星空文庫
分福茶釜大作戦
なまけもの 作
ある日、お寺の和尚さんが茶釜を火に掛けていると、茶釜から毛むくじゃらの足が生えて逃げだした。茶釜は野を越え谷を越え、山にある福太郎の家に駆け込んだ。
*
「ごめんくださいまし!」
「オウヨ」
出てきた福太郎は、客人を見るや固まってしまった。
福太郎の家にやってきたのは、茶釜に化けた狸だった。茶釜から、毛むくじゃらの狸の頭と四本の足が出ている。
「このような見苦しい身なりでお訪ねしてすみませぬ。私、分と申します」
分は滑らかにそう言って、ぺこりと上品に頭を下げた。
すると急に福太郎はニヤリと笑った。その瞬間、今度は狸が固まった。
福太郎は熊の毛皮を纏い、背中に猟銃を背負っていた。よく見ると、家の中にも鹿の角や、キジの羽、鹿の毛皮が飾ってあった。
これは、いわゆる猟師の家だわ、と分はすぐに悟った。
「良い毛並みだな」
猟師の福太郎はそう言ってニヤリと笑った。しかし礼儀を重んじる分狸は、すかさず低頭した。ここで逃げては失礼だと思ったのだろう。
「お褒めにあずかり恐縮です。このたびはご恩返しに伺いました」
と分は涼やかな声で言った。
「ご恩返しィ?」
しゃがれ声の猟師は狸を覗き込んだ。福太郎は大層目つきが悪く、顔の怖い男だった。
分狸は気が気でなかったが、礼を欠いてはならないと思い、涙目でこう叫んだ。
「私は、以前山で福太郎さまに助けていただいた狸です!」
すると猟師は心当たりがあったのか、目を見開いて狸を指さした。
「ああ、あの時の!」
「覚えててくださったのですね!」
分が喜ぶと、オウヨッと猟師は返事をした。
「覚えてるに決まってるだろう! お前、罠が外れた途端に逃げた狸だろ? せっかく狸汁が食えると思ったのに惜しいことをしたよぉ全く!」
「え?」
また狸の表情が固まった。猟師はヤレヤレという風に溜め息を吐いた。
「オレは猟師だぜ? 罠にはまった狸を逃がす猟師がどこにいるんだ。あれは逃がしたんじゃなくって運悪く罠が外れちまっただけだ」
「なんたること!」
狸は狐にでも抓まれたような顔をしていた。
猟師は狸を覗き込んだまま頷いた。
「そうだよ間抜け。だから恩返しなんかすんじゃねえよ」
「そうですよね……」
分はションボリと俯いた。何やら酷く落ち込んでいた。
間抜けな狸だと福太郎に呆れられてしまった。
助けられたのは誤解だとわかり、当の福太郎が猟師と分かった今もここにいる。
福太郎は焦れったそうに分を見つめてくる。さっさと逃げればいいものを、と思ってくれているのやもしれない。
分はハッと思いついて言った。
「でも福太郎さま。そうは仰るけれど、本当は分を逃がしてくださったのでしょう?」
「ああん?」
どこまで甘い狸なのだろう。それは分自身も承知の上だ。
「助けていただいた翌日、分は茶釜に化けて福太郎さまの家の前に座っていました。すると福太郎さまは私の手紙を読まれて、分を和尚さんにお渡しになりましたよね?」
分はすでに福太郎の恩返しを試みていた。自分が化けた茶釜を売れば、福太郎の手元にいくらかお金が残ると思ったのだ。
しかし福太郎は茶釜をタダで和尚にやってしまった。恩返しは失敗だったが、狸は福太郎の優しさにいたく感動したのだった。
その心の内を分狸が話すと、福太郎はまた固まってしまった。
「あ、ああ……あの茶釜、お前だったのか?」
どこか様子がおかしい。
「ええ、福太郎さま。茶釜に敷いた手紙には、こう書いてありましたでしょう?」
