本書は豊崎由美氏が考える「書評観」を打ち出し、それにそって雑誌・新聞紙に掲載された他人の書評をメッタ斬りにしていくものになっている。
『ニッポンの書評』と題されているものの――巻末の大澤聡との対談を除けば――日本の書評の歴史を追ったものでも、緻密に考察した上で書評の在り方を問うものでもなく、書評家である氏が捉えた2011年の書評の現状を語るものだ。
購入する場合、ここは留意したほうがいいと思われる。
(本記事はそんな感想)
豊崎由美の書評観(2011年)
まず氏は書評は「読者のためにあるべき」とし、こう定義する。
①自分の知識や頭の良さをひけらかすために、対象書籍を利用するような「オレ様」書評は品性下劣。
②贈与としての除票は読者の信頼を失うので自殺行為。
③書評は読者に向かって書かれなければならない。
書評というものは、まずなにより取り上げた本の魅力を伝える文章であってほしい。読者が「この本を読んでみたい」という気持ちにさせられる内容であってほしい。自分の考えを他者に伝えるための容れ物として対象書籍を利用してはならない。書評は作家の機嫌をとるために書かれてはならない。(後略)――『ニッポンの書評』(光文社新書)p25-26
要するに氏の書評観というのは「作品紹介」の側面が強い。だからこそ作品を紹介するのにネタバレを含むのは言語道断だし、牽強付会のようなものを書いてはいけないとする。もちろん作者に媚びを売るのはありえない。
私としては氏の考えは受け入れやすい。政治力学が働いたブックレビューは唾棄すべきものであり、未読である読者の楽しみを奪ってしまう作品紹介に何ら価値はなく、むしろ有害とさえ思っているからだ。
しかしそれは書評なのか?という疑問は覚えてしまう。書評は読んで字のごとく「書」物を「評」することだろう。作品紹介の面もあれば、批評、評論、論文――そういった様々な書き方・評価の仕方が包括される言葉である。
ゆえにメディアに掲載される「書評」は作品紹介の面を持たないことも多いだろうし、批評・評論と考えネタバレ全開で書く者も多いと思われる。しかし豊崎氏は「作品の重要な部分を明らかにしている」として、『第13構『1Q84』一・二巻の書評読み比べ』にて1Q84のネタバレ書評をする黒古氏をぶち始めるのだ。
黒古氏はたった七五〇字という限られたスペースの中で、よりによってストーリーの結末を明かしているんです。字数少ないんだから、その部分こそを削ればいいのに。で、北海道新聞を購読している『1Q84』未読の読者が、自分で知って驚いたり泣いたり考えたりする権利を奪うというペンの暴力をふるっているばかりか、黒古氏は自信のブログにこの書評を全文アップすることで、さらに被害を拡大。あまりの驚きから、思わずコメント欄に書き込みしちゃったトヨザキです。
――『ニッポンの書評』(光文社新書)
これが 書"紹" という体裁ならば、豊崎氏の言い分は認められると思うし、私も全面的に同意できる。しかし氏が取り上げた黒古氏の文物は"書評"として提出されたものであるため別にいいのではないかという気持ちになるのだ。
それはひとえに先の引用文「③書評は読者に向かって書かれなければならない」の部分が豊崎氏は「未読者」に向けて書こうとし、黒古氏は(正直どういう考えを持って書かれたのか判断はつかないが)「既読者/ネタバレを好む未読者」に向けて書いているからの違いなだけではないのか?
