長年、日本近現代史を研究してきた著者が、改めて明治維新以来の日本の近代国家形成について振り返って分析した本。
この本の「あとがき」には次のように書かれています。
こうした意図のもと、「なぜ日本に政党政治が成立したのか」(第1章)、「なぜ日本に資本主義が形成されたのか」(第2章)、「日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか」(第3章)、「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」(第4章)という4つの問に答えようとしています。
第2章については著者の見方にやや疑問も残りましたが、今までの研究の蓄積から生まれた問題意識や分析は面白く、まさにプロ・アマ問わず日本の近代について考える者に興味深い視座を提供するのものになっていると思います。
この本の導き手となっているのは19世紀後半に活躍したイギリスのジャーナリストでもあり経済学者でもあり思想家でもあったウォルター・バジョットです。
バジョットはその著書『自然学と政治学』の中で、イギリスの近代を生み出したものとして「議論による統治」をあげ、さらにそれに力を与えたものとして「貿易」と「植民地」をあげました。
このバジョットが近代化の要因としてあげたものを、近代の日本の経験と照らし合わせてみていくのがこの本の基本的なコンセプトになります。
第1章は「なぜ日本に政党政治が成立したのか」という問について。
今まで昭和初期に「なぜ政党政治が崩壊したのか?」という問が問われることが多かったですが、むしろ複数政党制が成立・発展したことこそがある意味で「特異」だといいます。
そして、複数政党制を可能にした権力分立制や議会制もアジアの中では珍しいものだといえるのです。
まず権力分立制ですが、著者はこの起源を江戸時代の幕府のしくみにみる福沢諭吉の議論に注目しています。
江戸幕府の政策決定の中心には老中がいましたが、この老中は4~5人いて、基本的には合議制となっていました。さらに月番制という月ごとの短期ローテーション制が行われており、権力の集中は抑制されていました(43p)。
福沢諭吉は幕藩体制のイデオロギー、特に儒教に対して厳しい批判を行ったことで知られていますが、幕府の制度に関しては高く評価していました。幕府の権力については「平均の妙を得たるものと云ふ可し」と評していたのです(47p)。
議会制を用意したものとして、著者は江戸時代い成立した「文芸的公共性」をあげています。
ハーバーマスは「政治的公共性は文芸的公共性から姿を現してくる」と言いましたが(51p)、著者はこの「文芸的公共性」に相当するものが18世紀末以降の江戸時代にも成立していたと考えます。
幕府の官学である昌平黌は幕臣だけでなく諸藩の陪臣や庶民にも開放され、昌平黌出身者を中心とするネットワークが出現しました。さらにそれは「社中」と呼ばれたさまざまな地域的な知的共同体に結実します(51-52p)。
そして、これらの知的共同体のコミュニケーションを描いたのが『渋江抽斎』、『北條霞亭』といった森鴎外の「史伝」と呼ばれる作品群でした。
また、明治憲法についてはその天皇への権力集中が指摘されることが多いですが、著者は覇府(幕府的存在)を排除しようとする姿勢に注目します。
この幕府的存在を排除する姿勢は戦前まで生き延びており、大政翼賛会は「幕府的存在」と貴族院で指弾されました(69p)。明治憲法は権力の分立を志向した憲法でもあったのです。
しかし、実際には政治権力を統合・調整する存在が必要になります。明治憲法の場合、それを果たしたのが藩閥と政党でした。
アメリカ合衆国憲法も権力分立を志向し、ある意味で「反政党的な憲法」でしたが、そのアメリカでも政治権力の統合の主体として政党が発展していったように、日本においても「反政党的な憲法」のもとで政党政治が育っていったのです。
けれども、その政党政治も、昭和初期によるとその権威はゆるぎ、蝋山政道によって「立憲独裁」が主張されるなど、議会と政党による政治は次第にその居場所をなくしていくのです。
第2章は日本の資本主義の発展を大久保利通~松方正義~高橋是清~井上準之助というラインで見ていきます。
