叙情に流れっぱなしの、このエッセイにも、そろそろ終止符を打とう。
栃木で最後に言えることは、わたしは人の命を金で買ったということだ。
夫は集落の人にさんざん罵倒されたあと、無言で草を刈っていた。
怖かった。夫と地面の距離が怖かった。
さんざんフォールアウトした土地の土ぼこりを、夫に吸わせるのが怖かった。
日没を待って、それとはないそぶりで声をかけた。
「疲れたでしょう? それにね。栃木に滞在していられる時間はもう残り少ないでしょう? 不動産屋を巡るとか、荷物を処分するとか、色々あるし。そっちが優先事項じゃないかと思うんだなあ。産廃の人にはどうしても頼らなくちゃならないから、その人たちにお願いしようよ」
我ながらとても、薄気味が悪い。自分の、優しさを装った声が、気味がわるい。だれが知らなくとも、わたしだけは自分自身に騙されない。
人の良い夫は、わたしに容易く騙された。
本音を言ったら、この人はむしろ引かない。
それと同時に、原発の構造自体を、自分のなかの醜さを通して理解した。
人の命を、金で買う。経済が、経済がと言いながら、人の命を金で買う。
翌日には産廃業者がやってきて、国の基準値が甘くなったので、雑草も燃やせますと嬉しそうに胸を張った。
もっとも効果的な方法なのだ、燃やすというのは、放射性物質を拡散させる手立てとして。現在進行している瓦礫の受け入れと焼却。それが、放射性物質をばら撒く、もっとも効果的な手段なのだ。
わたしたちに草を枯れと迫った集落の人たちは、この枯れ草を燃やしたら、自分たちの身になにが降りかかるのかを知っているのか。
そしてこの産廃業者の人たちは、わたしの代わりに被曝する。金を握らされて、被曝する。
かき集められた枯れ草は、燃やされて拡散する。わたしが夫を連れて高知に逃げたあとに、すべての事態は進行する。
なるほどなあと、淡々と思った。ああ、わたしはこんなに醜悪な人間なのかと。
それを認めると、世間の輪郭が妙にクリアに見えてきた。
わたしはわたし自身を善人だと思い込みたいがために、これまで歪んだ鏡で自分を写し、それを基
準にして世間に当てはめていたから、輪郭がクリアにならなかったのだ。輪郭がクリアになれば、物事はとてもシンプルになる。
バイスタンダー効果を理解してみればいい。線量に閾値があるのかないのかなんてくだらない論争は、一発で終止符を打つ。科学は為政者の都合で、平気で嘘をつく。
線量は、蓄積する。確実に。
水俣病の被害者たちの過去に学んでみればいい。
まったく今と同じ構造だ。念のため過去最大の公害病を振り返ってみよう。
わたしは我が目を疑ったのだが、皆さんはどうだろう。あまりの類似性に、いまの事態が予言されていたのではと思うほどである。
最初の公式患者は5歳の女児だった。よだれ・嘔吐・歩行障害・言語障害・痙攣。1953年12月頃からこうした症状に苦しみ、59年に死亡する。
熊本大学水俣病研究班は、調査・研究の結果、相次ぐこうした不審死の原因物質は、有機水銀だと特定するに至る。
すると次にどうなったか?
