2013年9月12日木曜日

時事音痴/それでは皆様、さようなら

 もう終わりにしよう。


叙情に流れっぱなしの、このエッセイにも、そろそろ終止符を打とう。

 栃木で最後に言えることは、わたしは人の命を金で買ったということだ。
 夫は集落の人にさんざん罵倒されたあと、無言で草を刈っていた。

 怖かった。夫と地面の距離が怖かった。

 さんざんフォールアウトした土地の土ぼこりを、夫に吸わせるのが怖かった。
 日没を待って、それとはないそぶりで声をかけた。


「疲れたでしょう? それにね。栃木に滞在していられる時間はもう残り少ないでしょう? 不動産屋を巡るとか、荷物を処分するとか、色々あるし。そっちが優先事項じゃないかと思うんだなあ。産廃の人にはどうしても頼らなくちゃならないから、その人たちにお願いしようよ」


 我ながらとても、薄気味が悪い。自分の、優しさを装った声が、気味がわるい。だれが知らなくとも、わたしだけは自分自身に騙されない。
 人の良い夫は、わたしに容易く騙された。
 本音を言ったら、この人はむしろ引かない。
 それと同時に、原発の構造自体を、自分のなかの醜さを通して理解した。
 人の命を、金で買う。経済が、経済がと言いながら、人の命を金で買う。
 翌日には産廃業者がやってきて、国の基準値が甘くなったので、雑草も燃やせますと嬉しそうに胸を張った。 

 もっとも効果的な方法なのだ、燃やすというのは、放射性物質を拡散させる手立てとして。現在進行している瓦礫の受け入れと焼却。それが、放射性物質をばら撒く、もっとも効果的な手段なのだ。

 わたしたちに草を枯れと迫った集落の人たちは、この枯れ草を燃やしたら、自分たちの身になにが降りかかるのかを知っているのか。 

 そしてこの産廃業者の人たちは、わたしの代わりに被曝する。金を握らされて、被曝する。
かき集められた枯れ草は、燃やされて拡散する。わたしが夫を連れて高知に逃げたあとに、すべての事態は進行する。



 なるほどなあと、淡々と思った。ああ、わたしはこんなに醜悪な人間なのかと。

それを認めると、世間の輪郭が妙にクリアに見えてきた。


わたしはわたし自身を善人だと思い込みたいがために、これまで歪んだ鏡で自分を写し、それを基
準にして世間に当てはめていたから、輪郭がクリアにならなかったのだ。輪郭がクリアになれば、物事はとてもシンプルになる。

 バイスタンダー効果を理解してみればいい。線量に閾値があるのかないのかなんてくだらない論争は、一発で終止符を打つ。科学は為政者の都合で、平気で嘘をつく。


 線量は、蓄積する。確実に。 


 水俣病の被害者たちの過去に学んでみればいい。
まったく今と同じ構造だ。念のため過去最大の公害病を振り返ってみよう。
わたしは我が目を疑ったのだが、皆さんはどうだろう。あまりの類似性に、いまの事態が予言されていたのではと思うほどである。


 最初の公式患者は5歳の女児だった。よだれ・嘔吐・歩行障害・言語障害・痙攣。1953年12月頃からこうした症状に苦しみ、59年に死亡する。 

 熊本大学水俣病研究班は、調査・研究の結果、相次ぐこうした不審死の原因物質は、有機水銀だと特定するに至る。 

 すると次にどうなったか? 

 清浦雷作・東京工業大学教授が「有毒アミン説」を提唱し、戸木田菊次・東邦大学教授は「腐敗アミン説」を発表する。 

「患者は腐った魚を食べた」 

 そういうことにさせられたのだ。
 結局、1956年に公式に患者が“発見”されてから、チッソ水俣工場から流出したメチル水銀化合物が原因だという政府の公式見解が出るまでに12年、裁判で元社長らの業務上過失致死罪が確定するまでに32年かかった。
 その間、有機水銀説を認めず、チッソに有利な説を唱えていた学者たちの責任が問われることはなかった。
 そして最高裁が国と県の責任を認めたのは、手を汚した人間たちが「おはかに避難」したあとの2004年。患者の“発見”から48年後だった。 


 為政者はこうして、そしてそれにおもねる「学者」たちは自分たちの利益のために、いけしゃあしゃあと嘘をつく。今回の原発も、50年たてば誰の言っていることが正しかったかわかるだろう。
 この国は原発推進派の「真っ赤なデマ」は批判しないのに、反原発派の誤りを重箱の隅をつつくように探す。そして「不安を煽った」として、糾弾するのだ。


 どうしてか知っているか。


 わたし自身は気づいているが、自分自身でその理由に気づいているか。
 わたしは長らく不思議だった。どうして「愛国者」を自称する人たちが、「経済が」と言いながら、おのれの子孫を喰らうような真似をするのかが。いわゆる「核のごみ」の処理は、「自分たちでするのは危険だ」という理由で、子孫につけを押し付けたものだ。そんな方法がないことなんて、薄々気づいていたはずなのに。


 理由は単純だ。彼らの本音は、単純だ。「お上に逆らうな」。愛国者の化けの皮を剥げば、「お上には逆らうな」という、唾棄すべきへつらいがあるだけだ。五人組制度と隣組制度の卑しい性根を残したまま「愛国者」たちは言う。「放射能は安全だとお上が言っている」「お上に逆らうのは、非国民である」。戦時中とどこが違うのだ? 


「一億総玉砕とお上が言っている」
「死なない者は非国民である」。


そして生き残ったあとはこう言うのだ。


「戦争はいかんですよ!」。 


 なぜ、言わない?

「お上に逆らわなかったわたしたちが悪いですよ」
「そうなんです、相互監視しあってました」。「お上に逆らった奴は、率先して密告してました」。 

 なぜ、言わない?

「お上に従えば、身の安全は保障されると思ったんです」
「だから“愛国者”じゃない人間は、一致団結して虐殺してまわりました。侮辱と汚名をかぶせて、殺しました」
「いちばんこの国でえらいのは、お上です。つまり役人だと思います」
「わたしたちもはやく、役人になりたーい」。 

 なぜ、ごまかす?

