こんちわ、最近仕事で結果を出せていないおいさんだよ。
どんなに努力してもまったく成果が出ない毎日にうんざりしているよ。
ここまで結果が出ないと焦るよね。
そう、ハッキリ言ってスランプだと言ってもよい。
わしはいま出口の見えない迷路に迷い込んでしまった気分でこの文章を書いている。
そんな八方塞がりのわしみたいに仕事で結果を出せていない人は多くいることだろう。わしも自分の置かれた状況に風穴を空けるべく、図書館でこんな本を借りてきた。
果たしてこの本が今の閉塞感に溢れた状況を打ち負かすことが出来るのか?
それを考えながら今回のドラねこおすすめ書店・第119回目は、「新インナーゲーム」だよ(*´ω`*)
新インナーゲーム
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まったく結果がでない。
わしはフリーランス、このまま結果が出なければ餓死してしまう。
この状況に日々焦りは募るばかり。どうにかしなくてはならない。
そんな折に、前回紹介した本「大人のための読書の全技術」の巻末に載っていた本におもしろいものがあった。
それがこの「新インナーゲーム」
著者はテニスの世界でナショナルハードコート選手権で優勝し、その後ハーバード大学でテニス部の主将として活躍後、プロのテニスコーチとして多くの選手を育てたティモシー・ガルウェイ。
この著者にはこの本の他にもインナーシリーズとして様々な本が出されている。
この本の著者は、それまでの努力至上主義とも言える、テニスプレーヤーはハードなトレーニングをすれば必ず結果が伴うという考えを否定し、自分の内面を操ることでもっと合理的にテニスがうまくなることを発見し、提唱した人である。
しかしインナーゲームとは、ポジティブなイメージを頭に浮かべることによってパフォーマンスを向上させようとするメンタルトレーニングとは一味ちがう。
インナーゲームとは、
自分を信頼することによって、生まれたときから本来に備わっている内なる自然学習能力を伸ばす方法である。
ちょっとオカルトっぽい?
確かにこの文章をそのまま読むとそう感じるかもしれない。
でもインナーゲームはそんなスピリチュアルな思想ではない。
れっきとした科学的なトレーニング法である。
その方法を以下に見ていこう。
努力が最善の結果を生むとは限らない
冒頭からガルウェイ氏はこう述べる。
私はあらゆるテニス・プロと生徒が知るべき最も大切なことを、そのときようやく知り始めたと言っていい。
つまり、イメージは言葉に勝り、示すことは教えることに勝り、教えすぎは教えないことに劣る、という事実だ。 そして努力はしばしば逆の結果を招く危険を伴うという事実だった。p38
誰もが知っていることだが、プロのテニスコーチにこう言われると冷酷な現実に返す言葉も無い。
そう確かに努力すれば報われるという言葉には多くのウソが含まれていることを我々は知っている。
だがガルウェイはそれよりも教え過ぎや、努力のしすぎが逆の結果を招きやすいと本書では指摘する。
自身の経験で、様々なプレイスタイルに問題を抱えたテニスの素人たちを指導してきた時の失敗談を軸に、言葉によって教えることの危険さや、特にそのことによって教えられた本人たちの内面に様々な葛藤が生まれ、本来人が持っている自然学習能力を妨げるということを、この本では何度も指摘している。
そこでガルウェイはそんな指導される側のメンタルをせるセルフ1、セルフ2と名付けそういった内面をどのようにコントロールすればいいかを具体的にアドバイスしていく。
セルフ1は自我。
セルフ2は自分自身の肉体とその能力の実態。
セルフ1は常に自分の行動を監視し、セルフ2にダメ出しをする。
人はスポーツでも仕事でも何かをやるたびにそのように自分を叱り、罵り、強烈に批判しながら自らを伸ばそうとする。
しかし、ガルウェイはこれではダメだと喝破する。
そのように自我が自らの能力や肉体に悪態をついてもしょうがない。
そんな風にセルフ1がセルフ2を罵れば罵るほどからだは萎縮する。
そこでガルウェイは自らの能力をまず「良い・悪い」裁く、裁きグセを辞め、あるがままの自分を見ることを提唱する。
その具体的な流れを少し長いが本文から引用しよう。
自分を1ショットごとに裁判にかけるのをやめるよう請われると、頭脳の判断担当は、通常講義する。「評価しなかったら、上達しないはずだ。バックハンドが決められないのに、そのことを無視して、ただ無心にプレーしろというのは、納得できない」と。
ここではっきりしておきたいことがある。
価値判断することをやめるとは、エラーを無視することではない。起きたことをありのままに見る、しかしそれにプラスもしくはマイナスの付加価値をつけない、ということだ。
判断を追い出しても、本能の知覚力は、このマッチでは50%のバックハンドをネットに描けている、といったデータを才覚に把握できる。事実を無視しているのではない。その日その時のサーブをあるがままに捉え、その原因を発見しようと、機能している。
