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ジェンダー素描(1997〜2008)

「家父長制」の謎 (2001/05/01)

 フェミニズムについて読んでいると、時々「家父長制」という言葉が出てくる。文脈から判断する限りでは「男性が権力を握った、古臭い、解消すべき制度」という否定的な意味で使われているように思えるのだが、その意味がいまひとつ判然としない。そこで今回は、この「家父長制」について考えてみることにする。
1.「家父長性」は社会学の用語

 一度、フェミニズムから離れて見てみると、この「家父長制」という言葉は、古くはマックス・ウェーバーなども用いており、元々は社会学をはじめとする社会科学から来ていることが判る。

 元々、この「家父長」(patriarch)という言葉は、日本の旧民法で規定されていたような小さな「家」の長ではなく、「族長、長老、古老」を意味する。特に西洋キリスト教社会においては、元々は『旧約聖書』におけるユダヤ人の父祖を意味し、これが王権神授説の根拠にもなっている。つまり、人類の祖であるアダムが神から家長権を授かり、君主の権力はその延長だと考えられたのである。対するに、有名なルソーはその主著『社会契約論』の中で、この家長権を否定する。この場合は、性差別の解消を主張するためではなく、君主の権力の絶対性を否定する必要があったからだ。

 時代が下って、近代〜現代の社会学における「家父長制」とは何か。

家長権を持つ男子が家族員を統制・支配する家族形態。家父長制家族では、一般に長男が家産と家族員に対する統率権を世襲的に継承し祖先祭祀の主宰者となる。その統率権は絶対的な権威として現われ、家族員は人格的に恭順・服従する。それは伝統によって神聖化された規範であり、家父長は伝統や他の権力の制約を受けないかぎり、その権力を自由に行使することが出来た。(中略)日本の明治民法にみる家父長的家制度は、封建社会における家族秩序を規定したものである。それは家業と家産の維持と家系の存続のために男系長子相続制をとり、家長権は戸主権として法的に保証された。だが、第二次大戦後の近代的家族の展開と家制度の解体とともに家父長制は姿を消しつつある。

 

(『社会学事典』(縮刷版)弘文社)

 この事典を選んだ理由は、監修者に名を連ねている見田宗介氏が信用出来るからという、個人的かつ恣意的な理由からである。しかし、この説明には二つの異議がある。ひとつは私からの、「かつての日本の制度がここにいう『家父長制』にあたるか」というものであり、もう一つはおそらくはフェミニズムの側から提出されるであろう「第二次大戦後の近代的家族の展開と家制度の解体とともに家父長制は姿を消しつつある」という部分に対する異議である。


2.日本はどの程度「家父長制」であったか

 まず最初に私からの異議だが、これは単純に、かつての日本の制度が「家父長制」に該当するかしないかという、二者択一の問題として考える事は出来ない。そういう考え方をするのではなく、様々な側面から見て、どのような点がこの事典でいう「家父長制」に該当し、その反面、どのような点ではこの「家父長制」から外れるのかを考えなければならないだろう。

 結論からいえば、日本の「家父長制」は多分に名目的な、タテマエのようなものであったのではないかと思う。その「タテマエ」の源泉は何かというと、一つは儒教であり、もう一つは西欧渡来の家父長制である。後者から先にいえば、明治に制定された旧民法がほとんどフランスの民法のコピーだったことは有名だろう。また、家長が「家産と家族員に対する統率権を世襲的に継承し祖先祭祀の主宰者」であり、家長権が「伝統によって神聖化された規範」である事などは、儒教とも矛盾しない。

 しかし、現実にこの「表向きの規範」の通りの生活が営まれていたかどうかは、まったくの別問題として検討されなくてはならないだろう。これは孫引きになるのだが(『モダンガール論』斎藤美奈子・マガジンハウス、P54)、明治10年の「主婦」の定義として、既婚・未婚を問わず「家政」の監督者たる「婦人の事を指していうなり」という一文がある。もちろんこれは「既婚・未婚を問わず」というあたり、現代の「主婦」とは意味が異なるのだが、さらにこの「家政」とは何かを見てみると、

