「伊邪奈岐命、伊邪奈美命二柱の神は天の浮橋に立ちて、
天の沼矛を差し下してかきたまへば、
塩こをろこをろにかきなして引き上げたまふときに、
其の矛先よりしたたり落つる塩つもりて嶋となる。
これおのころ嶋なり。其の嶋に天降りまして、天之御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」 古事記上巻初めに登場する一節である。 この「天の沼矛」を国土修理個成(ツクリカタメ) つまり国造りの際にその基点を決めるため天より投げ下ろし 、逆さまに刺さったものが「天の逆矛」となったのである。 つまり「天の逆矛」は天地創造の神器であり三種の神器よりもはるかに古く 尊い日本の宝として位置付けられている。 そしてその矛が刺さった場所というのが霧島高千穂山頂ということになる。 この古事記に記された神話は単なる神話なのであろうか。 一説ではこれは地球創生の物語ではないかとも言われている。 塩とは様々なミネラルを意味し、そのような小さな塵が引力により回転しやがて固まり、 地球となる。そしてその大地に投げ下ろされた矛は神性あるいは知性の象徴であるという。 しかし、高千穂山頂には「天の逆矛」が象徴ではなく実体として存在していたのだ。 それはいつ頃から突き刺さっていたのだろうか。 別の話ではイザナギ・イザナミより大己貴命(大国主命)に受け継がれた 「天の沼矛」をニニギノミコトがこの地に降臨の際、突き立てたものだとも伝えられている。 大己貴命曰く 「私はこの矛を持って様々な地を平定してきた。あなたもこの矛で国を治めるならば、 きっと平定できるだろう」 と、ニニギノミコトに授けたのだという。 古事記で語られている神話よりさらにリアリティー溢れる逸話である。 ちなみに現在高千穂山頂にある「天の逆矛」は柄の部分を除いて他の部分は近年の模造である。 しかも様々な宗教団体によって手が加えられた形跡があり、 オリジナルとは程遠いものとなっているという。幕末の志士、 坂本竜馬がいたずらに引き抜いてみせたのもこの逆矛である。 霧島高千穂山頂の「天の逆矛」を見ると、 なぜか柄の部分を下にして刺さっている。 これでは逆矛ではないのではないかと思われるだろうが、これでよいのである。 剣先を下に突き刺さっておれば、これは当たり前のことで逆さまでも何でもない。 柄の部分が刺さっているからこそ逆さまなのである。「逆矛」はまた「幸矛」ともいわれる。 この矛をもって天下の平和を祈念すると共に、天と地をつなげる呪術的な象徴でもあるのだ。 故に切先を天に向け逆さまに刺さっているのだ。 全体としては各地で発掘されている青銅の矛の形とは異なり、 矛というより剣のような印象である。新井白石の著した「霧島獄記」には 「逆矛の有様全体は唐金の如く見え、長さ一丈、太さ竹ほど・・・」 と言い表している。また、 江戸時代の後期に編纂された旅行ガイドブックとでもいうべき霧島高千穂の地誌である 「三国名勝図会」にはさらに詳しく記されている。その読み下しの一部を紹介しよう。 ●霧島山の名称 旧事大成経には、切嶼山と書かれています。この山の本当の名は、高千穂といいますが、 のちに霧島山と呼ばれるようになりました。 霧島と呼ばれる理由は、種々あります。まず、イザナギ尊も「わたしの生まれた国は、 いち面に朝霧が立ち込めところ」といわれましたし、また、天孫降臨の時も霧が深くて、 物の色がはっきり見えないので、 稲の穂を投げ散らしたところ霧が晴れたということも伝わっています。 このように霧島山は特に朝霧や夕霧が常に深いところであります。今でも全くそのとおりです。 それで霧島と名付けたといいます。 また、一説には、皇孫が天降りの時、雲海を見おろされるに、 ちょうど霧海に浮いた島のように見ゆる物があるので、天瓊矛でかきさぐりながら、 そこに天降りしました。そして、その矛を逆さまに立てられました。この矛を天逆矛といいます。 現在でも都城の広野より高千穂の峯の山腰に雲や霧があるのを見れば、 その雲霧の上に二つの峯がちょうど島のように思われます。だから大昔より都城の付近を霧海といい、 また、虚海ともいわれています。霧島という名は、そういうことから名付けられたといいます。 他の説では、天孫が稲穂を投げ散らされてより雲や霧が晴れだしたので霧島の名が起こったといいますが、 霧島という名はそれ以前からあった名前であり、 稲穂を投げ散らされたことによって高千穂峯という名が後に付けられたのでしょう。 今なお霧島という名で呼ばれているのは、旧称にしたがっているからだといわれています。 また、霧島の字は続日本後紀の承和四年より始まるといわれ、「霧島峯の神、官社に預け・・・」 と記されている。これより以前の古記録には記されておりません。続日本紀の延暦七年、 かつての峯が噴火し、それより承和四年までおよそ五十年になります。 その間に霧島と名付けられたのでしょう。近頃の例をとってみますと、桜島は安永八年に噴火し、 以後現在まで五十年間になりますが、今なお煙や霧をめぐらしています。 このように霧島峯も霧であらわしたのでしょう。 また「島」の字を使うのは、峯が霧海に浮かぶ島のようだったことに基づくものと思われますが、 この峯の東、諸懸郡高城、東霧島村東霧島神社の社地内にイザナギ尊が火雷を斬られたという跡があります。 その「切」と「霧」は同訓ですので霧島という地名がついたのだという説もあります。 