2008年、初めての退場、初めてのケガ。
そして4回の手術を経て
箕輪義信の現役時代は終わりを告げた。
2011年まで2年半リハビリでもがき続けたが
復帰の夢は叶わなかった。
そのせいだろうか。
箕輪の魂はまだピッチの上をさまよっているよう見える。
背中から黒い炎を立ち上げながら
ピッチに入っていたころの迫力は健在だ。
現役時代からあまり口がうまい人物ではなかった。
教師になった今も多くのことを抱え込み
きっと苦しんでいることだろう。
話し始めたときは背中が丸まり、
胸の中にたくさんの空気が入っているようだった。
そんな状態で箕輪はポツリ、ポツリと語り始めた。
どうして川崎時代にあれほど追い詰められた表情だったのか。
札幌に行って何が変わったのか。
そして1試合だけで終わってしまった日本代表に何を思うのか。
7年間見られなかった録画があるという。
その映像の中で相手が自分を引っ張らなければ
人生は変わったのではないかとも思うそうだ。
消化し切れていない思いを少しだけでも語ったことが
箕輪にとってはよかったのかもしれない。
話し終わるころには少し背筋が伸びていたのだ。
今は娘たちの成長が楽しみだという。
そして再び選手登録をしてボールを蹴っているそうだ。
最後は辛かったのだろうが、
サッカーがいつまでも箕輪を救ってくれることを願わずにはいられなかった。
あのシュートが入ってたら、きっとオレの人生は変わっただろうな
川崎が攻撃的なサッカーになった瞬間を憶えてますよ。2003年シーズンが始まったときに、石崎信弘監督がみんなにビデオを見せるって、2002年10月8日のスペインリーグのDVDを上映したんです。「石さん、バルサ好きだからな」と思ってバルセロナの試合かと思っていたら、ベティスvsレアル・マドリーで、しかも、ベティスを見ろと言うんです。前半が終わりそうになったところで電気系統の故障がおきて中断した試合で、後半だけのゲームでした。
その試合でのベティスは信じられないくらい相手にプレスをかけてた。それでビデオが終わったときの正直な感想は、「だってこれ45分間しかやらないじゃん」ってみんな思ってたんです。ところが石崎監督は「わしゃ、このベティスがやりたいんじゃ」って。そうなったらみんなでやるしかない。それで90分間走り回れる走力を付けるところからでした。そこからですね、変わったのは。実績のある人たちも次々にいなくなって、もう自分たちがやるしかないって追い込まれたと思います。
その石崎監督のときに川崎にいたメンバーが次々に代表に入っていきましたよね。我那覇和樹、中村憲剛、寺田周平さん……。あそこで走りを鍛えられたのがよかったんじゃないでしょうか。
2005年10月、自分が最初に代表に選ばれたときは……すごいみんなに申し訳なくて……きつかったですね。うれしかったけど、苦しかった。自分はコンプレックスが凄くありましたから。周平さんにしても伊藤宏樹にしても、高さもあったけれど足下も上手かった。自分は強いだけだったから。
選ばれる前の8月には東アジア選手権があって、そのときも選ばれていたんですけど、突発性難聴で断ったんです。すごく行きたかったけど無理で、もうこれで自分は代表に関係ないと思ってたんですけどね。
でも、そのヨーロッパ遠征でウクライナ戦に出て……。実はね、そのウクライナ戦は現役を終わるまで見られなかったんですよ。2011年、現役を終わって高校の先生になって、それでやっと……見たかな。受け入れられないというか、ずっと見られなくて……。見たのも、僕が出た後半からだけなんですよ。「あ、出てる」「あ、やってる」「ホントにヨーロッパ行ってたんだ」っていうのが正直なところで。
プレーできてないわけでもなかったし、相変わらず外国人選手と対戦するのは好きだったし。だけど、最後に自分がPKを取られたシーンを何度か見て、「あぁ、これがファウルを取られるんだ」って。どこか納得しようと思ってもできないし。そして自分の人生を変えたかもしれないプレーは、そのPKを取られた場面じゃなくて、その少し前のCKなのかなって。村井慎二のCKからヘディングシュートするんですけど、それが外れてしまった。相手に引っ張られて、ボールがかする感じになったんです。
あれがもししっかり当たって入ってたら、人生変わったかもしれないなって。だから録画を見ながら「あぁ、引っ張られてバランス崩してる」って、どうしても悔いが残ったかな……。日本には退場者が出てて、1人少ない状態だったから、あのシュートが入って勝ててたら、きっとオレの人生は変わっただろうなって。ああ、オレ引っ張られてるって……。
