最近の大学生と食事をすると、だいたい〝好き嫌い〟がある。
食事前に、何か好き嫌いがあるかと聞いたとき、何でも食べられる、という子にめぐりあうほうが、ここのところは少ない。みんな悪びれずに次々と言う。
「エビ食べられません」「ナマ魚がみんなダメです」「好き嫌いはないけどネギとわさびは無理です」「パスタはすべてダメっすね」「あ、ナス、無理」「お漬け物だけ勘弁してもらえますか」
ナマ魚全般とか、パスタはすべてダメとか、おもいもよらぬ好き嫌いが出現する。
いちおう、聞き入れないといけない。ある程度の人数が集まると、全員が大丈夫なものを選ぶのはいろいろむずかしい。
なかなか不思議な光景である。
もちろんいつの時代だって、好き嫌いを言う人は常に一定数いる。
ただ、最近は感じが違う。
好き嫌いを言うのが、何というか、ごく自然なのである。みんな、そういうものでしょう、という悠然たる態度である。上の世代から眺めると、少し不思議な感じがしてしまう。
* * *
彼ら彼女らは、いわゆる〝ゆとり世代〟である。
少し気の毒なこの呼称で呼ばれる世代は、とてもやさしいとおもう。融和力が高い。
彼ら彼女らが教育を受けた00年代は、詰め込み教育から本格的に抜け出そうとした時期だった。
おそらく、人にやさしくしようとしていた時代だったのだろう。それはそれで、大きな可能性を秘めていた(いまでも秘めている)。
問題は、記憶させられた知識量が少ないということではなく、そのやさしさにある。
強制されることが少ないため、人にやさしく、そのぶん知らない者と組んで知らないものと戦うことに慣れていない。そういうふうに見える。みんなアスリートか学者になれればいいのだけれど、そういうわけにもいかない。
誰がそんな世代を望んだのか、というと、その当時の大人たちである。
過去の決断をいまさらどうこう言ってもしかたがない。それぞれの時代に、それぞれの集団が決めていったことである。
かつての日本は貧しかった。
国を作る人を育てようとしていた明治時代も、軍事国家のための子供を育てていた昭和のある時期も、荒廃した国土を復興させる人材を求めていた敗戦直後の時代も、経済を成長させる人を育てようとした昭和中期も、ずっと貧しかった。
それが敗戦後、40年を越えて経済が成長しつづけ、どう考えてもそれは異常事態なのだが、昭和末期には、世界で有数の豊かな国になってしまった。当時これで豊かといえるのかという疑問はあったのだが、他国から豊かだよと言われれば、納得するしかない。
貧しい国から豊かな国を目指しているときの教育システムは、画一的でよかった。
ボトムアップが目的である。
個々に優秀な人物を少しずつ出すよりは、集団全体の基礎能力を上げたほうがいい。集団の力で勝つ。いわば軍隊式だ。
やや劣った者たちを平均まで押し上げることで全体の力を強くする。上を押さえ、下を上げる、そういう教育システムになる。(本来は、上を押さえる必要はないのだが、〝ボトムアップしつつ上も伸ばす指導〟にはものすごく高い能力が要求されるため、なかなかそうはいかなかった)。
詰め込み教育である。