ロシア軍のゲラシモフ参謀総長は2013年に出した論文で、地政学上の目標を達成するには外交、軍事力だけでなく「情報戦」も用いる必要があるとする新方針を披露した。ロシアが昨年の米大統領選にハッキングと偽ニュースの流布を通じて介入したのはその好例で、米国人に衝撃を与えた。もっとも、クレムリン(ロシア大統領府)は旧ソ連時代からスパイや宣伝工作員を使い、欧米の政治に影響を与えようとしてきた。
■仏語・独語のサイト立ち上げ
当時との違いはソーシャルメディアや右派および左派のポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭で、新たな手段と「仲間」が登場したことだ。フランスとドイツで今年、国政選挙が控える中、欧州諸国は自分たちがソ連時代の国家保安委員会(KGB)が言うところの「積極工作」の次の標的になるのではと身構えている。
ロシアの介入で最もあからさまなのがメディアを使った宣伝工作だ。政府系テレビ「ロシア・トゥデー(RT)」とニュースサイト「スプートニク」は14年と15年にフランス語とドイツ語の媒体を立ち上げ、欧州に対する悲観論やロシア礼賛を流し、親ロ派ポピュリズム政党への支持を呼び掛けている。時にはニュースもでっち上げる。例えば、RTはドイツのメルケル首相の難民政策への怒りをあおろうと、リサという名のロシア系ドイツ人の少女がベルリンで移民に暴行されたというデマを流した。スプートニクは親北大西洋条約機構(NATO)、親欧州連合(EU)の立場をとるフランス大統領選候補マクロン元経済産業デジタル相の性的指向に関する噂を流した。
欧州では、RTもスプートニクも媒体自体の読者層はごく限られている。ニュースが話題になるのは、悪事を企てる活動家やネット世論を操作するロシアの「トロール部隊」、「ボットネット」(自動でつくられた多数の交流サイトのアカウント)などにより、しばしばインターネット上で拡散されるからだ。ネット上の虚偽情報に詳しいベン・ニモ氏は、RTやスプートニクのフランス語版の記事を最も熱心に共有するツイッターアカウントの多くが「自動作成されているのはほぼ確実だ」と言う。
投稿があまりにも頻繁だからだ。投稿者がフランス人かロシア人かは不明だが、反欧米の記事やコメント、「いいね」などを次々と生み出す「トロール工場」がロシアのサンクトペテルブルクにあることは「元従業員」らの証言でわかっている。
より深刻なのはサイバー攻撃による政治介入だ。15年には、ロシアのハッカー集団「ファンシーベア」がベルリンのドイツ連邦議会のコンピューターに侵入した。この集団は昨年、米民主党のメールもハッキングして公開し、対ロ強硬派のクリントン候補に打撃を与えた。フランスでも、ロシアに対し最も厳しい姿勢のマクロン氏の陣営が最近、ハッキングされた。あるスタッフはフランス情報機関から「攻撃は明らかにロシア発だと報告を受けた」と話す。
ロシアはイデオロギーを共有する相手には昔ながらの支援もする。プーチン氏と親しいウラジーミル・ヤクーニン氏は昨夏、ベルリンに親ロのシンクタンクを設立した。ロシア政府は陰謀論を掲載するスロバキアの雑誌「ゼム・ア・ベク」を支援している。
■投票集計へのハッキング警戒
クレムリンに近い銀行は、ルペン党首率いるフランスの極右政党「国民戦線」に900万ユーロ(約10億4000万円)融資したとされ、イタリアやギリシャ、ハンガリーの国家主義政党にもロシアの資金が流れているという。これらは噂の域を出ないが、ルペン氏やイタリアの「北部同盟」のサルビニ党首、ドイツの「ドイツのための選択肢(AfD)」のペトリ党首はモスクワへ招かれている。そのおかげで大きく知名度を上げた。彼らは皆、ロシア制裁の解除を主張するEU懐疑派だ。
クレムリンの狙いは明らかだ。フランスでは考え方の近いルペン氏か中道右派候補のフィヨン元首相が大統領になればいいと考えている。ドイツではメルケル氏の敗北や連邦議会選でのAfDの躍進、伝統的にロシアに友好的なドイツ社会民主党(SPD)が主導する政府の誕生を期待している。
両国のどちらかでそうした結果になれば、欧州の対ロ制裁が緩和され、ロシアは天然ガスパイプライン「ノルドストリーム2」の建設推進など、大きな経済的利益を得られるかもしれない。プーチン氏の望み通り、EUやNATOの分裂につながる可能性もある。
しかし、積極工作は効果がないことも多い。ロシアのサイトは最近、メルケル氏が過激派組織「イスラム国」(IS)のドイツ進出を意図的に許したと大きく報じたが、何の影響も及ぼさなかった。マクロン氏は自身の私生活の噂を全く気にかけなかったし、スプートニクのスウェーデン語版はほとんど関心を集めず閉鎖された。
「リサ事件」を受け、ドイツは今月5日、虚偽情報の迅速な削除をメディアに義務づける法案を発表した。欧州の反撃はまだある。ロシアによる投票集計機へのハッキングの事実はないが、3月のオランダ総選挙では係員が投票用紙を数えた。仏紙ルモンドやドイツの「緑の党」などは事実の検証を始めた。
欧州の人々は警戒を続けるべきだが、神経質になってはいけない。とはいえ、「情報戦」のおかげでロシアに友好的な候補が選挙に勝ったなら、それはポピュリズム政治を台頭させた欧州の社会状況と、偽ニュースの流布を許すメディア環境が下地をつくったといえる。
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