「わたしたちは、“騙された”」 

 違う、民意だ。すべて、民意だ。

周囲の顔色をおもんぱかり、風潮に必死に乗り、若者を特攻機に載せ、死ぬために死ねと命じて、卑怯に生き残り、そして言う。

「戦争は悲しみしか生みません」

今度はこう言っている。

「放射線は安全だ」
「瓦礫も安全安心だ」
「なぜなら、お上がそう言っているから」

こうして必死に「風評被害」という新たな風潮に乗り、「被災者のため」という名目のもとに瓦礫を我先にと引き受け、そしてその瓦礫の処分の費用が被災地の自治体の借金となって残るのも無視して、「これが被災地のため」と、美辞麗句にのみ浸る。さらに相互監視して、「避難」という自主的な行為に及んだ人間を、「非国民」としてなぶり殺しにしようとするのだ。精神的に。

「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーは、平然と「国民の自業自得(自己責任)」だとうそぶく。「(ドイツ)国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ」 



 わたしには反論する術がない。



そう、民意だ。すべて、民意だ。歴史は、選択と選択の連続だ。
 ここに言おう。
 この国の成人は、これからおのれの身にどれだけの重篤な健康被害が現れようと、決して、「騙された」などとは口にしてはならない、と。

 騙された、ふりをした。

 騙された、ふりをすれば自分自身に受ける被害よりも貰えるおこぼれのほうが多いと判断したからこそ、騙されてみた。そこにはそろばん勘定がある、と。

「知らなかった」。

 これも、口に、するな。怠惰もまた、選択のひとつだ。自国の原発が爆発したというのに、必死に目を背けて、AKB48の選挙に熱中することを、「選んだ」のだ。

 そう、あなたたちは薄々気づいている。この国の行動の異様さに。封じ込められた核汚染物質が、なぜ拡散されようとしているのかに。その裏にある権力の強大さをひしひしと感じているから、必死におもねって、自分だけは生き残ろうと利己的になる。
 健康被害にしてもそうだ。「子供たちに重篤な健康被害がでようが、おのれの世代は癌になる確率が少しあがるだけ」。そう思えるから、平気で子供たちに高線量の被曝を強いる。声なきものから死んでいくのを、よくよく承知しているからだ。 





 わたしは昨日、NHKのドキュメンタリー番組を見ていた。11年前、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教にまつわる番組だった。番組ではナレーターがこう語っていた。

「命じられるままに無差別テロを引き起こしていった若者たち」 

 オウム真理教には、高学歴の幹部たちが多かったのも、世間を驚かせた。なぜ、高学歴の若者が、安易に「洗脳された」のかと。
違う、逆なのだ。安易に「洗脳される」からこそ、高学歴なのだ。彼らは、洗脳してくれる存在を求めている。そしてその命令をおのれの能力によって実行して、幹部という名誉で「称えられる」ことを欲している。

 オウム真理教が霞ヶ関を狙ったのも、偶然ではないのだ。必然だ。 
 なぜなら、彼らは、高学歴の人間から一定の割合で発生する悪性腫瘍であるからだ。霞ヶ関の人間は、自分たち自身の組織が変異して、正常なコントロールを失い、自立的に増殖された細胞によって、攻撃を受けたのだ。

「命じられるままに原発推進を行った若者たち」 
「命じられるままに瓦礫の拡散を行った若者たち」 
「命じられるままに原発の再稼動を行おうとしている若者たち」 

 上祐の喋り方は、なんと、霞ヶ関の役人と似ていることか。
彼は平然と嘘をついていたが、それは麻原によって「命じられている」という主体性の放棄が完了していたからだ。自分自身は手を汚していないと、彼は信じている。だから平気でいられるのだ。「ああ言えば上祐」と言われようが、それは、おのれの罪ではない。主体性を持つ「大人」の命令を、素直に実行に移せる「良い子」なのだ、彼らも、霞ヶ関の役人も。そして賞賛を待っている。「素直な良い子ね」。彼らは、「大人」が方針を転換しない限り、永遠にその立場を貫き通すだろう。決して、真の意味で、自分自身で思考しようとはしない。


 ワイマール共和国は、まもなく滅亡する。


 それは事実かもしれない。だが、わたしは、滅亡の先を見ようと思うのだ。自分の足でたどり着けない未来であっても、その先を望むのだ。虚無に喰われていた時間の空虚さと、息をしているのもしんどかった日々を知っているからこそ、望むことを選択する。

 栃木で、産廃に出す荷物の整理を黙々と夫と行っていたとき、玄関のチャイムが鳴った。とっさにわたしは、夫を制した。

「わたしが行く」。

これ以上、夫が言葉の暴力に晒されるのを、わたしは防御したかった。わたしは平気だ。なぜなら、平気で人を見下せるからだ。嘲笑という武器が、わたしにはある。夫のように、他者と理解しあえる日を、期待しない。
 わたしは荒っぽい足取りで玄関にむかった。
 引き戸をあけた。
 するとそこにいたのは、酪農を営む生産者の若奥さんだった。

「わあ! 本当だ。戻ってきたんだ、戻ってきたんだ!」

 恨むどころか、満面の笑顔でわたしとの再会を喜んだ。何度も全国の品評会で表彰されるような、凄い肉牛を育ている、真剣に生きているご家族だった。その若奥さんだった。綺麗な人だった。

「元気だったんだ、元気だったんだ、よかった、よかった」

 わたしはとっさに彼女と抱擁を交わしていた。

「会えたね、また、また会えたね」

 自分の醜さを認めたら、人の尊さも見えてきた。わたしは正しく、尊い人と再会した。

 生きているってそれだけで素晴らしい。 

 こんな時代にあろうが、生きているって、それだけで素晴らしい。
 わたしはまた出会う。そして驚く。目を見張る。世の中にはだれに知られることもなく、尊い努めを果たしている人がいることを知る。







 高知の借家は、生き物の気配で満ちている。





冬場は野うさぎが家のまわりを徘徊し

山側から春先はうるさいぐらいにホトトギスが鳴き声の練習を重ね

それが終わると田んぼの側からカエルたちが異性を求めてゲコゲコと鳴き

猫が玄関先に殺気を漂わせた目でたたずみ

屋根裏はねずみが猫の捕獲から逃れようと走り回る。






 生きているって、それだけで素晴らしい。 




 さよなら、皆様。いつかまた会えるかもしれないし、もう会えないかもしれない。だけどいままでありがとう。それではこれにて「時事音痴」を終了します。さようなら。
 

時事音痴/栃木行 その6


 どうしてあのとき、わたしは恐怖したのか。


 後々、考えていた。

 集落の人がひととおり帰っていくと、一郎さんは少しだけ悲しげに微笑み、帰っていった。うつむき加減に歩いている一郎さんの、その背中を見送った。

 本当は、家のなかを見て歩き、どの程度の荷物を処分しなくてはならないのかを確認したかった。
だが、夫にもわたしにもその気力は残っていなかったようだ。夫は無言で車のドアを開けた。気持ちは伝わっていたので、なにも言わずに助手席に乗った。
 車を走らせ出したとたん、夫は集落の方角に振り返り、声を張り上げた。

「放射能食って、死んじまえ!」

 そのときわたしは恐怖した。夫の心の許容量が、ついに超えたのを知った。
 集落の人に囲まれてどれだけあしざまに言われようと、正直わたしは恐怖など感じなかった。だがその言葉に、恐怖したのだ。
 夫と知り合ってもう、二十年以上経つ。だが夫が他人を罵ったり、ましてや呪いの言葉を吐き出す場面に出会ったことはなかった。理不尽な目に遭って帰宅すると、わたしに事の次第を話し、ぷりぷりと怒っている。だが、いつでも最後に、

「でもまあ、あの人もいいところはあるからね」

と気を取り直したように言うのだ。いつでも大抵、話を聞いたわたしのほうが激怒してしまう。やり返してこいと言うわたしと、だからあの人にもいいところはあるんだという夫のあいだで、なぜか口論になる。
 わたしはすっかり忘れていて、後年、夫に言われて、