大久保利通は内務省をつくって殖産興業を進めましたが、そのための大規模な外債の募集には慎重で、あくまでも租税によってそれを成し遂げようとしました。
1879年にアメリカの元大統領で北軍の司令官でもあったグラントが来日し、明治天皇に謁見していますが、このときグラントは外債の危険性と戦争の回避を助言したといいます(106-110p)。この助言は明治天皇に強い影響を与えたようで、明治天皇は日清戦争時においても開戦に否定的でした。
大久保の「消極的外債政策」は同じ薩摩藩出身の松方正義に引き継がれました。
大久保の後に日本の経済政策を担った大隈重信は西南戦争の戦費調達や殖産興業のために外債の募集を計画しましたが、明治14年の政変で失脚。代わって財政を担った松方は「松方デフレ」で知られる徹底した緊縮政策で外債なしの経済運営を目指します。
一方、殖産興業論戦を継いだ人物に薩摩藩出身の前田正名、そしてその前田の指導を受けた高橋是清がいます。
高橋は日露戦争時の外債募集の仕事を成し遂げて名を上げましたが、著者はその本質は外債には本来否定的な「自立的資本主義」の考えを持っていた人物だとしています(130p)。
その高橋が引き立てたのが井上準之助でした。彼はモルガン商会のラモントから「井上はノーマン(イングランド銀行総裁)、ストロング(ニューヨーク連邦準備銀行総裁)や我々すべてと同じ金融語を話す」(137p)と評された人物で、英米からの外債の導入などに力を発揮しますが、彼が蔵相として推し進めた金解禁は失敗に終わりました。
著者は「満州事変によって、金本位制を支える緊縮政策の根幹(軍縮)が揺るがされ、結果として井上の金海禁政策は失敗に終わります」と書いていますが、金解禁の失敗とその後の経済混乱が満州事変を招いたとも言えると思います。
この章は全体的に、松方デフレの影響にしろ、金解禁の影響にしろ、国民が被ったマイナスといったものがあまり考慮されていない印象を受けます。
第3章は日本の植民地支配について。
イギリスなどの植民地と日本の植民地が違う点は、朝鮮半島にしろ満州にしろ、日本の進出先が自国の防衛と深く関わっていた点と、韓国併合に見られるように植民地を自国の一部として統治しようとして点です。
この動きを著者は枢密院の審議などを題材として見ていきます。韓国の初代統監は伊藤博文ですが、ここで問題となったのは文官である伊藤が軍隊の統率権をもつことから発生する「統帥権の独立」の問題です。
この後、陸軍が巻き返し韓国併合後は朝鮮総督に武官総督制が導入されるわけですが、一方で原敬を中心に植民地統治を陸軍から奪おうという動きも起こります。
原は朝鮮総督に山県有朋の養嗣子で文官の山県伊三郎をあてようとし、これは挫折しますが、台湾総督に山県系の官僚の田健治郎をあてる人事には成功します。山県との摩擦を最小限に抑えつつ、文官支配を広げていく作戦をとったのです(176-179p)。
この後、田中義一内閣のときに植民地開発のための拓務省が設けられますが、このとき枢密院から「拓殖務省のほうが適切ではないか?」との意見が出ますが、田中首相は「拓殖務省では朝鮮人の感情を害するおそれがある」との説明しています。「同化」を掲げる中、「植民地」という言葉の使用は避けられたのです(187-189p)。
昭和期になると、日本は「汎ヨーロッパ主義」や「モンロー主義」を手がかりにアジアにおける地域主義を主張しますが、文化的な基礎付けを欠いた地域主義は挫折せざるを得ませんでした。
第4章は天皇制について。
明治憲法制定に影響を与えたプロイセンの公法学者グナイストは、宗教の重要性を説き、「日本は仏教を以って国教と為すべし」(215p)と勧告しましたが、伊藤博文は既存の宗教ではなく、天皇制を宗教にあたるものとして国家の基軸に据えようとしました。
しかし、ここで問題となるのが明治憲法の第一条の統治の主体としての天皇と、第3条の「神聖不可侵性」の関係です。
天皇は憲法の枠内で統治を行う主体なのか、それとも憲法を超越した存在なのか、ここに天皇に関する二重性があるのです。
この二重性のうち、「神聖不可侵性」を前面に打ち出したのが「教育勅語」でした。
