誰もが現実の二次創作者であり、小さな人類学者になりうる

多彩な活躍を続ける東浩紀さんの渾身の書き下ろし『ゲンロン0 観光客の哲学』。東浩紀さんの著作としてははじめて「哲学」という名前がつけられた本書についてのインタビュー第2回は、「観光客」の正体について。どうやらわたしたち誰しもが、観光客と言えるそうで――

観光客とはNANIMONOか

— 前回は、新刊『ゲンロン0 観光客の哲学』のスケールの大きさと明快さについてお話を伺いました。とにかく読みやすいのは、東さんの批評家としての技術の集積だと。

東浩紀(以下、東) 音楽のアルバムで、はじめの曲が10分で、次の曲が1分で、その次が2分だったら、やっぱり生理的におかしいって感じますよね。それと同じで、あるていど同じ量のページをめくったら次の節にいくという運動を繰り返すいうのは、すごく読書をスムーズにすると思うんです。読者にとっては、そういうことが大事なんですよ。

— 編集者としては納得しかないです。噂によると最後の方を書いているときは、BGMにRADWIMPSが流れてたっていう……。

 いや、RADWIMPSは、あの曲が流れた某映画をライバルに考えてたというだけで(笑)。実際はふつうにPerfumeと、あと「ドラゲナイ」をやたらとかけてた。ハハハ。

— SEKAI NO OWARIで?

 そうね(笑)。デカイこと考えられそうでいいんですよ。あと「NANIMONO」。

— 中田ヤスタカfeat.米津玄師で!

 あれはいい曲だよね。たぶん100回とかリピートした。

— 書きもののBGMには、「NANIMONO」がおすすめだと。で、この「観光客の哲学」の核心である、「観光客」が何者かっていう話を伺えたらなと。

 ええっ、そういうこと?(笑)

観光客 ≒ 二次創作者?

— 前著「弱いつながり」でも用いられた村人(当事者)、旅人(部外者)、そして観光客という3つの区分を用いてますよね。

 はい。人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつも、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的な在り方が大切だという主張です。

— 観光客の正体について、もっと聞きたいのですが、観光客とは「現実の二次創作者」という説明もありました。これはとってもわかりやすかったです。以下、観光客と二次創作者の関係について書かれた箇所をすこし引用させてもらいます。

両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけ消費して帰っていく。二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。

『ゲンロン0 観光客の哲学』P45より抜粋(ボールド部分:傍点表記)

 そうですね。ぼくの考えでは、すべての原作が二次創作になりうるというのと同じように、すべての土地が観光地になりうる。というよりも、そもそも二次創作=観光客の視線に曝されていない、純粋な原作=土地なんてありえないんですよね。実際、先行作品がないオリジナルなんてほとんどない。

— なるほど。オリジナルとは何かという論争は昨今多いですね。

 とくに現在のコンテンツは、読者の二次創作の視線をあらかじめ織り込んで作られている。

— エンターテイメントは特に、その流れを作ろうと躍起になっている気がします。逆に、ふまじめな二次創作を前にして、「原作者の気持ちを考えたことがあるのか!」という話にはなりずらい。

 そして、それと同じことが観光客と住民のあいだにも言えるんです。観光客と当事者と言ってもいい。いま世間では、「当事者」という言葉があまりにも万能になっているけど……。

— 「よそもんは黙ってろ、うちの村のことに口を出すな」という言葉の強力さですね。『弱いつながり』の文庫のあとがきでもこう書かれていました。

いま世間では、「当事者」の言葉が万能になっている(中略)
政治や報道の場でも、いま問題に巻き込まれているひと、いま解決を必要としているひとの意見が、多く紹介されるように変わってきました。背景にはネットの普及も影響していることでしょう。ぼくはむろん、この動き自体はよいことだと考えます。
けれども、その動きが進みすぎて、当事者の言葉「だけ」が尊重されるようになるとすると、それもまた問題です。なぜならばものごとの解決には、第三者の、つまり当事者以外の視点が必要なことが多いからです。(中略)
みなが、おれが当事者だ、まずはおれの話を聞け、おれのほうが抑圧されているんだと叫び合う状態では、議論は成立せず、政治は利害調整しかやることがなくなってしまうことでしょう。

『弱いつながり』(幻冬舎文庫)P159−160より抜粋

 そうです。ぼくはむろん当事者が重要なことは否定しません。それは原作が重要なことと同じ。でも原作をいくら大事にしていても二次創作は生まれるように、当事者がいくら「これはおれたちだけが語れる話だ」といっても、無関係なひとが好奇心で語ることは止められないんですよね。
 そもそも人間というのは、現実を勝手に解釈して、多かれ少なかれ「自分なりの現実」を作り上げているものです。

— いいか悪いかは別にして、そういう気がしますね。昨年末のアメリカ大統領選もそういうそれぞれの現実認識のぶつかりあいという側面が強かった気がします。

 ポスト真実とかオルタナティブファクトなんて言葉が流行語になったけれども、あれはべつにトランプ政権だけの話じゃなくて、人間の本質なんですよね。人間はそもそも、現実でもコンテンツでもなんでも、あらゆるものごとを二次創作してしまう生物なんですよ。
 哲学的に突き詰めれば、なににせよ「本当の当事者」なんてものはどこにも存在しない。

— 本当の当事者は存在しない……。えっと、そうなるとすこし極端な例かもしれませんが、当事者が明確な、たとえば、「私はレイプされました」「性的暴行に関しては当事者です」という場合はどうですか。