「あ? そんなこともあった、ような気がしなくもない」

と思ったことがある。

夫が、あるネットの掲示板に書き込みをした。それに絡んできた男がいて、わたしのほうが例によって例のごとく激怒した。身元は明かさなくていいのだが、コテハンを使う掲示板だった。わたしはその掲示板に乗り込んでいって、夫に絡んできた男を罵倒しまくった、らしい。わたしにはそんなことは日常茶飯事なので、なにをどう書き込んだのかはすっかり忘れたのだが、夫によると、相手の男は最後に、

「やめてください。もういちいち反論していたら気が狂いそうです」

と降参して、掲示板から消えたらしい。そもそも、夫の「放射能食って、死んじまえ!」というのも、罵倒したり呪ったりするのが日常茶飯事のわたしにとっては、「まったく、全然なってないな」なのである。もちろん、世の中にはわたし以上に悪意を腹の底に貯めて生きていて、なおかつ悪魔的に頭のいい人間というのはいるので、わたしですら全然なってないレベルなのだが、もう少し言いようがあるというものだ。

「放射能食って、死んじまえ」

 なってない。罵倒するにしても、呪うにしても、この人は全然駄目だ。
 例えば、ローレックスをつけているビジネスマンになりたての大学の先輩がいたとしよう。もともと気に入らない奴だと思っていたとしよう。そんなときは、

「あ、先輩、ローレックスしてるんですね。へー。でもこれ、価格帯がかなり低いのですよね。なんか無理して頑張っちゃってる感じがして微妙かもぉ」

と、哀れむような目をして言ったあと、

「あ! そういえば××先輩はタグホイヤーだった。価格帯はローレックスより低いけど、かえって物の本当の価値が解ってる人に見えるっていうか。ああいうほうが、さりげなくて、都会的で格好いいように女は感じちゃうんですよね。そうそう、先輩もタグホイヤーに変えたらどうですか? ねっ、そのほうがいいですよ。先輩だったらタグホイヤーぐらい買えますでしょ?」

と、明るく、さも親切心で言ってるようなふりをする、とか。


 要は、嫌味、罵倒、呪う、その全てに関しては、内容はどうだっていいのだ。ポイントは、いかに相手に、具体的に嫌なイメージを喚起させるか、である。ちなみにわたしは、一目でローレックスの価格帯を見抜く目など、ない。
だがあれには特注品とかもあったりして、青天井の世界であったりするぐらいは、知っている。
そのへんの知識をまずきっかけ作りに用いて、可能な限り、「女の目から見てダサく映る自分」のイメージを喚起させるよう、言葉を選ぶのだ。頭の鈍いわたしですら、この程度にはやれるというのに、「放射能食って、死んじまえ」。これでどういうイメージが喚起できるというのか。

呪うにしても、これではまったく、自分もすっきりしない。わたしだったらせめて、

「原発で働いていて白血病で亡くなり、労災認定降りた人がいるんだけどさあ。年間被曝量はたったの5mシーベルトだったんだよねえ。ここに居たら年間どのぐらい被曝すんのかなあ。しかも通常運転中の原発って内部被曝を可能な限り避けられるよう徹底して塵や埃を掃除するよう管理されてるっていうのに。ここじゃその辺に放射性の塵も埃も舞ってるわけでさ。ちなみにその労災認定降りた人、二年間、苦しみにのた打ち回ったあげく、最後は唇がアイスクリームのように溶けてしまったんだって」

という程度には、呪う。
 夫の、精一杯吐き出した呪いの言葉はとても「なってない」ものではあるが、わたしは恐怖した。この人の心が、他者からの理不尽な悪意の言葉の暴力で、壊れる。とっさにそう感じた。

 怖いなどというレベルではない。あきらかな、恐怖だった。
 しばらく経ってから、ようやく気づいた。

 家のなかで威張っているのは確かにわたしなのだが、わたしは夫を心のなかで、本当に密かに、敬意を抱いていたのだ。他人を許そうとする努力。わたしに最も欠けているもの。人を愛せる力。わたしが尊く感じているもの。そしてなにより、無欲なこと。わたしが最も、美しいと感じているもの。
 その心が、壊れて、わたしのように汚れる。
 それをわたしは恐怖したのだ。
 夫がいたから、わたしは平気で人を憎めた。夫がいたから、平気で愛する努力を怠れた。夫がいたから、平気で強欲でいられた。

 ある人が言った。自分の善の部分を、身近な人間に預けて済ませてしまう人がいる、と。




 悪は悪で、極めることは難しい。




それは自分の善の部分を、切り捨てる潔さと覚悟、そして人間ならではの苦悩がある。可能ならば、人はだれしも少しは善でありたいという願望はある。悪党になりきるには、自分自身との徹底した対話もいる。そして極めれば、そこには孤独がある。自分と同じ視点で世間を見抜ける者のいない孤独だ。

 善も難しい。善を極めた者はいない。だがそれを目指すことは苦痛の連続だ。愛と赦し。己の心の痛みを耐え、乗り越えていく絶え間ない努力。

 一番簡単なのは、小悪党であることだ。たやすいことだけ善でいて、安直な善意で自分を善人だと思い込み、そのくせして肝心なときには他人を犠牲にしても保身に走り、損得勘定にだけは長け、本気で人を愛したりしない。これほど楽な道はない。

 わたしは、集落の人にいくら罵倒されようが、たいして堪えもしなかった。言葉の暴力で殴りたい奴もいるだろうと予想して、殴りたい奴には殴らせてやれとそれなりの心積もりでやってきたというのもある。だがそれ以上に、相手を平然と軽蔑したのだ。小悪党は救いようがねえな、ああ卑しい、卑しいと、腹の底で笑っていた。

 そもそも彼ら、彼女らの卑しさに気づいたのは、わたし自身のなかに、卑しさがあったからなのだ。人は、自分と似た者の臭いには敏感なものだ。


 かつてこんなことがあった。

 わたしはある時期、上野カトリック教会に週に一度通っていた。別段、クリスチャンであったわけではない。場所だけ借りて集会を行わせてもらっていたのだが、公共施設の集会室というのは、価格がそれなりなのである。ところがカトリック教会というのは、集会に部屋を使わせてもらうのにお幾ら必要でしょうかと尋ねると、神父様が微笑み、「お志で結構ですよ」と言うのである。仲間のなかには、これに打たれて、クリスチャンになった者もいた。すると上野の神父様は言ったという。

「お待ちしていましたよ」

 わたしたちに対する布教の類は、一切なかったのである。ただ、彼は待っていたのだ。その日を、待っていたのだ。
 かなわない、と思った。やられた、完全に一枚上手だ。
 やばい、絶対にクリスチャンになんぞならんとも思った。ちょっと心が揺らいだせいで、余計にそう思った。嫌なの、わたしは「神の意思を知り、それだけを行っていく力を求める」なんていうのは。あきらかに大変じゃん。「疲れたものよ、休ませてあげよう」。言うなよ、ちょっと休んじゃいたくなるじゃん。だけど戦い続けてないと負けちゃうじゃん。わたしは小悪党でいるのが楽なんだからほっといてくれ。