例え『1Q84』発売時の――つまり未読者が多い想定の元で――掲載される書評であったとしても、わざわざ彼のブログに乗り込んで自分の書評観を押し付けた挙げ句「反論は私の連載読んでからにしてよ!そんじゃーねー!」という態度は対話を投げかけておきながらその対話を自ら放棄しているようにしか見えない。
(本書はご丁寧に豊崎氏が書き込みしたURLが掲載されている)
(前略)この黒古さんの評を含めた『1Q84』評については、光文社のPR誌「本が好き!」でわたしが連載している書評論「ガター&スタンプ屋ですが、それがなにか?」で書くつもりですが、「それはヘタだから」の理由もこれまでの連載分で述べてありますので、わたしに反論のある方はご不便おかけしますが、そちらのほうを読んでいただければ幸甚です。読んでいただけた上での反論にしかお応えしませんので、あとはよしなに。
――コメント欄/http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/a2228c915ae2edd4e8e51c800c6695c6
これが自身の連載、あるいはブログで「黒古さんの書評はダメだ」と言う分には私はいいと思う。その発言の責任は彼女のものだし、そこには豊崎氏なりの価値観に基いて彼を批判しているのだろうし、彼と対話を求めているわけではないからこそ、ひとりで完結する場所で言葉を放ったのだろうから。
だが「他者のブログ」で論戦を繰り広げるならば、まず自身のスタンスはそこで明示するべきだろう。だって「話し合い」をするためにわざわざコンタクトを取ったのでしょう? その労力すら惜しむのならば先述したように私的な場所で発言すればいいだけなのではないか。
なのに匂わせるだけ匂わせて説明せず、あまつさえちゃっかり仕事の宣伝をしている所に狡猾さを感じるし理解に苦しんでしまう。これがこの業界の一般的なやり方なのだろうか…。(いやいや)
さらに本書では素人が書いたAmazonレビューを引っ張ってきて、めっためったに斬り付ける箇所もある(第11講 Amazonのカスタマレビュー)。氏は書評にさいして原稿料をもらっているにも関わらず、なぜか、趣味で書いている(金銭のやりとりがなされていない)素人レビュアーと同じ立場に立ち、同じ土俵で、同じ作品を比べ始める。
確かに氏が取り上げたAmazonレビューは読解力もまるでない粗雑で未熟でゴミのような駄文に他ならず、読者にも作家にも市場にも益をもたらさないものだと言っていい。
が、しかして(繰り返すが)原稿料をもらっているプロライターが趣味で書いている匿名者に向かって「匿名で書くのは卑怯だ」とか「批判をするなら◯◯の通りにしろ」とあげつらうのは話がおかしいように思う。
当該Amazonレビュアーがお金を貰ってあのレビューを掲載したならば氏が怒るのは当然だが、彼はお金を貰っていないからこそ責任感なんてないし匿名でああいうゴミのようなレビューを平気で投稿できるのだ。
(確かにあのレビューは死ぬほどむかつきますけどね…)
氏がメディアに掲載された書評をレビューする分には一向に構わない。そこには同じ立場で書かれた同業者の仕事としての責任や、書評の存在意義、プロの矜持を問いかける目的もあるのかもしれないし、単純に「お金を貰って書かれた書評に見合わない文物への怒り」なのかもしれない。
でもプロがプロの仕事に対して批判をする分にはいいが(どんどんやって欲しい)、プロが素人の批判をしはじめたら条件が違いすぎて今回のように的はずれなものに終始してしまうのではないか。
あらゆるものの90%はクズなので、そんな辺境のデブリを取り上げても仕方ないと私は思ってしまう。
このように氏には、時々、驚いてしまう部分はいくつかある。
ただそれを踏まえても、 あらゆるレビューは筆者の恣意的な価値判断の元に行われるものだし、氏が自身の書評観を打ち出し(同業者の)書評に評価を下すブックレビューレビューを行うことに異論はない。
現役書評家がある書評にたいしてどこがダメで、どこが良いのか、という批評眼も参考になる(かも)しれず、また評価を下すことが同業者たちに緊張感を与え、生半可なものを書いてはいけない意識が生まれ、読むに値する書評が数多く提出される<場>を作るのかもしれない。そしてそれを読むであろう消費者からすれば、ブックレビューレビューの存在は益のほうが多いはずだ。
むしろ「作品批判」「書評批判」がないメディアの構図がおかしいのであって、こういう活動は何処でも行われるべきだろう。批判精神がない所は腐るというのが持論でもあるから余計に。
もちろんその書評批判が的外れであるならば、同様に批判し返せばいいし、一方が批判できてもう一方が黙るなんてのは公平でもなんでもないのだから。なので『ニッポンの書評』でボロクソに言われたライター等が集まって喧々囂々に語り尽くす催しをとても見てみたい。
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私もレビューにレビューを下すことを4-5回やってみたことがある。グラスリップの的はずれなレビュー、冗長さが読むに耐えないVNIレビューなどなど。
