ぼくはとてもブッキッシュである。いわゆる本の虫というやつだ。しかし、いや、だから、かもしれないが、本を読むという行為をそれほど大仰なものとは考えない。むしろ非社会性、非生産性、後ろめたさを強く感じる。それが読書の本質ではないかとすら感じるのである。よく、「読書のすすめ」めいた文章で、読書は汝の血や肉になるとか、良書は生涯の友とか、やたらに読書を礼讃するものがあるが、どうも共感できぬ。「消費」という言葉がぼくの感覚では読書という行為をいちばんよく表現しているものになる。ぼくにとって読書は純粋にエンターテインメントである。ちょうど映画を観たり音楽を聴いたりするのと同様の行為なのである。たとえ、ニーチェだのフッサールだの折口だのであっても、すなわち一般にいくら高尚あるいは高級に見えるものであってもやはりおもしろいと感じるから読むのである。ましてや大江健三郎だの中上健二だのというこれまた一般には難解だの読みにくいだのと言われる小説であっても、小説はあまねくエンターテインメントであり、おもしろいからこそ読むのだ。高橋源一郎氏からの孫引きであるが、ジョイスは朗読会で「フィネガンズ・ウェイク」を朗読したあと、観客に向かって「よかったか」と訊いたのだという。「わかったか」ではなく「よかったか」。こうでなくては。
池波正太郎を読んでいる。普段はまったく本を読まぬ男が、である。仕事場である。確かに彼は今日非番なのに、休日出勤できているのである。立派ではある。しかも仕事が一段落したのであるから、ある程度の時間は彼の自由に使っても構わないだろう。しかし。だのに。なぜ。どうして鬼平犯科帳を読む必要があるのだろうか。しかもおもむろに二十七巻である。大方の予想はできる。さる上司に言われたのだ。「君も読書くらいしたまえ」「はあ」「そうだ。池波正太郎がいい。おもしろいぞ。うん、二十七巻あたりは最高だよ。はっはっはっ」
確かに池波正太郎はおもしろい。料理の描写はうまい。しかし。
こういう思想はよくないかもしれぬが、やはり読んでいて恥ずかしい本とそうでない本はあるのだ。池波正太郎は、机の上にこれみよがしに「うっす。おれ、今読書っちうのやってるッス」と置いておくには恥ずかしい本ではないのか。少なくともぼくの規範ではそうなのだが。司馬遼太郎。山岡荘八、吉川英治、このあたりはやはり「読んでるっすー。読んでるっすー」と自慢げに机上におくべき本ではないのではあるまいか。反面、岡本綺堂、いいではないか。山本周五郎、いいね。中里介山、うむよろしい。山田風太郎、やっぱいいよなあ。そういうものではないか。それともぼくの感覚のほうがおかしいのだろうか。なのに、どうして彼は読みかけの池波正太郎を机上に、しかもあたかもポートレイトのようにブックスタンドの前に表紙をさらして立てかけているのだろうか。わからぬ。まったく分からぬ。
そもそも仕事場で本を読む必要がどこにある。ぼくの感覚の中でそれはヘッドホンステレオで音楽を聴くのと同じものだ。携帯液晶テレビをやにわに取り出して見始めるようなものだ。それほど仕事に対して誠実でないぼくですら、それがやっちゃいけないことであるというくらいの規範は持ち合わせている。しかし、彼はなぜ読んでいるのだろう。この事業所一仕事熱心な彼が、である。
あっ。もしや彼は読書を「なんだか凄く高尚なもの」と捉えているのではなかろうか。捕物帖を読むことを、まさか、ま、まさか、自己研鑚であると捉えているのではありますまいな。
謎は深まるばかりでございます。とりあえず、二年前「おすすめの本を貸してくれ」と乞われてぼくが貸した丸谷才一さんの「横しぐれ」、覚えていますか。読んでないでしょ、一ページも。読まないのなら返して欲しいんですが……。初版だし……。
