【あの時・サンデー兆治】(4)手術から2年、1073日ぶりの白星は完投勝利

2017年4月24日14時0分  スポーツ報知
  • 1985年4月14日、3年ぶりの勝利を完投で飾り、袴田(左)と抱き合って喜ぶ村田(右は落合)

 マウンド上で足が震えた。こんなことは今までなかった。右肘手術から2年。完全復活を目指して迎えた85年シーズン。村田の開幕後初登板は4月14日、日曜日。川崎球場の西武戦だった。ロージンバッグを投げ捨て、第1投。マサカリ投法から放たれるストレートには、情念が込められていた。“投手・村田兆治”は死んでいない。オレは勝つ―。

 「低めに投げて、ゴロを打たせるスタイルに変えたんだ。昔のことは忘れて、今の自分と向き合おう。そう言い聞かせていたよ」

 チームに白星をもたらすため、過去の自分とは決別した。直球で押しまくるのではなく、カーブやスライダーを織り交ぜ、勝負所では宝刀フォークを落とした。

 執刀医のフランク・ジョーブからは「100球を超えないように」と厳命されていた。敬愛する恩人との約束だが、破った。先発完投という自らの信念は、制御できない。「これで投手生命が終わってもいい」。気迫がレオ打線を黙らせる。155球。2失点完投。1073日ぶりの勝利。胸の鼓動は今でも忘れない。

 「感謝の1勝だったね。けがする前は、野手をあんまり信用していなかったんだ。全部三振を取ればいいと思っていたから。でもね、あの試合で野手が言うんだ。『僕の所に打たせてくださいよ』って。だからオレも言った。『オレ、勝ちたいんだ。勝たせてくれよ』とね」

 力投のダメージは大きかった。登板翌日から3日間、右腕は痛み続けた。ボールを握られず、走るのみ。キャッチボールは4日目。投球練習は5、6日目にようやくできるようになった。

 現役時代、「鉄腕」と呼ばれた監督の稲尾和久には、右肩痛に苦しんだ過去があり、兆治のよき理解者だった。当時は中4日が主流だったが、回復には十分な登板間隔が必要と判断。中6日で毎週日曜日に投げるローテを組んだ。これが語り継がれる「サンデー兆治」だ。復活劇を見届けようと、日曜日のロッテ戦には観客が押し寄せた。声援を背に兆治は開幕11連勝をマークした。肉体だけではない。心の鍛錬も熱投を支えた。

 「遠征先にはロウソクを持って行った。登板前夜には興奮して寝られなくなる。『無』になる必要があったんだ。般若心経を唱え、部屋を暗くして、ロウソクに火をつけてね。座禅を組んで、炎を見つめる。すると最後の消える瞬間に『パッ』と明るくなるんだ。散り際の、最後の一花というのかな。オレもこんなふうに、完全燃焼したいと思ったね」

 この年、全て先発で24試合に登板。17勝5敗、防御率4・30。地獄から生還した男には「カムバック賞」が贈られた。困難に直面し、はい上がろうとする人々に、希望を与えるニュースだった。(加藤 弘士)=敬称略=

 ◆落合が援護 155球の復活完投劇は6―2で勝利。4番・落合博満が2打席連続の2ランでエースを援護した。「試合前に『落合、お前今日何本打つんだ?』と聞いたら『2本です』と答えたんだ。有言実行してくれたよな」と村田は回想。当時の紙面には落合のこんな談話が載っている。「あれだけ村田さんが頑張っているのに、打たないわけにはいかんよ。何とか勝ってもらいたい、というムードでいっぱいだった」

あの時
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