外国人材活用、「次世代の日本人」育てよ
経済評論家 堺屋太一
私は、この国では少数派の移民受け入れ派であるが、堺屋太一さんが日経に寄稿された文章を拝見して意を強くした。日本には移民活用の歴史がある。
すぐ「日本には外国人を移入した経験がない」という人が出てくるが、それは大間違いだ。古代の昔だけではなく、鎌倉時代と江戸時代以外には多くの外国人が出入りしていた。特に16世紀から、17世紀前半の鎖国令までと、19世紀末の日清戦争までには相当数の外国人が入って来た。
以降の部分を是非読んでいただきたい。
ポイント
○日本は「ヒト不足・土地余り」の時代到来
○外国人材活用は欧米先進国に比べ遅れる
○外国人の長期定住を目指す政策が不可欠
40年余り前、私は小説「団塊の世代」を発表した。終戦直後の1947年から49年までに生まれた人の数が異常に多い。この人たちが新しく就職する今は、日本経済は高度成長し好景気が続くが、やがてこの世代が中年になり高齢になると、日本式の終身雇用年功賃金体系のままでは大きな負担になり、企業と経済の足を引っ張ることになるだろう。さらに20世紀末ともなれば、社会保障の費用がかさみ、国家財政を破綻させかねない――。そんな将来を警告した予測小説である。
この小説は大きな話題となり、よく売れた。だが、当時の厚生省人口問題研究所(現在の国立社会保障・人口問題研究所)など人口問題の専門家の間では評判が悪かった。
「こういうことを書くから素人は困るんだよ」という専門家もいた。当時の専門家の見方は、「現在の日本の出生数は少ないが、間もなく団塊の世代とやらが出産適齢期に入ると出生数は激増する。日本は30年ほどの周期で出生が激増する波形が運命付けられたのだ。日本の問題は、依然として人口過剰・土地狭小である」というものだった。
この発想を基に、70年代の政府は可耕地・可住地の拡大に努めていた。九州の有明海や秋田県の八郎潟の干拓、全国各地の山間地への道路建設などに何兆円もの公費を投じて、可耕地・可住地を広げていた。
東京などの大都市では郊外の山林原野を開いて住宅団地を造成し、地方からあふれ出て来る「団塊の世代」の受け皿を造ったのだ。
確かに、人口専門家の予想通り、70年代に入ると日本の出生数は増え、一時は年間200万人を超えた。いわゆる「団塊ジュニア」の誕生である。
だが、それから約30年、2000年代には出生数が増えなかった。このころには、合計特殊出生率(1人の女性が一生に産む子供の数の平均値)が、1.5をはるかに割り込む状態になっていた。
要するに「団塊ジュニア」までは人口の盛り上がりを作ったが、「団塊サード(団塊の孫たち)」は、塊と呼べるほどの出生ではなかったのである。
日本は古来、土地不足、ヒト余りの状況だった。鎌倉時代の昔から、農民や武士は土地を「一所懸命」に耕し、領地を命懸けで守った。戦国の時代も猫の額のような小さな土地を巡って戦いが繰り返されたし、江戸時代にも領地や村境での争いが絶えなかった。
日本の企業経営は土地節約的ヒト多消費型、工場も商店もスペースを寸分も無駄にせず利用されているが、人手は豊富で、残業も無駄な会議もさして苦にしなかった。
ところが、ここに来て事態は急変している。団塊の世代は既に高齢になり、若い世代は数少ない。日本の年齢別人口構造は、頭デッカチの尻スボミ。見るからに危ない格好である。
このことは現実の社会にも現れている。今や全国で人の住まない住宅が820万戸、全住宅の13.5%が空き家だ。最近では東京や大阪の近郊でも住む人のない家、営業する人の無い店舗が急増しつつある。農地に至っては、全国で約40万ヘクタールが耕作放棄地になっている。
家主や地主が強欲なせいではない。自治体に無償で寄付したくても、自治体の方が固定資産税の減収と管理の手間を恐れて受け取ってくれないのだ。
日本は今や「ヒト不足・土地余り」の「未曽有の時代」を迎えているのである。
土地余り・ヒト不足になった日本では、人口の増加が求められる。このための出生率向上策が必要だが、その方法が難しい。40歳で一度も結婚したことのない男性が3割近くいる世の中では、出生数を急増させるのは難しい。
あらゆる手を打って出生増加に成功したとしても、これから生まれる新生児が、日本の経済社会を支えられるようになるのは20年以上も先である。それを考えると、やはり外国人材の活用は欠くことのできない要素である。
今、日本には在留外国人が231万人ほどいる。そのうち、139万人は「身分による在住者」、つまり外国籍の「永住者」や日系人の「定住者」、日本人と結婚した外国籍の配偶者などだ。
いわゆる「外国人材の活用」といえる外国人労働者の総数は、昨年ようやく100万人を超えた。しかし、欧米先進国に比べればきわめて僅かな数である。また、その内訳をみると、永住者・定住者以外では、技能実習制度による実習生が21万人、留学生のアルバイト就業者が同じく21万人を占める。IT(情報技術)の技術者など「技術・人文知識・国際業務」の高度な技能を有する専門人材は15万人にとどまる。
要するに日本は、外国からの移民はもちろん、外国人材もあまり活用していないのだ。
これからは、日本のあり余った土地や家屋を活用できるように、外国の人材を大幅に取り入れるべきだろう。
農業移民や製造業移民も大いに入れるべきである。外国人観光客の増加に伴って、外国語の話せる販売員やイベント警備員への需要も高まっている。
こういえば、すぐ「日本には外国人を移入した経験がない」という人が出てくるが、それは大間違いだ。古代の昔だけではなく、鎌倉時代と江戸時代以外には多くの外国人が出入りしていた。特に16世紀から、17世紀前半の鎖国令までと、19世紀末の日清戦争までには相当数の外国人が入って来た。
例えば17世紀はじめ、中国大陸が満州民族の支配下に置かれかけた時には、大勢の漢民族が日本に来て、陶芸・染色などの工芸に従事しながら農耕もした。各大名家の書記係・秘書役である右筆や、御典医になった者も少なくない。近松門左衛門作の人形浄瑠璃「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」で有名な鄭成功(てい・せいこう)も、当時の日本にやって来た中国人の父と日本人の母との間に生まれている。
今日、われわれが日本の伝統文化と考えているものにも、元をたどると外国人移民によってはじめられたものがたくさんある。
この人たちの子孫は、見事に日本に同化した。それから2世代ほどあとには、何と赤穂浪士の吉良邸討ち入りに参加した中国人の孫(武林唯七)までいる。
19世紀の終わり、明治開国から日清戦争の間にも、大勢の中国人が流入した。お雇い欧米人のような腰掛けではなく、日本に定着して、きちんと「次世代日本人」を育てたのだ。
東京・上野で最初の喫茶店を開いてコーヒー文化を広げたのも中国人だったし、神戸で貿易商や洋服の仕立屋をはじめたのも中国人だった。その人たちの子孫からは有名作家になった人も宝塚スターになった人もいる。いずれも立派な日本人として日本文化に貢献したのだ。
今、日本は一時の人手不足の解消だけではなく、本当に日本の将来に貢献してくれる「次世代日本人」となる外国人の「長期定住」を目指す政策こそ大切だろう。それがこの国の「当面の成長」のためにも、「長期安定」のためにも不可欠である。
外国人材の活用の真の在り方を真剣に議論すべき時期である。
さかいや・たいち 35年生まれ。東大経済卒、通産省在職中に作家デビュー。元経済企画庁長官