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「……う」
目が覚めてしまったようだ。何か、嫌な夢を見ていたような気がしたが、思い出せない。僕の睡眠には、よくあること。けれど、締め付けられるような感傷は、どうにも慣れない。仕方なく身体を起こす。
「風奈君」
左の布団から、声が聞こえた。
「大丈夫……?」
彼女は布団から抜け出して、僕の傍に来てくれた。
「美森……」
「一人で抱え込んじゃ、ダメよ」
そう言って、僕の首に手を回す。そのまま、彼女の胸に抱きしめられた。視界がパジャマの柄で染まる。柔らかな感触が、僕の顔を埋める。花の香りとも、シャンプーの匂いともいえない、甘い香りがする。
「……え?」
「私にできることがあったら、相談して」
抱きしめられながら、頭を撫でられる。どうして、小さな手がこんなに大きく感じるのだろう。
「どうして、その、こんな……」
「風奈君、うなされてた」
「……そっか」
どうやら起こしてしまったようだ。寝言はない方だと思っていたが、今日は嫌な夢を見ていたので、そのせいだろうか。
「友奈は寝てるのかな」
「うん、ぐっすりだよ」
彼女の胸から少し離れて、友奈の方を向いた。穏やかな寝顔で、すうすうと寝息を立てている。正直、とても可愛らしい。
「よかった……でもごめん、起こしちゃって」
「ふふ、いいのよ」
少しだけ笑って、また抱きしめられた。とても柔らかくて、いい匂いで、暖かい。
「……」
静寂が訪れる。部屋は肌寒かったので、彼女の体温が、より暖かく感じられる。
「……その、一つだけ聞いていい?」
「うん?」
気にしないように、気づかないようにしてきたことを、彼女に聞く。
「君は、僕と一緒でよかったのかな」
「風奈君じゃないと、私は嫌よ」
迷うことなく、彼女は返答をした。
「……美森」
「私は友奈ちゃんと、風奈君と、ずっと一緒に居たい」
「誰に反対されても、三人じゃなきゃ駄目」
「でも、僕は弱いから……二人の傍に寄り添う資格が、あるのかな」
少しだけ強く抱きしめられる。僕も、彼女の腰に手を回す。
「貴方は弱い人間なんかじゃない」
「……」
「人一倍悲しい経験をして、辛い過去に立ち向かって、乗り越えようと努力している」
「そんな人が、弱い人間なんかじゃないわ」
「風奈君は、強い人よ」
「私と友奈ちゃんが、それを一番知ってるもの」
美森は本当に優しい。不甲斐ない自分が情けなくなるくらいに。
そして、その優しさが心臓の近くを締め付ける。
「でも、それでも僕はまだ過去に縛られている」
「大切な人が、また僕の前からいなくなってしまうんじゃないかって」
「僕の両親も、僕が知らないまま、消えていった」
「欲しかったものは全部、なくなってしまったから」
「だから、残ったものなんて何もなかったんだ」
「ただの抜け殻で、生きる意味なんてなくて、だから、えっと、その、僕は」
「風奈君」
彼女の言葉で、僕は言葉を紡ぐことを止めた。抱きしめられ、与えられる暖かさに意識を委ねて、そのまま、じっとしている。
「私も友奈ちゃんもずっと、風奈君の傍にいるわ」
声のトーンを落として、囁く。
「必要以上に無理しなくてもいいの。あなただけに背負わせるのは、もうさせたくない」
「だから、辛い時とか寂しい時は私達に頼ってほしい」
「そのくらいだったら、何度でも受け止めてあげられるから」
彼女の手は本当に暖かい。それと一緒に、包容の甘みを持った言葉が、僕の心臓深くに沈んでいく。
「風奈君が欲しいものは、私達じゃダメかしら?」
「……欲しいもの」
彼女の言う、欲しいものとは何だろうか。今はモノとして何かが欲しいわけではない。平日は仕事に行き、たまに同僚と酒を酌み交わし、休日を迎える。そして、休日は彼女達と過ごす。そんな日常の繰り返しで、自分は満たされていたはずだ。