清浦雷作・東京工業大学教授が「有毒アミン説」を提唱し、戸木田菊次・東邦大学教授は「腐敗アミン説」を発表する。
「患者は腐った魚を食べた」
そういうことにさせられたのだ。
結局、1956年に公式に患者が“発見”されてから、チッソ水俣工場から流出したメチル水銀化合物が原因だという政府の公式見解が出るまでに12年、裁判で元社長らの業務上過失致死罪が確定するまでに32年かかった。
その間、有機水銀説を認めず、チッソに有利な説を唱えていた学者たちの責任が問われることはなかった。
そして最高裁が国と県の責任を認めたのは、手を汚した人間たちが「おはかに避難」したあとの2004年。患者の“発見”から48年後だった。
為政者はこうして、そしてそれにおもねる「学者」たちは自分たちの利益のために、いけしゃあしゃあと嘘をつく。今回の原発も、50年たてば誰の言っていることが正しかったかわかるだろう。
この国は原発推進派の「真っ赤なデマ」は批判しないのに、反原発派の誤りを重箱の隅をつつくように探す。そして「不安を煽った」として、糾弾するのだ。
どうしてか知っているか。
わたし自身は気づいているが、自分自身でその理由に気づいているか。
わたしは長らく不思議だった。どうして「愛国者」を自称する人たちが、「経済が」と言いながら、おのれの子孫を喰らうような真似をするのかが。いわゆる「核のごみ」の処理は、「自分たちでするのは危険だ」という理由で、子孫につけを押し付けたものだ。そんな方法がないことなんて、薄々気づいていたはずなのに。
理由は単純だ。彼らの本音は、単純だ。「お上に逆らうな」。愛国者の化けの皮を剥げば、「お上には逆らうな」という、唾棄すべきへつらいがあるだけだ。五人組制度と隣組制度の卑しい性根を残したまま「愛国者」たちは言う。「放射能は安全だとお上が言っている」「お上に逆らうのは、非国民である」。戦時中とどこが違うのだ?
「一億総玉砕とお上が言っている」
「死なない者は非国民である」。
そして生き残ったあとはこう言うのだ。
「戦争はいかんですよ!」。
なぜ、言わない?
「お上に逆らわなかったわたしたちが悪いですよ」
「そうなんです、相互監視しあってました」。「お上に逆らった奴は、率先して密告してました」。
なぜ、言わない?
「お上に従えば、身の安全は保障されると思ったんです」
「だから“愛国者”じゃない人間は、一致団結して虐殺してまわりました。侮辱と汚名をかぶせて、殺しました」
「いちばんこの国でえらいのは、お上です。つまり役人だと思います」
「わたしたちもはやく、役人になりたーい」。
なぜ、ごまかす?
「わたしたちは、“騙された”」
違う、民意だ。すべて、民意だ。
周囲の顔色をおもんぱかり、風潮に必死に乗り、若者を特攻機に載せ、死ぬために死ねと命じて、卑怯に生き残り、そして言う。
「戦争は悲しみしか生みません」。
今度はこう言っている。
「放射線は安全だ」
「瓦礫も安全安心だ」
「なぜなら、お上がそう言っているから」。
こうして必死に「風評被害」という新たな風潮に乗り、「被災者のため」という名目のもとに瓦礫を我先にと引き受け、そしてその瓦礫の処分の費用が被災地の自治体の借金となって残るのも無視して、「これが被災地のため」と、美辞麗句にのみ浸る。さらに相互監視して、「避難」という自主的な行為に及んだ人間を、「非国民」としてなぶり殺しにしようとするのだ。精神的に。
「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーは、平然と「国民の自業自得(自己責任)」だとうそぶく。「(ドイツ)国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ」
わたしには反論する術がない。
そう、民意だ。すべて、民意だ。歴史は、選択と選択の連続だ。
ここに言おう。
この国の成人は、これからおのれの身にどれだけの重篤な健康被害が現れようと、決して、「騙された」などとは口にしてはならない、と。
騙された、ふりをした。
騙された、ふりをすれば自分自身に受ける被害よりも貰えるおこぼれのほうが多いと判断したからこそ、騙されてみた。そこにはそろばん勘定がある、と。
「知らなかった」。
これも、口に、するな。怠惰もまた、選択のひとつだ。自国の原発が爆発したというのに、必死に目を背けて、AKB48の選挙に熱中することを、「選んだ」のだ。
