もはやゲームは暇潰しではない。
そう確信させたのは、Nintendo Switchと『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』の登場である。
本稿では、昨今におけるゲームデザインと経済的環境の変化について、様々な好例から、市場ではゲームの「量より質」が評価され、我々の意識も変化しつつあることを述べたい。
要約:
・『スイッチ』は従来のスマホ向けアプリへのアンチテーゼ。
・「質より量」で拡大したスマホ向けアプリと、「量より質」で評価が上がった据え置きゲーム。現代のゲームの二極化。
・こうしたゲームは往々にして無駄がなく、またプレイヤー目線で彼らの体験を尊重している。
・一方ゲーマー、受け手側も、高齢化、普遍化、メディアの進歩によって意識が変化し、「量より質」のゲームを求めるようになった。
Nintendo Switchの進撃
『Nintendo Switch』(以下Switch)と『ブレス オブ ザ ワイルド』(以下BOW)の到来は、ゲーム史における一つのパラドクスと言えるだろう。
全世界を震撼させた2つのインベンションは、一体何を象徴しているのか。私はこれらが、ゲームが「文化」として本格的に進歩した象徴のように思えるのだ。
誤解しないで頂きたい。無論、ゲーム史は最初からインベーダーブームの頃から「文化」として刻まれている。その中で、著しい進歩がこの2つの発明だと言いたいのだ。
2つの発明について、いずれも記事を書いていないため、手短に私の雑感を残そう。
まず『Nintendo Switch』について。任天堂の唱える「カタチを変えてどこへでも」というコンセプトを高い次元で実現させており、これが既存のスマホ向けアプリへの強烈なアンチテーゼのように私は感じた。
時にモニターの大画面でプレイしたり、時にベッドに潜りながらプレイしたり、時に少し外へ出てプレイする経験は、既存の携帯ハードやスマートフォンにないものだった。*1
何故なら、Switchで遊べる『BOW』のもたらす表現力は、スマートフォンゲームとはまるで違うからだ。我々が『BOW』の世界に触れた瞬間、我々のあらゆるインタラクトが許容される。それは決して、定型化した既存のスマホ向けアプリでは実現し得ない。
ではこうした画期的な発明が、「量より質」を重視する市場が、どうやって形成されていったのか。経済的な背景を踏まえてみよう。
「質より量」と「量より質」のゲーム
スマートフォン向けタイトルが驚きの成長を見せている中で、着実にPC・据え置き機共に成長しつつある。
この『Switch』は、現状のゲーム市場を大きく占めるスマートフォン向け作品への決別を象徴するように私は思える。
単なる機動力の問題でない。スマートフォンの性能があれば、本格的なゲームプレイは十分実現可能で、そもそもハード性能に依存せずとも、優れたインディーズゲームは日々産まれている。
それでも、あくまでプレイヤーがお手軽に、かつダラダラと遊べる「暇潰し型ゲーム」、つまり大抵のソシャゲが人気なのは、それが特定の需要を満たしているからだ。
学業や仕事の合間に、情熱も理解もなしで、金と時間があれば、息抜き程度にサクッと暇を潰せる「質より量」のソーシャルゲーム。その作品の在り方は、最初から一般大衆に広く向けられたものだ。
『BOW』はどうか。Switchで間もなく発売される『Skyrim』はどうか。これらは金も時間も少量で構わないが、作品に対する情熱と理解によって更に楽しめる、「量より質」の作品ばかりだ。
つまるところ、今ゲームは二分化される最中にある。一つは「質より量」で多くの消費者に遊ばれる旧来型のゲーム。もう一つは「量より質」で一定のプレイヤーに鑑賞されるアドバンスドなゲームだ。
国内外でソーシャルゲームの勃興や、開発費の高騰により、既存のゲーム市場は一度危機に見舞われた。その中で、既存のゲーム市場が生き残るために、「量より質」を重視したゲームが増え始めたのではないか。*2
オープンワールドそのものの変化
上が『Skyrim』(2012)下が『BOW』(2017)。マップ中のオブジェクトは減り、一方でオブジェクト毎の充実度が増した。
ここで、改めて『ブレスオブザワイルド』について述べたい。
『BOW』は一見すると、従来の『ゼルダ』に既存のオープンワールドゲームのノウハウを取り込んだ作品である。