 それはいい質問です。これは本当はインタビューで軽く答えるべきものではなくて、繊細に議論しなければならない問題ですが……、まあそれでも言ってしまうと、哲学的に厳密な意味で「当事者」といえるのは、本当は「その被害を受けた瞬間の被害者」だけだと思います。だからこそ、加害者だけでなく被害者自身による記憶の改変が問題になるし、またトラウマからの回復も可能になる。

— おお……なるほど……。つまりは、その瞬間に当事者になることはあっても、それは状態であって、時が経てば常に部外者になっていくということですか。

 そうです。注意しておきますが、これは哲学的な話です。法的には被害者なり当事者なりの権利は最大に守られねばならない。あくまでもそのうえでの話ですが、厳密な意味での当事者性というのは、つねに過去に流れ去るものです。人間は自分自身の経験に対してすら当事者ではいられない。この限界を知っておくのは、とても大切なことです。いまのぼくと1年前のぼくは違う。だからつねに記憶が問題になるし、責任を取ることもむずかしい。
 すべての事件は過去でしかない。そして過去は端的に存在しない。

— 「過去は存在しない」というのは、実存せずに、記憶や記録の解釈としてしか存在しないということでしょうか。

 そうです。過去はぼくたちの頭のなかにしかない。

— これ、あらゆるもの、まあ国家間の歴史問題とかもそうだということですよね。

 そうです。歴史認識の論争なんて、タイムマシンがあれば一撃で終わるはずです。でも現実には過去は存在しないから、論争も終わることがない。最近はみな簡単に「エビデンス」とか言いますけど、しかしあらゆる過去についての物証は、その物証をいかに解釈するかの文脈に依存した二次的な手がかりでしかないのであってぼくたちは過去についてはそういう意味で決定的に当事者ではない。
 だからフェイクニュースも陰謀論も消えないんですよ。みなこの点に対してもうすこし謙虚にならないといけない。それが時間や記憶というものの本質ですから。

— ああ、なるほど。では、現在進行形の場合を除いては……

 「当事者だった観光客」がいるだけなのです。厳密には。

— 結果、人はいろんな物事を、自分に都合の良いように解釈していくという。

 そうです。しかしそれが同時に、人間のクリエイティビティの本質でもある。

— 悲惨な過去を笑い話にしたりして、乗り越えていく。

 それしかできないし、それでいいのですよ。原作だって、長く連載が続いていくと、原作自ら二次創作みたいになっていくじゃないですか。そういうもんなんですよ。

— なるほど。誰もが元当事者であっても、観光客として、責任はとれなくても、現実に関わっていく方がいい。目の前の現実を見放して旅人としてしか生きられないよりもと。

人類学者であることは偶然性について考えること

— 観光客について、もうひとつ印象的な読み解きとして、「小さな人類学者」っていう言葉もちらりとありました。いろんな村に出かけていって、見聞を広めるという。

 そうですね。そして、自分がいま「この時代のこの国」に生まれ落ちたことの偶然性について考えるわけです。

— 偶然性というのは、この本の中では、「ふわふわ」しているという言葉でも表されていました。

 要は、自分が自分であることに過剰に意味を求めないということです。これはローティの『偶然性・連帯・アイロニー』という本にくわしいですが、やはり、自分は「たまたま」この時代のこの国に生まれ落ちただけで、ほかの時代にほかの国に生まれていたらまったくべつの人間になっただろうと気づくことはとても大切なんですよ。

— たとえば僕らがアメリカや中国、アジア諸国などに生まれていたら、まったく別の考え方を持っていただろうと少しでも想像してみることが大事だと。

 それが寛容のアルファにしてオメガだと思います。さきほどの歴史問題の話につなげると、たとえば日韓の歴史問題でも、日本人がふつうに日本で日本の情報集めていたら、そりゃ絶対に日本が正しく見えるわけです。けれどもそこで、もし自分が韓国人で韓国で韓国の情報ばかり集めていたら同じように絶対に韓国を正しく感じたのではないかと、そのように「置き換え」る想像力が大切なわけでね。

— はい。

 これは日本人がまちがっているという話とは違うんです。ぼくたちは日本人なんだから、日本人として主張すべきことは主張すればいいし、実際それしかない。「韓国人の気持ちを考えたことがあるのか!」とか言われて、過剰に同一化して謝罪する必要もない。ぼくたちはどうせどこまであがいても日本人なんだから、その意味ではいくら謝罪したって日本人の限界は超えられない。ただそのときに、自分が日本人であることは「偶然」なんだと思っておくのは重要なんです。
 ぼくたちはみな観光客であるべきなんだけど、それはどういう意味かというと、別のいいかたをすれば、なにかの当事者であることをつねに偶然だと思えということです。ぼくたちはみな、個別の問題について、それぞれ当事者である案件をもっている。ぼくだってゲンロンについては当事者です。自分の子どもに対しても当事者。けれども、それは根本的にはすべて偶然の結果なんですよね。ちょっとした偶然で別の人生を歩めば、まったく別の関係性のなかにいたかもしれない。それをつねに念頭に置きながら、「暫定的で不純で中途半端な当事者」として振る舞う。それが観光客ってことなんです。

— 次回は、そんな「観光客」であるところの私たちがどう生きたらいいのか、という話を伺えたらと思います。

聞き手・構成:中島洋一

著者20年の集大成、東思想の新展開を告げる渾身の書き下ろし新著

ゲンロン0 観光客の哲学

東 浩紀
株式会社ゲンロン
2017-04-08

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