日本に戻ってきて、ブレずにプレーしたいと思ってたけど、やっぱり競り合いは怖かった。初めての世界との経験で、それをメディアがどう言っていたかなんて知らなかったけど、やっぱり競り合いに対しての注目度が高くなってて、それが怖かった。払拭するまでに相当時間がかかったし、もしかすると川崎を出るまでは引きずってたかもしれない。川崎での僕のイメージって、代表のあの試合で固まっちゃってたんで、ちょっとビビってる部分があったかもしれない。あったかな……。
ドイツW杯は「自分がもどかしかった」
それでも、ウクライナ戦に出たことでキャップ数が「1」になって、「元代表選手」と名乗れるようになった。それは仲のいい福西崇史から言われたんです。アイツ、代表で64試合に出てるでしょ。その福西が「これからキャップ持ってるかどうかって、今後の人生大きく変わるよ」って。これから元プロ選手という肩書きはどんどん出てくるから「元代表」というのは、引退後の人生で大きく違うよって。「お前は『1』だけど、出てよかったよな」ってね。それが唯一自分が取れたその後につながる称号だったかなって。もちろん、同じ畑の中では「元代表」なんて言えないんだけど。
そしてあの当時はJリーグが始まった後での「最高齢初選出」だったから、それもうれしかったんだけど。プレーを続けてれば、見てくれる人もいるんだと思って。うれしかった。周平さんに抜かれちゃったけどね。
2006年ドイツ・ワールドカップのときはね……オーストラリア戦、自分がもどかしくてね。あのとき田中誠さんが直前にケガで外れて、ハワイに休暇で行ってた茂庭照幸が呼び戻されたでしょ。自分はまだヤマザキナビスコカップがあってトレーニングを積んでたんです。だからすごくコンディションがよかった。だけど、自分は何もできない。オーストラリアの選手とぶつかり合いたいのに……。もちろん茂庭は当たりも強いしスピードもあるから、尊敬しているんです。それでも、力になれない自分がもどかしくて。
ケガとチームの変革……川崎から札幌へ
2008年、足の付け根が痛くなるグロインペイン症候群で試合から遠ざかりました。それまでケガをしたことがなくて、というか、ケガをしてても気持ちでケガをしていないことにして、隠しながら試合には出てました。それがグロインペインって……受け入れがたかったですね。しかも、川崎も世代交代の時期で、僕のポジションに入った井川祐輔もいい選手だったし、痛みと焦りとでグチャグチャになってきて。その状況でなんとか半年間やってみたけど、川崎に移籍してからは開幕から出ない年がなかったから……。
川崎の3バックで、周平さんと宏樹は僕よりテクニックがあって、僕はフィジカルだったんだけど、グロインペイン症候群になったあとは、少し飛べてないのがわかってた。ハイボールに対して制空権を取るイメージがずれるようになって。そう感じるようになったから、自分はもうこのままじゃダメだなって思い始めて。治っても、元通りじゃないかもしれないって。
自分の心の弱さかな。我慢してもう一度レギュラーを奪い取ればいいという思いより、もうチームから求められないんじゃないかという気持ちが出てきて。磐田から川崎に来たときも、自分を必要とするチームに行きたいと思っていたんですよ。だけど、もう川崎ではそうじゃないかもしれないと思ったんですよね。
僕は川崎にいたころ、キツイ性格に見えていたかもしれませんね。自分の世界に入ってるし、周りにも厳しく文句を言うし……。それは、僕には川崎に知り合いがたくさんいたからだと思います。そういう人たちとは一緒に飲んだり、遊んだりしてたし、すごく関係が近かった。みんなGゾーンというコアなサポーターが集う観客席エリアに来てくれてね。そういう距離感で、いろいろな話を直接聞けていたことが自分の行動につながっていたかもしれない。
だから、いつも「これじゃダメ」という思いがあって。自分たちのパフォーマンスでこの人たちがどれくらいその週を幸せに暮らせるかとか、ヒシヒシと伝わってきて。だから審判の判定でGゾーンの人たちが怒ると自分も心が乱れてたし、逆にGゾーンの人たちに「そうやって暴れるの止めてくれ」って態度で示したりしたし。
そういう感じだったから、川崎にいたときって、勝って「うれしい」と言うより、勝って「ホッとした」という感情のほうが大きかった。喜んでいる人たちを見て、家に帰ってただただホッとしてたんですよ。どんな熱が出てもやってたし、実はケガをしてたけど、ケガだと知らせずにやってたし。川崎出身、川崎の代表っていう扱いになってたから、余計に。ハンパに見せる選手がいたら、「しっかりやれよ」って、言ったり態度で示したり。
その力で動けてたから、感謝してます。最近は自分の目標として「海外でやりたい」とか言う選手もいるけど、どこに根付いて、どこでプレーするかというのは大事なことだから。サポーターやファンの人の思いを感じたら、それはもう気持ちが入るから。ピッチで倒れていっちゃう夢まで見てました。実際にここでゴールポストに頭ぶつけて人生終わっても、等々力ならそれもありかな、なんて思いながらジャンプしてたこともあったし。
