フランス東北部、ルクセンブルクとの国境近くに「天使の谷」と呼ばれる地区がある。ロマンチックな響きとは裏腹に、一帯に広がるのは欧州有数規模の工場群だ。鉄鋼世界最大手アルセロール・ミッタルの製鉄所や関連企業が集中し、灰色の街の真ん中に高炉がそびえ立つ。
名称の由来は、天使のように清い人々が暮らすからでも、住民の夢枕に天使が現れたからでもない。単に、周辺自治体名の多くが「アンジュ」(Ange=フランス語で天使)の語尾を持つからに過ぎない。製鉄所の名称は「フロランジュ」、管轄の市は「アイアンジュ」、といった具合である。
フロランジュ製鉄所は2011年に操業を事実上停止した。以後、この谷は雇用喪失と人口流出にあえぐ。フランス経済の行き詰まりと格差を象徴する地方として、メディアにもしばしば登場する。
今年2月に訪れた現地には、予想通りの閉塞感、寂寥感が漂っていた。地元商店街では閉店が相次ぎ、病院が撤退し、学級閉鎖が続く。「昔は華やかだったんだ」と、人々の語り口も自嘲気味だ。米国のラストベルト(さびついた地帯)、日本の地方都市のシャッター街に通じる風景である。
同様の現象はフランス各地に広がっている。それが今、右翼政党「国民戦線」の台頭を支えている。
1972年に創設された国民戦線は、共産主義や移民、欧州連合(EU)など、特定の集団をスケープゴートとしてやり玉に挙げて攻撃する政治手法で知られてきた。その支持層はかつて、高齢者やブルジョワ、カトリック強硬派といったところが中心だった。地域的にも、工業化が進んで移民が多いフランスの東部や南部に集中していた。
ところが近年、かつて社会党や共産党を支持していた労働者層が大挙して国民戦線支持に回っている。これに伴い、かつて左派の牙城だった北東部の工業地帯や北部の旧炭鉱地帯が、国民戦線の票田へと変化してきた。
「天使の谷」はその典型である。製鉄所のあるアイアンジュ市は、これまで左派か中道が市政を担ってきた。しかし、2014年の地方選で初めて国民戦線が勝利を収め、ファビアン・アンジェルマンが市長に就任した。アンジェルマン自身も、左翼の労組活動家から右翼に転じた経歴を持つ。
国民戦線の女性党首マリーヌ・ルペンが世論調査の支持率でトップを走るのも、こうしたフランス社会の変化の波に乗っているからだ。
国民戦線の何がそれほど、人々を引きつけるのか。
既成大政党のエリート化が進む中で、打ちひしがれた労働者や庶民に寄り添う姿勢を見せる点が評価されたのは間違いない。ただ、人々がこの党に、生活水準の向上や雇用創出への手腕を期待しているとも思えない。むしろ、党が提示するモラル面での訴えが、人々の意識を引きつけているように見える。
指標の見えない、行き先さえわからない混沌とした時代であるだけに、強力なイニシアチブと権威的な姿勢を取るルペンこそが秩序を取り戻してくれるのでないか。そのような期待である。