『俄には信じられないこととは存じますが、私は狸でございます。先日福太郎さまに助けていただいたご恩をお返ししたく、山から降りて参った次第です。茂林寺の茶釜風に化けてみました。よろしければ先々寺の和尚さんにお売りになってみてはいかがでしょう。何でも、和尚さんは茶釜を探してらっしゃる御様子です。』
そのように書いたはずだと狸は説明した。
すると福太郎は目を泳がせて、狸の方を見ようとしなかった。
「福太郎さま、もしかして……」
福太郎は真っ赤になって俯いていたが、突然、ギッと狸を睨んだ。
「そうだよ悪いか! オレは字が読めねえんだよ!」
「ええぇ!」
分は目玉が飛び出るほど驚いた。だとしたら自分の恩返しは大失敗だ。
「んな驚くなよ。読めなくっても暮らしにゃ困らねえよ、猟師なんだから!」
「読めないなら読めないと、一声掛けてくださって良かったのですよ? そしたら私が口で説明しましたのに!」
「一声掛けるかよ! こっちはただの茶釜だって思ってんだぞ!」
「ああ確かに! そうですよね……寝てたので拾われたこともまぁったく気付きませんでした」
「寝てんじゃねえよ!」
福太郎に怒鳴られた。分は自分の間抜け具合に心底嫌気がさした。
「ああ……分がもう少し賢ければ、ちゃんとご恩返しが出来ましたのに」
茶釜狸は顔と足を引っ込めて、茶釜の姿で落ち込んだ。
猟師が茶釜をこつこつ叩いた。
「だから恩返しは良いっての。こっちは逃がしたつもりはないんだぞ?」
そうでしたねえと狸は蓋から顔を出した。
目が合うと、分は恥ずかしそうにフククと笑った。
ふいに猟師はウググと呻きだし、床に身を投げ出した。
「あああ、どうなされたのです! どうなされたのです!」
狸は大いに面食らって、倒れた福太郎の周りを回った。
福太郎が言った。
「こりゃ悔しがってんだよ。まんまとあの狸爺に欺されたんだって今気付いた」
「……狸爺?」
分狸は不思議そうに鼻をすんすんさせる。その鼻先で福太郎がオウヨと返事した。
福太郎が言うには、あの日茶釜を拾った後、そのまま里に下りたそうだ。福太郎は誰かの落とし物だと思ったらしい。
そこへ和尚が通りかかって話しかけてきた。福太郎が茶釜の事情を話した途端、和尚は、これはいかにも自分の落とした茶釜だと言いだしたそうだ。
それを聞いた分狸は、ころころと鈴のような声を立てて笑った。
「その和尚さんはアホです!」
「はあ?」
「分は和尚さんのことなど知りませんよ! だって狸ですもん! 自分の茶釜か分からないなんて余程のアホでしょう! アホアホ和尚さんです」
そう言って分はおかしそうに笑い転げていたが、猟師はすっかり呆れたようだ。
「アホはお前だ、分」
「えええ!」
狸は驚きのあまりコロンと転げた。
「そして、オレもアホだ」
福太郎は忌々しげにそう言った。そして狸に背を向けて座った。
拳を強く握っている。福太郎は背中越しに言った。
「茶釜の底」
何のことだか分からず、狸はつぶらな瞳をパチクリさせた。
「底に、和尚の名前が書いてあるんだとよ。これが証拠だって見せられたが、読めるはずがねえ。そうしてオレはおめおめ帰ってきたんだ。茶釜を取られてな」
福太郎は溜め息を吐いた。
「ま、オレが字さえ読めりゃ、あんな嫌な奴に欺されることはなかったんだ……」
しばらく狸は、丸まった大きな背中を見つめていた。そっと近づいて様子を覗くと、福太郎は顔を真っ赤にして下唇を噛んでいた。
今にも泣いてしまいそうな顔だ。
狸は驚いた。
福太郎は顔こそ怖いが、心は繊細だったのだ。欺された悔しさ以上の感情が胸にあるのだろう。
この人は、自分を恥じているのだ。