川崎で出番がなくてどうしようと思っていたとき、コンサドーレ札幌の三上大勝強化部長から連絡をもらったんですよ。三上さんは、うまいね……心もあるし。ウソなしに自分たちの状況を細かく伝えてくれて、「助けて欲しい」と言われたんですよ。実は僕が川崎に来たときと同じで。僕が川崎に来たときも、川崎はJ1からJ2に落ちようとしてた。だから「もう一回あのチャレンジができるのは幸せかな」と思って。
川崎を離れるのは凄く寂しかったけど、もう川崎のサッカーは完成してた。オレがいなくても、もう川崎は大丈夫で、ずっと上位にいられるクラブだったんですよ。だから、自分のロケットのブースターとしての役割は終えたかなって。そこまで川崎に自分の生活も何もかも捧げてきた誇りはあるけど、困ってるクラブの「光」になりたくなったんです。そして、川崎に移籍してきたときはプレーヤーとしてまだまだだったけど、今はこれまでの経験を札幌のみんなと分け合いながら考えることで、自分の力も付くのかなって。札幌のチームがJ1に戻って、J1に定着するということに関わりたかったんです。
突然大きな音がして、アキレス腱がバチーンと切れた……
札幌では若手選手から話を聞かれることもあり、みんなを集めてミーティングなんかもしました。どちらかというと、自分はそういうことをやるタイプじゃないと思ってたんですけどね。川崎にいたときは、プライベートって極力自分1人で、自分のトレーニングとケアの時間にしてたから。当時は珍しかったパーソナルトレーナーもつけてたし。
でも、三浦俊也監督から「パーソナリティがあるから、そのままやってくれ」と言われてたので。よく考えたら、川崎のときとあんまり変わってなかったのかもしれない。言いたいこと、言ってたから(笑)。それに三浦監督からは自由を与えてもらってました。当時の札幌はゾーンディフェンスだったけど、僕だけはゾーンをブレイクしてマンツーマンに移行してよかった。「いいのかな?」っていう遠慮はありましたけど、やり甲斐はありました。
みんなオープンマインドで受け入れてくれたし、自分も心を開いたし。土地柄で、いい人が多かったんでね。だから北海道でも川崎と同じように地元の人とのコミュニティを持つことができましたよ。
そんな中で、あるとき変な感じの週があったんです。試合では初めて退場になったし、車はぶつけたし、家で急に意識がなくなって倒れてたりとか。だけど、試合で退場したので次の週は出場停止で、試合翌日の練習試合に出ることにしたんです。スタッフからは「出なくてもいいよ」って言われたけど、自分で志願して。別に体のどこも傷んでなかったんだけど、突然大きな音がして、アキレス腱がバチーンと切れて。
そこからが「まさか」という感じでした。2008年に受けた最初の手術のときは、腱の三分の二がだめになってしまっていました。それで2009年、再手術することになったけど、今度は腱の一部が腐ってしまった。同じ年に3回目の手術は大腿部の内側の腱を取って束ねてアキレス腱にくっつけたんですよ。ところが大腿部の腱はアキレス腱に比べると柔軟性がないから、リハビリの途中で残っていたかかと部分のアキレス腱が切れてしまった。もうこれでかかとの部分の健がなくなってしまいました。それでも諦められずに2010年、4回目の出術ではわずかに残っている腱を引っ張って人口靱帯を入れて。それでやっと手術が終わりです。
リハビリは壮絶でした。それまで何度もダメになったから、キツかったし、チームも慎重になって「ここまで」というリミットをかけてくる。だけど、それじゃ間に合わないと思ったし、どうせダメになるならとことんやってみようと思ったから、自分でリハビリの先生をお願いして、チームと離れてこっそりやってました。自己責任で。北海道神宮とか、ゲートボール場とか、公園とかで、歩いたり走ったり、ときにはステップ踏んだりとかね。朝早く起きてアイスバーンの上を走ることもあったりしたんです。ミリ単位で動くようにしていく感じです。2008年にケガして、次にボールを蹴ったのは2010年12月20日ですよ。もうたまらなかったですよ。やっと蹴れたって。
リハビリのときには、低カロリーということを意識して、鶏の胸肉、ささみを食べてました。それに北海道にいたから釣りに行って、ホッケとかサケなんかを釣って食べてましたね。地元の人に聞いたらホッケはフライがうまいということだったので、もっぱら揚げて。サケはイクラと合わせてご飯に載せたり、チャンチャン焼きです。ホットプレートの上に甘めのミソで土手を作って、その中にキャベツやモヤシなんかを入れて炒めて、そこにサケを入れて蓋を閉めて蒸し焼きにするんです。