教育勅語は当初、中村正直が起草者となり準備が進められましたが、これを批判し、中村に代わって起草者となったのが井上毅です。
井上は、道徳の基盤に「天」や「神」を求めたことや国際政治の状況などについて触れていることを批判し、教育勅語から道徳の哲学的基礎づけや政治的状況判断を排除すべきだとしたのです。
井上は、教育勅語は天皇自身の意思の表明であり、その権威は「皇祖皇宗」に求めるべきだとしました。そして、教育勅語の命題の普遍的妥当性は「その宗教的および哲学的根拠づけが排除された結果、それがもっぱら歴史を通じて妥当してきたという事実、そして現に妥当しているという事実に求められること」(238p)になったのです(ですから「教育勅語には現代にも通じる徳目がある」というのは当たり前で、それは教育勅語を持ち出さなくて
も歴史的に通用してきた事実ということでしょう)。
さらに井上は教育勅語に国務大臣の副署をつけないことによって、教育勅語を政治的な命令から切り離し、「社会に対する天皇の著作の公表とみなした」(239p)のです。
このように様々な視点から日本の近代が問われているのがこの本の特徴です。
個々の分野に関してはさらに新しい研究や分析も行われているのでしょうが、1冊の本の中にこれだけ幅広く、しかも具体的な事柄が論じられているものは少ないと思います。
坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)とともに、司馬遼太郎で日本の近代史に興味を持った人が次に読む本としてお薦めできますし、日本近代史に関してそれなりに本を読んできた人にも、今まで見えていなかった視点を提供してくれる刺激的な本です。
日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)
三谷 太一郎

この本の「あとがき」には次のように書かれています。
私は学問の発展のためには、学術的なコミュニケーションの他に、プロとアマとの交流がきわめて重要だと思います。そのためにも「総論」(general theory)が不可欠であり、それへの貢献が「老年期の学問」の目的の一つではないかと思います。実は今般、あえて正面から「日本の近代とは何であったか」と問いかけ、それについての私の見解を限られた紙幅の中にまとめようとするにいたったのは、私なりに日本近代についての総論的なものを目指したからです。(269p)
こうした意図のもと、「なぜ日本に政党政治が成立したのか」(第1章)、「なぜ日本に資本主義が形成されたのか」(第2章)、「日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか」(第3章)、「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」(第4章)という4つの問に答えようとしています。
第2章については著者の見方にやや疑問も残りましたが、今までの研究の蓄積から生まれた問題意識や分析は面白く、まさにプロ・アマ問わず日本の近代について考える者に興味深い視座を提供するのものになっていると思います。
この本の導き手となっているのは19世紀後半に活躍したイギリスのジャーナリストでもあり経済学者でもあり思想家でもあったウォルター・バジョットです。
バジョットはその著書『自然学と政治学』の中で、イギリスの近代を生み出したものとして「議論による統治」をあげ、さらにそれに力を与えたものとして「貿易」と「植民地」をあげました。
このバジョットが近代化の要因としてあげたものを、近代の日本の経験と照らし合わせてみていくのがこの本の基本的なコンセプトになります。
第1章は「なぜ日本に政党政治が成立したのか」という問について。
今まで昭和初期に「なぜ政党政治が崩壊したのか?」という問が問われることが多かったですが、むしろ複数政党制が成立・発展したことこそがある意味で「特異」だといいます。
そして、複数政党制を可能にした権力分立制や議会制もアジアの中では珍しいものだといえるのです。
まず権力分立制ですが、著者はこの起源を江戸時代の幕府のしくみにみる福沢諭吉の議論に注目しています。