分狸は矜恃なんて持ち合わせぬ呑気者だった。これまで己を恥じることなんてしたことない。自分はおっちょこちょいだと分かっているから、失敗したって落ち込むだけで、悔しいとまでは思わない。
だけどこの人間はまっすぐで、誇りもある。そういう風に生きているから、悔しいと思えるのだ。そういう心を持てるということは、美しいことだ。
分狸は心からそう思った。だからであろう。
「良いことを思いつきました!」
清らかに澄んだその声が、家の中に響き渡った。
分狸が二本足で立ち、唐傘で升を回し始めた。振り返った福太郎は、驚いたように口をあんぐり開けている。
福太郎さま、と分狸は明るく猟師の名を呼んだ。
「その狸爺に一泡吹かせてやりましょう!」
「おぉう?」
「ぶんぶくぶんぶく泡を吹かせてやるのです! 名付けて、ぶんぶく茶釜大作戦!」
*
「文にあった茶釜のことでございやすが」
弥七郎が先々寺の茶室に通されるや、開口一番間の抜けた声で言った。
そして和尚に顔を近づけて、うっすらと微笑んだ。
「茂林寺の茶釜というのは、まことで?」
「いや、その話じゃが……売るのはやめにした」
と和尚さんは取り繕った。
茂林寺の茶釜があるから売りたいと文を寄越したのは和尚さんである。呼び出された古道具屋の弥七郎は、ふうんと鼻を鳴らした。
まさか茶釜に足が生えて逃げ出した訳でもあるまいに。
「おやまあ。そりゃあ残念でございやす」
弥七郎が吊り上がった目でちらりと見ると、和尚さんは大らかに笑っていた。
「実に使い心地が良うてな、手放せなくなった。だから今晩は詫びとして茶でも馳走致そう」
しかしこの古道具屋は、これで中々勘の鋭い男だ。
和尚さんは慌てたように、弥七郎の隣に置かれた大きな風呂敷を指さした。
それは何かと問うてくる。
古道具屋は、驚いたように目を大きく見開いた。
「そうそう、そうでやした。実を申せば、和尚さんに頼みたいことがあるんでやすよ」
弥七郎は、懐から巻物を大事そうに取りだした。
「随分古びた巻物じゃな」
和尚さんがポツリと言った。弥七郎は巻物を掲げて見せた。
「古びてはおりやすが、大変価値のある巻物なのでやす。……実はおいら、用あって明日は店を留守にすることになりやして。その留守の間、この巻物を和尚さんに預かって頂きたいんでやすよ」
「わしに?」
和尚さんは迷惑そうな顔をした。
「勿論タダとは申しやせん」
古道具屋は力強く言って、そこでようやく風呂敷包みを解いた。
中から現れたのは、古めかしい茶釜だった。
「ふうむ、中々見事な茶釜じゃないか。蓋がないようだが?」
「蓋がないのは元々でやす。こいつは世にも不思議な茶釜、常慶院の茶釜っつうモンでやす」
「常慶院?」
和尚さんはいかにも聞いたことがないという顔をした。それには弥七郎が朗らかに応じた。
「おいらの生まれ、米沢にある寺の名前でやす。和尚さんが既にお持ちの茂林寺の分福茶釜。そいつは水を入れれば、一昼夜汲んでも水がなくならないと伝わる茶釜でやしょう。しかし、こいつはちと違う。常慶院の茶釜は、米が増える茶釜なんでやす」
「……米が?」
和尚さんは興味深そうに目を見開いた。
古道具屋は、にこりと笑う。
「あい。夜の間にこの茶釜の中に米を少し入れておくと、次の日には茶釜いっぱいに米が増えているんだとか」
「……ふぅむ。だがそんなのはただの伝説じゃろう?」
和尚さんは眉唾と言いたげな顔だ。
弥七郎は吊長の目を細めて笑った。
「まあ、これも一種の分福茶釜でやす」
その一言に、和尚さんの顔色が変わった。
「それも分福茶釜なのか?」
あい、と弥七郎は楽しげに頷いた。