 そんな仲間のなかに、たかり癖がある奴がいた。
 なにかというと、主にわたしに、たかるのである。あるとき緊急の事情が発生して、わたしは彼女に急場を救ってもらった。ちょっとした物を貰ったのだが、その市販価格はどう多く見積もっても

「二百円」

なのである。しかしわたしは彼女に感謝したので、「食事でもご馳走するよ」と言った。まあ、常識的に考えて、八百円ぐらいではなかろうか、そんな場合は。違うかな? しかし彼女は真剣に店を選び始めた。そして回転飲茶という店を選んだ。飲茶が、回転寿司のようにベルトコンベアで巡ってくるのである。
 最初は思った。わたしに遠慮して、一皿、二皿食べて終わりにしちゃうつもりなのかな、と。
 
ところが違った。

飲茶の皿は山積みになり、結果的に、彼女の分だけで






五千円を支払うはめになった。






ありえないだろ!

 お茶してもそうだった。勘定のボードを取らないのでわたしが手にする。会計を済ます。すると外で言う。



「ご馳走様!」




おい、待て、同年代の女同士でお茶をしたら、普通割り勘だろ!
 
あとになって彼女が

「山崎さんはお金に汚い」

と陰口を叩いていたと知ったときは、

「どの口が言うか、この口か、この口か」

と口に右手と左手の人差し指を突っ込み、両側に引っ張ってやりたくなった。
まあ、彼女の過去を考えると、「しょうがないなあ」と思わなくもないので、いいんだけどね。



 ま、それはいい。で、その教会で集会をしていたときのことだ。突然、少し年配の女性と、若い娘さんが飛び込んできた。何事ぞ。

「わたしたち、阪神大震災の被災者の親子なんです! 今夜泊まるところもないんです」

 なに? 教会に泊まりたいわけ? そりゃあ困ったな。
 というのも、わたしたちは教会の鍵は預からせてもらっていたのだが、神父様がちょうどなんらかの用事があり、不在だったのである。これは悲しいことなんだけれども、開けっ放しにしておくと上野にいるホームレスの人たちが教会のあれこれを盗んで行ってしまうそうで。

 上野カトリック教会はどうも財政的に苦しいようで(それは壊れたままのエアコンでも推察がついた)、しかも信者のためにスロープをつけないといけないという状況にあった。
 そんなときにしょっちゅう高いマリア像とか盗まれると、やはり教会といえども困ってしまうんだろうなと思う。想像だけど。わたしはカトリックの理念を理解しているとはいえないけれど、やっぱり理念と現実のあいだにはどうしても乖離が生じるのは致し方ないことだよねと思う。

 つまり、わたしたちは、この親子を追い出し、教会の鍵を閉めなくてはならないんである。
 困ったなあと思った。で、説明した。神父様が不在なので、わたしたちにはなんの権限もないのだと。すると責め立てられた。


「あなたがたはクリスチャンじゃないんですか? わたしたち、本当に困っているんです。今夜泊まるお金もないんです、女二人なのにっ」


 みんなで顔を見合わせた。
 どうすべいか。ていうか、みんなクリスチャンじゃないし、おまけに貧乏人揃いなんですが。


仲間の一人なんて、水道すらも止められて、ウンコ流せなくて困ってんですが。


 しかし困っている人は、ちょっとは助けないとなあ。そこで尋ねた。いくらご用立てすればいいのか、一応お伺いします、と。するとその親子は、

「一万五千円ほど」

と言うのである。人のいい仲間が言った。

「ああ。関西からいらしたからご存知ないかもしれませんが、東京にも、もっと安く泊まれるホテルがありますよ」

 しかしその親子は、なぜか耳を貸さない。一万五千円と言い張ってきかないのである。その日、集会に参加していた仲間は、五人だった。一人当たり三千円。無理。

 後に聞いたところによると、ウンコも流せなくて困っている仲間が、それでも頑張って「なか卯」で二人に食事をご馳走し、自分の部屋に泊めてあげると申し出たらしい。トイレが汚いけど我慢してくれと言って。すると娘は新宿駅で、「もう電池切れ。タクシーに乗りたい」と言い出したっていうんである。

「お金がないです。電車で行きましょう」

 ふてくされてついてくる親子。そればかりか彼女たちは仲間の部屋に着くと、五畳半の部屋は狭いの風呂がついてないと文句を言った挙句、ふたりで当然のごとくベッドを占領しようとしたというのである。普通、客のほうが遠慮すんだろ! ついに怒鳴ってしまいそうになった仲間は、必死に怒りをこらえ、とにかくこの二人に出て行ってもらいたいと思い、なけなしの三千円を渡して出て行ってもらったらしい。
 その後、仲間はモヤシとご飯だけで一週間を過ごさなければならなかった。週払いの派遣社員の、悲惨の極みである。
 一週間後、たかり癖のある例の仲間が、


「あの親子、わたしたちに、たかろうとしてただけですよ!」

と激怒した。
「そもそもおかしいですよ。阪神大震災からもう何年経ってると思います? 七年ですよ、七年。おまけに、あの服、どっちも上等なものでしたよ。クリスチャンってお金持ち多いじゃないですか。だか
らわたしたちにたかれるって踏んだんですよ」


 おお! なるほど。それ、鋭い考察。四谷のイグナチオなんてベンツだBMWだ、ずらっと外車が並んでるもんなあ。
 それと同時にこうも思った。

「たかり癖のある人間は、他人がたかろうとしているのを見抜く」
「つまり人は、自分と同じ心理の人間の心理に敏感である」。

 夫には、卑しさがなかった。だから真っ向からの卑しさに、傷ついた。理解不可能な言葉の暴力に、心を殴られっぱなしになった。

 わたしは卑しいから、卑しさを見抜いた。自分が卑しいからこそ、他人の卑しさを、嘲笑えた。お前ら、なんだかんだ理由をつけているけど、要するに嫉ましいんだよな、と嘲笑えた。ここから出て行けるのを、嫉んでいるんだよな、と嘲笑えた。

 もう少し言わせて貰えば、わたしたちと同じことを、この人たちが本当にできなかったかというと、そうでもないと思うのである。何故なら、みな、非常に裕福そうな、立派な家々の立ち並ぶ集落だったからだ。

 わたしたちは、全てを捨てる覚悟をした。

 先の展望などありはしなかった。
 しかし命だけ。持って行くのは、命だけでよいと、腹を決めたのだ。
 だがこの人たちは? 捨てたくなかったのだ、なにもかも、捨てたくなかったのだ。家も、土地も、いまの経済的基盤も、捨てたくなかったのだ。

 はっきり言わせてもらおう。目先の欲を選んだのだ。

 それが解るのは、わたしが、いつも目先の欲に振り回されてきたからだ。

 夫がこれまで、卑しさに出会わなかったとは思わない。だが、いつも夫は、卑しさを前にするたび、理解できずにただ戸惑っていただけなのだ。だから圧倒的な卑しさを前にして、打ちのめされている。人の悪意だけを叩きつけられ、心を防御できずにいた。心を殴られっぱなしになった。
 わたしが密かに尊ぶ、美しいものが壊れてしまう。

