うつ病に瞑想が効果的、という話はよく聞きますね。
うつ病さんは心が落ち着かず、交感神経が優位になって、緊張が高まってしまいがちです。
正しく瞑想をすると、心が落ち着き、副交感神経が優位になって、緊張が緩みます。
瞑想は、普段外に向きがちな意識を内側に向け、あるがままの自身と向き合うひとときを提供してくれます。
深い瞑想状態に至るとき
私は座禅や瞑想が好きで、自宅でひとりで座ったり、ときどき座禅会や瞑想会に参加したりしています。
瞑想歴だけ言ったらずいぶん長く、もう10年くらいやっている計算になります。
ひえ~、そんなにやっているのに、この深まりのなさ!
自分にあきれます。
それだけ業が深いということでしょうか。
座禅や瞑想を続けていると、いわゆる三昧(サマーディ)、禅定に至ると言います。
精神集中が深まり、雑念がなく、心が静まりかえった状態です。
あるお坊さんは、瞑想が深まると「この世のものとは思えない恍惚感を覚える」とおっしゃっていました。
体の感覚がなくなる、自分と世界との境界が消える、すべてが泡のようになる、などと表現する人もいます。
私は集中が高まると、体中をびりびりと電気のようなものが走り、身動きができなくなってしまうことがあります。
そのたびにびっくりして呼吸が乱れ、集中を欠いてしまうため、その状態は長くは続きません。
どんな状態にもとらわれず、気にせずに、淡々と座るのが良いのでしょうが、何かあるとすぐ動揺してしまう自分がいます。
そんな自分を知り、気づくことができるのも、瞑想のいいところなのかもしれません。
二種類の瞑想
瞑想のやり方には、二種類あると言われています。
ひとつは、サマタ瞑想、もうひとつはヴィパッサナー瞑想です。
サマタ瞑想
サマタ瞑想とは、集中系の瞑想です。
漢字では、「止」です。
1から10まで繰り返し心の中で数を数える「数息観」や、ひたすら息の出入りに集中する「アナパナサティ」などがあります。
数を数えるのを忘れてしまったり、呼吸から意識がそれてしまったりしたことに気づいたら、またスッと集中の対象に戻ります。
集中が高まってくると、上記の「三昧」の状態に至ると言われています。
ヴィパッサナー瞑想
ヴィパッサナー瞑想とは、観察系の瞑想です。
漢字では、「観」です。
仰向けに寝た状態や、座った状態で、体の感覚に意識を向け、それを観察していきます。
つま先から、頭のてっぺんまで、順番に観察します。
体をスキャンするみたいに見ていくから、「ボディ・スキャン」などと表現することもあります。
痛み、かゆみ、服が当たっている感覚。
ごつごつとした感じを覚えるかもしれませんし、なめらかな流れを感じとるかもしれません。
どんな感覚でも、あるがままに観察していきます。
一般的に、サマタ瞑想の集中が基礎にあって、ヴィパッサナー瞑想を行うという順番のようです。
集中は基本なんですね。
私の場合
私はいつも集中できるわけではありません。
いろいろな想念が浮かび、翻弄されたまま終わることも多々あります。
それでも、不思議なことに、どんな瞑想の状態であったにしろ、終わった後は、心が落ち着き、頭がすっきりし、体が楽になる感覚があります。
自分への「気づき」がそうさせてくれるのかもしれません。
初めの頃は、「禅定に至りたい」とか「あわよくば悟りたい!」とかいう渇望が先立ってしまったり、「集中できない自分はダメだ」という自責の念が出てきてしまったりすることもありました。
でも、瞑想を続けるうちに、良い意味で「諦め」の境地に至り、肩の力を抜いて取り組むことができるようになってきたような気がします。
(逆に、「絶対に禅定に至る!それまではここを動かない!」という強い意志とストイックさでそれを成し遂げた友人もいます。やり方はひとそれぞれですね。)
おわりに
うつ病さんは、自分を批判してしまったり、責めてしまったりしがちです。
それで疲弊してしまうことも多いですよね。
一方で、瞑想は、判断や分析とは無縁のものです。
(もし瞑想中にそのようなことをしてしまっている自分に気づいたら、また自分のやっている瞑想に戻れば良いだけです。)
ぐるぐる回る否定的な思考から離れ、集中や観察に身を置くことは、安らぎのひとときを提供してくれるはずです。
上手に集中や観察ができてもできなくてもかまいません。
瞑想に良いも悪いも、出来不出来もないのです。
そのときの自分の状態に気づく、それだけで瞑想は「成功」と言えるでしょう。
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