18人の体験談を漫画で紹介
「うつヌケ」は、「うつのトンネル」を抜けた18人の体験談を漫画で描いた作品です。ロックミュージシャンの大槻ケンヂさんや作家の宮内悠介さんなどが登場し、うつ病になった理由や回復のきっかけなどを紹介しています。
冒頭は、作者の田中圭一さん自身の体験談です。漫画を描きながらサラリーマン生活を続けてきた田中さんは、会社を変えて慣れない仕事を始めたことをきっかけに、うつ病になりました。
田中さんの「うつのトンネル」は10年近く続き、作品では、「ボクが50歳をむかえる日に自殺してあげる」とまで思い詰めた心境や、「あーっ!空気がうめぇ!!」と実感した「うつヌケ」の瞬間などを、手塚治虫さんのタッチで描かれた自分自身に、赤裸々に語らせています。
異例の同時掲載でピンチ脱出
コンビニで偶然手にした1冊の本をきっかけに、「現状の自分を肯定すること」を実践して「うつヌケ」を果たしたという田中さん。今苦しんでいる人を救えるような作品を世に出そうと、それまでのギャグ漫画の作風とは大きく異なる今回の作品に取り組むことにしました。3年ほど前のことです。
田中さんは一緒に作品を作ってくれる出版社をツイッターで募集し、大手出版社のKADOKAWAが出している電子雑誌「文芸カドカワ」で連載するという話になりました。
しかし、その際に提示された原稿料では、アシスタントや取材の経費を賄うことができません。このままでは連載をスタートできないと判断した田中さんは、「奇策」に出ます。
クリエーターが作品を掲載・公開できる「note」というサイトの運営会社に、相談を持ちかけたのです。「note」には作家の吉本ばななさんや平野啓一郎さんなども作品を掲載していて、有料作品の場合、読者は気に入った作品を購入することができます。田中さんは作品をここにも掲載することで、原稿料の不足分を補えないかと考えたのです。「note」と出版社が話し合った結果、双方が同時に同じ作品を連載し、それぞれが田中さんに原稿料を支払うという方法が取られることになりました。
三者それぞれに大きなメリット
出版業界では異例のこの方法、原稿料のメドが立った田中さんだけでなく、noteと出版社にもメリットをもたらす結果となりました。
noteでは田中さんの作品を1話100円で販売。コンテンツの充実につながったうえ、登録している人の中で「うつヌケ」に興味がありそうな人に直接メールを送るなど効果的な宣伝も功を奏し、原稿料をはるかに上回る売り上げを得ることができました。
一方、作品の版権を持つKADOKAWAは、「文芸カドカワ」の連載終了後のことし1月に単行本を発行。この段階で2つの連載による前評判が高まっていたことが単行本の売れ行きに拍車をかけ、重版の判断などがスムーズにいったということです。
「ウェブで作品を発表していると、ツイッターなどにも作品をそのまま載せることができる。ウェブで連載して人気に火をつけて、口コミなどで広がり、多くの人たちに買ってもらった」(note運営会社 加藤貞顕代表)
「1つの作品を同時に別の媒体で連載していくというのはとても新しいやり方だと思います。お客さんの趣味趣向が分かれているので、そういう中では媒体が2つでもよかったと思いました」(KADOKAWA 菊地悟さん)
「1人で製造から販促まで」
田中さん自身も、作品をより多くの人に読んでもらう工夫をしていました。noteには、作品にアクセスした人がその作品の1ページ目を無料で読める機能があります。田中さんは当初、作品の1ページ目をそのまま公開していただけでしたが、連載の途中から、掲載内容を1ページにまとめたダイジェスト版、いわば映画の予告編のようなものを公開するようにしました。
また、そのダイジェスト版を自身のツイッターなどにも載せることで、より多くの読者に「作品の続きを読んでみたい」という気持ちにさせることに成功したといいます。さらに、単行本の発行後も、うつ病の人が思わず「あるある」と共感するような話を1枚のイラストにして自分のツイッターなどに投稿し続け、話題を切らさないよう努めました。 「私のツイッターは今、6万人以上フォロワーがいて、小さなメディアになると考えています。1人で製造から営業、マーケティング、販促まで全部やっていて、やる気のある人にとってはこんな楽しい時代はないと思います」
田中さんは、漫画家は今後さらに、みずからが作品の売り方を考えて実践する力が必要になると考えています。このため、京都精華大学マンガ学部の「新世代マンガコース」でこの春から授業を始め、今回の経験を伝えています。
田中さんは「これから漫画家を志す大学生にフィードバックして、漫画だけで生活していく『すべ』を教えていきたい」と意気込んでいます。
作者みずからの働きかけで連載見送りの危機を脱し、2つの媒体で連載するという異例の方法で始まった漫画「うつヌケ」。うつのトンネルを抜ける手がかりだけでなく、作り手がいかにして作品を世に広めるかという販売戦略を考えるうえでも、多くのヒントが詰まっています。
- 科学文化部
- 岩田宗太郎 記者