ただそれは思った以上につまらなくて、なんというか、作品を語ることは楽しくてもレビューを語ることはそこまで楽しいものではないのだなという結論であった。
以下の記事で語ったとおり、作品と比べると批評文物というのはポテンシャルがないからかもしれない。引き出せるものがなく、読んで「なるほど」or「得るものはない」という感想しか導けないことに「作品」と「批評」の差があるのではないだろうか。
*おそらく批評も「真善美」の体で書けばこの問題は解消されるかもしれないね。
どんなに世界構造の真相を鮮やかに書き綴ったkanon批評も、アニメ『kanon』が見せてくれた映像美・奇跡の意味・視聴する楽しさと比べれば見劣りしてしまうし、さらに批評っていうのはいわば「説明」するための文章であって「芸術体験」をもたらす文章ではないわけです。故に一文一文に解釈の余地はほぼないですし、深堀だって叶わない。
いいとこ批評者の過去の批評を参照して語ることや、批評者が作品批評する上で生みだし育んだ"自己文脈"とでも呼ぶべきものを指摘するくらいでしょう。
なので、氏はブックレビューレビューを「楽しく」行えているのか気になるところ。
いいレビューを一覧にして残したい欲望があるもののその行為が思いの外楽しめない私からすれば、氏は楽しくやっているように見えるので、どこがどう楽しいのか、あるいはどこをどう楽しく試行錯誤したのか聞いてみたくはある。
書評の価値は分かり難い
(おそらく)多くの人は「書評」をお金を払って読むものだという意識はないし、新聞に掲載される書評がイギリスの某新聞紙のように分割で販売することになったら「無料じゃないなら要らないよ」と言うだろう。
それは単純に書評/批評(criticism)の価値が見出されないことに尽きるのかなと思う。自身の「好悪」は別として、自分の「感覚」は別として、対象作品を「評価」する。そのためには古典や芸術その他様々な本を読んでいなければならないし、圧倒的な知識も必要になる。だからこそその道のプロの知見で測られた批評はみんなお金を払って読む価値があると判断する。のだそうだ。
参照→批評家という特定分野の情報のプロが厳しいわけ|りんがる|note
上記記事では「公平な判断の積み重ね」「作家と批評家のバトルによって本当に優れたものが生まれる」と語り、そういった土壌がアメリカにはあるし、また日本には様々な理由で目利きの(プロ)批評家が生まれないのだとする。
私はアメリカの批評文物を読んだことはないけれど、なるほどなと思えた。日本で書評/批評の価値が低いのは「情報の信用度」に価値を見出すことができないリテラシーしか育めていないと言われればふむふむと。
他にも原因があるとすれば、書評/批評は必要だと思うほどの「良い書評/批評」が見当たらないからではないだろうか?
もちろん高度な批評文物が素人にかんたんに理解できるわけではないし、素人が理解できないからといってそれが良い批評ではないと言いたいわけでもない。しかし素人でも判るほどの魅力を備える批評が少ないからこそ、批評の必要性に疑問を投じる人が多いのではないかとも考えてしまう。
ある映画を見て、ある音楽を聴いて、ある料理を食べて、あるスポーツ選手のプレイを見て「すごい!」と思うことは多くある。
でも書評/批評を読んで「すごい!」と思うことは体験上少ないのでは? 私自身これがプロの仕事だと、書評/批評の必要性とはこういうのだな、と思えるものは上に挙げた4つと比べると極端に少ない。ほんとうに少ないと思う。
それは本書『ニッポンの書評』で取り上げられた数多くの評も例外ではなく、著者である豊崎由美氏のものも当てはまる。
氏は自身の書評を課題本に添って何度か書くのだが、最後には「お粗末でございます」と予防線をはる。確かに。ご自身で言われいているとおり上手いとは思えないし、魅力的だとも思えない。…これがライター業20年で培われたものかぁ……。う、うーん……ってな感じの品質がそこにはあるのだ。
逆に本書で取り上げられる――氏も絶賛する――書評は私から見ても「いい」と思えるし、プロの書評はこうあるべきだともさえ思えた。(しかしそれらは作家、大学教授、アマチュアが書かれたものなのが苦々しい所ではある。書評家の存在意義って…?!)
そして、ああやはり魅力的な書評って少ないし、執筆できる人も少ないのが現状なのかなと感じてしまうのだ。
(ちなみに「評価」することと「評価者が実際にそれを出来るか」は別問題なので、事ある毎に氏が書評を批判しては同じ題材で自分も書評を書くってのは、それとこれとは別だよねと私は思う。だがプロのライターがどんな意識で原稿を執筆するかの参考にはなるし、氏自らの力量を恥ずかしげもなく開陳するところはある意味誠実と言えるのではなかろうか)
とまあ、かなり上から目線の感想を散文的に書いてきたわけだが、私自身趣味の延長線でちょこちょこ作品感想を書く身であり、本書は襟を正すような部分もあれば、興味深い点もあった。
その意味では有意義だったのだが、勧められる人は案外少なさそうな気がする。
(了)
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