江戸幕府の政策決定の中心には老中がいましたが、この老中は4~5人いて、基本的には合議制となっていました。さらに月番制という月ごとの短期ローテーション制が行われており、権力の集中は抑制されていました(43p)。
福沢諭吉は幕藩体制のイデオロギー、特に儒教に対して厳しい批判を行ったことで知られていますが、幕府の制度に関しては高く評価していました。幕府の権力については「平均の妙を得たるものと云ふ可し」と評していたのです(47p)。
議会制を用意したものとして、著者は江戸時代い成立した「文芸的公共性」をあげています。
ハーバーマスは「政治的公共性は文芸的公共性から姿を現してくる」と言いましたが(51p)、著者はこの「文芸的公共性」に相当するものが18世紀末以降の江戸時代にも成立していたと考えます。
幕府の官学である昌平黌は幕臣だけでなく諸藩の陪臣や庶民にも開放され、昌平黌出身者を中心とするネットワークが出現しました。さらにそれは「社中」と呼ばれたさまざまな地域的な知的共同体に結実します(51-52p)。
そして、これらの知的共同体のコミュニケーションを描いたのが『渋江抽斎』、『北條霞亭』といった森鴎外の「史伝」と呼ばれる作品群でした。
また、明治憲法についてはその天皇への権力集中が指摘されることが多いですが、著者は覇府(幕府的存在)を排除しようとする姿勢に注目します。
この幕府的存在を排除する姿勢は戦前まで生き延びており、大政翼賛会は「幕府的存在」と貴族院で指弾されました(69p)。明治憲法は権力の分立を志向した憲法でもあったのです。
しかし、実際には政治権力を統合・調整する存在が必要になります。明治憲法の場合、それを果たしたのが藩閥と政党でした。
アメリカ合衆国憲法も権力分立を志向し、ある意味で「反政党的な憲法」でしたが、そのアメリカでも政治権力の統合の主体として政党が発展していったように、日本においても「反政党的な憲法」のもとで政党政治が育っていったのです。
けれども、その政党政治も、昭和初期によるとその権威はゆるぎ、蝋山政道によって「立憲独裁」が主張されるなど、議会と政党による政治は次第にその居場所をなくしていくのです。
第2章は日本の資本主義の発展を大久保利通~松方正義~高橋是清~井上準之助というラインで見ていきます。
大久保利通は内務省をつくって殖産興業を進めましたが、そのための大規模な外債の募集には慎重で、あくまでも租税によってそれを成し遂げようとしました。
1879年にアメリカの元大統領で北軍の司令官でもあったグラントが来日し、明治天皇に謁見していますが、このときグラントは外債の危険性と戦争の回避を助言したといいます(106-110p)。この助言は明治天皇に強い影響を与えたようで、明治天皇は日清戦争時においても開戦に否定的でした。
大久保の「消極的外債政策」は同じ薩摩藩出身の松方正義に引き継がれました。
大久保の後に日本の経済政策を担った大隈重信は西南戦争の戦費調達や殖産興業のために外債の募集を計画しましたが、明治14年の政変で失脚。代わって財政を担った松方は「松方デフレ」で知られる徹底した緊縮政策で外債なしの経済運営を目指します。
一方、殖産興業論戦を継いだ人物に薩摩藩出身の前田正名、そしてその前田の指導を受けた高橋是清がいます。
高橋は日露戦争時の外債募集の仕事を成し遂げて名を上げましたが、著者はその本質は外債には本来否定的な「自立的資本主義」の考えを持っていた人物だとしています(130p)。
その高橋が引き立てたのが井上準之助でした。彼はモルガン商会のラモントから「井上はノーマン(イングランド銀行総裁)、ストロング(ニューヨーク連邦準備銀行総裁)や我々すべてと同じ金融語を話す」(137p)と評された人物で、英米からの外債の導入などに力を発揮しますが、彼が蔵相として推し進めた金解禁は失敗に終わりました。
著者は「満州事変によって、金本位制を支える緊縮政策の根幹(軍縮)が揺るがされ、結果として井上の金海禁政策は失敗に終わります」と書いていますが、金解禁の失敗とその後の経済混乱が満州事変を招いたとも言えると思います。
