【あの時・サンデー兆治】(2)当時の常識では再起不能

2017年4月24日14時0分  スポーツ報知
  • 82年12月、球団事務所で取材に応じる村田兆治。この翌年にジョーブ博士執刀によるトミー・ジョン手術を受けることになった

 蒸し暑い東京とは随分違う。西海岸の風は乾いていた。83年8月20日。村田兆治と妻の淑子はロサンゼルスに到着した。右肘の痛みは原因不明で、国内では完全な治療が望めない。それでも村田の「もう一度、マウンドへ」との思いは募るばかりだった。ロッテは親交のあるドジャースへ相談。同球団の医療担当を務めるフランク・ジョーブ博士の診察予約を取ってくれた。

 空港には「アイク生原」こと生原昭宏が出迎えた。早大野球部出身。卒業後は亜大野球部監督を経て渡米し、ド軍のフロントに入った。翌日、生原は不安の中にいた村田を「ドジャースの試合を見に行こう」と誘った。シーズン中にメジャーを生観戦する機会があるなんて…。超満員のドジャー・スタジアム。兆治はグラウンドを見つめながら、ふとこう漏らした。

 「投げたいなあ」

 8月22日、初診察。村田夫妻はセンチネラ病院へとジョーブを訪ねた。あいさつを終え、村田は言った。「野球を続けたいんです」。触診後、ジョーブは告げた。「肘の腱(けん)が切れている。治したいなら、手術するしかない」。村田の脳裏を当時の“常識”がかすめた。「利き腕にメスを入れた投手は再起不能」―。

 村田は手術を選んだ。決断の瞬間をこう回想する。

 「米国にはトミー・ジョンというこの手術で復活した投手がいると聞いたから、オレにも意地があるってね。前代未聞の挑戦だから。次の世代に向けた実験台…モルモットになろうと思ったんだ。万が一、失敗したら、野球をやめてもいい。名誉の戦死なんだってね」

 淑子は結婚前に航空会社に勤務していたこともあり、英語が堪能だった。滞在中は通訳も務めた。兆治は冗談交じりに言った。「『手術を失敗したら、ただじゃおかんぞ』と言えよ」。困惑する妻に、すぐフォローした。「日本語が分からないから、大丈夫だよ」

 「8・24」という日付を、村田は忘れずにいる。手術室で兆治は祈った。「神様、どうか私を救ってください」。全身麻酔後、メスが入った。左手首の腱を右肘に移植する大手術。麻酔が切れると、ジョーブはほほ笑んだ。「成功だ。おめでとう」。それは同時に、長く過酷なリハビリが始まることを意味していた。

 退院前、ジョーブは厳しい表情で覚悟を問うた。「君が復帰できるかどうかは、日本に帰ってからのリハビリ次第だ。肘が以前のように動かないなら、それは君自身の責任になる」

 村田は帰国後、食事と入浴時以外は常に、スポンジを握った。やがて軟式のテニスボール、そして1キロの鉄アレイへ変わった。季節は秋。心を奮い立たせ、復活に懸ける兆治に、故郷からつらい知らせが届いた。「お父さんの体が、急変したの…」(加藤 弘士)=敬称略=

 ◆フランク・ジョーブ 全米のスポーツ医学の権威で、長らくドジャースの医療部門に携わった。74年には左肘側副じん帯を痛めていた左腕のトミー・ジョンに対し、腱の移植手術に成功。手術前に124勝だった同投手は、以降46歳までプレーし、164勝を挙げた。今では90%以上の成功率を誇る同手術は「トミー・ジョン手術」と呼ばれ、肘の治療法として定着した。巨人時代の桑田真澄、ヤクルト時代の荒木大輔もジョーブ博士のもとで手術に臨んだ。14年3月6日、サンタモニカで死去。88歳だった。

あの時
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