赤と黒の色味だけに統一されたスローモーションの映像のなかで、クローズアップされた人体がゆっくりと破壊されていく。首筋に突き刺されたナイフが喉を貫通して反対側に出ていくが、皮膚の震えまで知覚できるほどのスローなので、喉というよりはプリンか何かにスプーンを突き刺したみたいに見える。レンガで殴られる頭、銃弾に撃ち抜かれる眉間、ナイフに突き刺される腹などの映像がひとしきり続くが、その最中に鳴っている音楽は、Stranglersの名曲、「Let Me Down Easy」である。

歴代FPSゲームへのリスペクトにあふれた、完全一人称視点のアクション・ムービーだ。

「ハードコア」は、歴代FPSゲームへのリスペクトにあふれた、完全一人称視点のアクション・ムービーだ。冒頭のタイトル映像のあとに本編が始まると、それまで鳴っていたStranglersから一転して完全に音がデッドになり、赤っぽい映像に切り替わる。ここでも、目を引く表現が用いられている。おそらくはふたつのカメラで撮影されたべつべつの映像が、奇妙な形でブレンドされているのである。

そこに研究員らしい女性があらわれて、指先で片方のカメラをつかむ。映像がくるくると回転して、正常な角度におさまる。つまり、主人公の眼球がもとの位置に収まったわけだ。このあたりで、スクリーンに映し出される映像が、すべて主人公の両目に映し出されたもの(一人称視点)であることが了解されてくる。あとにつづく手術のシーンは、主人公がふつうの人間ではなく、サイボーグのような存在であることを示す。

手術を施した女性が主人公の妻であることが明かされ、主人公に声帯をインストールするための部屋にふたりで移動した直後――だいたい五分くらい――で悪者があらわれ、ふたりを殺害しようとする。ここから、ほとんど映画の九割を占めるアクションパートが始まる。ふたりは命からがら逃げ出すのだが、けっきょく追い詰められ、戦いの混乱のなかで妻だけが誘拐される。ここからのプロットは、大切な女性を悪者の手から救うという、1985年の「スーパーマリオ」から延々と繰りかえされ続けているプリンセス救出モノの王道を辿る。

FPSへのあふれんばかりの愛

こんな言い方をするとまったく退屈そうな映画に聞こえるかもしれないが、まあ聞いてほしい。まず、主人公は「声帯をインストールされていない」という設定のために、話すことができない(FPSにおける無口な主人公の類型)。主人公の妻はきれいなアメリカン・アクセントの英語を話し、彼女を誘拐した悪者たちはロシア語を話す。主人公を追い詰める悪者たちの手から彼を救い、ともに戦ってくれる謎の男はイングリッシュ・アクセントの英語を話す。このあたりで、私はもう笑いが止まらなかった。勘の良い皆様はもうおわかりだと思うが、このあたりのフィクションの感覚は、よくあるFPSのシングルキャンペーンそっくりなのだ。断言できるが、イングリッシュ・アクセントの男は完全に「CoD: MW」シリーズの登場人物、プライス大佐へのオマージュである。

The Most Glorious Moustaches in Video Games
プライス大尉(「Call of Duty: Modern Warfare」シリーズより)
この映画を鑑賞しながら思い出したのは、ほかの映画ではなく、すべて一人称視点の名作ゲームだ。

我慢ができなくなってきたので、一気にぶちまけてしまおう。筆者がこの映画を鑑賞しながら思い出したのは、ほかの映画ではなく、すべて一人称視点の名作ゲームだ。冒頭は「Halo」、イギリス人との共闘は「Call of Duty: Modern Warfare」シリーズ。終盤近くのグレネードランチャーはあきらかに「Doom」、ゾンビめいた群衆との戦いのシーンは「Dying Light」、中盤に行われる潜入と追走シーンのパルクールは完全に「Mirror's Edge」だ。サイボーグであるというフィクションによってぎりぎりのレベルで納得できる主人公の怪物ぶりは「Wolfenstein: The New Order」、やけにリアルな人体破壊などのグロテスクな描写は「BioShock」の影響が感じられる。鑑賞中は自分がそれまでプレイしてきたゲームの記憶が次々とよみがえり、ああ、この映画を作った人たちは本気で一人称視点のゲームが好きなんだなと得心して、つぎつぎと繰り広げられるハードな戦闘シーンを見ながら、笑顔をしまい込めなかったくらいだ。

