【あの時・サンデー兆治】(1)右肘に走った原因不明の激痛
利き腕にメスを入れた投手は再起不能―。80年代、当時の常識にあらがい、完全復活を遂げた剛腕がいた。男の名は村田兆治。右肘を手術した翌々年の1985年、開幕11連勝を含む17勝5敗でカムバック賞を受賞。毎週日曜日に勝ちまくったことから「サンデー兆治」と呼ばれ、不屈の精神は人々に感動を与えた。「マサカリ投法」で一時代を築いた、ロッテのエースの復活劇。その裏側に迫る。
漆黒の闇。光は見当たらない。それはまるで村田の心象風景そのものだった。21時を回った。本来ならカクテル光線に照らされた中、ヒーローインタビューに応じている時間だろうか。83年5月。エースは“職場”を遠く離れ、和歌山・白浜の山中を走っていた。
敵は強打者ではなく、己の心。暗い山道を疾走した。目的地は人里離れた大自然の水場にある小さな滝。12キロは走っただろうか。「魔の滝」とはよく言ったものだ。けたたましく響く水流が出迎えてくれた。22時。もう初夏とはいえ、山奥を流れる水は冷たい。村田は目を閉じ、両手を強く合わせた。頭上から激しい圧が押し寄せる。痛い。苦しい。そして思った。「生きているんだな、オレ」―。
話は前年の82年にさかのぼる。村田は32歳だった。それまで通算156勝を挙げ、球界を代表する投手として君臨してきた。このシーズンでも8年連続の開幕投手を務め、2完封を含む4勝と好発進していた。
異変は同年5月17日、川崎での近鉄戦で起きた。右肘に激痛が走る。初回に2点を取られ、8球投げただけで降板した。レントゲン検査の結果は「異常なし」。それでも痛みは消えなかった。タオルが絞れず、顔もまともに洗えない。戦線離脱。10以上の病院を回るが、原因は不明のまま。シーズンを棒に振った。
翌83年のキャンプイン。長い休養により痛みは消え、復活へ牙を研いだ。だがオープン戦を前に無情にも、痛みは再発した。1試合も登板できずに開幕。4月末、登録抹消。村田の心身はボロボロだった。「帰ってくる日は分からない」。妻・淑子にそう言い残し、白浜に向かった。己を見つめ直し、何かをつかみたかった。
今、当時を振り返る。
「滝に打たれながら、邪念や雑念を払って、無になっていくんだ。それはね、『受け入れる』ということ。自分で選んだ仕事なんだから、壁にぶつかっても、最後の最後までやるんだと思った。終わり方が中途半端では、悔いが残る。あの時は執念だけが、自分の人生を支えていたんだと思うね」
1か月の精神修行を終え、帰京した。投球練習を再開すると、またも激痛が走った。国内で完治への道筋を示せる医師は、見つからないまま。とはいえ、滝に打たれて決めた現役続行への熱意は、揺るがなかった。
剛腕の思いをくんだ球団は、過去ロッテの内野手としてプレーし、駐米スカウトを担うジム・ラフィーバーに尋ねた。「米国にいいドクターはいないか?」。答えは明快だった。「兆治に伝えてくれ。フランク・ジョーブという名医がいると」(加藤 弘士)=敬称略=
◆村田 兆治(むらた・ちょうじ)1949年11月27日、広島県生まれ。67歳。68年、福山電波工(現近大福山高)から東京オリオンズ(現ロッテ)にドラフト1位で入団。「マサカリ投法」から繰り出す速球とフォークを武器に活躍。75年から2年連続最優秀防御率。81年に19勝で最多勝。翌年、右肘を故障。渡米して手術を受け、85年に17勝でカムバック賞受賞。90年引退。95年から3年間、ダイエー投手コーチ。通算604試合に登板、215勝177敗33セーブ、防御率3・24。
あの時