 外でわたしが薄汚いあれやこれやをして、くたびれて、不貞腐れて、だけど帰ればこの人がいた。この人が無欲だから、わたしは平気で強欲になれた。働くっていうのはな、人から搾取してナンボなんだよと思っていた。人を騙くらかして、巻き上げて、ナンボなんだよと思っていた。搾取されっぱなしの夫に苛立ちながら、もっとうまく立ち回れよと叱り飛ばしながら、この人といることをわたしの免罪符にしていたのだ。

 わたしは夫から養って貰ったことはない。

 なんだろう、わたしは気合の入ったフェミニストなんかいな、しかしそこまでプライド高くもなれないけどねえと不思議に思っていたりした。夫がボーナスを貰うと、嬉しそうに全額買い物やわたしとの旅行代(これは割り勘)に使ってしまうのを、苦笑しながら見守っていた。「自分で稼いだ金なんだから、自分が自由に使えばいいのさ」。そしてちょっと鼻にかけていた。「ま、少しばかりは甲斐性がある女と一緒だったおかげで、ちったあ助かったろう」。

 だが事実は逆なのだ。

 本当の意味で助けられていたのは、わたしのほうなのだ。

 もしもわたしが仮に洗礼を受けて、クリスチャンもどきになったとして、教会に寄付をしようとしたとすると、そのときの心理というのは、こうだろうと思う。


「汚く稼いできちゃったけど、神に少しは捧げますから、お目こぼしを」


 それでちょっと自分が善人になれたような気分になって、また翌日から平気で悪行三昧を重ねるのである。
 人を愛する努力を平然と怠ってきたから、こんなときにどう言葉をかければいいのかも、知らない。心底、自分が情けなかった。
 しばらくふたりとも無言でいたのだが、ふいに夫がわたしに気遣った。

「マキちゃん、辛かったでしょう。ごめんね」

 とっさに切り替えした。

「なに謝ってんの? 馬鹿だねー。わたしはあんなの平気ですよ」

 実際、平気だ。

「無理してない?」

「してない」

 それから、真剣に言葉を紡いだ。


「あのさあ、突然関係ない話をするんだが。たしかあれはロシアの物語だったと思うんだ。
極寒のロシアで、ある老夫婦の住む民家に、兵隊たちがやってきて、どういう理由だったか忘れたけど、その老夫婦を零下何十度という野外へ追い出すのね。
 外は猛烈に雪が吹き荒れていて。普通だったら、老夫婦揃って、兵隊たちに呪いの言葉を吐きながら、恨みのなかで死んでいくはずじゃない。
 だけどね、その話は違うの。
老いた夫は妻に、『お前、寒くはないかい?』と、ほとんど剥ぎ取られた自分の衣類を奥さんに着せようとするんだよ。
すると妻は、『あなたこそ寒いでしょう』とね、自分の衣類をね……。
わたしはその奥さんのようには振舞えないと思う。一人一殺とばかり、逆上して兵隊を殺しにかかると思うな。
だけどね――あなたはそうしてくれると思う。わたしの寒さを気遣ってくれると解る。どれほど自分が凍えようとも。わたしはね、世界中のどの女よりも誰よりも恵まれてるんですよ。だから、彼らが何を言おうと、平気なのさ」








 夫がそっとわたしの腿に手を置いた。
 それを強く、握り返した。


時事音痴/栃木行 その5

 更新のあいまに、一郎さんのことを思い出していた。

 集落でいちばん物静かで、そして農業に真剣だった一郎さんについてだ。

一郎さんの畑のひとつはわたしたちの家の境界線のむこうにあった。一郎さんはその畑で淡々と作業に励んでいた。一郎さんの白い軽トラックが去っていくのを見て、わたしはたびたび夕暮れに気づいた。

 ああ、一郎さんが、今日もその務めを終えて帰っていく。

 一郎さんは、往年の映画俳優だと言われたら信じてしまうような整った風貌の男性だった。

白髪交じりの髪の毛も、年齢なりに下がった口角も、むしろ魅力になっていた。一郎さんの奥さんはロシアの民芸人形、マトリョーシュカのような女性で、初めて一郎さんと奥さんが一緒にいるのを目撃したときは、正直、違和感を抱いた。だがやがてその理由を察した。

 わたしはよくパーコレーターでコーヒーをわかして庭に出た。

一郎さんの姿を見かけると、コーヒーを飲みませんかと声をかけた。
こちらは素人だから、作業の邪魔になっているかなっていないかの判断がつかなかったのだが、一郎さんはその時の状況に応じて、誘いを断ったり、受けたりしてくれた。
 おかげで気軽に声をかけられた。断れない人だったら、こちらとしても声がかけにくい。
人の好意というのは、案外、上手に受け取るのが難しいものだが、一郎さんはごく自然に受け取れる資質を備えていた。

 一郎さんは、とても美味しそうにコーヒーを飲む人だった。無口な人なので、コーヒーの味についてなんて語りはしなかったけど、一杯のコーヒーを楽しんでいる様子が伝わってくるので、わたしも静かな時を過ごせた。

 そんなことがあると、後日、必ず奥さんが満面の笑みを浮かべてわたしにお礼を言った。
 
「このあいだは、お父さんがお世話になって」。

一郎さんの奥さんは、自分になにかしてもらうよりも、夫である一郎さんが大事にされることのほうを喜ぶような女性なのだなと、次第に理解した。
 わたしは奥さんにお礼を言われるたび、一郎さんがその日の出来事を奥さんに伝えていることと、そして一郎さんにとってわずかでも良いことがあると、それを嬉しく思う奥さんがいることを、知った。


 
かつて、父がわたしに伝えようとした言葉を思い出した。



「なあ、俺は、本当に偉い人っていうのは、歴史上の人物だったりしないんじゃないかと思うんだ。本当に偉い人というのは、市井にいて、だれに認められなくても、だれに知られなくても、静かに自分の役割を果たして生涯を終えるんじゃないかなあ」


 そのころわたしは司馬遼太郎に夢中で、『坂の上の雲』を通読したりとかして、ご他聞に漏れず、秋山兄弟に入れ込んでいた。
父もわたしの影響で司馬遼太郎の本を片っ端から読んでいた時期だったのだが、途中でなにか考えるところがあったようで、こんな言葉を紡いだのだ。
 そのときは自分が夢中になっている対象を否定されたような気がして不快だったのだが、それでもなにか考えさせられるものがあったらしい。

 生きていくうえで何がいちばん真剣に追い求めるべきものなのか。

 世間の尺度ではなく、自分の基準で、はからなければならない何か。それがこの世には存在しているのではないか。父がわたしに遺したのは、そんな問いかけだったように思う。
 あの日、最初に栃木の家を訪れてくれたのは一郎さんだった。あとでよくよく振り返ってみると、一郎さんはわたしたちが戻ってきたのに気づいたときに、ある種の危機感を抱いて駆けつけてくれたのだろうと思えた。

