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テロ、テロ、またテロの欧州
もはやブログを書くことがテロに追いつきません。
4/3、ロシアのサンクトペテルブルグの地下鉄で爆破テロ、10人以上が死亡。キルギス出身の犯人はイスラム過激主義への傾倒が疑われる。
4/7、スウェーデンのストックホルムで盗まれたトラックが群衆に突っ込み4人が死亡。ウズベキスタン人の犯人は、スウェーデン入国後ISへの参加のためシリア渡航を図っていた。難民申請を却下され、強制送還予定だったが姿をくらませた上での凶行。(←事件に至る経緯がベルリンテロと全くおなじ。他国の例から学習するという気がないのか?)
(ところで「ナスタチウム」様、Welcome Back!ストックホルムテロとその周辺事象について実によくまとまった記事をリリースして下さいました!)
4/11、ドイツでは、サッカーチームのドルトムントの選手バスを狙った爆破テロ、選手一名が手首骨折の重傷、今シーズンは絶望との声も。その他警備のバイク警官も負傷。犯行現場には犯行声明と思われる手紙があり、ドイツによるIS空爆などにも言及。イスラム主義者と目される容疑者2人を当局が拘束。
ロンドンのウェストミンスターのテロ事件のとき、同様の未遂・軽傷事件がイタリアとベルギーでも1件づつあったと、ある読者さんにコメント欄でお知らせしたことがあり、後々調べて掲載しようと思っていたのですが、もう更新のノロい拙ブログではおちおちまとめさえできないようなペースで同様のテロが発生しています。
これが最終戦争なのではない
「これはテロの最終戦争ではありません。 今後はテロじゃなくて本物の宗教戦が始まります。」
との記述がありました。
・・・これに120%同感です。
テロリストはジハド推進の嚆矢に過ぎないのです。
ISやテロリストの数はムスリム全体にくらべれば「一握り」だ、というのは事実です。
でも、その「一握り」の下に、多数のムスリム群衆がおり、ありとあらゆる合法、非合法な手段を使ったジハドを実行して異教徒を屈服させるべく控えているのです。
そちらのほうにも、もっと注目すべきです。
学校では、ムスリム多数のクラスで非ムスリムの生徒や教師を苛める。一方で、ムスリム少数のクラスでは「被害者」面を過剰に強調し、「イスラモフォビア対策」のため非ムスリム生徒に「イスラムは平和」というプロパガンダを詰め込む。(左側の界隈が強力にバックアップしているところがうかがわれ、嘆かわしい限りです。)
酷い場合は、児童に無理やり「シャハーダ(信仰告白)」を唱えさせるケースさえあります・・・(←パキスタンとかエジプトでなくって米国メリーランド州の学校の事例。)
街頭では道路を占拠して礼拝し、これでもかとばかり自らの土地であることを誇示するとともに「シャーリアパトロール」をうろつかせてイスラム法を執行する。
会社では、「人権」「平等」の看板をタテにムスリムへの特別待遇を勝ち取るべく訴訟(litigation jihad)を連発する。
政治の世界では、イスラムへの一切の批判を非合法とする法律の成立をめざし奮闘努力。カナダでは、まだ拘束力はないものの「イスラモフォビア」的言動を禁ずる法律が可決されたほか、オーストラリアではムスリム女性国会議員がムスリムへの悪口を犯罪とする法律を提唱しています。
これらも、「ジハド」です。「ジハド」は、本来自動小銃も爆発物も不要で、イスラム教徒であれば誰でもできるのです。
イスラム改革を起こさせるためには
たまに、「イスラムには宗教改革が必要だ」ということを述べる方がいます。
これは重要なことです。しかし非ムスリムがイスラムの教えについて何か言ったところで、ムスリム自身が動くことはないでしょう。彼らにとって異教徒は(多くの場合)「唯一の正しい神を礼拝しない愚か者」に過ぎないのですから、馬耳東風そのものにしかなりません。
それよりもイスラムの問題点を公共の場でガンガン議論し、精神的に圧迫することが必要だと思います。
「平和の宗教」プロパガンダに沿った話はもうやめて、イスラムによる言論の自由の弾圧、女性抑圧、「勧善懲悪」に名を借りた暴力の問題などを広く議論すべきなのです。
当然、主にムスリムたちからは「それは被害妄想だ」「イスラモフォビアが〜」うんぬん聞こえてくるでしょうが、もはやそれに真剣に耳を貸す人たちは少数派になっていくでしょう。(左側の界隈は別ですが(爆))
左側の界隈はともかくとして、結局のところイスラムが脅威だと思っていても、怖いから、よくわからないから、とりあえず当面のところ波風立てず平和でいたいから、何も言わないだけ、という人が圧倒的に多いのではないかと思量します。
イスラムに問題点があるということを粘り強く主張しつづければ、それに内心だけでも賛同する人は増えていくのではないでしょうか。
幸いな事に日本は欧州や米国、オーストラリア、カナダほどのイスラム侵略はまだ受けていません。
そうならないうちに、できる限り議論を盛り上げるべきです。そうでなければ、イスラムを批判した途端「殺害予告」→怖くて撤回、あるいは本人は隠れざるをえなくなり二度と公の場に出られない、そんな事態になりかねません。(これがオランダ。)
そして、思い切って言いますが、今のうちにイスラムそのものをカルト指定一歩手前にする・・・というか、これは「明確に危険性を帯びた集団である」ことを政府が公に認識する必要があるのではないかと思います。
そこまでの圧力がなければ、イスラム教の内部から改革の機運は出てこないのではないか、と思うのです。
イスラム研究家の池内恵氏の資料によれば、かつてのインドやエジプトでは、イギリスとの軍事衝突でムスリムたちがことごとく敗北していく現実を前にして「ジハド回避論」が唱えられたことがあったということです。
「近代ジハード論の系譜学」(イスラムの歴史と神学に興味のある方にはお勧めです↑)
実質的に「私たちは実力による『ジハド』を捨てます」「礼拝とか巡礼などができればそれでいいです」と言い出す者たちがいたらしいのです。
これと同様に、
「イスラムは、聖典の中からジハドに関する部分を切り捨て、礼拝(それも勤務時間・授業時間外でね!)と慈善活動にのみ重きをおく儀礼宗教に変容しなければ、この国では生き残っていけないのでは?」
そんな深刻な危機感をムスリムたちに与える必要があるのでは、と真剣に思います。
イスラムはもともと、「恐怖に基づいた服従」が根本にあるものですから、それを西洋世俗社会に適応させるにあたって、「愛」「寛容」は意味をなさないものと考えます・・・!
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