しかしこの年、池田の下で大蔵省(現・財務省)主計局長に就いた石野信一は、口述資料の中でこう述べている。「僕は減税で皆を喜ばすだけじゃあんまり効果がないんじゃないかという考えの方が強かった」。
もっとも、池田は大蔵省主税局出身の税の専門家。大蔵省が池田の減税策を拒むことなどできはしなかった。池田は約4年の首相在任中、自然増収で国庫に入ってきたお金の一部を減税で納税者に還元した。そして、池田の後を襲った佐藤栄作もそれを踏襲し、75年度まで続いた。池田は自然増収分の8~16%を減税に充てたが、佐藤はさらに拡大。減税で民間活力を引き出し、さらに成長を遂げるというパターンを定着させようとした。
財投活用で社会インフラを整備
この時、池田が取った財政政策には、もう一つの特徴があった。一言でいえば、税負担とそれを原資にしたインフラ整備や社会保障、教育などの給付の関係を国民に見えにくくしたことだ。
当時の大蔵省には、予算をなるべく拡大しないという考えが強かった。戦後すぐのハイパーインフレが生々しかったからだ。予算を膨張させれば歳出増から景気過熱につながり、インフレの可能性が高まることを恐れた。そこで税収を国民所得の2割に抑え、予算も徹底して管理しようとした。
そのために取った政策が、高速道路や空港など大型インフラの整備に、郵便貯金や年金資金の運用をする財政投融資を活用することだった。この結果、池田の就任時に一般会計の37%程度だった財政投融資の規模は、10年後には約50%に達し、以後も膨張を続けた。
これが大きな影響を及ぼした。「(財投を活用したことで)国民は目の前で作られている道路や橋が自分の税金でできているとあまり考えなくなった」と慶応義塾大学教授の井手英策は語る。
そして、この財政政策は73年の第1次石油危機で高度経済成長が終わりを告げると第2期に入った。ここでの特徴は、経済成長の鈍化で、所得税の自然増収が難しくなったにもかかわらず減税を続けたことだ。池田以来の所得税減税は75年度まで継続し、1年置いて77年度にも実施された。
とはいえ、所得税の自然増収が見込めない中で減税をどう実施するか。そこで登場したのが法人税増税という一策だった。例えば74年には、当時首相だった田中角栄が法人税を3.25%引き上げる一方、2兆円の所得減税を実施した。
同年7月まで主税局長で、のちに次官になった高木文雄は口述資料の中でこう語っている。「(法人税を大きく上げるという)相当勇敢なことをやってのけた。我々にすれば、法人税は重く、所得税は軽くして、法人(の社員)が飲んだり食ったりするのを抑制する方向にする」と。