今日、このような増田の投稿を見かけた。
私の会社にはクリスチャンがいる。しかし私を含め誰一人、その事で不安になるものは居ない。(中略)
しかしこれが新興宗教となると気持ちが一変する。私の中の警告アラームが鳴り出し、倫理観で抑えようにも抑えきれずにいる。そしてこれは私だけの感覚で無いと確信さえしている。
つまり、この増田さんは「自分でもダメなのはわかってるけど、どうしても新興宗教の入信者と伝統的な宗教の入信者との間に、差をつけてしまう」ということで悩んでいらっしゃるらしい。また増田さんの仰る通り、この二つに差をつけてしまう日本人は恐らく結構多いと思う。私もなぜかそうだから。
この差は何なのだ。なぜ受け入れられる信仰と、受け入れられない信仰が、無宗教である私の中に既に形成されているのだろうか。
そんな事を考え続けいるのだが一向に答えが出ない。
そう、まさにこんな感じだ。
だから今回はこの差、そしてこの差がどこから生ずるのかについて扱ってみようと思う。信仰というのはかなり難しいテーマになるゆえ、ことばには配慮したい。
新興宗教の定義
まず字面上の定義をしっかりと押さえておこう。
伝統宗教というのはいわば「昔の昔から信仰されている宗教」のことである。昔の昔というのがどのくらいを指すかというと、実は国によってまちまちだ。
(新興宗教はその逆、比較的近代に生きる・生きた誰かによってつくられた宗教だろう)
例えばアフリカ人は伝統的にアニミズム(目に見えない霊魂が自然のいろんなものに宿っていて、それによって自然現象を説明しようとする思想)を信仰していたが、19世紀に宣教師がアフリカに渡って以来、キリスト教が広まった。
実はアフリカ人から見れば、「アニミズム」こそが伝統宗教であり、本来日本では「伝統宗教」とされているキリスト教は比較的新しい宗教なのだ。
種族宗教といったものが無視されたり過小評価されていた時代、アフリカでキリスト教を広めることに宣教師たちは成功していた。しかし近刊『アフリカにおける神の概念』(新版)は、キリスト教が実際には伝統宗教のいくつかの解釈によって助けられている、と指摘する。
ここでいう伝統宗教はお読みいただければわかるが、キリスト教やユダヤ教などの、いかにも伝統伝統した宗教のことではない。彼らがもともと信仰していたアニミズムのことだ。つまりキリスト教は伝統宗教とはみなされていないことを示す。
日本で言えば専ら、
伝統宗教……明治以前に誰かが作った宗教
新興宗教……明治以降に誰かが作った宗教
という風に区別するらしい。
既成宗教に対し、新しく興った宗教。多くは教祖を有し、現世における救いを説くものが多い。新興宗教。
特に、幕末・維新期以降発生した多くの宗教集団をさす。(デジタル大辞泉)
つまり、字面での定義だけで考えるとこれ以外の差は存在しないようだ。
にも関わらずこの二つにそれ以上の差があるように思われてならないのは、きっとこの増田さんや私だけではないような気がする。
それを解明するため、特に「新興宗教」ということばがどのように用いられるかを探ってみようと思う。
新興宗教=カルト宗教?
本来は新興宗教ということばは専門書とか文献ではあまり用いられず、新宗教のほうがよく使われる。にも関わらず現在一般には「新興宗教」のほうが膾炙している印象がある。
このことばについて、日本人はどんなイメージを持っているだろう。
おそらく宗教についての知識がほとんどない、無宗教的(と自分で思っている)日本人ならば、新興宗教なるタームに「危ない」とか「怪しい」というイメージがつきまとってしまうのではないだろうか。
少なくとも、よい印象は抱いていないように思われる。
日本では宗教による様々な事件が起こっており、新興宗教=危ないという価値観はその事件ごとに次第に熟成されていったものと考えるのが自然だろう。
昔の日本人の宗教観がどういうものだったのかは詳しく文献をたどらないとわからないが、今の日本人に関していえば例えば「オウム真理教の地下鉄サリン事件」「はいみなさん最高ですか の超宗・法の華三法行 の詐欺事件」などの報道を聞いたことで、「なんとなく(新興)宗教ってヤバそうだな」というイメージがついてしまっていると思う。本当は別に何の害もない、普通の新興宗教もあるのだが。
平たく言えば、ごくごく一部のカルト的な宗教と普通の新興宗教とが一緒くたになっていることで、新興宗教全体が風評被害を受けてしまっている、ということだ。
その一緒くたなのをちゃんと切り分けて考えられるような人というのもなかなか存在しない。このようにして「新興宗教=危険」という謝った一般化が進んでしまったのではないか。
宗教への無理解が引き起こす偏見
この根本的な原因には、「宗教への無理解」があるように思われる。
日本人は普段から宗教を意識することがほとんどない。神社にお守りを買いに行き、クリスマスを祝い、でも葬式は仏教式、だけど自然にはいろんな神様がいるとも思っちゃってる。この雑多具合はむしろ「宗教性」を日々の暮らしから取り除くのに役立っている。これは結構変わっているらしい。
初詣もクリスマスも節分もハロウィンも何もかも、本来の宗教的意味を意識することはほとんどなく、「みんながやってるから」「なんとなく楽しいから」ぐらいの理由でやる。
そういうわけで逆説的ではあるが、宗教にあまり関心を示さない日本人は、数々の宗教を危険なものとして排除しようとするのかもしれない。
異端さの尺度
その際、「本当に危険かどうか」「どのくらいカルト的か」というわかりにくい尺度ではなく、「どのくらい異端か」というまっこと主観的な尺度で切り分けられる。
切り分けるというのは区別するのと同義で、これが増田さんの「どうして我々は新興宗教と伝統宗教を区別してしまうのか」という問いへの理由説明になっている。