では、モノではないのか? 僕が本当に必要としていた何か。いつまでも、満たされることはなく、空っぽのまま。その感情を必死に隠そうとして、何重にも被せた箱。風に吹かれ、雨に打たれ、それは段々と脆くなっていく。
その情景を想像していると、すぐに理解することができた。傷だらけの記憶が、胸の痛みと共に蘇る。
「……あぁ」
そうか。まだ自分は、それが欲しかったのか。
乗り越えたと思っていた。
必要のないものだとも考えていた。
もう、貰うことはできない事実が怖くて。
ずっと、このまま生きなくてはいけない事実に怯えて。
僕は、その感情を塗り潰して生きてきた。
湧き出す空虚な感情を、変わらない日常の中に溶かして。
僕が、気づかないように。
僕が、傷つかないように。
繰り返していく度に、わからなくなっていった。
本当は、何が欲しかったのか。
時折胸を刺す、この痛みが何だったのか。
忘れてしまったのだ。
僕はその一切を忘れることで、見せかけの平穏を生きていた。
ずっと、心臓にまとわりついて、ゆっくりと、長い時間をかけて締め付けていく。
酷く苦しかったから、僕はそれを他の幸福で緩めた。その時だけは、何故か心地よくて。僕はまだ生きていていいんだって。そう思えた。
けれど、時間が経過する毎に、幸福が薄れていく度に、また締め付けられて。
それが、どうにも、怖くて。
お前には生きる資格などないと、揶揄されているようで。
苦い記憶が、また蘇る。蘇っては砕け散り、破片が僕の心臓に刺さって、また苦しくなる。
もう嫌になったんだ。
生きていくことが。
こうするしかなかったんだ。
生きていくためには。
「……大丈夫よ」
気がつくと、彼女の服を濡らしていた。
「貴方が背負ってたものを、私達にも背負わせて」
抱きしめられ、背中を優しく撫でられる。彼女の体温と匂いが、とても心地よく感じた。
「決して、一人なんかじゃない」
溢れだす涙は抑えようがなかった。僕は、一人で勘違いをしていたんだ。
「ずっと、一緒よ」
少しだけ声を震わせながら、彼女は僕にそう言った。
それだけで、十分だった。
僕が生きる意味。
僕が欲しかったもの。
きっと、それは同じものだったのだろう。
自分の気持ちを塗り潰して、上澄みを掬い取って生きていた。
そうでもしないと、生きることすら諦めていたかもしれない。
でも、それでも、僕はなんとか誤魔化すことができたのだ。
僕は欲しいものなんてありません。今の平穏で満足しています。
くだらない自己犠牲。
酷く脆い自己暗示。
ただひたすらに、それを盲信していた。それだけで、十分な筈だった。
けれど彼女は、受け入れてくれた。
僕が生きる意味を。
僕が欲しかったものを。
塗り潰した感情が、段々とその輪郭を取り戻していく。
次第に感覚がはっきりしてくると、また涙が止まらなくなる。
「……」
彼女は、何も言わずに抱きしめ続ける。僕の背中をさする手は、本当に暖かくて。
しばらく、泣いていたような気がする。
それは、悲しいだけじゃない。
今まで忘れていた感情が蘇って、僕の全身に行き渡る。
形容するならば、幸せという感情だろうか。
今の僕には、不釣り合いな代物だ。
自分で見つけ出したものではない。
彼女達に、与えられたものだ。
それを大事に受け入れて。
もう忘れまいと、必死に刻みつける。
心臓の奥深くに。
消えないようにと、何度も感じて、すぐに思い出す。
「風奈君」
きっとそれは、
「これからもずっと、愛しています」
僕の、生きる意味になるものだから。
どのくらい経ったのだろうか。
彼女の胸から離れて、涙を拭う。やっと、止まってくれたようだ。
夜は肌寒く、幸福であった体温も少しずつ奪われていく。外はまだ暗い。それほど、時間は経っていないように思えた。
「大丈夫? もう少し、今のままでもいいのよ?」
