と
を、流し読みして(失礼)、ちょっと考えてみた。「ここまではついていけるけど、ここからはちょっとじぶんとちがうなあ」って部分がどちらにもあったのだけれども、まあ、そういう部分をどうこういうには綿密に読まないといけないから、話のだしにして、放置。
人間と意味を考える文脈では、意味を次の二つに分けてかんがえるといいとおもった。
1.手段としての意味
2.目的としての意味
そして、人が「目的としての意味」で語られる限りなら何の問題もないのだが、「手段としての意味」で語られだすと、「それはおかしい」と反発したくなるのである。
この二層の区別に目を向ければ、人間と意味をうまく扱えるようになるんじゃなかろうか。
人間を「手段として意味」のなかで語るというのは、人間以外が目的となっているときに生じるとおもう。たとえば、
「このプロジェクトのために、Aさんがいる」
とか
「理想の幸せな家庭のために、子供がいる(親の自己実現のために、子供がいる)」
とか
こういった場合だ。これは、人間がほかのことがら(プロジェクト、家庭)の手段になっている。
換言すれば、手段でひとを語るというのは、ひとを利害関係の中に布置する、ってことだとおもう。「これこれの利益に資するから、あるひとがいる」というのが、ひとを手段をして扱う、ということだ。こういうとき、人生の意味がとても重たくなって、泥濘のなかで身動きが取れないような気分になる。(「金が絡むと、じぶんの神聖な営みがなんかけがされる気がする」ってときどき耳にするような気がするけど、そういうときは、「利害関係の中に布置されている」って感じているだとおもう。)
おそらく、かの偉大な哲学者さんならこういった手段となった人間を「たんなる物件」なんて言葉で語ることだろう(ちがうかな。ちがいそうだ)。
対して、人間を「目的としての意味」のなかで語るというのは、
「Aさんが生きるために、このプロジェクトがある」
とか
「この子が生きるために、わたしたち両親が在る」
とか
こういった場合だ。
このとき、Aさんや子供には目的としての意味がある。
仮に、こういった意味付けを「まどろっこしくて、うっとおしい」と感じるならば、それは、「失敗したらどうしよう。不利益を与えてしまう」みたいな利害関係のなかに置かれていると感じているからだとおもう。でも、世の中、そういった関係性ですべてが尽きるというわけではない、って感じているし、信じている(まあ、信じている時点で、疑っているのですが。「〇〇のこと、わたし、信じいるから」っていう人は、疑っているから「信じている」っていうわけで。)。
手段の地平からは、
人は意味もなく生まれる。
子は意味もなく生まれ - ←ズイショ→
けれども、
目的の地平からは、
「人は意味をもって生まれる」
のだとおもう。
だから、観点によって、人生に意味はあったり、なかったりする。
人生には意味が、あるかないかのどちらかだ!、ってなっちゃうときは、たぶん、ちょっと休んだほうがいいとおもう﹆ひと呼吸。意味がある地平、それか、意味がない地平、を見落とすくらい、なんか切羽詰まってるんだとおもう、そういうときって。そういうふうに落ち着いていられないときって、じぶんをみつめきれていないときで、そういうときは、なんか、不寛容になるし(「他人を思いやること」は「じぶんのことをかんがえること」からはじまる- - 暇半桃花鳥’S LOKA!)。じっさい、いま、わたしは、落ち着いていられないから不寛容だし。落ち着いて、一呼吸して、いろいろ見つめてみるのも悪くないとおもう(自戒)。
この二つの違いを見落とすと、わけのわからない話になって、紛糾しだす。
もちろん、手段として人間が扱われる場面はあるかもしれないが、それは、「その人のため」のあとにくる話で、最初にでてくる話ではない。
たとえば、
「この子のために、勉強できる環境を整える」というのが先にあって、
そして、こういった、ひとを目的とする思考が、「この子が勉強して、社会のために役立つひとになって、ゆくゆくは、老いた私たち両親をも支えてほしい」といったような「子供を子供以外のための目的の中で語る」条件に、つまり「子供を手段として語る」条件になる。
「老いた私たちのいる将来の社会のために、この子が成長できる環境をいま整える」が、「この子のために云々」に先行することはないのである。
あくまで、「目的」→「手段」の順番だ。
だから、生まれたときには手段としての意味なんてない。でも、生まれた後には、手段としての意味が付帯することがある。というか、この資本主義社会において稼いで生きていくってのは、多くの場合、手段としての意味をどれだけ纏えるかって話なんじゃないだろうか(典型的なのは、「人材」ってことばだ。まさにひとを手段としてとらえる発想から、「材」ということばがでてくる。優秀な「人材」は、たくさんの「手段としての意味」を有っている)。そうおもう。
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だから、わたしは、できちゃった婚(まあ、ズッコンバッ婚でも授かり婚でもなんでもいいですが)に、結構さんせいだ。
「なんか、生命宿しちまった。ウゲー俺に似た子どもなんか見たくねえ」とかいいつつ、実際生まれた子供を見るとどうしようもなくいとおしくなって、
「もう、俺はこいつのために生きていく!」ってなって、
世界が嬰児中心に、少年少女中心に、青年中心に、推転していく。そういうもんだとおもうんだけど、あまり共感されないかな。
これは、少年少女の恋心をうたったものだけど、まさに
「理想も妄想も現実も、すべて君を軸にまわる」(中二病でも恋がしたいOP 「Sparkling Daydream」)。そして、子供の顔を見て、一緒に過ごすうちに「新しい世界へ」ってなる。こういうもんじゃないのかな。
逆に、
「やったー、わたしたちの子供ができたよ!幸せな家庭を築いていこうね」
みたいありがちなセリフは(こんなんないか?)、「なんかちがう……」と思ってしまう。「幸せな家庭」を先に語ってしまうのが、なんかなあ、とおもうのだ(当人は、「もちろん、子供が第一です。言いがかりはやめてください」って言うと思うけれどもね。)。
こんなときにまず紡ぎだされる言葉が「この子のためにこれからも頑張っていこうね」だといいな、っておもう。
必然や計画からではなく偶然からでもだれかを愛せるような人のほうが、かっこいいとおもった。そして、そんな偶然をささえられる社会をつくってみたい。