  1. 家産保護の事
  2. 金銭出納の事
  3. 下女下男の召使い様の事
  4. 祖先の祭祀
  5. 郷党縁者の交際等

とある。さて、現代とは「主婦」の意味が違うとはいえ、「主婦」が女性である事には変わりはない。その女性の仕事の中に「家産保護」や「祖先の祭祀」が含まれていることを、どう考えればよいのだろうか。「金銭出納」や「下女下男の召使い様」も、西洋なら「主婦」ではなく「主人」たる男性の役目である。繰り返すが、これはまだ『青鞜』なんかの陰も形もない、明治10年の話なのだ。

 日本では元々、夫婦といえども財産権(という言葉こそなかったが)が、男女で分かれていた。これは安土桃山時代にイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが本国に書き送った手紙にも見られる事実で、例えば

ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける

(『ヨーロッパ文化と日本文化』、岩波文庫、P48)

とある。ロックが私有財産権の確立に取り組んでいたころ、日本ではそんな事は既に鎌倉の昔から当然の話だった。その上、現在にいたるまで家計は主婦の管理下にあるのが普通である。

 長子相続が確立したのも江戸時代に入ってからで、それ以前は兄弟あるいは叔父と甥の間での相続争いなど、日常茶飯事である。だからこそ、応仁の乱のような天下の大乱があると、それぞれが敵味方に分けれて戦った、自分が味方した勢力が勝てば、相続権が認められるからである。また当時は、兄弟でも母親が違う事は珍しくなかったから、この場合にはどうしても母親の実家の勢力が強い方が有利になる。天皇家でさえ、藤原氏や平氏のような「外戚」が威を振るうことが出来たのは、歴史的な事実である。これは女性が政治(特に人事)に口出しできなければあり得ない事なのだ。

 私の考えでは、これはおそらくは日本の武士が、元をただせば開墾農民だったからからだと思っている。元々が夫婦で力を合わせて起こした家であれば、役割分担はあっても、どちらが上ということはない。『吾妻鏡』などを見る限りでは、開墾農民あがりの坂東武者には、そういう気風が伝わっていたとしか思えないのである。例えば、その典型的な例が、源頼朝の妻で、北条氏出身の政子である。彼女は、頼朝が自分の他に女を作ると(特にその女性に子供が出来ると)、それを絶対に許さなかった。そのために後世、政子は「妬婦」の代名詞のようにいわれるのだが、京風の(公家の)慣習に照らせば頼朝が正しく、坂東の風からすれば、おそらくは政子の方が正しい。鎌倉の御家人の妻は、公の場でも夫の隣に公然と席を用意された。

 鎌倉幕府の成立は、京都の朝廷・公家に対して開墾農民(開墾地主)が土地の私有権を確立した、一種の「革命」だが、同時に女性の権利を確立する契機ともなった。平安時代にも清少納言のような「才媛」はいたが、女性の権利という視点からは、北条政子を筆頭とする鎌倉御家人の妻達をもって嚆矢とすべきだろう。

 こうした風は江戸時代、儒教が採用されると「表向き」は姿を消したかに見えた。しかし、律令の昔から今日に至るまで、日本は中国や朝鮮のように純然たる儒教国になった事はなく、したがって意識や慣習がそうそう変化するはずもない。

 例えば現在でも、九州は男女差別の激しい地方であり、その中でも鹿児島県は特に保守的だという話を聞く事がある。しかし実際にはどうだろうか。薩摩(鹿児島)の女性を「薩摩おごじょ」というが、「薩摩おごじょ」がそんなに主体性のない、めめしい存在かどうか。上のように考えている人は一度、鹿児島を知る人に尋ねて確かめてみるとよいと思う。少なくとも私が知る限りでは、相当「骨のある」女性が多い。決して粗野ではないが「芯が強い」とか「たくましい」といった感じだろうか。精神的に軟弱な男性では、とても太刀打ちできまいと思われる。