「昔、耳にしたことがありやす。飢饉の折に米沢藩は備蓄米のお陰で助かったことがあると。……不思議でやしょう? 村一つならまだしも、一藩まるまる救う米がどこにあったんだっていう。何でも、ある若者がどこからか茶釜を持ってきて、米を増やしたとか」
その言葉で、和尚さんの瞳の色が変わった。
弥七郎は目を瞑ってしみじみと言った。
「まさしく福を分ける行い。これが……分福の言われなのでやすねえ」
しかし和尚さんは全く聞いていなかった。目を輝かせ、身を乗り出してくる。
「で、弥七郎。お前さん、この茶釜をわしにくれるんじゃな?」
「あい、差し上げやしょう。ただし、明朝おいらが伺った時に和尚さんが巻物を持っていてくだされば……のことでやすが。しかし一つ気がかりなことがありやしてねぇ……」
そこで弥七郎は人差し指を立て、ニコォッと笑った。
「この巻物を狙う輩は多いのでやす」
和尚は一気に嫌な顔をした。
「そんな危険な物なのか?」
すると弥七郎はおかしそうに笑った。
「いやいや、大丈夫でやす。巻物を狙うのは悪漢盗賊の類ではありやせん。夢幻で人を惑わす、物の怪の類でやす」
和尚さんの顔が凍りついた。聞くところによると、この和尚さん、物の怪の類は大の苦手なのだそうだ。
それを知っている弥七郎が、ムフフと無邪気に笑った。
「や、弥七郎……わ、わしに化け物退治をしろと?」
「いえいえ、とんでもなぁい。和尚さんは毎日修行をされている御身でやしょう? 清浄でまっすぐな心を持ってらっしゃる御方には、物の怪は寄り付きやせん。だから和尚さんはいつも通りに過ごしてくださるだけでよいのでやす。なんにも起きやしやせん」
本当か、と和尚さんが古道具屋に詰め寄る。
「あい、誓って。物の怪が寄りつくのは……心醜き欲垢まみれの人間だけでやしょう?」
そこで古道具屋は細い眼をさらに細くした。
和尚さんは安心したらしく、二つ返事で弥七郎の頼み事を引き受けた。
やはり、そこまでしても分福茶釜が欲しかったようだ。和尚さんが嬉々として巻物と茶釜を受け取ると、弥七郎はお辞儀をして帰った。
*
その晩のことだ。
寺の小僧達が寝静まった頃、和尚さんは茶釜を使ってみることにした。
茶釜に少しばかりの米を入れ、誰にも知られぬよう天袋に仕舞った。
最早和尚さんは、この茶釜は自分の物になったも同然だと思っていた。翌朝になれば、茶釜いっぱいに米が増える。米をどんどん増やしてゆけば、米には一生困らない。
飢饉のための備えとなる。そして暮らしに困った人や、病人のいる家に分ければ喜んで貰えるやもしれない。だがそのような考えは一切、和尚さんにはなかったのだ。
和尚さんは頭の中で想像していた。茶釜からざらざらと溢れ、増え続ける米を。
それは蔵いっぱいの米俵になり、やがて金銀財宝になる。その金で竜宮城のように建て直した先々寺がドドンと現れる。大きな茶室には珠玉の骨董品が飾られており、立派な僧侶達に囲まれた和尚さんは、分福茶釜にほおずりをして笑っていた。
やはり、この人は和尚さんと呼ぶべき人ではないようだ。和尚はほくそ笑み、ぽつりと独り言を言った。
「信用できる人間を雇い、裏で米の取引をすればよい。黙っておれば誰にも分かるまい……」
その中身は、欲望でいっぱいだった。
和尚はにやけながら自分の部屋に戻った。
襖を開けると、眩い光が差しこんできて、思わず和尚は目を瞑った。
「ふむ!」
目を開けると、白い花びらが舞っていた。
輝きの中に、八本の沙羅双樹の木が見えた。その一本には薬袋と思しき物が引っ掛かっている。沙羅双樹の花が次々に咲いては散り、美しい花びらがその下に横たわる人物の身体を覆い隠してゆく。それに寄り添い泣いているのは、僧侶達。そして沢山の動物。