この東霧島神社があることによって、矛峯と名付けたり、霧島と呼ばれたりするわけです。 霧島神社という名は国史や延喜式にも見られます。続日本後紀の承和四年八月壬子に 「日向諸懸郡霧島峯の神、官社に預かり・・・」。延喜式には「諸懸郡に一座あり。 霧島神社という・・・」。また三代実録の天安二年十月二十二日に 「日向国従五位下の霧島神に従四位下を授く」とあり、 これらの国史や延喜式に記録されているのをみても、 この山の由緒や神社が尊敬されていることがわかります。 天の逆矛にあっては矛峯の頂にあって現存しております。 これはニニギノミコトが天降りの時に建てられたものであります。考えてみますと、 この矛はオオナムチノミコトが天孫ニニギノミコトに授けられた広矛です。 オオナムチノミコトがいわれるには、 「私は、この矛でいろいろと平定してきましたので、天孫ももしこの矛でもって国を治め ればきっと平定できるでしょう」 といったのはこの矛です。ニニギノミコトが高千穂に天降りしてより前ばらいしていったと書かれています。 それで「稜威の道別道別」と記されています。尚、後世になると、天皇行幸の際に護衛がつきますが、 ちょうどそれと同じ役目です。その矛で国内を平定して天下は平穏でした。 それでこの矛を山上に立てて、万世を鎮める標にしました。 それは再び矛を用いることがないようにと願っているようです。 これは神宮皇后が三韓征伐の際に新羅城門に矛を立てたのと同じ意味でしょう。 もしかするとこういう習慣が古代にあったということと思われます。 その霊矛は震火のために焼き折れたといいますが、年代ははっきりとはしません。 近世、文禄元年、その折れた矛をその東南の麓へ三里ばかりのところにある荒嶽神社に安置して ご神体としました。その矛の長さは一尺あまりで、鍔にあたるところに雲象に似たるものがあります。 また、ところどころ錆びて小指の頭くらいの穴のあとがあります。今、 矛峰にはその残幹をもとに前の形に復元して建てています。その長さはおよそ六尺、 まわりは一尺くらいで、矛刃に近い所に、長鼻大眼の面像を左右に鋳出しています。 矛先と幹は共に銅質に似ていますが、何の金属にあたるのかはっきりとはわかりません。 その形は古奇というか、とにかく神代の遺宝といえます。 天明初年に、鹿児島の商人・池田正衛門というものが、 新たに偽者の矛を造って真矛の横に立てましたところ、 やがて奇妙な病気となりて狂い死にいたしました。その子孫も頭が狂い、 刀を抜き先祖の位牌に切りつけたりしたそうです。そこで占い師に見てもらったところ、 「霊矛を模造した罪を咎められている」 といわれましたので、家人は驚いて、早速偽物の取り去ったということです。 先に、現在の「天の逆矛」は模造と書いたが、では真物の「天の逆矛」はどこへ行ったのか。 それは延暦7年(788年)、天永3年(1112年)、文暦1年(1234年) のいづれかに新燃岳が大爆発を起こした際にその爆風と火砕流により矛先が折れ吹き飛んでしまった のだが、後に北諸懸郡西岳村字吉野山中の不動岩の上に落下しているのが村人により発見され、 島津公に献上されたものが荒嶽神社に奉納され、その社のご神体となったのだ。荒嶽神社とは、 6世紀初頭に創建され、度重なる噴火で焼失したかつての霧島神宮を中腹・高千穂河原に再建した 平安時代の名僧・性空上人によって明観寺とともに造建された神社である。 また「天の逆矛」は霧島神宮の別当寺である華林寺の所管となったが、 明治維新の廃仏毀釈により廃寺となり、その際多くの記録が失われてしまったようである。 またこの時、荒嶽神社も無格社となり、それ故「天の逆矛」は西岳村・千足神社に移され西岳村の 所管となった後、同村の吉野元小学校校庭の一角に設けられた祠に祭られることとなった。 明治維新の混乱期とはいえ天下の御神宝を何故ここまでないがしろにしてしまったのか不可解であるが、 これが後にひとつのドラマを生むこととなる。 |
この頃はまだ日本は神の国であった。 皇紀2600年(昭和15年)の前後、国体明徴運動が全国規模で展開されることとなった。 そのような風潮の最中「天の逆矛」の存在が浮上すればそのシンボルとされるのは 当然の成り行きと言ってもいい。陸軍の東条英機、海軍の山本五十六、右翼の大物である頭山満翁、 皇族である賀陽宮恒憲、当時の総理大臣・平沼騏一郎などそうそうたるメンバーに加え、 宗教界から皇神道神命実行団の教祖である豊の玉姫と山本弥栄氏らがその潮流の陰の主役であった。 この後の「天の逆矛」に関する情報は入り乱れているが、以下まとめてみた。
それはある日、豊の玉姫に降りた霊示にはじまる。
昭和三十一年十一月、熱海の旅館の一室で山本氏は失意の底にあった。
さまざまな形で精力的な活動をしてきた山本氏であったが、二十九年に教祖・
豊の玉姫が亡くなるとともに実行団の昔日の面影は急速になくなり、氏の気迫も失われていった。
矛は皇室に納まるのが自然と、献上すべく上京したものの時代は一昔前とがらりと変わり、
旧皇族や政界の要人に掛け合っても、もはや誰も相手にしない。
ついに旅館の宿泊費も払えず旅費も底をついてしまった。その折、
当時別府市議を務めていた故・豊田実氏と出会う。豊田氏は山本氏の窮状を救い、
山本氏は豊田氏に矛を託すことになる。後に豊田氏は「宿賃のカタに逆矛を預かった」
などと語ってはいたが、実は山本氏の生き様に感じるものがあったからに違いない。 |
BACK |