差別とはその対象を構成する何らかの身体的特徴,性格,出自,思想,その他肉体/精神を問わない何らかに対しそれをあげつらうことだとする。
一方,区別はその対象は同じだが,そこに線引きをする,ということに差別との違いがある。
たとえば,遊園地におけるアトラクションの身長制限は安全上の「区別」であり,これを「差別」と捉える人はまず居ないだろう。
また,男女でトイレを分けることも,身体的特徴からくる排泄行為の違い,及び盗撮などの各種犯罪行為を抑制するための「区別」と捉えることができる。
しかし,差別と区別を分ける本質的な線引きは存在しない。なぜなら,何らかの発言や措置をどう捉えるかは個人によって大きく異なるからである。
例えば,(文脈にも依存するが)「バカ」と言われて喜ぶ人もいれば,烈火の如く怒る人もいる。電車やバスにおいて席を譲るにしても,
「私がそんな年寄りに見えるか!」と怒る人は少なからず存在する。
では,なぜ男女でトイレを分けることが「区別」で,人種によってトイレを分けることが「差別」とおそらく一般には広く認識されているかと言えば,
それは圧倒的多くの人,つまり世間がそう考えているからに過ぎない。世間や時代が変わればその境界は大きく揺らぐだろう。
例えば低身長でも完全に安全なアトラクションが導入されたとして,そのアトラクションに対し「120cm未満の身長のお子様はお乗りになれません」という
ルールがあれば,119cmの兄は121cmの兄を逆恨みし,これは差別だと断じるだろう。
ここで重要なのは,ある発言を「差別」と受け取るか,「区別」と受け取るかはそれを言われた本人にしか決定できない,ということにある。
つまり,「ヘイトスピーチ」が世間を構成する人の殆どが差別的だと捉えたとしても,「ヘイトスピーチを行う人は差別主義者である」という発言を
ヘイトスピーチを行う人がその発言は差別だと認識する限りにおいて,「差別は常に行うべきでない」という前提があるのであれば,
「ヘイトスピーチを行う人は差別的」だからと言ってそれを「差別」することはできなくなる.ここにパラドックスが生じる。
これらから導かれる1つの思想は,「他者に危害を加えない限りにおいて,あらゆる思想や言動は許されるべきである」という自由主義的発想である。
この思想に従えば,「他者に危害を加えない限り」ヘイトスピーチも,反ヘイトスピーチも共に許容されるべきである。
ここで,「他者に危害を加える」ということがどこまで含むかをよく考える必要がある。
仮に,「反感を覚える」ことまでも「危害を加えられた」と定義する場合,反感を覚えるかはやはり主観によるため,
原理的にあらゆる思想・言動を規制することが可能となる。したがって,ノイローゼになったとか,躁鬱病になったといったような
より別の基準を設ける必要があると考えられる。ここにはまだ議論の余地がある。
そもそも,なぜ議論が必要かというと,人間の発想・思想は不完全であり真理ではない,という理由が挙げられる。
従って,あらゆる批判をお互いにゆるし,良いところは伸ばし,悪いところは修正を図ることで真理に近づくことができる,というのが
自由主義の考え方である。しかし,自由な批判を行うためには論理的な思考能力,互いの尊重,感情的発言の極限までの抑制などが
必要となる。それらの能力はどこでどのように身に付けるべきなのか。
義務教育において教え込むことで,非常に長期的視野に経てば数世代交代する頃には「大多数」がそのような能力を身に付けることが
可能になると考えられるが,そもそも,論理的な思考能力を身に付けるべきというこの自由主義的発想そのものも常に正しいと言えるのか,
批判の対象でなければならない.そのような対象を義務教育によりある意味では洗脳のように教え込むことは,緒戦は多数派による
現体制の維持に繋がる行為であり,自らその必要性を強く感じ,そのような能力を獲得することが望ましい。
しかし,その必要性を感じるには,論理的思考能力が必要である。それはどこで身に付けるのか。
最近,このようなことをずっと考えている。