【あの時・西武伝説の走塁】(2)伊原コーチでさえ想定外だった「3つ先」
◆日本シリーズ第6戦(1987年11月1日・西武球場=観衆3万2323人)
巨 人 000 000 100―1
西 武 011 000 01×―3
(巨)●水野、鹿取―山倉
(西)〇工藤―伊東
[本]清家1号(水野・3回)原2号(工藤・7回)
スコアラー・根本隆のリポートを読んで、伊原春樹は深く納得し、同時にほくそ笑んだ。「やっぱりな、という感じだよね。こちらもその前から見ているから」。西武の守備走塁コーチであり、三塁コーチャーである。
伊原には習慣があった。当時、週末のデーゲームが終わり、午後6時ころ帰宅すると、ちょうど巨人戦のナイター中継が始まる時間帯になる。「居間でビールなんか飲みながらね。その年は巨人が日本シリーズに来ると思って、土日は必ずナイターを見ていた。すると、クロマティがどんな時でもホワ~ンと返球する。これはおいしいな、とね」
引っかかっていた「穴」。スコアラーの報告でウラが取れ、確信した。「使えるな」。シリーズ前のミーティング。「クロマティのところに打球が飛んだら2つ先の塁を狙うつもりでやれ」と、選手の頭に刷り込んだ。
ただ、当の伊原でさえ、想定していたのは、あくまで「2つ先」。実は「3つ先」については、「自分でもまさかと思ったんだけど…」と率直に明かした。
「(3つ先の)イメージはなかったね。だって、常識では考えられないじゃない。(秋山の)打球も、左中間には行ったけど、ほとんど(中堅の)定位置の横だから。頭に浮かんだのは…打った瞬間じゃないね…やはり、辻がセカンドを回ったくらいからだね」
2死でもあり、辻のスタートは抜群だった。二塁を蹴った後、クロマティが打球に追いつく。三塁はセーフのタイミングだ。そこから、遊撃の川相昌弘へと返球する。伊原は、川相の動きを凝視した。
「三塁には間に合わない。その後、打者走者を二塁にやりたくないと考えるのが内野手の習性。川相は二塁を見るだろうな、と」。自身も内野手だった伊原は、その習性を熟知し、常に携帯していたメモにも書き留めていた。後は、返球を受けた川相の振り返る方向が問題だった。辻が死角になる一塁方向ならゴー、三塁方向ならストップ。しかし、クロマティのボールはやや右翼方向へとそれた。自然と一塁方向へ川相はターンした。伊原は跳びはねるように、右腕を回し続けた。
当時、伊原は「最後の最後になって使った勝負手」とコメントしている。しかし、それは事実とはやや異なる。綿密な準備の上に成り立った即興、が真相だった。「秘策でも何でもないよ。一瞬の判断、と思う」。しかし、この大きな「穴」を、巨人ベンチはただ放置していたのだろうか。(太田 倫)=敬称略=
◆伊原 春樹(いはら・はるき)1949年1月18日、広島県生まれ。68歳。現役時代は右投右打の内野手で、北川工(現府中東)から芝浦工大を経て、70年ドラフト2位で西鉄入団。巨人、クラウンと移籍し、80年に西武で引退。西武でコーチ、監督、阪神コーチ、オリックス監督などを歴任し、07年から4年間は巨人でヘッドコーチ。14年には西武監督に復帰したが、成績不振の責任をとり、シーズン途中で退任した。