この章は全体的に、松方デフレの影響にしろ、金解禁の影響にしろ、国民が被ったマイナスといったものがあまり考慮されていない印象を受けます。
第3章は日本の植民地支配について。
イギリスなどの植民地と日本の植民地が違う点は、朝鮮半島にしろ満州にしろ、日本の進出先が自国の防衛と深く関わっていた点と、韓国併合に見られるように植民地を自国の一部として統治しようとして点です。
この動きを著者は枢密院の審議などを題材として見ていきます。韓国の初代統監は伊藤博文ですが、ここで問題となったのは文官である伊藤が軍隊の統率権をもつことから発生する「統帥権の独立」の問題です。
この後、陸軍が巻き返し韓国併合後は朝鮮総督に武官総督制が導入されるわけですが、一方で原敬を中心に植民地統治を陸軍から奪おうという動きも起こります。
原は朝鮮総督に山県有朋の養嗣子で文官の山県伊三郎をあてようとし、これは挫折しますが、台湾総督に山県系の官僚の田健治郎をあてる人事には成功します。山県との摩擦を最小限に抑えつつ、文官支配を広げていく作戦をとったのです(176-179p)。
この後、田中義一内閣のときに植民地開発のための拓務省が設けられますが、このとき枢密院から「拓殖務省のほうが適切ではないか?」との意見が出ますが、田中首相は「拓殖務省では朝鮮人の感情を害するおそれがある」との説明しています。「同化」を掲げる中、「植民地」という言葉の使用は避けられたのです(187-189p)。
昭和期になると、日本は「汎ヨーロッパ主義」や「モンロー主義」を手がかりにアジアにおける地域主義を主張しますが、文化的な基礎付けを欠いた地域主義は挫折せざるを得ませんでした。
第4章は天皇制について。
明治憲法制定に影響を与えたプロイセンの公法学者グナイストは、宗教の重要性を説き、「日本は仏教を以って国教と為すべし」(215p)と勧告しましたが、伊藤博文は既存の宗教ではなく、天皇制を宗教にあたるものとして国家の基軸に据えようとしました。
しかし、ここで問題となるのが明治憲法の第一条の統治の主体としての天皇と、第3条の「神聖不可侵性」の関係です。
天皇は憲法の枠内で統治を行う主体なのか、それとも憲法を超越した存在なのか、ここに天皇に関する二重性があるのです。
この二重性のうち、「神聖不可侵性」を前面に打ち出したのが「教育勅語」でした。
教育勅語は当初、中村正直が起草者となり準備が進められましたが、これを批判し、中村に代わって起草者となったのが井上毅です。
井上は、道徳の基盤に「天」や「神」を求めたことや国際政治の状況などについて触れていることを批判し、教育勅語から道徳の哲学的基礎づけや政治的状況判断を排除すべきだとしたのです。
井上は、教育勅語は天皇自身の意思の表明であり、その権威は「皇祖皇宗」に求めるべきだとしました。そして、教育勅語の命題の普遍的妥当性は「その宗教的および哲学的根拠づけが排除された結果、それがもっぱら歴史を通じて妥当してきたという事実、そして現に妥当しているという事実に求められること」(238p)になったのです(ですから「教育勅語には現代にも通じる徳目がある」というのは当たり前で、それは教育勅語を持ち出さなくて
も歴史的に通用してきた事実ということでしょう)。
さらに井上は教育勅語に国務大臣の副署をつけないことによって、教育勅語を政治的な命令から切り離し、「社会に対する天皇の著作の公表とみなした」(239p)のです。
このように様々な視点から日本の近代が問われているのがこの本の特徴です。
個々の分野に関してはさらに新しい研究や分析も行われているのでしょうが、1冊の本の中にこれだけ幅広く、しかも具体的な事柄が論じられているものは少ないと思います。
坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)とともに、司馬遼太郎で日本の近代史に興味を持った人が次に読む本としてお薦めできますし、日本近代史に関してそれなりに本を読んできた人にも、今まで見えていなかった視点を提供してくれる刺激的な本です。
日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)
三谷 太一郎