彼女は、心配そうに僕を見ている。
「ありがとう、美森……何とか、大丈夫みたいだ」
また涙が溢れそうになるのを堪えながら、答えた。
「それと、ごめん。いきなりこんなこと、言って……」
「ううん。いいの。貴方が辛いときは、ちゃんと私か友奈ちゃんに相談するのよ?」
「……うん」
短く返事をする。
「美森は、本当に優しいな……」
「そんなことないわ。こういう事はお互い様よ」
「でも、僕は君に何もしてあげられていない」
言わなくていい筈なのに、口から言葉が零れ落ちる。
僕は、彼女に認めてほしかったのだろうか。
「そうかしら? 貴方は、何度も私達を守ろうとしてくれたじゃない」
僕の頬に、彼女はそっと手の平を当てた。
「貴方が守ってくれたから、全部、解決したのよ」
その手は、とても暖かい。
「神樹様も。大巫女様も。結界も。旧世代の神様も。そして、私達も」
その優しさに、目を細める。
「貴方は、自分を低く考え過ぎよ。風奈君ほど、素敵な男性なんて滅多にいないわ」
そう言うと、彼女は僕の顔に近づいてきて、
「……」
口付けを交わした。
彼女の唇は柔らかくて、火傷しそうなほど、熱く感じる。
僕は目を閉じて、ただその温もりを受け入れていた。
何度か経験しているはずなのに、相変わらず慣れない。どうにも、暴れだす心臓を抑えるのに苦労する。動悸を彼女に悟られないようにしながら、僕は平静を装う。
少しの静寂の後、唇は離れた。触れた部分は湿っていて、微かに熱が残っている。
けれど、それだけで、僕の意識は、暖かいものに包まれていた。
「風奈君、顔赤い」
美森はクスクスと笑った。月明かりが差し込む部屋では、儚げな美しさを醸し出している。
「……もう」
僕は視線を脇にそらす。部屋の隅に、ぬいぐるみが整然と並べられていた。友奈がクレーンゲームで獲った景品だったか。よく思い出せない。
「そろそろ、寝ましょうか」
「うん」
彼女は自分の布団に戻る。僕も、最後に一つだけ伝えてから寝ることにした。
「美森」
「どうしたの?」
横になって、こちらの方を向いた。
「僕も、美森の事を愛しています」
噛まないように気をつけながら、彼女の瞳を見つめる。
「ずっと、傍に居て下さい」
そう言うと、彼女は少しだけ驚いたような表情になった。そして、すぐに表情が和らいで、
「こちらこそ、だよ。ふふ、これからも、よろしくお願いします」
「……うん」
また恥ずかしくなってしまい、視線を逸らす。景品のぬいぐるみが、僕を見つめていた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
僕も布団に入り、眠ろうとする。冷たくなった枕が、熱を持った頭の温度を奪っていった。
まだ、顔は赤いだろうか。早く慣れるようにしなければ。いつまでも彼女達に笑われてしまう。別に、そのままでもいいじゃないかとも、思ったが。
目を閉じると、様々な想像が瞼の裏を滑っていく。
過去の痛み。未来への希望と不安。返還された神樹様の供物。旧世代の神とバーテックス。そして、彼女達のこれから。
考えることなんて山ほどある。けれど、答えがある問いなんて、存在しない。いつも、不明瞭。全て、不確かなまま。でも、それでも生きなければならない。
僕を信じてくれている人のために。
僕と一緒に生きてくれている人のために。
理由なんて、ただそれだけだ。
それだけで、いいんだ。
以前の僕だったら、理解することすらできなかったと思う。
それほど、人間一人の生きる理由は、酷く小さい。
後は、それに納得するだけ。
納得して、折り合いをつけて生きていく。
とても、簡単なことなんだ。
目を閉じて考えていると、いつの間にか、僕は眠りに落ちていた。
+注意+
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