これはまさしく、お釈迦様の入滅の光景だった。
「これは……夢か?」
和尚は腐っても和尚だ。己の目を何度も擦り、頬を叩いた。鼓動を押さえきれなかった。
聞こえてくるのは弟子達の慟哭。美しい景色の中に、悲しみが溢れていた。思わず和尚はその場で震え上がり、膝を折った。
そこへ一頭の馬がゆっくりと歩いてきた。蹄の音に気付いた和尚が顔を上げると、白馬に乗った鎧武者が見下ろしてきた。
「立ちなされ」
言われて、和尚が立ち上がった瞬間、周りの景色ががらりと変わった。
青空の下には海。聞こえるのは潮騒と海鳥の声。沖には小舟が一艘浮かんでいる。
ここは浜辺のようだった。
和尚が大海の果てを見ていると、鎧武者が馬から下りて和尚の視界を遮った。
微笑みかけてきたのは、小柄な美しい少年だった。その顔は白く、おなごのように優しい。
鎧武者は、まだ甲高いその声で言った。
「その懐のものをこちらに渡しなさいませ」
手を差し伸べてくる。
とっさに和尚は懐に手をやった。
ここには弥七郎の絵巻物が入っている。これを狙うは、物の怪の類とあの古道具屋は言っていた。
「よ、よこすものか! さては物の怪か!」
和尚は叫んだ。欲の前には恐怖も消し飛ぶものらしい。
すると鎧武者は妖しげに、フフフと笑った。
「私が物の怪ならば、そなたは欲垢にまみれた狸爺だと認めたことになりましょう」
「な、なにい?」
和尚が怯むと、鎧武者はキッと睨み付け、大音声で叫んだ。
「味方に射るべき御仁は、誰かおらぬか! この狸爺を射よ!」
和尚を指さしてくる。
和尚はふいに、己の足元が崩れてゆく感覚に襲われた。
崩れてゆくのではない、これは。
「す、吸い込まれる!」
蟻地獄のように、白い砂浜に和尚は飲み込まれていった。胸まで地中に埋まった時、和尚は気付いた。その両手で必死に掴んだのは、砂でない。
「こ、米?」
ここは米粒の浜辺だった。到頭、和尚が息も出来ぬほど米粒に沈んだ瞬間、波が押し寄せてきた。和尚は波に攫われ、沖へと流されてゆく。
ただの波ではなかった。和尚は真っ白な米粒の海で溺れた。
「ひい! 助け……ッ!」
大きく波打つ米粒の海。白米の荒波を掻き分けて、一艘の小舟が和尚を引き上げた。
「た、……助かった!」
和尚が安堵した途端、小舟の船頭が楽しげに言ってきた。
「さあ、それはどうかな」
和尚は船頭の顔を見上げるや、肝を潰した。
「や、弥七郎……!」
弥七郎は舟を漕ぎながら、静かに言った。
「和尚さん、おいらの茶釜を返してくださいやせんか?」
弥七郎の目線は、遥か先の浜辺を向いている。
「な、何故返さねばならんのじゃ。あれは既にわしの物じゃ!」
「何を仰るやら……。分福茶釜はあんたにゃ一つも相応しくねぇよ」
弥七郎が吐き捨てるように言った。和尚は息を呑み、黙り込んだ。
「和尚さん。あんたは猟師の福太郎から茶釜をだまし取ったろう。……返して貰おうかね?」
「違う! あれは元々わしのものじゃ!」
和尚は混乱していた。こうも窮地に立たされていながら、それでも欲を捨てきれず、茶釜を己の物だと言い張った。
諦めるように弥七郎は和尚に言ってきた。
「そうでやすか。ならば仕方ない……」
鋭い声で、弥七郎は叫んだ。
「与一を呼べ!」
ハァイと隣で澄んだ声がした。
現れたのは、柳の五衣を纏った麗しい貴族の女だった。同じ舟にいたのに和尚は今までちっとも気付かなかった。
美女は筆と硯を弥七郎に渡し、浜辺に向かって大声で叫ぶ。
「与一さまぁ!」
典雅な所作で袖を振っている。