 また、長州は薩摩とは極端に気風の異なる地方だが、幕末の長州に、来島又兵衛という「猛将」ともいうべき武士がいた。それが意外な事に恐妻家で、1864年の蛤御門の変に際して、居ても立ってもいられず京へ上ろうとして妻に叱られた。「今回限りにするから見逃してくれ」と半ば懇願し、半ば逃げ出すようにして参戦し健闘、戦死している。この話を書いていて思い出したが、長州といえば大村益次郎(村田蔵六)もまた、恐妻家として知られる一人である。彼の場合には、妻がヒステリーを起こすたびに家から「翔ぶが如く」に逃げ出し、近所の桑畑の中に隠れていたと伝えられている。

 もちろん、中には織田信長の妹のお市の方のように、二回も政略結婚させられたような女性もいたが、日本の歴史くらい女性側の視点から見やすい歴史も珍しいのではないかと思う。ちょっと見渡すと、「恐妻家列伝」が書けそうだ。

 ついでに書いておくと、明治10年の主婦の仕事の一つに「下女下男の召使い様の事」があったが、これは武士の家では男性の使用人は夫(主人)の、女性の使用人は妻(主婦)の監督下にあったようである。理由は簡単で、男性の使用人(例えば若党とか中間)は戦になれば「家来」として主人に従って戦場に赴いたためである。そのために、主人夫婦がケンカを始めると、家中の使用人が男女に分かれて反目する例もあったようだ。

 もちろん、そんな戦闘要員は、軍人の家庭といえども明治以降は必要ない。だから一家の使用人は、いわばすべて家事使用人である。そのために「下女下男の召使い様の事」が主婦の仕事に数え上げられたのだろう。つまり使用人は、男女の別なく「主婦」の監督下に組み入れられるようになったのである。

 こうして考えてみると、かつての日本の「家父長制」が、タテマエはともかく、その内実においてどれほどのものであったか、再検討の余地があるのではないだろうか。


3.政治的レッテルとしての「家父長制」

 さて、上に引用した『社会学事典』の「家父長制」の説明の内、フェミニズムの立場から異議の申し立てがあるとしたら、その最後の部分、つまり「第二次大戦後の近代的家族の展開と家制度の解体とともに家父長制は姿を消しつつある」の部分に対するものだろう。(解消されるべき)「家父長制」は、いまだ姿を消してなどいないし、その証拠に、現在に至るまで性差別が続いているではないか、というわけだ。

 理由は簡単で、実はフェミニズムにおける「家父長制」は、社会学や文化人類学でいうそれとは、まったく意味の異なる用語なのである。ついでに書いておくと、社会学や文化人類学でいう「家父長制」は、権力の所在(男性が権力を握っている)を問題にしているわけでなく、あくまでも特殊歴史的な家族形態そのものに注目する語として使われている。もしくは、使われていた。「使われていた」と過去形で書いたのは、「父系制」や「父方居住」などの概念と違って、現在の文化人類学ではあまり「家父長制」という概念が使われなくなっているらしいからである。

 また、特に日本の社会学ではこの「家父長制」という用語が、旧民法における「家」制度を指す言葉として定着していた。その意味でも『社会学事典』において「第二次大戦後の近代的家族の展開と家制度の解体とともに家父長制は姿を消しつつある」と述べられている事は、なんら不当な表現ではあり得ない。

 それが判れば、こうしたフェミニズム側からの異議申し立て自体が、実は無効なのだと言う事が判るだろう。正確には「社会学における意味の『家父長制』は姿を消しつつあるが、フェミニズムにおける意味の『家父長制』はまだまだ続いている」というべきだろう。もっとも、フェミニズムで使われる「家父長制」だって、元々は社会学や文化人類学から取り込んだ言葉のはずである。ということは、その後にフェミニズムの内部で用語の意味が独自に変質したわけだ。