即ち、我々が宗教というものを二つに切り分けるとき、「どれくらい我々に身近か・聞き覚えがあるか」という主観的な尺度を用いるため、必然的に年中行事が絡む宗教、日本で流行していた宗教は身近なものとして、つまり危険じゃないものとして認識されるが、その逆……聞き覚えがない宗教は危険なものにカウントされてしまいがちだ。
そして、前者は主に伝統宗教(仏教とかキリスト教とか)が入り、後者には新興宗教がよく入るため、半必然的に「伝統宗教はまあいいけど、新興宗教はなんか危険そう」というイメージが生まれるのではないだろうか。
データに基づいて、この宗教はどんな事件を起こして何人を巻き込んだか……?という議論をするならば、つまり尺度が「どのくらい危険でないか」ならば、オウム真理教のような危険な宗教とその他の人畜無害な新興宗教とをある程度は分けて考えられるのだが、そのようなメンドイことをやろうとする人もあまりいないので、「新興宗教ってなんとなーく危険そうだけど、どこがどう危険なのかは説明できない」のも無理はない。
そしてこの根拠になるのが、「社会学の専門用語である『新宗教』ではなく、『新興宗教』ということばが一般に膾炙している」という事実だ。体系化された学問を(仮にの話だが)全員が学んでいたとしたら、その専門用語を使うに違いない。が、実際には、社会学ではあまり用いられない、新興宗教ということばのほうが日常でよく使われている。みんな実はあまり学んでないんじゃないか?という印象を持った。
もちろんことばの使用だけで決めつけるのはあまりに安直だとわかっているが、日本人の宗教への無理解を示す一根拠ぐらいには、なるのではないかと思う。
もしくは、Youtubeのオウム真理教関連の動画に湧く、「こんな最低なことをする奴らは即刻死刑でいいよ」というような極端な言論も、根拠にはなるだろう。
おわかりかとは思うが、あの事件が本当に恐ろしかったのは、「自分か、自分の身近な人たちが、役割を与えられることでいとも容易く非人道的行為に走ってしまう」という事実であり、彼らは決して生来の悪魔なんかではなかったのだ。
自分がいつかそうなるかもしれない、という考慮をせず、「最低なことをする奴ら」だと口汚く罵るさまは、危険な宗教の本当の怖さについて何一つわかっていないのだなぁと思わされるが、どうだろうか。
カルトかどうかの判別は難しい
その宗教を「どのくらい身近か」で主観的に分けることはあまりよくないにせよ、「じゃあカルトかどうかどうやって客観的に判別するんだ」と聞かれると、これがなかなか難しいのである。どんな事件が起こったか、いくら騙されたかなどは判別できるが、それがどのくらい人々にとって脅威か、まさか点数をつけるわけにもいかないし。
サリン事件を起こして国家転覆を謀ったオウム真理教は言わずもがなにせよ。
だが、たとえば「御布施」と称してけっこうなお金を人々に払わせる宗教が「本当にカルト的か?」と聞かれると、確かに悪質ではあるだろうが彼ら自身が心から望んで払うのであれば……という風になってしまう。宗教である時点である程度の洗脳は免れないのだし、その線引きも難しい。免罪符の例も過去にはあるしね。
かといってお金を宗教に払わせることを全面的に禁止なんてすれば、おちおち戒名も付けられないだろう。そもそも御布施で成り立つ新興宗教も多いのだし、宗教自体が立ちいかなくなる恐れもある。
フランスでは、「セクト(日本で言うカルト宗教みたいなやつ)を一目で判別するのはめっちゃムズイ」と言いながらも、だいたいの指標みたいなものが存在する。
精神的不安定化、法外な金銭要求、元の生活環境からの引き離し、身体への加害、子どもの加入強制、反社会的な言説、公序侵害、裁判沙汰の多さ、通常の経済流通経路からの逸脱、公権力への浸透の企て
より引用
これに一つでも当てはまればカルト宗教リストに載るわけだが、逆にギリギリセーフの宗教をカルト認定すると、多くの人が批判するのは目に見えている。
この指標も絶対的なものでは決してなく、導入までに多数の批判があったことは覚えておきたい。思想の自由や信仰の自由とカルト認定で折り合いをつけていくのはスンゴク難しいのだ。
というわけで何が言いたいかわからなくなってきたところで結論を出そう。
今日のまとめ。
「新興宗教を危険なものに捉えてしまう」のは、我々の宗教への無理解が原因の一つだと思われる。無理解であるがゆえ、宗教の線引き基準は「本当にそれが危険かどうか」ではなく、「自分にとって身近か・聞き覚えがあるか」になり、その結果、割と身近で聞き覚えのある伝統宗教は「危険じゃない」が、身近じゃない新興宗教は「危険だ」と捉えられやすい。(絶対的な指標ではない)
だがかといって、本当に危険かどうかを判別するのもまた、一筋縄ではいかず、議論はとても難しいだろう。
……という話でした。かなり、いやとても主語が大きいと自覚してますが、私一人だけの問題にしちゃうと何も議論できないので、ある程度はお許しください。
追記:日本ほど宗教に無関心でないであろうヨーロッパの国々でも、「新興宗教そのもの」に対する差別がないとは言えないだろうし、以前、主流派でない(支流派である)プロテスタントが(主流派の)カトリックから蔑まれてきたという過去もあります。
そもそも「セクト」ということば自体、分派という意味です。
もしかしたら、自分から見た異端なものを危険なものとして遠ざけたがる心理は、日本人に特有のものではないのかもしれません。つまり日本人の宗教への無理解はあんまり関係ないという、私からすれば泣きたくなるような結論さえ導けるのです。
……その場合、さらに主語が大きくなるわけですが。