和尚は美女に見惚れていた。その隙に、弥七郎が和尚の額に黄金の墨で日輪を描いた。
「何をする弥七郎!」
「ああ、暴れないでくださいや。ほら、浜に与一が!」
弥七郎が指さす。
浜に、黒い馬に乗った鎧武者が現れた。先程の美少年とは違い、逞しい成年の武者だ。馬は海に向かってまっすぐ走り出した。
蹄の音が近づいてくる。波打ち際に至ると、鎧武者は馬上から高く跳躍し、和尚達を乗せた小舟の舷に着地した。
それは見事な若武者だった。しかし和尚は、その顔に見覚えがあった。
「ふ、福太郎?」
若武者は顔を上げ、ニッと笑った。
「オウヨ。狸爺」
和尚が怯んだ瞬間、弥七郎と美女が和尚を羽交い締めにした。
弥七郎が言う。
「いかに与一、この和尚の真ん中を射て、目に物見せてやれ!」
オウヨと、与一は笑った。
そして低い姿勢で猟銃を構えた。照準は、先程弥七郎が描いた黄金の日輪。
狙うは、和尚の額のド真ん中である。
「ちょ、ちょっと待てぇ福太郎!」
和尚は掌を突き出して泣き叫んだ。与一は猟銃を構えたまま、目を瞑った。
そうしてぎこちなく唱えだしたのは、神仏への祈りの言葉だった。
「南無狸八幡大菩薩、わが国の神明、日光の猿、ウサギの宮、茄子の田楽大明神、願わくは、あの和尚のド真ん中、射させてたばせたまえ!」
滅茶苦茶な神仏名だ。隣の弥七郎と美女が溜め息をこぼしている。
だが和尚はすっかり動転して気付いていない。涙をこぼして大声で許しを請うた。
「許してくれ福太郎!」
けれど与一役の福太郎も、必死のようだ。全く和尚の嘆願を聞いておらず、うろ覚えの台詞を唱え続ける。
「えー……これを射損ずることはなーし。今一度、茶釜の外に迎えんとおぼしめさば……」
「お願いじゃ! な、何ならわしの茶釜をやっても構わん! 助けてくれぃ!」
あと少しだ、と弥七郎が小声で福太郎に呼びかけた。
銃口を向けられた和尚は、恐怖のあまり笑っている。
与一の福太郎もようやく開眼し、ニッと笑った。
「この弾、はずさせてたもーな?」
そして、引き金は引かれた。
青空を切り裂く発砲音。幾重にも響いた後、仮初めの青空はキュッと縮まって、たちまち一面、暁の闇に染まった。
和尚は倒れた。白目を向いて泡をぶくぶく吹いていた。
*
夜明けを迎えた山中には、倒れた和尚と、人間二人と狸が一匹いた。
猟銃を持った福太郎は呆然としている。
「よう撃ったな」
そう言ったのは弥七郎だ。和尚の懐から巻物を抜き取り、大事そうに自分の懐に入れていた。
福太郎は慌てて叫んだ。
「な、何を言うか、空砲だ!」
すると、いかにもおかしそうに弥七郎が笑った。分狸が和尚の周りをぐるぐると走りながら、言った。
「福太郎さまご覧になってください。泡をぶんぶく噴いています!」
「おお本当だ。これぞ分福茶釜!」
福太郎が笑うと、狸が嬉しそうに頷く。
「全くです! ほら、弥七郎に手伝って貰って良かったでしょう?」
すると弥七郎が腕を組み、迷惑そうに言った。
「おいらは狸なんざに力を貸してやった覚えは一つもないぜ」
「あら、なぁぜ?」
狸が不思議そうに弥七郎の足元に寄った。
弥七郎は面倒くさそうに鼻を鳴らし、狐の姿にポンと変化した。
「おいらは福太郎のことが気に入ったから、手を貸したんだ」
それを聞くや、狸は美しいおなごの姿にポンと変化した。白い着物を纏っている。
「まあ、やだ! 弥七郎ったら子供みたいです! ねえ、福太郎さま?」
分が無邪気に笑って振り返ると、福太郎は固まっていた。
どうしたんだと弥七郎狐も言ってくる。
福太郎は頭を掻いて、笑った。
「いいや。お前らのその姿は初めて見たもんだから……ビックリしただけだ」