 では、フェミニズムにおける「家父長制」はどのような意味で使われているのか。そもそも、フェミニズムにおける「家父長制」の特徴は、社会学とも文化人類学とも異なり、「権力の所在」に注目し、性差別の問題を語るための用語として用いられたことにある。

 その事をよく表現しているのは、上野千鶴子だろう。彼女によれば「家父長制」とは「男性が女性を支配することを可能にする社会的権力関係の総体」である。これと、上に引用した『社会学事典』での「家父長制」の説明を比較すれば、両者が全く別概念である事がよく判るだろう。前者が「家」の外へ視野を広げて「社会的権力関係の総体」を対象にしているのに対して、後者(社会学事典)はあくまでも家(大家族)の内側の形態について述べているからだ。

 むろん、ここに挙げた上野の見解は、フェミニズム一般の話ではなく「マルクス主義フェミニズム」においての話である。だから他の系統のフェミニズムでは、また異なる意味で「家父長制」という語が使われているということも、当然あり得る。

 例えばラジカル・フェミニズムならば「社会全般に見られる性差別」の同義反復のようなものでしかない。つまりラジカル・フェミニズムでは「性差」も「家父長制」も、すべて「性差別」とイコールの概念になってしまうのである。それがなぜ問題なのかというと、「家父長制」という用語が問題を分析するための概念としては全く機能しないからだ。文化人類学では、同様の理由で「家父長制」が使われなくなったが(これは「家父長制」に対して、「家母長制」を取る社会が事実上存在せず、したがって「家父長制」の語を用いての分類・分析が事実上不可能だと判ったからである)、ラジカル・フェミニズムでは社会批判のための「レッテル」としてのみ生き残っている。

 では、マルクス主義フェミニズムにおける「家父長制」の概念(もしくは用語)はどうかというと、内実はたいして変わらない。ただし言葉の上では、もう少し分析的な使い方ができる。例えば、

「家族賃金」(夫一人が働く事で家族全員が暮らせるだけの賃金を受け取る、その賃金)は、
  1. 資本制の要請(労働力の安定供給のため)
  2. 家父長制の要求(家族内の権威や性別役割の保持)
の二つの相互作用の結果である。

というように。逆にいえば、ここでは社会学や文化人類学の用語としての「家父長制」の場合とは逆に、「権力の所在」だけが問題なのであって「家族の形態」そのものは関係ないのだ。昔のような大家族でも「家父長制」、核家族化が進んでも「家父長制」である。もはや、マルクス主義フェミニズムにおける「家父長制」は、他の学問(社会科学や人文科学)のそれとは「同音異義語」の関係にあるといっても過言ではない。また、ラジカル・フェミニズムでは単なる記述概念として用いられているから、これもまた別ものである。

 一方、マルクス主義フェミニズムの場合には、用いられ方という形式だけを見れば、分析概念と考えてもよいだろう。しかし問題はその実効性である。上野のいう、

  • 男性が女性を支配することを可能にする社会的権力関係の総体
  • 非対称的な性と世代の変数の中で、男性・年長者に権威が配分されるようなシステムを、広い意味で家父長制という

という「家父長制」の定義も、結局は「男性優位社会」と「年功序列社会」の言い換えに過ぎないのではないだろうか。特に、二番目に挙げた定義では、「権威」と「権力」が混同されているし、この言い方では「性役割」も「権威」や「権力」と混同されてしまう事になるだろう。その結果、上野の「家父長制」は、形式上「分析概念」として使われているにも関わらず、事実上はラジカル・フェミニズムと大差ない概念になってしまっているのではないだろうか。概念の用い方が、非常にずさんな印象を受ける。

