知楽生活

ここ数日、教養についていろいろ書いていたら、とある訃報を目にした。

渡部昇一氏が死去 英語学者、保守派の評論家  :日本経済新聞

英語学者で保守派の評論家として知られる上智大学名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)氏が17日午後1時55分、心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。86歳だった。告別式は近親者で行う。喪主は妻、迪子さん。

評論家の渡部昇一氏が死去 第1回正論大賞、「知的生活の方法」など著書多数(1/2ページ) – 産経ニュース

48年ごろから評論活動を本格的に展開し、博学と鋭い洞察でさまざまな分野に健筆をふるった。51年に「腐敗の時代」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。同年に刊行された「知的生活の方法」は、読書を中心とした知的生活を築き上げるための具体的方法を論じ、100万部超のベストセラーとなった。

『知的生活の方法』の著者である渡部さんだ。安らかに眠られることを願いつつも、時間の流れを感じないではいられない。一つの世代が終わろうとしている。そんな感覚である。

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ときのながれ

渡部さんが1930年生まれで、梅棹忠夫さん川喜田二郎さんは1920年生まれ。1923年生まれの外山滋比古さんはまだまだお元気ではあるが、おおよそ100年、つまり一世紀近い年月が流れたことになる。

1920年代と言えば、岩波文庫が生まれた頃であり(ちなみに1927年だ。岩波新書は1938年)、教養主義がまだその光をランランと発していた頃合いでもあろう。私はその当時の空気感を知るよしもないが、上記の著者らによる本を読んでいると、なんとなく雰囲気は想像できる。まだインテリというものが権威だけでなくあこがれとも結びついていた時代で、そこに向かって共に歩みを進める人々の間には、共感よりももっと強い何かがあったに違いない。

しかし、それも過去の話だ。今となっては……、いや、そう簡単にページを切り替えても良いのだろうか。まだ存続している何かはあるのかもしれない。あるいはぜんぜんないのかもしれない。

そこにあこがれはあるか

本を読み、自分で考え、何かをあらわす。そのことで人格を高めていくような生活に対して、あこがれというものは機能しているだろうか。たとえば、今の大学生に、高校生に。

さすがにまったく機能していないとまでは言えないだろうが、強い程度機能していると言い切るのも難しいだろう。少なくとも、私が眺める世間からはそのような印象を受ける。

あるいは、その時代は高い学問を修められる人の数が限られていたからこそ、生まれた雰囲気だったのかもしれない、ということも考えられる。黎明期のネットサービスのような雰囲気、ということだ。すると、大学が大衆化した現代ではそもそも環境が違うわけで、比較すること自体が誤っているのかもしれない。

ともかくとして、「教養人であらなければならない」という姿勢は、割合的に見れば昔と変わっていないか、あるいは昔よりも減っているだろう。少なくとも、大幅には増えていない。昔の教養主義が大衆化を目指していたのならば、現状は失敗と言えるが、それを特権的に維持しよう考えていたのならば思惑通りということである。それがどちらなのかは私にはわからないが、現代日本で教養主義が通用することはほとんどないだろう。

むけられるてきいとおまけ

おそらく問題は、教養主義とインテリズムが癒着してしまったことにある。立身出世のための教養、というわけだ。現代でも「ビジネスに役立つ教養」という文句を見かけるのだが、ある種のステータスを得るためのスキル、として扱われている。

教養と立身が結びつくと、頭の良い人間が権力を握ることを正当化するインテリズムが台頭し、そのインテリズムに対する攻撃として反知性主義的なものが登場する。そこでは、「頭の良い人間が権力を握っている状況」だけでなく、頭の良い人間そのものや、頭を良くしようとする行為にまで攻撃の手は広げられる。癒着によって、インテリズムへの攻撃が、教養主義への攻撃にもなってしまうわけだ。

知的生活に対する嫌悪。
知的生産に対する憎悪。

もちろん、そんなに極端なものが生まれている様子はない。でも、無関心やちょっとした距離感みたいなものが生じている可能性はある。

しかしながら、もともと「本を読み、自分で考え、何かをあらわす」ことに権力はまったく関係がない。立身出世もおまけみたいなものだろう。渡部さんのように著した本が大ヒットする人なんて、ほんのごく一部であり、多くの研究者はもっと地味に、淡々と仕事をしているに違いない。でもって、それが平均的に見れば「普通」なのである。

知的生活を送るということは、「本を読み、自分で考え、何かをあらわす」ことを生活に組み込むことだ。基本的にはただそれだけのはずである。そこに「何のためにそれをするんですか?」という疑問を持ち込まれても、「楽しいから」とか「やりたいから」としか答えようがない。

結果として、その生活の積み重ねから教養を得ることもあるだろうし、何か別のものを得ることもあるだろう。しかし、根本的には、その行為に対する欲望こそが原動力なのであって、それ以外はおまけではないだろうか。そこに「目的」のようなややこしいものを持ち込むから、話がこじれてくる。

さいごに

100年という時間が経って、ハビトゥスの生成に寄与する場は大きく変化しただろう。で、昔と今を比較して嘆く声もあるかもしれない。しかし、その声はどれだけの正当性を有しているだろうか。単なる過去の美化以上の何かがあるだろうか。

むしろ、ここ100年で大きく時代と環境が動いたにも関わらず、『知的生活の方法』や『知的生産の技術』が読まれ、割合としては小さくても一定数の支持を得ていることに注目すべきではないだろうか。大きな嵐が通り過ぎても、いまだ灯る火がそこにあるのだ。むしろ注意すべきは悲観的になり過ぎたり、嵐に追従する路線を取ることで、その小さな火を消してしまうことではないだろうか。

もし、私に魔法が使えるならば、「知的」に染みついたインテリズムを消し飛ばすだろう。「知的」なことは、ぜんぜん悪いことでもないし、硬いことでもない。しゃちほこばる必要はないし、萎縮する必要もない。何かを深く考えることは、単に楽しいことなのだ。

知的で楽しい生活。知楽生活。

そういうものを送っていきたいものである。

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