 わたしは、どうして一郎さんがわたしたちを庇ってくれたのか、とても不思議に感じていた。
 一郎さんの人柄の良さは重々承知しているし、確かに庭で一緒にコーヒーを飲んだりもした。だがそれだけで全てを説明するには、わたしたちと一郎さんの接点がなさすぎた。そもそも、わたしたちは、あの集落に半年ほども暮らせなかったのだから。
 ぼんやり振り返っているうちに、あの三月の混乱のさなかの断片的な記憶の映像がふいによみがえってきた。

 海苔だ。たぶんそうだ。あの韓国海苔だ。

 そうか、一郎さんは、あの韓国海苔のことを憶えていてくれたのか。
 たったそれだけのために。


 2011年3月15日、福島第一原発三号機の爆発を知ったわたしは、決断した。
 夫を、逃がさなければ。


 当初、わたしは政府が避難範囲を次第に拡大していくのだろうと想像していた。だからわたしは行政の指示があったら、それに従おうと思っていた。しかしこの国が原発事故に際して選択した(そう、不可抗力ではない。これは、国の意思が働いている)方針は、常にわたしの予想の斜め上を行った。

 一向に拡大されない避難範囲。

 福島県民は棄民された、と感じた瞬間だ。
 もう待っていられない。フォールアウトにむざむざ晒されている暇はない。
 西に走ろうとしてキャンプ道具と通帳や印鑑など、最低限の荷物を車に詰め込み、家を出ようとしたときに、夫がふいに言い出したのだ。

「一郎さんにだけは挨拶していこう。俺たちは家を空けるって」

 信末さんの紹介で一郎さんと知り合ったという経緯もあったのだが、なにより、近隣の人のなかで、わたしたちが頼りにしていたのが一郎さんだったんだろうと思う。
 具体的になにかしてもらうというより、精神的な支えという意味で。

 連続する原発の爆発。どこまで被害が拡大するかなんて、まったく見えない。
ここに帰ってこれるかどうかも怪しい見通しだとわたしは感じていた。
 この事態に危機感がなかった人から見ると、なにを発狂しているのだと思われそうだが、残念ながら、わたしはこの事態を甘くはみていない。とても、残念なことに。民主党元代表の小沢一郎の「福島の分は日本の領土から減った」、「ここまま行けば東京は人が住めなくなる」という発言は、わたしは事実だと思う。彼は、とてもリアリストだ。ただ事実をみつめて、発言しているだけだと思う。多くの人間が差し迫る危機から目を逸らそうとしているなかで、彼はただ、リアリストとして発言したのだと思う。

 わたしはこのまま別れになる可能性があることを、夫の言葉で気づかされた。

「そうだね、一郎さんにだけは挨拶していこう」

 いずれ一郎さんから、信末さんにも伝えてもらえるだろうと思った。わたしは逃げると決めたとたんに、ありありとした恐怖に晒されていた。

 あとで夫から、

「3.11のあと、マキちゃんが毎日ちゃんと寝てたから、どうして眠れるんだって驚いてた」

と言われたのだが、寝てないといざというときに体力が持たないと考えていたからである。恐怖に関しても、いま感じてはまずいと察していたからである。自分の体験から考えるに、人は正しい情報さえあれば、意外とパニックをコントロールできるものである。わたしのような凡人でさえ、だ。
 一刻を争うような緊張感のなかで、わたしたちは一郎さんの家に立ち寄った。広い門扉を走りぬけ、エンジンをかけっぱなしで停車した。
 一郎さんの家はいつも施錠していないので、引き戸をあけて、

「すいません! 山崎です」

と声を張り上げた。奥さんが現れ、それに続いて一郎さんが現れた。
 あとで考えてみると、一郎さんも奥さんもこの時期、農作業をやめて、伝えられるニュースに見入っていたのだと解る。あのときは、午後三時ごろであったはずなのだ。
 そこで、一郎さんと奥さんに、何をどのように話をしたのかが、記憶から欠落している。ただ、ありありと記憶に残っているのは、廊下のむこうからあどけない顔の一郎さんのお孫さんが玄関にむかって歩いてきたことだ。

 はっとした。

 まだ幼い子供が、放射性プルームにむざむざと晒される。ヨウ素剤はこれから行政によって配られるだろうか? この流れでは、大いに疑問だ。

わたしが記憶していたことが正しければ、チェルノブイリでは4、5年後に、甲状腺がんが多発した。
確かに甲状腺がんは生存率の高い病だとはいえ、一生、ホルモン剤の服用を余儀なくされるのだ。
 甲状腺がんなんてたいしたことないという主張は、「足を切られても、命は助かったのだから平気でしょう?」と言うのと、まったく変わらない。

 わたしは一号機の爆発のあと、韓国海苔を買い求めた。非常に気がとがめた。これは幼い子供に食べさせるものだと。
しかし、自分は食べなくても、夫に食べさせたかった。幸い、夫は、海苔をよく食べる人だった。お菓子のように、海苔をぱくぱく食べる。舅はよく心配していた。
「甲状腺に異常が出そうなほど食べる」
と。

 夫はわたしが韓国海苔を炬燵の上においておくと、別になんの疑問もなく、勝手にパッケージをあけて食べていた。
 夫はチェルノブイリとかにまったく興味がなかった人なので、わたしの意図には気づいていなかった。よくわからず、口寂しいから食べている。
 説明するとかえって食べなくなるような人だと判断していたので、なにも告げなかった。
その海苔のストックが、車に積んであるのだ。道々、夫に食べさせようと思って積んできたのだ。

 わたしは慌てて玄関から飛び出し、車に戻って韓国海苔のパックを手にした。そして一郎さんのお孫さんに手渡した。


「僕、ね、これからね、この海苔を食べて。あのね、これね、将来病気にならないようにするためのものなの。好きじゃなくても、食べて」


 お孫さんは、受け取ったものに不満げだった。普通、お菓子とかくれるのに、なんで海苔なんだ、という顔だった。
 それはそうだ。子供がこんなおかしな事態に巻き込まれるほうが、あってはならないことなのだ。
 華奢な子供の両腕を、無意識に両手でつかんで、

「ね、僕、食べて。お願いだからね。おいしくなくても、食べてね」

と頼んだ。わたしの視界の端に、わたしの必死さに、おぼろげながら動揺を感じ始めた一郎さんの表情があった。





 ここで記憶は途切れている。





 無闇に人の不安を煽るな、というのは、原発事故以降、わたしにしばしば投げかけられた言葉だ。わたしのこのときの行動を、批判する人がいることも承知している。

 しかしわたしが不思議なのは、津波の危険性については、「住んでいたことがそもそもの過ちで、とっくに高台に移転しておくべきだった」という意見はすんなり通っても、放射性障害のリスクを可能な限り避けようという呼びかけは、「感情論」だとして退けられる。どちらも本質としてはリスク回避であるのに、どうして片方だけが感情論と言われてしまうのかが、わたしには理解に苦しむ部分だ。「そんなことを言い出したら、車にも飛行機にも乗れない、一生引きこもっていろ」と、言う人は言う。しかしそれならば、津波も地震の対策も、しないほうがいいのである。どうせ人は死ぬときは死ぬという論調でいえば、である。