判断は、ミスしたサーブに「悪いサーブだ」とラベルを貼り付けた瞬間から、活動を開始し、プレーを妨害し、怒りや不満、失望といった感情をわき起こす。もし、こうした判断担当者が奥に引っ込んで、「いい」とか「悪い」というラベル貼りしないなら、自我は反応せず、従って妨害は最小限に抑制できる。
しかし、判断担当者が感情担当者に呼びかけて共闘態勢に入るのが通常で、これによって肉体はこちこちになり、頑張りすぎ、そして自分をののしり始める。
p68・69
このように何かヘマをすると我々は「悪い癖を矯正しよう」とヘマをした自分をなんとか言葉巧みに言い聞かせようとするが、それは逆効果、まずはそのように頭で判断することをやめ、批判なしにただ自分の欠点を見る。あるがままの自分を見ることに集中する。それが上達のコツなのだという。
まとめると、精神的な部分で開発すべき内側の能力は、以下のようなものだ。p52
- 自分が望む結果の、できる限り明確な視覚的イメージを得る方法を取得する。
- セルフ2を信頼することでベストの能力を発揮する方法を習得する。失敗と成功の両方から学ぶ
- 感情を交えずに「見る」ことを習得する。今のショットがよかった、悪かったと価値判断するのではなく、今何が起きたのか、したのかを客観的に捉えることを学ぶ。
そして「見る」ことによってなにが問題なのか理解し、ではどのような状態が理想的なのかを「なるべく具体的に」イメージしながら、今の自分に集中してことに当たるのが大事なのだという。
欠点を冷静に見つつ、集中する
そして冷静に見て、イメージして終わりではない。
では具体的にその後どうしたらいいかを考えて行動しなければならない。
そしてその時重要なのが、意外なことに呼吸なのだという。
しかも呼吸は原始的なリズムだ。人間は、呼吸によって宇宙のリズムを取り入れていると主張する人もいる。
心が呼吸のリズムに注目し、興味を持ち始めると、さらに引き込まれ、静かな心になりやすい。コートの外でも内側でも、呼吸に焦点を合わせることは不安に対抗する強力な武器になる。不安は、将来起きるかもしれないことへの恐怖であり、この恐怖は、心が将来はどうなるかと考え始めたときに持ち込まれる。
しかし注意が「今、ここに」釘付けにされて、今ここですべき行動が最大のチャンスを与えられて実行される限り、結果的には「最良の今」こそが、将来となる。p209・210
そしてテニスなら理想的なサーブの様子をまずはコーチに見せてもらい、それを頭に思い浮かべながら、その動きを真似ることによって、それまで言葉で指導していたときよりも劇的な向上を見せるという。
これはスポーツでも仕事でも何にでも応用できるだろう。
わしらは結果を出すことにアセってばかりいて、
自らがどのように動きどのように行動すればいいかを見落としがちだ。
何かヘマをしたとしても自分を叱らず、その時の状況をしっかりと見て、見ることで自らがその後どのようになりたいかを具体的に考え、自然のままに動いてみる。
かなり抽象的かもしれないが、目の前にある理想を念頭に置いてなるべく忠実に動いてみるというのはどうだろうか?
見ることが上達につながる。
そして真似て動いて失敗しても自分を批判しない、裁かない。
自らの欠点を見つつ、成功している人をしっかり見れば、自ずと解決の糸口は掴めるハズだ。
「勝とうとすること」と、「勝つために努力すること」の違いは、言葉の上でわずかにしか感じられないが、実際には、この2つには大きな差異がある。
勝とうとだけ努力する者は、自分にはどうにもならない部分をも、心配しなければならない。勝つにせよ負けるにせよ、試合の結果は自分の能力や努力だけではなく、相手の能力や努力によって決まるからだ。自分の外側のゲーム要素に身を委ねることになる。勝ちたいという気持ちが強くなるほど、自分以外の要素が気になり、不安や雑念に試合され、頑張りすぎ、すなわち「力み」が出る。
一方、勝つために努力する、と考える者は、単に努力すればよいのであって、あらゆる瞬間、瞬間に、自分のベストを出し切ることが可能になる。自分がコントロールできる要素に対して、人は不安や心配は感じない。「今、ここで」このポイントを勝つために最大の努力をしているのだというシンプルな意識は、不安や心配を追い抜いてしまう。
その結果、エネルギーは(不安や心配に費やされることなく)勝つための最大の努力にのみ集中して使用される。そうなれば、あくまでも結果論だが、外側のゲームの勝利の確率も、自然発生的に最大となる。
p256・257
どれだけ勝とうと努力してみても、実際はそれ以外のものに作用される事はある。
そんな不安定要素に左右されずに、「勝つために努力する」ということを念頭にして日々努力していれば、負けることに怯えずにすむのかもしれない。
結果を出すことにばかり囚われていて周りがよく見えてなかったわしは、もう少し正しくものを見ることから、自分の仕事を見直してみたいと思う。