「疑わしきは罰せず」「推定無罪」は素晴らしい言葉である。それは法の支配を示す言葉であり、決して忘れられてはいけない概念だ。
しかし、これはあくまで司法の中の話である。
国会議員はなぜ逮捕されないのか
日本国憲法第50条
両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
これは、かつて各国で反対派の議員が弾圧されたという歴史的経緯から制定されたものだ。
権力に立ち向かう議員が逮捕される、というのは、ネルソン・マンデラの例を取るまでもなく、途上国でよく見られる。
日本でも、田原総一朗は未だにロッキード事件はアメリカの陰謀だと主張しているし、小沢一郎の陸山会事件なども「国策捜査」と騒がれた。
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ともかく、司法と行政が結託すればもはやそこに対抗する手段はない。
だからこそ、司法の場においては当然のことながら、推定無罪の原則は強く守られるべきである。
なぜ権力者の疑惑は、潔白を証明する責務があるのか
さて、ここまで言って分かるように、推定無罪の原則というのは、あくまで司法が過ちを犯す事を前提とし、あるいは、ときに為政者の意のままに操られるというリスクを勘案し、個人の権利や言論の自由を守るために存在するものである。
今般の安倍総理をめぐる一連の問題に関しては、全く別の話である。
むしろ、為政者の疑惑というのはもみ消され、闇に葬られることが多いからだ。絶対的な権力のもとで、権力者に不利な証拠など、出るはずがない。
だからこそ、三権分立が存在している。行政府は予算の執行や法案の成立に関して立法府の承認を必要とし、憲法に適合しているかは司法府が判断するのだ。
そして、立法府が行政府の権力を監視する手段として、独自に国政調査権が認められている。
日本国憲法第62条
両議院は、各々国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる
証人喚問や、参考人招致は、この憲法62条が定めるところの国政調査権によって担保された権利である。
「疑わしきは罰せず」というのは、あくまで司法の場においては推定無罪を原則にするというルールであり、証拠をもみ消せば政治的に責任を取る必要がない…という意味ではない。
我々は何をすべきか
私がしつこく書き続けているが、これは外形的には政治的な口利きにしか見えない。
ある国家の首相夫人が名誉校長になり、特殊な思想の学校に賛同した。そこから極めて異例なスキームで、土地価格の値引きがされた。更に財政状況が怪しい中で、府の認可が降りた。
そして、その国の内閣は交渉記録などの証拠の提出や、夫人の証人喚問など、潔白を証明するためにクリティカルな行動を拒んでいる。
これが通常のデュー・プロセスである、というなら、なぜこのようなことが起こったのかストーリーを説明する他に無い。
そのためには、内閣が徹底した調査をするしか無いのだ。
もし政府に「疑わしきは罰せず」という原則を適用するなら、あらゆる疑惑は闇から闇へ葬られるだろう。なぜなら、原則的に言えば、あらゆるデータや物的証拠は政府の内側にあるからである。
つまり、政府の汚職疑惑は、内部調査によってしか明らかにならないのだ。
我々は、司法の場における「疑わしきは罰せず」の原則と、行政府や立法府の場における「疑わしきは罰せず」を分別する必要がある。
そして、政府の説明が足りない時は、めげることなく「きちんと調査しろ」といい続けるしか無い。
なぜなら、我々がいい続けない限り、彼らがわざわざ内部の不正を調査するメリットなど存在しないからだ。
「自浄作用」という言葉が忘れられて久しいが、そんなことを今の政府に期待するのは、高望みというものだろうか。