 久しぶりに再会した一郎さんは、とても悲しげな目をしていた。


 わたしたちは一郎さんが、わたしたちが家に着くなりに訪ねてきてくれたことにとても驚いていたのだが、一郎さんの側はどうも違っていたようだ。この感覚はうまく伝えにくいのだが、幾度か自分のなかでシミュレーションしていたような感じ、というか。わたしたちが戻ってきたことに驚きはなく、ただ、予期していた日が訪れた、というような。
 お久しぶりですという挨拶を交わす間もなく、一郎さんがうつむいてボソッと告げた。


「夏のあいだに、一度、草は刈ったんだけどね……」


 意味がよく解らなかった。やがて、一郎さんが、わたしたちの家の庭の雑草を刈ってくれたということが判明した。

 わたしは栃木の家に越してきた当初のことを憶えている。
 競売物件だったこの家は荒れ果てていて、内装のリフォームが必要だったのは無論のことなのだが、庭も荒れ果てていた。庭を歩くと、チクチクとする植物の種子が、足回りに沢山ついた。わたしは庭の手入れを楽しむような感覚は持ち合わせておらず、腹が立ってならなかった。もともと庭に関しては夫とかなり意見が対立していた。夫は、「お庭が大好き」と言う
 マンション住まいだったころにしょっちゅう夫に言われてむかっ腹が立った言葉に、「このおうちにはお庭がない」というのがある。

 姑はわたしと大変対照的で、優しく、たおやかな女性である。
 縁側で庭を眺め、季節の移り変わりを楽しむのである。そういう姿を見て育っているから、夫はごく自然に、庭を愛する心を持ち合わせたのだと思う。一方のわたしの母親といえば、隣の家が空き家になったとき、「隣の土地は借金してでも買えっていうのよ!」と言い出したのはまあしかたないし、空き家を解体したのも目を瞑るとしても、もともとの持ち主がとても愛していた薔薇の木々を、業者に依頼して全部なぎ払い、あろうことか井戸まで潰し、駐車場にしてしまったのである。これはさすがのわたしですら、いかがなものかと思った。井戸を埋めると不吉に見舞われるという言い伝えがあるが、わたしは母に不幸があるたびに、

「井戸を埋めたせいなんじゃ……」

と思ってしまう。しかし確かにわたしは母と親子で、庭なんて邪魔なだけなんだよと思う。
 で、越してきた当初、激怒しながら庭の雑草をむしったのである。
 これから庭にどれだけの労力を奪われるのかと思うと、非生産性なことこの上ないよと激怒した。
 それはまあいいのだが、どうして一郎さんがわざわざわたしたちの家の庭の雑草を刈ってくれたのか? 本当に意味がよく解らなかった。

 とにかく上がってください、なにもないけど、というようなことを、一郎さんに伝えたように思う。一郎さんとわたしたちのあいだに特に会話がないのに、一郎さんは玄関から去らなかったからである。むろん、丁重にお礼は述べたのだが、わたしも夫も、まったく状況が把握できなかった。密かに夫と顔を見交わしては、困惑していた。

 その後に起こったことは、わたしたちが地方における暮らしというのにかなり無知であったことを差っぴいても、明らかに異様だった。

 それをここで再現するのが、とても気が重い。
 おかげでわたしは、ディスプレイを眺めながら、延々とため息をついている。
 どうしても細かに再現する気になれないので、要点だけ書くと、このあと、わらわらと集落の人たちがわたしたちの元を訪れ、わたしたちに罵詈雑言を浴びせかけたのである。草をはやしっぱなしにしているから虫が飛んできたとか、街路樹のせいで畑が陰になったとか、激怒して言葉を選ばず罵倒してきたのだが、もともとはこの家が競売物件で、しばらく空き家で、わたしたちが越してきた当初にそうとう手を入れたことを考えると、相手の言い分の正当性にわたしは疑問を抱かざるを得ない。

 一郎さんが、とても悲しそうな目で、集落の人たちを見つめた。無言のまま。するとようやく、相手は気まずそうに押し黙る。そんなことの繰り返しだった。


 一郎さんは、わたしたちを庇うためにここにとどまっていたのだ。


 そんなことを察した。

 おそらくは集落での行事があるたびに、わたしたちへの周囲の怒りが燃え上がっていたんだろうと思う。

 これは悲しいかな福島でもしばしば見受けられることのようだが、原発の推進役であった経産省や、その配下にあった東電に怒りを燃やす以前に、留まらなかった者に怒りをぶつけてしまうのである。身近であるというだけの理由で。そしてそれはまた、不思議なことなのだが、集落の機能を維持しようとか、地域の農業を守っていこうとか、そういう意識が薄かった人のほうが、そうであるのだ。


 突然、手のひらを返したように、郷土愛をわめきたてる。
 それは寒々しい光景だ。
 それぞれが、沈没していく船から、逃げ出さないように相互監視しているのである。恨みの眼差しで。


 3.11からちょうど1年経った日に、友人が言った。

「人間の醜さを見せつけられることに疲れた1年だった」

と。まさにそうなのである。テレビでは復興における人間同士のつながりの美しさばかりが強調されるが、綺麗事過ぎて、わたしにはついていけない。馬脚を現すという言葉があるけれども、わたしはこの故事ことわざの意味は知っていても具体的なイメージがわかないので、自分なりにこの感覚を説明すると、津波で海の底に溜まっていたものが一気に波の勢いで浚われ、地上にぶちまけられて、あらわになった塩化ビニールのごみの山、というか。ああ、この人の腹のなかには、こんな産廃が溜まっていたのか、という。薄々は感じてはいたのだけれども、やはり、という感じだ。



 一郎さんは、ただ、たたずんでいた。
 悲しげな眼差しで。



 わたしは罵倒されている自分たち以上に、孤独を感じているのは一郎さんなのではないかと思った。この醜さを見て、なにを感じ、どう思うのか。気が重たかった。
 なかにひとり、あまりにもヒートアップしている人物がいて、その人物に対して、

「おい、おまえ、さすがに言葉を選べよ」

というように押さえにまわった人もいたのだが、むしろそれが怒りの炎に油を注ぐといった調子で、どれだけ吼えても、吼えたりない様子だった。

 事実はとてもシンプルだ。
 四十代の夫婦が、1年弱、家を空けた。
 これだけである。

 果たして、これが仕事の都合だったとしたら、ここまで糾弾されただろうか?
 わたしにはとても疑問だ。


時事音痴/栃木行 その4

 昨年の九月ぐらいから、わたしはちょくちょく、なんらかの理由で病院にかかっている。


 わたしはこのサイトが、「The Issue for Japan」であるのを幸運だと感じている。海外からのアクセスも少なくない。

(校正者注:当時、文芸春秋の『山崎マキコの時事音痴』と言うタイトルでWEB連載されていた。其れの書き起こしである)