筋肉が壊れた部分を修復するためにタンパク質を取ることを意識して、リハビリ中に体重が増えないように炭水化物を制限していました。僕は甘いのも好きなので、炭水化物を減らすけど、スイーツは食べたりしてましたよ。リハビリから帰る道の途中に、大好きなケーキ屋さんがあったんですよ。だから帰りにそこでシュークリームを買って帰るというのを、楽しみにリハビリしようってしてました。カロリーコントロールが上手くいったのか、体重の増減はそんなになかったですね。
川崎だったら、焼肉に行ってました。昔からフロンターレの選手がみんな行く店があるんです。だけど取材拒否の店だから、情報は少ないかな。そこはこれまで食べたどんな店よりもおいしい。川崎から移籍した選手でも通ったりしてますよ。お勧めはロースです。でも、もう一杯は食べられないかな……。
引退後は学校の先生に 「元々はこの職業に就きたかった」
2011年の1月、札幌との契約が終わりました。札幌はそこまではよく残してくれたと思います。僕を残したことで、村野晋GMと三上強化部長は批判を浴びたでしょうね。でも、チームの活動の中で起きたことだからと庇ってくださった。札幌には感謝しても仕切れないですね。
だが、それでもまだ現役を続けるつもりだったんですよ。足はよくなったし、痛みもなくなった。いいトレーニングもできていたので、きっと役に立てるクラブがあるだろうと思って。だからいくつかのクラブにテストを受けさせてもらえるようお願いしてたんです。ところが、その矢先に起きたのが東日本大震災だった。Jリーグは中断していつどうなるかわからない。そんなときに4回手術して2年出ていない選手をどこが受け入れるかって、そんなところはなくて。そこが諦め時かと思いました。
それで学校の先生になることにしました。元々はこの職業に就きたかったんです。遠回りしたけど、やっと来られたというのが正直なところでした。今は川崎に戻って公立高校の先生をしています。
いざ先生になってみると、「スポーツをやって何になるの?」という声が大きいのに戸惑いました。子供がスポーツをして親が応援するのは、子供が中学生ぐらいまで。あとはスポーツをやったからといって、大学に入ったり就職できたりしないのだから、「意味がない」という話を聞きますね。「そういうのは違うんじゃないかな」とスポーツ畑から来た自分は思うけど、なかなかそこは難しいですよね。自分はそんなに口が達者じゃないし、ハートで伝えたいと思っても、それもうまくいかなかったりしてね。これについては、まだまだここから苦しんでいくでしょうね。
アキレス腱手術を4回した経験が人生を支えるパワーに
今の自分を作っているのは、札幌に行ったときの経験ですよ。アキレス腱の手術を4回やった。辛かったけど、それが今の自分の人生を支えているパワーになってます。医師の方に「2、3パーセントしかチャンスがない」と言われた手術に、よくぞチャレンジしたなって。
自分の人生を振り返ってみると、「もう少しうまくやれたらな」という後悔がありますね。不器用なのが変わんないんですよ。自分としては宏樹みたいに、物腰も柔らかく、対応力も鋭く発揮できる人が羨ましくてね。まぁ、でもオレみたいな人種がいても、それが救いになる人たちもいるのかなって。だから今の自分は好きだけどな。一時、嫌だったんですけどね。
自分はまた選手登録してるんですよ。40歳以上の方々からお誘いを受けてシニアチームに登録して。2016年は全国大会で3位になりました。選手としてピッチに立って、選手確認や用具の確認なんか受けたりしてね。今年はオーバー35の神奈川のチームで選手兼コーチという形で参加しようかと思っています。サッカーをやるっていいですね。またチームに入ると自己犠牲の精神を思い出せるし。今も一緒になる人たちに対しては、いろんな形でサポートしたいと思ってます。
それに退場で現役を終えたままだったら寂しいですしね。福西はインタビューで、「退場して引退したのは、僕とジネディーヌ・ジダン」と言ってましたけど、オレもだから。アイツはオレを省いたのかな(笑)。
箕輪義信 プロフィール
仙台大学を卒業後、1999年にジュビロ磐田へ入団。出場機会を求めて2000年途中から川崎フロンターレへ移籍し才能が開花。2001年からレギュラーポジションをつかむ。
2005年には日本代表にも招集され、Jリーグアウォーズでは優秀選手賞を獲得。
2011年に現役を引退。現在は公立高校の体育教師として後進の指導にあたる。
1976年生まれ、神奈川県出身。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。