また唐突な企画ですが、世の中には色々と変な仮説もあります。しかし変と いうのは、今私たちが常識で考えて変と思っているだけであって、将来それ が真実と認められる可能性もあります。コペルニクスの地動説だって、当時 は「とんでも仮説」だったかも知れません。
さて奥州藤原で亡くなったとされている源義経が実は逃げ延びて蝦夷地から 大陸に渡り、チンギス・ハン(ジンギス・カン)になったというのがこの仮説 の要点です。
チンギス・ハンの生年ははっきりしませんが、1155〜1167頃とみられており、 1159生まれの源義経と確かに同年代です。また奥州で義経が亡くなったとされ ているのが1189年ですが、チンギス・ハンがモンゴルで兵をあげたのが1188年 頃のようですので、ギリギリで年代が一致します。また源義経という文字を 中国語読みしますと、yuan-yi-jing となり、これがチンギス・ハンの幼名 「テムジン」と似てないこともない、という人もあります。
しかし兄の頼朝に追われた義経がもしチンギス・ハンになったのだとしたら、 その孫のフビライ・ハンがモンゴル大帝国を立てて日本に攻めてきたという のは物凄い歴史の皮肉になります。
チンギス―――トウルイ―――フビライ
北条義時―泰時―時氏―時頼―時宗
北条義時(政子の弟)とチンギスが同世代です。モンゴル3世代の間に日本は 5世代というのもすごいですが、文永の役の時にフビライは59歳、時宗は23歳。
実は直前まで義時の子の政村が執権をしていたのですが、この未曾有の国難 に「年寄りでは駄目だ。若いもんがやれ」と政村が言って、時宗がわずか17 歳で日本の国のトップに立ったのでした。最近17歳は風当たりが強いですが 動乱の世ではその思い切った行動力が必要になることもあります。