よく分からない国境線は地図閲覧の醍醐味
世界地図を見ていると、国境線が点線で描かれていて、明確にどっちに属するか曖昧にされている箇所が結構あります。
領土紛争や条約未締結で明確に国境線が引けられない場合にそのような書き方がなされるのですが、そうなった背景を詳しく調べていくと結構おもしろいものです。
「なんでこうなった」的なところを発見するのは地図閲覧の醍醐味なのですが、ラッキーなことに我々はGoogle Mapという素晴らしいサービスでいつでも楽しめることができます。
今回はGoogle Mapで楽しめる世界の「未確定国境線」を見ていく回です。
1. アルナーチャル・プラデーシュ州(インド実効支配)
中印国境紛争の原因となった山岳地域
中国南西部とインド北東部には遠目からも目立つ、結構広大な地域の「未確定国境線」があります。
この地域はアルナーチャル・プラデーシュ州という、その名前の通りインドが実行支配していますが、中国が主権を主張してる地域です。
この国境線は1914年に大英帝国支配下のインド帝国と、英国の影響下にあったチベット政府との間で結ばれたもの。
イギリス全権代表ヘンリー・マクマホンは、インドの避暑地シムラで開催された会議で「中国のチベットの主権」を認める代わりに「英領インドの国境線北上」を画策。当時の中華民国は「清国の影響下にあった地域は全て中華民国が引き継ぐ」という立場を取っており、「イギリスによる侵略行為」を非難。最終的に中国はこの決議を承認しませんでした。そのため、現在も中国はこの国境線を認めておらず、自国領と主張しています。
1959年にはこの地域の領有権を巡って、中国とインドとの間で中印国境紛争が勃発しています。
2. ブータン北部・西部
長年続く中国とブータンの領土交渉
ブータンはチベット仏教の国で、チベットと不可分の存在でした。
長年チベットとブータンの国境線は山脈の稜線や川といった自然の境界を大まかに区分していましたが、共通の文化・言語・習慣を保有しているためそれも極めて曖昧なものでした。
1951年に人民解放軍がチベットを占領した後、中国は「チベットの領土は中国の領土」と主張しブータンやシッキム、ネパールの領有権を主張。ブータンは南のインドと緊密に連携し、交易を含む中国との交流の一切を禁じました。
1961年ごろ、中国は中印国境紛争の後にこの地域のプレゼンスを高めるためにブータンに接近。ブータンの独立を認めて経済援助をする条件の代わりに、国境線策定の交渉を呼びかけました。ブータンはこれに応じ、以降中国とブータンの関係は改善し、以降国境線交渉は長期スパンで続いてきました。
そして1996年に北京で第10回目の国境線会議が開かれ、ブータン北部(PasamlungとJakarlung Vallery)を中国が領有することで双方が合意をしました。
一方で、ブータン西部(Dolam平原のChumbi Valley)は中国・ブータン・インドの戦略て要衝であり、なかなか決着が付いていません。
この地域を中国に奪われると、ブータンは地政学的に中国に飲み込まれる恐れもあるし、インドもブータンが中国に飲み込まれるのを恐れるため、強固に反対しています。しかしたびたび中国軍による越境事件が発生しており、インドの新聞は「中国による侵略」を大々的に報じるなど神経を尖らせています。
中国は2020年までにチベット〜ネパール〜インド〜ブータンの国境線に鉄道線を引く予定で、インフラ開発ならびにヒマラヤ山脈の経済開発を「中国の核心的利益」と位置づけ譲らない構えを見せています。
3. カシミール(複数の国が実効支配)
中国・インド・パキスタンが領有権を主張する山岳地帯
有名な紛争地のカシミールも点線だらけで「ただごとではない」感じが伝わります。
カシミールは大英帝国統治下ではカシミール藩王国という名前で、ヒンドゥー教の藩王に支配されてきました。1947年に独立し、英領インドはヒンドゥー教徒が主導するインドか、イスラム教徒が主導するパキスタンのどちらかに所属することになりました。
カシミール藩王は、自身がヒンドゥー教徒で、住民の多くはイスラム教徒であったため、どちらかに属することは不可能で独立すべきだと考えていました。
ところがムスリム住民の要請に応える形でパキスタン軍が介入してきたため、対抗する形で藩王はインドへの所属を決めてしまい、ここから泥沼の印パ戦争が始まります。
現在はカシミールはインド、パキスタン、中国がそれぞれの地域を実行支配しており、未だに小競り合いが続いています。