そうして二人と一匹はわいわい話ながら、山の奥へと帰っていった。
翌日、山奥にある福太郎の家は大層賑わっていた。
人間に化けた分が福太郎に読み書きを教え、弥七郎が算盤を教えてくれていた。席を同じくした狸と狐は時折喧嘩をしていたが、別段仲が悪い訳ではなさそうだ。福太郎は物覚えが良かったので、あっという間に読み書き算盤を習得した。
一方、先々寺の和尚は狐狸に欺された夜以来、人が変わったように消沈してしまったという。その噂は福太郎に耳にも届いていた。
食欲もすっかり衰え、枯れ木のようになり、日々のお勤めもままならないそうだ。仕舞いには寺の小僧達も心配になり、医者に診せたが、和尚の気鬱は一向によくならなかったという。
そんなある日のこと。福太郎は和尚を訪ねていった。和尚は渾身の力で逃げだそうとしたが、腹が空いているせいですぐにへたり込んでしまった。
「和尚、別に獲って喰いやしねえよ。あんた人間なんだから」
そう言って福太郎は、持ってきた茶釜で茶粥を作って和尚に食べさせた。
和尚は掻き込むようにして粥を食べた。余程旨かったらしい。
薄い茶と、僅かな山菜のささやかな粥だったが、今の和尚には十分のようだった。
掠れ声で和尚が何か言った。福太郎が訊き返すと、和尚は突然嗚咽を漏らした。
「わしは……嘘をついた。茶釜の底には……わしの名前など書いておらぬのじゃ」
涙の雫が、枯れ枝のような手の甲にぽたぽたと落ちた。
和尚が深々と頭を下げてくる。
もーいいよ、と福太郎は明るく言った。
「あの茶釜には、分福って書いてあったんだろ?」
驚いたように和尚は顔を上げた。福太郎は立ち上がって、親指で己を示した。
「オレ、読み書きが出来るようになったんだ。字の書ける猟師って中々いねえもんだぜ!」
すげぇだろうと福太郎は誇らしげに言う。そして眉を下げて苦笑した。
「釜戸和尚……あんたにはもう十分仕返しをさせて貰った。これであいこ。オレは悔しい思いをしたから、こうやって読み書きに算盤、茶粥作りが出来るようになった訳だ」
そこまで言うと、福太郎は満足げに鼻息を噴いた。
和尚は若者を見つめた。涙に濡れた和尚の瞳は、輝きに満ちていた。きっとその時、和尚の心いっぱいに何かが満たされたのだろう。
それは水よりも、米よりも、ずっと優しく清い。
和尚はむせび泣いた。そして声にならぬ声で言ってきた。
オウヨと福太郎は返事をして、和尚の背中を優しく摩った。ちゃんと福太郎には聞こえていたのだ。
――ありがとう。
こうして和尚さんは快復し、すっかり心を入れ直したという。猟師と打ち解けて、互いの家へ世間話をしにいくほどに仲良くなったそうだ。その仲は猟師が里で所帯を持った後も続いたという。
和尚さんは猟師の子供を自分の孫のように可愛がり、よく縁側でこう言い聞かせたという。
「梅郎、気を付けるのじゃぞ。あのお山には、茶釜狸さまと茶釜狐さまがおるんだよ」
それを聞いた幼子は、わしは猟師の子じゃから大丈夫だと呑気に笑っていたそうだ。
『分福茶釜大作戦』 なまけもの 作
猟師と狸。 一人と一匹が立ち向かったのは、強欲な和尚さまだった。
更新日 | |
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登録日 | 2017-04-14 |
Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。
『分福茶釜』と『甲子夜話』をもとにした、お伽話風味の小説です。
人に読んでいただく機会が少ないので、思い切ってこちらに投稿しました。