まだロックが好き

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まだロックが好き

アラサーです。 ふだんはサラリーマンをしています。 元バンドマンです。 高校から一緒の妻と、2014年に生まれた息子がいます。 趣味でまだバンドをやったりしてます。 まだロックが好きです。 そんな日記です。ブログではありません。 日記です。

母子家庭で育った男性の性格形成について

ブログカンケイ

 

「貴殿以上に人格の闇黒めいた人間をお目にかかったことがない」

というのは妻から私への最大の賛辞である。

 

くだけた表現を使用するならば「おまえ、めっちゃ性根わるいわ」ということである。であるがしかし仕方ないと思っていただきたい。なぜなら私は母子家庭という複雑な、いや逆に言えばとてもシンプルな家庭環境で育成されたため、一般的な心の素養がなされていないのである。父と母、両人からほくほくの愛というのを受けていないのである。

 

どのように性格が破綻しているのか。妻曰く、私の発言動の根っこには「人を小ばかにしたような心情が表れている」とのことである。つまり「プライドが高く自分を高尚な人間だと思っている節があり、平身低頭しながらも裏では高い場所からものを言う」とのこと。それを聞いて私は唸ってしまった。うーん、ザッツライト。

 

たしかにそうである。そんなかんじのときもある。しかしそれは自己防衛である。なぜなら私は卑下されて生きてきた。母子家庭で貧乏だったからである。なので人生のさまざまなタームで小ばかにされてきた。小ばかにされたらストレスが溜まる。ストレスが溜まったらたいへんである。そのストレスから身を守るための自己防衛である。

 

小学校などでは同級生にばかにされることはなかった。私は陽気で人気ものだったのである。しかし担任の先生などからどぎつい蔑視をされた!、と、そんなことも無く、逆に過剰な保護を与えられた。それがよくなかったと思われる。「こいつんちは母子家庭だから仕方ない」みたいな。なので私は外聞無く露呈するが小学校のころ、宿題というものをまるでやったことがない。勉学のセントリーがいなかったのである。

 

以上の待遇がなされると、俺はスペシャル、という気持ちが浮かぶ。俺はスペシャルだから仕方ない。スペシャルだから許される。スペシャルだから俺は怒られない。そう思い、母子家庭を盾にして生きるようなったのである。

 

その一方でたまに感じる大人の悲観のまなざし、というものに自分が追い詰められる感覚もまたあったのである。

子どもというのは敏感である。私も子どもが生まれてわかったが、子どもというのは人心の醸しだす空気というのを察するのが上手である。私は小学校のころ周りの大人たちが抱く悲観の心というのを感じていた。それはいま思えばきっと「慈しみ」なんだろうけど、当時の私はそれを蔑視に感じていた。上記の担任の過保護も、裏をみれば私を蔑視していた結果であると思われた。私はことあるごとに「同情するならカネをくれ」と喚いていた、ってのはうそですけど。

 

だから私は「お前らには俺の気持ちなんてわからねぇよ」と思い始めた。周囲の小ばかにした悲観の眼光に対して母子家庭の盾は効果がない。むしろ逆効果である。なので小ばかにされそうなとき、相手に「人の気持ちがわからないばか」の捺印を押し、「そんなばかにはなに言われても平気だわ」と思うのである。いまふうに言えばマウンティング的なことだと思われる。

 

こうして私は自己防衛の手段を講じた。その「俺はスペシャル」という心持を抱き続けた結果、プラス、他人に勝手にばかの印字を施す結果、イコールが、いまの私の腐った性格を生み出したのではないか、と思っている。

 

また母子家庭という環境では出来ないことなどがある。それはもちろん父を伴う行事や祭事やイベントである。ほほう父の日。ふーんキャッチボール。はっはーん父子リレー。そうやって他の家との差異をめっちゃ感じる。ここでまた心の防衛網が踊り出す。するとどうなるか。リコーダーを吹かなくなる、ということである。

 

私は学徒であった時期、なぜみんなでおんなじことをするのかわからなかった。とくにリコーダーである。なんでみんなで一緒にリコーダーをピッピラ吹かなきゃならんのだ。あほうか。なぜみんなこの集団的状況に疑問をもたないのか。ひとりぐらいさぼってもわからんだろう。集団笛吹き気持ち悪い。と思っていた。

 

つまりこれは、人と同じことはしたくない。俺はアウトローだ。人と違うのがかっこいいんだ。と思い始めるということである。今思えば「できないこと」を自己の選択で「やらないこと」と思い始めていたんだと思う。

父のいない状況でできないこと、やれないことというのは多くあった。それを肯定するために「あえてしないだけ」というアティチュードを構えるようになる。そのアティチュードを「やればできる」ことにも適用し始めてしまうのである。そしてそれにアウトロー精神も交じり合う。するとリコーダーを吹かなくなるのである。

 

そうして、いっぱしのアウトサイダーとして、すべてのものごとに対して斜に構えるようになる。怠惰。そしてやらなくていい理由は母子家庭を盾にするのである。そこに上記で述べた腐敗した私の性格である。まるで救えない。

 

しかし「人と違うこと」にはたいへん興味があった。それが私にとってのロックミュージックであった。このへんは私が最初に手にした楽器が「ベース」という事実もこの信憑性に拍車をかけると思う。

ちなみにこの上記記載で人生の再建的予兆が垣間見られるが、ロックを好きになる、というのは堕落の一途をたどるということであり、今後の人生にもいっさい希望の光明は差さないので安心して欲しい。

 

だからブログでもそうである。私の文章は読みにくい。けど、人と違うふうに書いたほうがいいじゃん。とか思っているのである。浅はかでしょう。だから以下のように皆さんの綺麗な読み易いやつができないのである。

 

拝啓!灼熱滾る煉獄の底から蘇生したゆあさよと申し仕る!

貴公はいかなる襦袢を召しておるのであろうか。

拙僧はユニクロで販売流通されるものを纏って候。

かようなユニクロラバーたる拙僧が推奨する襦袢を伝播いたしたい。

願わくば高説仕る拙僧の下記稚拙乱文にお付き合いしていただきたく申し仕る。敬具!

 

ってのができないのである。ね、できてないでしょう。

 

かかる具合の心持をいまだに持っている。つまりいい歳こいたおっさんになっても「人と違うほうがかっこいい」と思っている。だから妻に「おまえみたいな捻くれた人間見たことねぇわ」とか言われるのはつまり、私は無双ということであり、私のアイデンティティに対してマキシマムな美辞麗句なのである。

 

だから、因果が逆かもしれないが、私は母子家庭で育ったことがかっこいい、と思っている。ちょっと誇りに思っている。それは私がロックミュージックなんてものを好きなこともあり、そのロックミュージックを形成した偉人たち、つまり、ジョンもカートもギャラガー兄弟も親に恵まれなかったことからロック感が出ていいじゃん。俺は親に恵まれなかったわけじゃないけど、母子家庭ってロックっぽいじゃん。人と違うってかっこいいじゃん。それってロックじゃん。と思い始めたがゆえに、私は「まだロックが好き」なんです。

 

今週のお題「自己紹介」