そもそも本を読むという行為は罪悪である。始皇帝の焚書は為政者の統制策としては正しい。「華氏451度」なんて作品もある。しかし、やはり読書は崇高なものであるという誤解は巷間流布するところのものである。普段本を読みつけない人間がたまに読んだときのスノビッシュな行動というものはなかなか始末に終えない。高度に知的な作業をしているという誤認のもと、自分に酔いしれてしまうのだ。なんとかならんものか。
フォーサイスを読んでいる。普段はそれほど本を読まぬ南田が、である。学生時代のことである。われわれの溜り場である。フォーサイスではなくトム・クランシーであったかもしれぬ。ともかくそういう分厚い上下巻のエンターテインメントである。南田はとてもスノビッシュなやつである。知的なものに弱い。しかもお馬鹿さんである。どれくらいお馬鹿さんかというと、「漁夫の利」ということを「ぎょりのほ」と覚えていたくらいのお馬鹿さんである。それは「あつがなつい」と同じくスプーナリズムと呼ばれる音節転倒ではないか、言い間違えただけではないのか、それだけをもって馬鹿というのは酷ではないのか、だいいち「ぎょりのふ」でなく「ぎょりのほ」なのだから少なくとも原典は踏まえているのではないか、との意見もあろう。しかし、彼は確かにこの言い間違いの三日前までは「漁夫の利」という言葉すら知らなかったのだ。そのころ我々の間ではPCエンジンの「ボンバーマン」とうゲームが流行っていた。ご存知の方も多かろうが、このゲームは数名で対戦できるもので、仕掛けた爆弾で相手をやっつけるという趣旨のものである。間違って自爆してしまうことも多く、そこが大勢でやるときには盛り上がるもととなるのだが、みんなが爆死してしまい、ほとんど何もしなかった奴が生き残る状態をさして、我々は「ぎょふのりいい」「ぎょふのりいいい。正確にはぎょほのりいいい」などと盛り上がっていたのだ。その場所にKもいた。その三日後である。南田もボンバーマンに参加していた。やがて南田以外の全員が爆死してしまった。彼は喜んで声高らかに叫んだ。「ぎょりのほおおおおお」
それからの三年間、彼の綽名は「ぎょりのほ」であった。
話が逸れた。とにかく南田は読んでいる。これ見よがしに読んでいる。しかし、敢えて我々はそのことに触れない。「何を読んでいるのか、訊いてほしいよ。訊いてほしいよ」というオーラが彼からあからさまに発散されている、それゆえに我々は触れないのである。
やがてページを閉じて南田はふうっと息を吐き出した。「ああ。おもしろかったなあ」
明らかに、本を読んでいるんだよ、と誇示しているのだが面倒くさいので我々は無視して馬鹿話に花を咲かせている。南田は、ぼくそんな馬鹿話には加わらないんだよ、だって本を読んでいるからね、読んでいるんだからねえ、という表情だ。こいつは逆テレパスか。ほんとうに何を考えているか丸わかりである。彼はまた声に出していった。「さあて、続きを読もうかなあっと」そして、下巻を手にとる。
しばらくして彼が「あれっ」といったときも我々はまったく無視していた。だが、続けて彼は「あれ、あれれれ」などと言っている。いつもの聞こえよがしの言い方ではなく本当に驚いている声なのでぼくはついに訊いた。「どうした」
南田は二冊ともにかけていた書店のカバーを外して、ためつすがめつ眺めたあと、ぽつりと言った。「どっちも『下』だ」
彼は上下巻のつもりで、両方「下」を買っていたのだ。まず、下巻を読了し、次にまた下巻を読み始めようとしていたのだ。下巻から読み始めたら普通気づくだろうが。一ページ目くらいで気づかんか。おそらく彼は「読んでいる」という演技に夢中で本を読むこと自身を忘れていたのだろう。
村上春樹の「ノルウェイの森」が上下巻色違いだったのは、こういう読者を想定してのことなのかもしれぬ。
そういえば南田の口癖は「池波正太郎おもしろいっすよ」だった。
侮りがたし、池波正太郎。