【あの時・サンデー兆治】(3)「お前にオレの右腕をやりたい」

2017年4月24日14時0分  スポーツ報知
  • 過酷なリハビリを乗り越え、グラウンドに帰ってきた村田兆治の「マサカリ投法」

 父の容体が急変した―。右肘手術からの復活を目指し、リハビリに没頭していた村田は、知らせを療養先の和歌山・白浜で聞いた。84年10月20日。すぐに夜行列車へ飛び乗り、故郷の広島へと向かった。翌朝、実家を訪れると、実父の与行(よしゆき)さんは危篤状態にあった。だが寄り添う兆治の手を握り、こんな言葉を発した。「お前に…オレの右腕を…やりたい」

 最後の一言だった。「最高の男になれ」との願いを込め、息子に「兆治」と名付けた明治男の死。村田は泣いた。そして誓った。おやじのためにも復活する。天国から見ていてくれ―。

 鍛錬にも一層、熱が入った。朝6時から自宅近くの砧公園を走った。オーバーワークだけは避けねばならない。少しずつ強度を上げていくが、筋肉が落ちているのは否めなかった。「いつになったら投げられるのか」という焦りもあった。不安を打ち消すには、無心になるしかない。夜には座禅を組み、心を整えた。

 師走、キャッチボール再開。84年2月のキャンプでは、遠投の距離が60メートルを超えた。希望が見えてきた。

 復帰登板は慣れ親しんだ川崎球場のマウンドだった。84年5月31日、イースタン・大洋戦。公式戦の投球は実に745日ぶりだ。「実戦で投げても大丈夫だろうか…」。前夜は熟睡できなかった。そんなモヤモヤは初回、第1球で吹っ飛んだ。

 打席には右の石橋貢。左足を高く上げ、一瞬静止し、力強く右腕を振り抜く。あの「マサカリ投法」が帰ってきた。内角高めのストレート。石橋がのけぞった。気負いがあったのか、ボールは上ずった。最速は137キロ止まり。でも良かった。全力で投げた。投げられた。

 33年が経過した今でも村田は、あの時を覚えている。

 「ゼロからの出発だったからね。ああ、ようやく帰ってこられたと。けがした後には、何度も辞めようと思ったから。それが美学だとも思っていたし。けがする前はね、打者の誰一人として、怖いと思ったことなんてなかったんだ。でもそんな過去は忘れて、地に足をつけてやっていこうと思っていたからね。頑張ってきて良かったと思ったよ」

 1イニングを打者5人、無安打ながら3四球に暴投もあって2失点。荒れたが、大きな大きな50球だった。

 取材を終え、ひとり愛車のハンドルを握った瞬間、万感の思いがこみ上げてきた。右肘に激痛が走ったあの日から、滝に打たれた夜、手術に臨んだロサンゼルスの情景が脳裏に浮かんだ。止めどなく涙があふれ、決意した。復帰じゃ満足できない。目指すのはエースとしての完全復活である―と。翌85年。勝利への渇望は、「サンデー兆治」という名の社会現象を生み出す。(加藤 弘士)=敬称略=

 ◆1984年の村田兆治 5月31日、イースタン・大洋戦(川崎)に先発し、745日ぶりに公式戦のマウンドへ立つと、8月12日には西武戦(札幌円山)で818日ぶりに1軍戦に登板。9回の1イニングを9球で3人斬りした。9月25日の日本ハム戦(川崎)では先発として5回を投げ2失点も、勝敗つかず。1軍では5試合に登板。0勝1敗、防御率6.00だった。

あの時

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