【あの時・サンデー兆治】(5)引退試合を見たあの人からの手紙
涙雨が絶え間なく降り注いだ。「やめるな!」「まだまだやれるぞッ!」。川崎球場を埋め尽くした2万2000人の絶叫が響く。ぬかるむマウンド。村田は左足を高く上げ、一瞬の静止を経て、力強く右腕を振り下ろした。90年10月13日、西武戦。最後の公式戦登板は、朝から小雨だった。天もまた「マサカリ投法」の終演に、泣いていた。
初回先頭。打者は辻発彦。外角直球はボールになったが、手を出されてファウルになった。「花を持たせてくれるのかな」。一瞬思ったが、違った。2球目スライダーを鋭く、中前にはじき返された。レオ打線は最後まで本気で襲いかかってきた。それがうれしかった。
1死後。秋山幸二には全て直球で3球勝負。空振り三振に斬った。直後、一礼して打席に立つ23歳がいた。清原和博だった。真っ向勝負。ストレート2球で追い込み、3球目は143キロ。内角を突いた。レフトフライ。全力投球に若き強打者も、フルスイングで応じた。
雨脚が強くなり、グラウンドに水が浮く。5回終了、降雨コールド。4安打、4―0での“完封勝利”だった。シーズン10勝目。通算215勝、184完投。この日も最速は145キロを計測した。これが引退する投手の球威なのか―。村田は27年前を振り返り、言った。
「惜しまれてやめるのが、男の花道。先発完投へのこだわりがあったからね。100球投げて、試合を作って交代というのは、自分の生き方と違う。最後まで投げられないなら、潔くやめようと。野球の先発完投から『人生先発完投』に、目標を変えることにしたんだ」
右肘手術から奇跡のカムバック。そこから59勝を積み重ねた。だが右肘など全身は痛んでいた。だましだまし現役を続けることは、人生哲学と相いれなかった。
この日の引退劇を、たまたま理髪店のテレビで見ていた男がいた。兆治と面識はなかったが、胸が熱くなり、去る寂しさを思った。帰宅後、心模様をワープロで打ってもらい、サインを添えた。自分で届けよう。確か成城に住んでいると聞いたことがある。行ってみたら、道に迷った。3時間かかって、村田家に着いた。兆治は不在だった。クルマの上に花束と手紙を置いた。
夜、兆治は家に帰った。誰からだろう。封筒を開ける。思わず目を疑った。
「長い間、本当にお疲れさまでした。高倉健」
真っすぐな男と男の生き方が、交差した瞬間だった。
己の限界に挑み、強い気持ちで切り開いた野球人生。兆治は言う。「壁にぶつかったとき、どうするか。一番大事なのは、執念ですよ。苦しくても苦しくても、最後までやり遂げるというね」。67歳。今でもサインを求められると、「人生先発完投」と記す。(加藤 弘士)=敬称略・終わり=
◆兆治と健さん 2人に面識はなかったが、健さんは83年公開の映画「居酒屋兆治」の主演を務めていた。原作は山口瞳の小説。健さんは居酒屋「兆治」を営む主人公の藤野英治を演じた。藤野は高校時代に投手で、村田兆治への憧れから店の名を「兆治」にしたという設定。野球好きの山口が、村田の全力投球に魅了されていたことが背景にあった。
あの時