Work by Miljoshi
4. アブハジア&南オセチア(独立状態)
ロシアの支援で成立したアブハズ人とオセット人の共和国
ジョージア(旧名グルジア)の内部をえぐる感じで点線が描かれていますが、西部はアブハジアで北部は南オセチアと呼ばれ、両方とも2008年の南オセチア紛争でロシアの援助でグルジアに対し軍事的勝利を収め事実上の独立状態を勝ち取っています。
元々アブハジアもオセチアも、グルジアとは異なる独自の文化を持つ地域ですが、旧ソ連時代に行政区分としてグルジア・ソビエト社会主義共和国内の自治共和国に区分されました。ソ連時代は宗教・文化・言語のグルジア化が推し進められ、またグルジア人の入植が進められアブハズ人とオセット人の迫害が進みました。
ソ連崩壊後、アブハズ人もオセット人も独自の共和国の樹立を宣言しますが、グルジア軍の侵攻にあい、国際的にも独立を認めれませんでした。
しかし抵抗運動と独立準備は続き、南オセット共和国が国連に独立を求める動きを見せたため、2008年にグルジア軍は南オセットに軍事侵攻。同時にアブハジアも独立を宣言しました。ロシアは南オセチアとアブハジアを支持する立場を見せ、グルジアに対し宣戦布告。短期間の間に両地域からグルジア軍を排除しました。
現在両地域は、アブハジア共和国と南オセチア共和国として事実上の独立をしており、両国は国連を含むほとんどの国に認められていません。
5. ハラーイブ・トライアングル(エジプト実効支配)
イギリスの雑な国境線引きが残す遺恨
エジプトの南・スーダンの北にも、エジプト側に張り出すように点線があります。
この地域はハラーイブ・トライアングルと呼ばれ、その大部分は豊かな森林が生い茂り「エルバ国立公園」という自然保護区に指定されています。
1899年、エジプトとスーダンを支配するイギリスは、エジプトとスーダンの行政区分を「北緯22度線」に定め、竹割りのような真っ直ぐな現在の国境線が定められました。
ところが、1902年にイギリスはハラーイブ・トライアングルはスーダン総督に属すると新たに定めました。この地域の森林は、スーダン側の遊牧民の拠点であったためです。
独立後、ハラーイブ・トライアングルがどちらに所属するか両国間で議論になり、しばらくは両国による共同管理がなされていましたが、1992年スーダン政府がハラーイブ・トライアングルの沖合の海上油田の採掘権をカナダの石油会社に与えたことでエジプト政府が抗議し、再度両国間の懸案事項になりました。
2000年にスーダン軍がこの地域から撤退したことで、現在はエジプトが実行支配していますが、スーダンはハラーイブ・トライアングルはスーダン領と主張し続けています。
6. アビエイ地区(スーダンが実効支配)
肥沃な土地と豊かな油田が禍をもたらす土地
スーダンの南部を削るように入った点線は、アビエイ地区と呼ばれスーダンと南スーダンの領土争いの舞台となっています。
もともとアビエイ地区に住んでいたのは黒人のディンカ族のンゴック氏族で、北東に居住するアラブ系ミッセリアは遊牧のためにアビエイ地区に周遊しに来ていました。もともと両民族の関係は良好でしたが、第一次スーダン内戦でミッセリアは同じアラブ系でムスリムが主導する北部に付き、ンゴックは黒人系でキリスト教徒の南部に付き、互いに敵対しました。
1975年にアビエイ地区で油田が発見されたことで、北部アラブと南部黒人の争いは激しくなり、第二次スーダン内戦ではンゴックはスーダン人民解放戦線(SPLA)の主力になり闘争を繰り広げますが、北部勢力の支援を受けたミッセリアがアビエイ地区のほぼ全てを制圧。
以降スーダン政府がほぼ独占的にアビエイ地区の石油利権を手にしましたが、独立後の南スーダンはアビエイ地区の領有権を主張し、たびたび小競り合いが起きています。
7. イレミ・トライアングル(ケニアが実効支配)
イギリスの曖昧な条文から発生している領土紛争
南スーダンとケニアの境界にある点線は「イレミ・トライアングル」と呼ばれ、長年争いが続いているも未だに帰属の決着が付いていない地域です。
もともとこの地域には遊牧民トルゥカナ族が暮らしていましたが、エチオピア皇帝メネリク2世は1907年にトゥルカナ湖の領有を主張してイギリスと交渉し、アングロエチオピア条約でエチオピアとスーダンの国境線「マーウド・ライン」を設定しました。
この時エチオピアとスーダンの国境は明確になりましたが、ケニアとスーダンの境界は非常に曖昧にされました。