そのほかにも、はっきりとは言明できないが、こういうのはよくあるよなという感じの「お約束」的描写がたくさん盛り込まれている。挙げ出すときりがないので、筆者のお気に入りをひとつだけ紹介しよう。コンポジションC4を路地にしかけ、追走してきた悪者たちの車がその上を走り抜けようとする瞬間にリモート・コントロールのボタンを押すシーンだ。これは映画の本筋にはほとんど何の関係もないのだが、ゲーマーにとってはなくてはならないものである。

ティーンだったころを思い出させてくれる楽曲群

音楽もすばらしい。挿入曲として、実在するさまざまなロック・バンドの曲が使用されている。それぞれの年代のセンスのいいティーンが熱中したような選曲は、ひたすらハードな戦闘シーンが続く映像の本質的なあほらしさとの異様なまでの調和を見せている。冒頭で挙げたStranglersもそうだが、ほかにもTemptations、Drums、Biting Elbowsなど、各世代の珠玉のティーンズ・サウンドが揃っている。

各所のレビューサイトで、ここまで素晴らしいQueenの「Don't Stop Me Now」の使い方は見たことがないと絶賛されているが、筆者もこの意見に心から同意する。もしもつけ加えるならば、いかがわしい売春宿での戦いで、謎のイギリス人が白い粉を思いっきりスニッフした瞬間にSonicsの「Strychnine」が流れたことだ。これは、あの名曲に対する最大のリスペクトであると断言できる。

フィクションや物語がほとんど存在していないというだけで、頭の良いオジサマ達にとっては眉をしかめてこき下ろす理由になるのだろうが、そういった言説は映画の質ではなく、鑑賞者の度量の狭さを表しているだけにすぎないだろう。一般的に、映画における物語やフィクションは、映像のおもしろさを見せるための単なる理由付けのようなものであっても全然かまわないし、本作はそのことについてかなり自覚的な作品だ。むしろそのおかげで、制作者たちが行おうとしたことの輪郭が、よりはっきりと見えるようになっている。彼らがやろうとしたこと――それは、FPSにおける映像表現のおもしろさの極限化だ。

これは映画であってゲームではない

この作品がたんなるFPSのアクション・シーンの自動化のようなものになっていないのは、あらゆる一人称視点のゲームから、映像として優れている部分の演出のみを抽出しているからだ。どのような一人称のシューターであっても、映像の演出とはべつに、プレイヤーが敵を撃つという、煎じ詰めればじつに単純なインタラクティビティが面白さの一部を確保している。しかし本作は映画なのであって、ゲームではない。そういうわけで、たとえばゲームのように、主人公がずっとおなじ位置に留まって戦い続けるというようなことがない。そんな静的な場面が面白いのは、観客がコントローラーを握って「プレイ」できる場合においてのみだろう。

90分間銃を撃ち続けているのにリロードするのは一回だけ、それも絶対に今だというときにやってくれる。

この映画においては何百人という悪者たちが主人公の手によって殺されるが、すべての殺害はじつに多彩であって、繰り返しはない。90分間銃を撃ち続けているのにリロードするのは一回だけ、それも絶対に今だというときにやってくれる。アクション・シーンがダイナミックに変遷していき、その遷移の最中に小さな演出――それはちょっとしたジョークであったり、カメラが左右に揺れることによる主人公の否定の意志であったりするのだが――が差し挟まれたかと思えば、またしても悪者たちが現れて、つぎのアクションがはじまる。

はっきり言ってしまうと、本作には物語はほとんど存在していないにも等しいのだが、これだけの大立ち回りを繰り広げる理由になるには充分なフィクションは用意されているので、アクションにたいする違和感もまったくない。血まみれのジェットコースターの90分間の乗車を終えたのちのクレジットで流れるのは、Slackersの「Have the Time」で、筆者はむしろこの潔さに感動してしまった。その歌詞を引用すると、以下のようなものになる。

おれ、自分がなにやってるのかわからんし、
時間もぜんぜんないんだ、うん。

若いうちに楽しんでおけよと、やつらは言う。
おまえの時間はおまえのものだと、やつらは言う。

しかしね、「やらなきゃいけないこと」に限りなんてないだろ。

だから、おれ、自分がなにやってるのかわからんし、
時間もぜんぜんないんだ、うん。

“Have the Time”(1998) by Slackers ――筆者拙訳

(……ちなみに、楽曲群の歌詞の日本語訳については、映画館の字幕は信用しないこと。あれなら読まないほうがましだ。)