そう、あなたたちは薄々気づいている。この国の行動の異様さに。封じ込められた核汚染物質が、なぜ拡散されようとしているのかに。その裏にある権力の強大さをひしひしと感じているから、必死におもねって、自分だけは生き残ろうと利己的になる。
健康被害にしてもそうだ。「子供たちに重篤な健康被害がでようが、おのれの世代は癌になる確率が少しあがるだけ」。そう思えるから、平気で子供たちに高線量の被曝を強いる。声なきものから死んでいくのを、よくよく承知しているからだ。
わたしは昨日、NHKのドキュメンタリー番組を見ていた。11年前、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教にまつわる番組だった。番組ではナレーターがこう語っていた。
「命じられるままに無差別テロを引き起こしていった若者たち」
オウム真理教には、高学歴の幹部たちが多かったのも、世間を驚かせた。なぜ、高学歴の若者が、安易に「洗脳された」のかと。
違う、逆なのだ。安易に「洗脳される」からこそ、高学歴なのだ。彼らは、洗脳してくれる存在を求めている。そしてその命令をおのれの能力によって実行して、幹部という名誉で「称えられる」ことを欲している。
オウム真理教が霞ヶ関を狙ったのも、偶然ではないのだ。必然だ。
なぜなら、彼らは、高学歴の人間から一定の割合で発生する悪性腫瘍であるからだ。霞ヶ関の人間は、自分たち自身の組織が変異して、正常なコントロールを失い、自立的に増殖された細胞によって、攻撃を受けたのだ。
「命じられるままに原発推進を行った若者たち」
「命じられるままに瓦礫の拡散を行った若者たち」
「命じられるままに原発の再稼動を行おうとしている若者たち」
上祐の喋り方は、なんと、霞ヶ関の役人と似ていることか。
彼は平然と嘘をついていたが、それは麻原によって「命じられている」という主体性の放棄が完了していたからだ。自分自身は手を汚していないと、彼は信じている。だから平気でいられるのだ。「ああ言えば上祐」と言われようが、それは、おのれの罪ではない。主体性を持つ「大人」の命令を、素直に実行に移せる「良い子」なのだ、彼らも、霞ヶ関の役人も。そして賞賛を待っている。「素直な良い子ね」。彼らは、「大人」が方針を転換しない限り、永遠にその立場を貫き通すだろう。決して、真の意味で、自分自身で思考しようとはしない。
ワイマール共和国は、まもなく滅亡する。
それは事実かもしれない。だが、わたしは、滅亡の先を見ようと思うのだ。自分の足でたどり着けない未来であっても、その先を望むのだ。虚無に喰われていた時間の空虚さと、息をしているのもしんどかった日々を知っているからこそ、望むことを選択する。
栃木で、産廃に出す荷物の整理を黙々と夫と行っていたとき、玄関のチャイムが鳴った。とっさにわたしは、夫を制した。
「わたしが行く」。
これ以上、夫が言葉の暴力に晒されるのを、わたしは防御したかった。わたしは平気だ。なぜなら、平気で人を見下せるからだ。嘲笑という武器が、わたしにはある。夫のように、他者と理解しあえる日を、期待しない。
わたしは荒っぽい足取りで玄関にむかった。
引き戸をあけた。
するとそこにいたのは、酪農を営む生産者の若奥さんだった。
「わあ! 本当だ。戻ってきたんだ、戻ってきたんだ!」
恨むどころか、満面の笑顔でわたしとの再会を喜んだ。何度も全国の品評会で表彰されるような、凄い肉牛を育ている、真剣に生きているご家族だった。その若奥さんだった。綺麗な人だった。
「元気だったんだ、元気だったんだ、よかった、よかった」
わたしはとっさに彼女と抱擁を交わしていた。
「会えたね、また、また会えたね」
自分の醜さを認めたら、人の尊さも見えてきた。わたしは正しく、尊い人と再会した。
生きているってそれだけで素晴らしい。
こんな時代にあろうが、生きているって、それだけで素晴らしい。
わたしはまた出会う。そして驚く。目を見張る。世の中にはだれに知られることもなく、尊い努めを果たしている人がいることを知る。
高知の借家は、生き物の気配で満ちている。
冬場は野うさぎが家のまわりを徘徊し
山側から春先はうるさいぐらいにホトトギスが鳴き声の練習を重ね
それが終わると田んぼの側からカエルたちが異性を求めてゲコゲコと鳴き
猫が玄関先に殺気を漂わせた目でたたずみ
屋根裏はねずみが猫の捕獲から逃れようと走り回る。
生きているって、それだけで素晴らしい。
さよなら、皆様。いつかまた会えるかもしれないし、もう会えないかもしれない。だけどいままでありがとう。それではこれにて「時事音痴」を終了します。さようなら。