こんにちは!DAC(id:dacs)です。
今回は縁起でもないお題です。
人はいつか必ず死にます
言うまでもなく自明のことですね。誰もが承知していることです。それがいつかはさておき死なない人はいません。
いずれ未来に永久に死なないような技術、意識記憶の移し替えといったSF的な何かが実現されるのかもしれません。けれど、今この文章を目にしている人達が生きている間に実現することは恐らくないでしょう。
勿論世の中には絶対はありません。もしかしたら、これまでに起きてきた技術のイノベーションのように、想像もつかない飛躍が近くにあるのかもしれません。でも、今ここに無い未来はさて措きます。神ならぬ身である以上、今ある状況で物を考えるのが建設的でしょうから…。
人はいずれ必ず死ぬのです。
何故そんな話をするのか?
深刻というほどではない切っ掛け
聞いてみれば、「なーんだ、そんなことか」という素朴な切っ掛けです。昨日今日で幾つかの報道がありました。
一つは、小惑星が地球に近接するという話です。
www.excite.co.jp
もう一つは北朝鮮とアメリカ合衆国の間の緊張関係です。
www.nikkei.com
いずれにせよ今すぐ何かがあるという確実性はありません。
小惑星は近接するだけで通過する見込みです。北朝鮮にしても戦端が開かれるかどうかは分かりません。専門家ではない一般人は心持ち「怖いなあ」「嫌だなあ」と思いつつも何か行動するには至るだけの状況にはありません。
後者はかなり危険度が高いと一部メディアが喧伝してはいるものの、それを受けて自主避難が本格化したという話は現状、寡聞にして知りません。一抹の不安に感じつつも「そんなことは起きる筈はない」そう思うことにして多くの人は日常を過ごしています。
だからこそ「自分は終末をどう過ごしたいか?」を思った
変な話ですが、そう深刻に捉えていないからこそ、思ったのです。
「自分は終末をどう過ごしたいか?」それは、いずれ確実に来るだろう、それでもいつ迎えるか分からない死ではありません。
もし、明日明後日死を迎えることがほぼ約束された状況に陥ったとして自分は何を望むのか?
もし、小惑星が地球に衝突しどんな防御手段も意味をなさず滅びるとしたら…。もし、戦争が起こり、何の手立ても無く迫る脅威に蹂躙されることが薬草されているとしたら…。自分はどう限られた時間を生きたいのか?
これは非常に不謹慎な仮定なのかもしれません。仮定ではなく、今まさにそういう状況下に身を置く方、その周辺の方々もきっと沢山いるのです。そんな空想遊びをしているのは余裕がある人間の驕り、現実を弁えていない馬鹿のすることだと思われても仕方がないことです。
でも、自分がもし自分の終末を確実にされた場合、どうするのかを思ってみました。他でもない自分がどうしたいか。
自分の場合
可能であるならば、家族と一緒にすごしたい。出来るだけ安穏と、そして出来るだけ普通にしていたい。
きっとそれは無理だけれど、絶対に恐怖におびえて泣き叫ぶけれど、間違いなく理不尽を憎み呪いを吐き散らすだろうけれど…
可能であるなら、それを押さえつけて自分が大事とする人達と最後を迎えたい。彼ら、彼女らに安全を与えることは出来ないけれど、それでも少しでも心が安らぐようなことを、非力で魯鈍な自分でも出来る限りをしていきたい。
愛着を持って一緒に思い出を積み重ねた自宅で過ごしたい。揃えられる範囲で出来るだけ好物のものを食べたい。お布団でごろごろしたい。お風呂にも入りたい。
それが求められていることなのか、正しいことなのか、分かりません。だけど、自分が思いつくことはそれぐらいです。
とってもつまらなく凡庸。他の誰からも価値を認められないそれは自分にとっては、世の中にある何よりも大事なことだからです。
現実的な話
もし、世界が滅ぶ、日本が終わるといった事態になれば、これも現実的ではないでしょう。
自暴自棄になった人たちは暴動を起こし、巨大で確実な災厄を迎える前に卑近な脅威に覚えることになるでしょう。或いは無駄とは知りつつ避難を試みて、寸断された情報の中パニックに陥るのが関の山のような気もします。
怒涛のように押し寄せる非日常は、きっと自分が持っている大事な日常を簡単に圧し壊すことでしょう。もしかすると、その破壊の口火は他でもない自分が切ることになるのかもしれません。
綺麗ごとだけで終わる訳もありません。
それなりに生きていれば、家族の死も知人の死も迎えてきました。だから、知っていますよ。人間の死は決して綺麗じゃない。むしろ見苦しいし汚いし臭い。亡くなったときも焼いた時も人は綺麗ではない。
でも、それでも来し方を見て過去を思い、生きている自分はそれなりに今を生きています。そういう風に現実のそれはそれとして承知してはいます。
それでも思うことはしておきたい
何ででしょうね?論理的に考えて、実現しえないことを妄想して「こうありたい」と思うことは無駄なことです。
きっと他の人から見れば、これは間抜けで意味のない行為でしょう。年齢を考えれば、本当に幼稚な妄想なのでしょう。きっと正気に返れば、顔から火が出るような恥ずかしい感傷なのだろうとも気づいています。
それでも、妙に感傷的な思いに囚われます。
自分が生きてきた何かを後に残すことは叶わない。月並みでこれという何かを生み出したわけでもない凡俗ではあるけれど、それでも自分なりの終末を送りたい。
そういう不思議な思いです。
死生観を頭に思い浮かべたもう一つのきっかけ
前提が全然違いますけれど、確実な死に対して人が何をしようとするかを描いた連載中の漫画です。自分の死を確実にした守る相手も持つ物も無い一人の男性が、限られた時間を過ごす話です。
shonenjumpplus.com
やり残したこと、してみたかったことを探す中で彼が何を思い何をするのか?それを立ち会うことを義務付けられた立会人の少女との関係の中に少しづつ彼の中に変化が出てきます。劇的ではなく、淡々と素朴なもの。人間だから持っている無意味で、でも彼にとって決して無駄ではない時間の過ごし方が描かれています。
調べれば他にも幾らでもあるでしょう。死生観は学術的にも文芸的にもポピュラーなテーマですし…。
そして最後に
一笑に付されても仕方のないことを長々と書き連ねました。
流石に自分も毎日こんなお通夜みたいな心持ちにはなりませんよ。ちょっとだけ、メランコリックになっただけです。ご心配なく。
でも、もしこのエントリを読んで同じようなことを頭に少しでも思い浮かべた方、いらしたなら、あなたは約束された終末があったとして、その時どう過ごしたいですか?