3月31日、政府は、憲法・教育基本法などに反しない範囲で、教育勅語を「教材として用いることまでは否定されることではないと考えている」との答弁書を出した。教育勅語を完全に排除すべきではないとの趣旨の閣僚・政府高官の意見表明も相次ぎ、懸念が広まっている。

 教育勅語は、明治23年10月30日付で示された、現人神たる明治天皇が教育に関する基本理念を述べた文書だ。その内容は、市民を「臣民」と位置づけ、大日本帝国の「国体」を「教育ノ淵源」と位置付ける。

 「国体」とは難解な言葉だが、明治40年の文部省の公式の英訳では「fundamental character of Our Empire」とされた。帝国の基本的な性格くらいの意味に訳されている。

 ポツダム宣言を受諾した日本政府は、憲法改正を決意し、1947年5月、日本国憲法が施行された。天皇は、現人神や大権の担い手ではなくなり、国家の象徴とされた。市民は、主権の担い手たる「国民」となった。こうして、神話的国家観に基づく大日本帝国は解体された。

 当然、大日本帝国の「国体」は「教育の淵源」となりえなくなる。1948年6月19日、衆議院は、「主権在君並びに神話的国体観に基いている」との理由で教育勅語の排除を求める決議をした。参議院も教育勅語の失効を確認する決議を行った。これを重く受け止めた政府は、決議当日の衆議院本会議で、森戸辰男文部大臣が、「教育勅語は明治憲法を思想的背景といたしておるものでありますから、その基調において新憲法の精神に合致しがたい」と断言した。

 今回の政府答弁書は、「我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」としつつも、教材としての利用は必ずしも否定しないという。この点、歴史の授業で教育勅語を紹介することは問題ないとの指摘もある。

 しかし、歴史の授業だけを想定するなら、例えば「史料として用いることは否定しない」という言い方にすべきだった。答弁書の書き方では、歴史以外の授業での利用を促しかねない。

 また、菅義偉官房長官は、4月3日の記者会見で、教育勅語に書かれた「親を大切にする、兄弟姉妹は仲よくする、友達はお互いに信じ合うなど、ある意味で人類普遍のことまで否定はすべきではない」と述べた。これは、歴史資料ではなく、道徳などの教材として利用することを想定するかのような説明だ。

 教育勅語には、親孝行や家族愛、学問を修めることなど、そこだけを切り取れば問題なく見える部分もある。しかし、それらは、大日本帝国の「臣民」が「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼」するために遵守すべき規範とされていた。教育勅語を教材とすることは、「親孝行や学問の目的は、現人神たる天皇の位を護るためだ」と教えることを意味する。そのような教育は、明らかに憲法等に反する。

 前回論じた道徳教科書の検定問題にしても、今回の教育勅語答弁書にしても、道徳教育への不信を高めるものだ。本来、道徳とは、国民一人一人が自らの良心に従って探求すべきものだ。声高に道徳を押し付けてくる者には、警戒せねばならない。

(首都大学東京教授、憲法学者)

 =第1、第3日曜日に掲載します。

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 お知らせ 3月30日にタイムスホールで開催された木村氏の講演会の模様は、本紙ホームページで視聴できます。