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昨日のドライブの後遺症で、 目がゴロゴロして、気管支がピューピューしてるあたしです。。 ヒノキ花粉の時期が来ると、喘息の症状が出始めるのよね。 でも、その時期って、気温も上がって湿度も上がって、カビも出始めるころで、 ヒノキ花粉でなくてハウスダストのせいという可能性も・・ ハウスダストなら人後に落ちない自信があるしねw ましてや、埃だらけのあの物置を片付けたりしてるから・・ ☆ そんな物置の奥に天井の大穴を発見した4月12日。。 外から物置のところまで行くには庭のジャングルを伐採しないとイケナイ。 穴をふさぐブルーシートも、伐採するチェンソーも、 まだ早くて出かけられないので、朝ごはんを食べる。 前の日の残りのホタルイカ炊き込みご飯。 味噌漬け。 緑のたぬき。 カプ麺を汁代わりにご飯を食べるから、太るのよね(^^;; でも、カプ麺だけじゃ物足りないんだもん。。。 小食に慣れればケコー大丈夫なんだけどねぇ。。 慣れるまでが大変。。 さあ、ご飯を食べて、ブルーシートやらトタン板やらを買って、チェンソーを借りてきましたよ(^^ こうしてみると、そんなにジャングルに見えないけど、 壁伝いに、勝手に生えてきた雑木がたくさん・・ 物置は右の家の奥で、その手前にも木が生えていてそのままでは進めません。 やりまっせ!! でも、結局、物置までたどり着けないうちに疲れ・・・ 外壁の上を伝って。 錆びたトタン屋根に買ってきたトタン板をのせ。 庭に散乱していたブロックをのせて重しにしました。 もう、築40年の安普請、土地は売れても家はダメでしょう。 日当たりは悪いし、風通しも悪いし、霊道は通ってるしw よく考えたら、この家に越してきてから、家族の崩壊が進んだのよね。。 当時盆栽が趣味だったお父さんが、 友達の植木屋さの向かいということでゴリ押ししてここに引っ越してきた。 小学校の学区も変るし、お店からもはるかに遠くなる。 同じ値段で、学区内でお店にも近く、25坪も広い場所もあったのに、 植木屋の近くというだけでこの場所になった。 お店は市場の中の食堂だから、両親とも朝早く出勤する。 まだ小学生だったあたしは、朝一緒にお店に連れて行かれて、 手伝いをして、ご飯を食べて、そこから前の小学校に通った。 お店も学区外だったけど、隣の学区ということで特別に認めてもらったみたい。 学校までかなり遠いので、朝配達に来る製麺所のトラックに乗せてもらって、 学区内のある場所で降りてそこから歩いた。 引っ越したのが小5のときだったから、1年半そんな感じで過ごした。 中学は学区に関係ない私立に行くことになった。 それまではごく平凡に、中学を出たら県立の高校に行って、 せいぜい群大とか宇大とかに行って、地元に就職して・・ という将来像があっただけだったけど、 あたしが行った私立の中学はこの辺ではイチオー進学に力を入れてた学校で、 全国にはレベルの高い私立の高校があることを初めて知り、 そういう学校に進むことになった。 親の監視の目から逃れたかったのよね(^^; 家が建って、自分の部屋が出来たけど、 部屋の扉には鍵がなかったのはもちろん、 開けなくても中が見られるようにガラス窓も付いていた。 下半分が曇りガラスになっていてね、 ふと見るとその上からお母さんが覗いてたりするので、 部屋にいる間じゅう、階段を上ってくる物音に耳をそばだてていなきゃいけなかった。 ちょうど、お年頃だしね、親に見られたくないものも色々あったわけよ(^^; その部屋で、お母さんにテニスのラケットが壊れるまで叩かれた記憶が残ってる。 なんで叩かれたかは憶えてないけど、 「憎くて叩いてるんじゃない、愛してるから叩くんだ」とか、 自分の手は痛くないようにラケットで叩きながら言われたのは憶えてる。 お父さんにもお店の裏で鎌の柄で叩かれたのを憶えてる。 叩かれた理由はやぱ憶えてない。 子供は親の物、お前が悪い人間になったら親の責任で成敗する、 と言われていたので、成敗されないように、 ワケが分からなくても必死で泣いて謝ったなぁ。。 子供は親の物だから、当然、逆らうことも口答えすることも許されなかった。 本当の気持ちは何一つ言えず、 親に成敗されないように演技していた。 そんな状態だったから、家を出て遠くの私立高校に行きたかった。 この場合、説得は簡単だった。 東大を目指したいからいい高校に行きたい、 こう言えば、見栄っ張りの親が納得するのはわかっていた。 高校では羽を伸ばしちゃったので(^^; 東大には行けなかったし、 東大では毎週末親が来ちゃうかも・・と思って第一志望にした京大にも行けなかったけど、 結果として、もっと遠くて、学校名も響きが良い(ココ重要)H大に行ったまではヨカッタ。 もっとレベルが高い東北大とか名大、阪大より名前の響きが親を喜ばせたし、 4年間のうちに2回しか親も来なかったし。 でも結局、親の所有物のあたしは、大学院進学にシパイしたあと家に戻され、 余生を送ることになったのであった。 一度外の空気を知ってしまったから、余計につらかったな。 イチオー勤めた会社から家に帰りたくなかった。 でも職場にも居たくなかった。 残業と言っては、どこに行くともなしに、その辺をぶらぶらドライブして、 もうご飯を食べたら寝るだけみたいな時間に帰るようになったけど、 そんなのもお母さんが職場に電話してばれてしまい・・ あーなんか気づいたら何書いてるんだろう(^^;; 結局、今でもあたしは親の所有物のまま。 親に成敗されないように、親を喜ばせるように、 でも、親の束縛からは離れたい・・ そのためだけに生きてきたような気がする。 でも、実際に両親とも死んで束縛が無くなってみたら、 生きる意味も無くなってしまった。 何をしてもしなくても、成敗されることはないし、喜ぶ人もない。 お母さんが死んで一人になったとき、 たまたまたまちゃんがこっちに来て、支えになってくれたし、 あたし一人だったら引き受けなかっただろう、年収1千万くらいの仕事も、 たまちゃんが励ましてくれたから引き受けることになって、 おかげで、たまちゃんがガンになったときも看取ることが出来たし、 亡くなってからもダラダラ生きてくることが出来た。 そのうちに小魔女と知り合って、生きる支えになってくれた。 本当なら一昨年のたれ死ぬ予定だったけど、 忘れていた預金が出てきて今日まで生きてこれたのも、 神様があたしに小魔女の最期を見届けさせるためだったんだろうと思う。 今は本当に一人になっちゃったので、誰のために生きたらいいか分かんないのよね(^^;; 自分のために生きるほど、自分にもこの世にも価値はないと思っちゃう。 まだここに書いてないあたしのヤミもあって、生きて行くのは本当に大変。 そういえば子供のころ、 お父さんが「生きて行くのは大変なことだ」と言ったとき、 そんなに大変ならなぜ子供を作ったのかって思ったわ。 大変な世界にあたしを送り込んだ責任はどうとってくれるのか、ってね。 本当に、子供を育てるのがヘタクソな親だったなぁ。。 |
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