実際そうなのだが、注目すべきは、既存要素と新規要素を高い純度で結合させ、全く別のゲームプレイに変質している点だ。
もはや『BOW』におけるオープンワールドは、単なる舞台ではない。プレイヤーが冒険するという大筋に則り、収集要素、探索要素、戦闘要素が過不足なくまとまり、常に新鮮なゲームプレイを体験できる。
一方、『シェンムー』『STALKER』のような好例こそあれど、概ね既存の作品は「レース」「シューター」「ADV」「ハクスラ」といったジャンルのミニゲームを、オープンワールドというプレートに点在させていた。
これまでのオープンワールドゲームが、複数のアクティビティからなる「ゲームのサラダボウル」とすれば、『BOW』はそれらが完全に一体化した「ゲームの坩堝」なのだ。
これもまた、先述した「質より量」「量より質」の問題に例えられる。何故なら、旧来型のオープンワールドゲームは、既存のゲームプレイを、個別のまま並列させる傾向にあった、即ち「質より量」に近い作品が多かったためだ。
こうした進歩は『BOW』に限ったものでない。昨今でも極めて濃厚なシナリオを描いた『ウィッチャー3』、昼夜概念を練ってダイナミックな旅を演出した『FF15』、先述した『シェンムー』『STALKER』の意志を継ぐような作品が続々と産まれている。
コアなゲームに求められる姿勢とは
無論、『BOW』のようなオープンワールドゲームに限らず、自分がモニターの前でコントローラー(ないしマウス)を握っている感覚すら希薄になるような、高い「プレイヤーファースト」の名作が続々と産まれている。
挑戦心でなく好奇心のみでゲームをプレイさせる『風ノ旅ビト』、プレイヤーの選択肢を重視しつつ作品側も大胆に展開する『Undertale』、本格的に史実の戦争を体験して歴史を振り返る『Battlefield 1』。
こうした作品は、プレイヤーは、コントローラーを握っているオッサンでなく、ゲームを体験する「クライエント」となり、ゲームプレイと一体化する前提で、形成されている。
また、私は質の高いゲームとは、即ち「無駄のないゲーム」であると考えている。
現に、ダラダラ続くカットシーン、無駄に煩雑なシステム、反復作業や没個性的なゲームプレイ、強制的な収集要素は、概ねカットされる傾向にある。
もはや長く遊べることはゲームの魅力ではない。映画産業で、基本的に2時間程度に映像を編集するよう進歩したのと同じく、どれだけ無駄のない、意味のあるゲームプレイを体験できるか研磨することが問われている。
何がゲーマーの意識を変えたか
こうした進歩には血の滲むようなディベロッパーたちの努力があったことは間違いないが、最も重要なことは、こうした「量より質」の作品が受け入れられる市場が形成されていることだ。
例えば、映画の歴史を振り返っても、黎明期のコメディやポルノから、映像という文化が研ぎ澄まされていったように、高度な作品は、相応に高度な鑑賞者がいなければ作られない。
「質より量」のソシャゲ、「量より質」の現代ゲーム。日常の中で軽くゲームに触れる多数のユーザーと、趣味としてゲームを嗜む一定のゲーマー。後者は何によって産まれたものか。
まず1つ目に、ゲーマーの高齢化が考えられる。「ファミリーコンピュータ」が発売された1983年から30年以上経過しており、子供の頃ゲームに触れた人間が、今も遊び続けているのなら、より高度な作品を求めるのは自然なことだろう。
2つ目は、ゲーム文化の定着である。「高齢化」同様にゲームそのものも長い年月を経て、既存のノウハウを活用して新たな作品に昇華させ続けてきた。『BOW』も既存のノウハウありきという点で同じである。
3つ目は、メディアの進歩である。現代では既存のゲーム雑誌に加え、SNSや動画サイト、掲示板、ブログを通して、ゲームについて語る媒体が拡張された。
この点は特にゲームの進歩と強く結びついており、ゲーム文化の進歩とネットの普及がたまたま同時に進んだことが、オンラインゲームやメディアの発展に貢献したことを考えると、これらは車の両輪と考えられる。
結論
現代でのゲームシーンは、「量より質」のゲームの登場により二極化している。
同時に、情熱や理解を伴う高度な作品の需要が産まれ、こうした作品は無駄のない徹底したブラッシュアップと、プレイヤーの体験を尊重するアプローチを重視する。
こうした背景には、プレイヤーの高齢化、ゲーム文化の成熟化、メディアの進歩といった点が考えられるが、変化する市場に合わせて様々な水準が向上する現代ゲームシーンは理想的と言える。