p)。
 ドイツでは、人々がプロテスタントという宗教を選んで入信するわけではなく、地域に生まれることによって自動的にプロテスタントの信者となるというしくみになっています(150p)。
 80年代以降、信者の数は減っているといいますが、2010年代半ばより信者の減少数に歯止めがかかっています。この理由として「「ドイツ人しかいないルターの教会」に安らぎを求めている」(151-152p)という面もあるそうです。
 このような背景もあって、基本的にドイツのプロテスタンティズムは保守的です。

 一方、アメリカで中心となったのは「新プロテスタンティズム」でした。
 植民地時代のアメリカでは州政府によって公認教会が設立されたところもありましたが、「建国の父」であるトーマス・ジェファソンやジェームズ・マディソンは政治と宗教の分離や公認教会制度の廃止を主張し、その考えは合衆国憲法修正第1条に盛り込まれました。
 教会は自発的結社として自由な宗教市場の中で競争していくことになり、「国家嫌い」の風潮も生み出しました(172-173p)。
 巨大なメガチャーチが生まれてきた背景にもこうした考えやしくみがあります。
 さらに著者は世俗化した「二重予定論」(天国に行くか地獄に行くかは生まれる前に決まっているという考え)がアメリカン・ドリームに与えた影響や「アカウンタビリティ」の考えとプロテスタンティズムの考えの親近性などを指摘し、ペンテコステ運動などの新しい動きを紹介しています。 
 
 アメリカの多様な動きをみると、もはやそれはプロテスタンティズムとは言えないような気もしてきますが、著者はパウル・ティリヒのプロテスタンティズムは「自分自身に拘束されない」だという考えを引いて、「プロテスタント原理というのは、自らの宗派にも担いきれないような大きな原理であり、自己批判と自己相対化の原理なのである」(207p)とまとめています。
 
 このようにこの本はルターから現代に至るまで非常に長い射程を持ち、さらに社会や政治にまで目を配った本になります。
 ニーチェは教会の制度を批判したのであってキリスト教を批判したのではない(154p)、といった疑問を感じた点もありましたが(確かにニーチェはイエスの生き方を認めているが、イエスが贖罪のために死んだというキリスト教の根本的教義を批判していると思う)、200ページちょっとの新書のなかにこれほど「大きな絵」を描き出す著者の筆力は見事という他ないです。
 キリスト教に興味をもつ人だけでなく、広く社会や政治や歴史に興味がある人にもお薦めしたい本です。


プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで (中公新書)
深井 智朗
4121024230