1928年にケニアはイレミ・トライアングル内に居住するトゥルカナ族を保護する権利をスーダンに認めさせ、1938年にトゥルカナ族の北限「レッド・ライン」を制定しました。
Work by Roke~commonswiki
1950年、スーダンはイレミ・トライアングルの治安維持と開発を事実上放棄して北部と東部に撤退。しかし引き続きケニア軍への治安維持の費用支払は認めため、イレミ・トライアングルの地域の領有権はますます曖昧になりました。
現在はこの地域の大部分はケニアによって支配されていますが、南スーダンも領有を引き続き主張しています。
8. オガデン(エチオピア実効支配)
ソマリ人が居住するエチオピア支配地域
ソマリアとエチオピアの南部の国境も点線になっています。
エチオピア東部はオガデンと呼ばれ、ソマリ人とイスラム教徒が居住する地域です。
長年ソマリ人の遊牧民が暮らす地域でしたが、19世紀末にエチオピア皇帝メネリク2世の遠征でエチオピア帝国の一部となりました。
1936年、エチオピアを征服したイタリアはオガデンをソマリアに併合し、第二次世界大戦を経てソマリアはイギリス領になりますが、その際イギリスもイタリアに倣ってオガデンとソマリアを統合しようとしました。
しかしエチオピアからの強い抵抗に会い、結局オガデンはエチオピア領と認められました。
しかし1970年代後半にソマリアの独裁者モハメド・シアド・バーレが「大ソマリア主義」を掲げオガデンの奪取を主張し始めると治安が悪化。オガデンにはソマリアの支援を受けたオガデン民族解放戦線(ONLF)がゲリラ闘争を繰り広げ、とうとう1977年にソマリア軍がオガデンに軍事侵攻。オガデン戦争が勃発しました。
バーレは長い南北の分割や各地域に散在するソマリ人の統合を訴え、大ソマリアの建国を訴えました。
ソ連はエチオピアに肩入れし、一方でアメリカはソマリアを支援し、冷戦の代理紛争の要素を呈しました。
しかし徐々にエチオピア軍が巻き返し、オガデンを超えてソマリア領内に侵入するようになります。またソマリア内でも分裂が起き、1988年に両国は停戦に合意。
現在ではオガデンはエチオピアが支配していますが、いまだにオガデン民族解放戦線は存在し、エチオピア政府は治安維持を名目にソマリ人の取締を強化しているため、国連やソマリアはエチオピアを非難しています。
9. マラウィ湖(マラウィが実効支配)
アフリカ南東部の細長い湖マラウィ湖は、一部が世界遺産にも認定されているほど美しく生態系が豊かな湖です。
その名の通り、湖の大部分をマラウィが支配しており、隣国のタンザニアもマラウィ湖に面しているのですが、湖の岸ギリギリを国境線に設定しています。対するタンザニアは、それはあまりにも不公平であり陸の国境線に沿うような形で中間点に国境を設けるべきとしています。
Work by Aotearoa
1890年にイギリスとドイツとの間でヘリゴランド=ザンジバル条約が締結され、イギリス中央アフリカ領とドイツ領東アフリカの国境線が引かれたのですが、第一次世界大戦でタンガニーカ(タンザニア)がイギリス領となった際に、マラウィ湖の管轄をニヤサランドとしました。ニヤサランドは独立してマラウィとなり、イギリスが引いた国境線を維持しています。
両国間で1990年代から散発的に紛争が発生しており、またマラウィ湖には石油資源が眠っていますが、タンザニアの抗議で開発がストップしています。
まとめ
Google Mapで地図を見てると、不思議な形の境界線や飛び地を見つけて、おやこれはなんだろうと思って調べてみるのは楽しいものです。ですが、この記事で書いたようにその背景を調べれば調べるほど暗い気持ちになっていきます。
宗教・民族・資源の争いはあまりにも残虐で目を背けたくなりますが、このような観点から関心の目を向け続けるのが重要だと思いますし、僕もこのような情報発信を通じて貢献したいと思っています。
・関連書籍
世界の奇妙な国境線<世界の奇妙な国境線> (角川SSC新書)
- 作者: 世界地図探求会
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川マガジンズ
- 発売日: 2012/10/12
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
参考サイト
"Bhutan - China Relations" Global Security.org