 この曖昧さはどこから来るのか、というよりは、なぜそれが私にとって気になるのかというと、おそらくは上野と私の考え方(考える方法)に違いに由来するのではないかと思う。マルクス主義フェミニズムは当然、説明原理を下部構造(物質的基礎)に求める(一方、私は現象学の方法を使って欲望論的に考える)。マルクスが資本制を下部構造から説明したように、上野も「家父長制」の根拠を下部構造に求める事にとらわれ過ぎるのだ(もっとも、だからこそマルクス主義フェミニズムを名乗っていられるのだろうが)。

 「権力」ではなく「権威」という言葉が出てきてしまうこと自体、「それは(間違った)イデオロギーに支えられたシステムなのだ」と言いたいのかもしれない。しかし、現実には人間が物質的基礎だけに支配されている事はあり得ないし、すべての女性が本人の意思に反して強制的に主婦になる道を選んだり、子育てをしているわけではない、むしろ逆の場合の方が圧倒的に多いだろう。

 人間は、提示されたビジョン(可能性)の中から自分が欲するものを選び取って生きて行く。そのビジョンの提示は、物質的基礎に支えられていると言えない事もない、だが、複数のビジョン(例えば、結婚する・結婚しない)の中から何を選び取るかという場合には、人間の欲求というものを考えなければ、絶対に答えは出ない。この場合の「ビジョン」とは、欲求に実現の可能性を与えて「欲望」の形を取らせる道筋である。その中から何を選ぶかは、ビジョンそのものをいくら検討しても絶対に判らない。なぜならば、その答えは選択されるビジョンの方にあるのではなく、選択する人間の側に内在しているからだ(目の前にコーヒーとコーラを並べられ、好きな方を選べといわれた状況を想像してみれば、誰にでも判るだろう。コーヒーやコーラをいかに分析しても、そこから人間の欲望を解明する事は不可能なのだ)。

 「家父長制」や「資本制」も同じ事で、それが歴史や文化を越えて普遍的に存在している事実には、そうした状況を形成してきた「欲望の歴史」があるはずである。マルクス主義フェミニズムであれ、ラジカル・フェミニズムであれ、そういった問題を棚上げして「家父長制」やその他あらゆる性(ジェンダー)の問題を考えようとしても不可能なのだ。

 いずれの場合にしても、フェミニズムにおける「家父長制」は、もはや「否定すべき現状」に張りつける「レッテル」以上の意味を持っていない。それは例えば、昭和初期の軍隊に対して「封建的」のレッテルを張りつけるのと似ている。戦前であっても、統一国家である「大日本帝国」は、もはや「封建制」とは何の関係もない。しかし、レッテル貼りにいそしむ側は、そんな事にはお構いなしである。事実としては明らかに間違っていても、「何か悪いイメージを与える言葉」として政治的「レッテル」の機能さえ果たせばよしとする。その結果、言葉の意味の方が変わってしまうという事が起こる。つまり、封建社会ではありえない昭和初期が、いかに「封建的」であったかを強弁するようになるのである。

 フェミニズムにおける「家父長制」という言葉が、社会科学(社会学や文化人類学)とは全く異なった概念に変質してしまったのも、まったく同一の現象だといえるだろう。なぜそういう事になるのかといえば、フェミニズムがどんなに「学問」の衣を被って見せても、その本質が「事実の解明」ではなく「実践」にあるためである。

 もっと簡単にいえば、フェミニズムが「社会学」や「女性学」を名乗って見せたところで、その本質は「学問」ではなく、あくまでも「運動」なのだ。ここでいう「学問」と「運動」の決定的な違いは、「学問」が事実を究明するものであるのに対して、「運動」はあらかじめ答えが用意されているという点にある(このことと「問題意識を持つ」こととは、厳密に区別されなければならない)。事実の解明を待たずに実践を急げば、どうしても「レッテル貼り」に走らざるを得ない。そこでは理論は常に「あとづけ」である。

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