 わたし自身のコンテンツは他国の人の目に触れることはないかもしれないが、可能性がまったくないとは言えない。
 インターネットという文化は、玉石混交であるにせよ、ある種の人類の知的財産となり得ると考えている。わたしの書いたものはとても知的財産とは言えないのだが、なんらかの記録になるかもしれないので、3.11以降の体調不良について記しておこうかと思う。



 まず、福島県相馬市松川浦のボランティアに行ったあとに起こった奇妙な「怪我」のようなもの。
  
 なお、相馬市は、福島第一原発から北北西、約42Kmあたりに位置する「浜通り」の漁業の町である。原発は立地していない自治体だ。なお、空間線量自体は3月12日時点で0.16μSv/hと、さほど高くはない。(しかしこれはまだ推測の域を出ないと言われたらそれまでなのだが、あのあたりはどうもおかしい。よければ南相馬市の大山こういち市議会議員のブログを検索してみて欲しい。通称「黒い粉」と呼ばれる物質に、わたしは強い疑惑を抱いている。

 神戸大の山内知也教授に測定を依頼したところこの「黒い粉」は、1kg当たり約108万ベクレルというとんでもない値の放射性セシウムが検出された。
 
 共同通信などがネットでニュースを報じているので、ソースに疑念を持つ人は確認するといい。ちなみに、この「黒い粉」が当たり前のように通学路のそこここに存在しているというのに、南相馬では学校が再開されている)。

 ボランティアに行ってから数日経つと、左足の、ちょうど靴下で隠れるあたりに、タバコを押し付けたような大きさに、針でつついたような虫刺されのような赤い痕が集合して出来た。あきらかに「蚊」ではない。最初は「ツツガムシ」を疑った。やがて膨らみ、皮が剥けた。これからどうなるのだろうと思って観察していた。皮膚はなかなか再生せずに、生傷のままで、靴下に血がつく状態が1カ月半から2カ月ほどは続いたように記憶している。

 やがて、皮膚が再生した。

 しかし表皮ではなく、真皮のあたりで、茶色い薄い皮膚だった。だからわたしの左足の脛には、二箇所、タバコを押し付けたぐらいの大きさで、凹んだところがある。

 九月から十月にかけては、二度の膀胱炎と二度の風邪による発熱。

 いずれも抗生剤の投与で治癒。この時期に、コンビニで気分が悪くなり、気絶して転倒。頭を強く打つ。
 店内が騒然として、救急車で運ばれる。(頭部のCTを受けたが、幸い、なんともなかった)。

 十一月あたりから年末ごろまで頻尿で悩まされる。
 
 加齢によるものだろうと受け止めていたが、気がつくと収まっていた。また、頻繁な頭痛。非ピリン系の市販薬、「セデス・ハイ」に頼っていたが、やがて耐えられなくなり、第一種医薬品(市販薬だが、薬剤師が対面で販売しないとならない医薬品)の「ロキソニンS」に切り替える(最近までは、市販されていなかった処方薬だった)。余談だが、高知のドラッグ・ストアは医薬部外品しか取り扱わないので(どうも、薬剤師を雇うだけ儲からないようだ。薬剤師の時給は高知感覚では、とても高い)、入手に困る。

 年始、道路標識がぼやけて目を凝らさないと見えなくなっているのに驚く。視力の低下に薄々気づいたのだが、実は検査していない。

 一月、高知赤十字病院でうずらの卵ほどの大きさのポリープをふたつ、処置してもらう。
 
 病理にまわされる(要するに、良性か悪性かの検査)。これはちょっと困った事態になった。えげつない話で大変申し訳ないのだが、ポリープの処置は、麻酔を用いないと知る。
 
 けっこうな鈍痛に襲われた。処置台から降りたとき、失禁してしまったかと驚いたが、これは出血だった。これでいいのだろうかと若干、不安に陥ったのだが、担当医からも出血があるとは聞いていたし

「翌日も出血がとまらないようなら電話をして、来院するように」

と言われたので、こんなものなのだろうと自分に言い聞かせて診察室を出た。しかし明らかに出血が激しいので、父を看取ったときの経験から、老人介護用の「尿取りオムツ」を売店で買い求めた。3回分、吸えるというものだった。痛み止めは処方されなかったので、ロキソニンに頼り、帰宅。帰宅すると出血が漏れていたので、慌ててオムツを取り替え、着替える。横たわっていたのだが、頻繁にオムツの取替えが必要となり、なにかがおかしいと感じ始める。夜間、明らかに出血が多すぎると判断して、高知赤十字病院へ。 

 着用していたオムツの重量を看護師の人が計り、「230gです!」と叫んでいた。そもそも何度、オムツを交換したのか、自分でも憶えていないほどなのだ。


 さすがに驚いたが、水と血液の比重は違うと心を沈める。
 
出血多量による緊急処置。
 
止血剤を含んだ脱脂綿を詰め込まれ(子宮という内臓をギュウギュウと押されるので、思わずうめいてしまった)、カテーテル挿入でストレッチから抱えあげられてベッドに移動。
 これでも出血が止まらないようなら、脊髄麻酔で傷跡を「焼く」と言われる。
 本当にかすかではあるが、女子高生コンクリート殺人事件の痛みと恐怖と苦しさを推察できた。恐怖で脳が萎縮するのも納得である。
 また、痛みで眠れない日々だっただろうと思う。痛み止めの入った点滴の効果が現れるまで、眠れなかった。
 幸い、さほど血圧が下がっていなかったので、輸血は免れた。
 ベッドに縛り付けて固定されるところだったが、絶対動かないと約束して、それも免れた。 
 憶測に過ぎないが、JCOの人は、人工呼吸器を自力で外さないように、縛られて身動きが取れなくされていた気がする。
 
退院後も「絶対安静」を言い渡され、一週間ほど横になるだけの生活を過ごす。二週間後に来院すると、今度は「卵巣嚢腫」を経過観察すると言い渡される。さすがにげんなりする。
 この時期になると、風邪で発熱しても、市販薬をバカスカ飲んで、適当にごまかして働くようになる。

 二月、高知にUターン就職した大学時代の女友達と、高知市内のホテルのラウンジでワッフルを食べていたところ、突然、差し歯が脱落。

 あまりの格好悪さに気まずくなる。デンタルクリニックで新しい差し歯を作ることになる。ついでにレントゲンで虫歯の検査。なにもないと言われる。当然だと誇らしく思う。 
 
 なにせ、一日に最低でも五、六回は歯を磨いている。そのために研磨剤が含まれていない歯磨き粉も選んでいる。第二種医薬品のアセスである。三種のハーブで歯肉炎・歯槽膿漏にも対策が講じられている。 
 ちょっと高いのが難点だが、これに勝る歯磨き粉はないと体験的に評価している。

 だがその数日後、上顎がやたらと痛くなる。歯が痛いのか、歯茎が痛いのか、判らない。 

精神的なものを疑い、耐える。しかし左顔面が痛くて、さすがのロキソニンすら効かない。これは明らかにおかしいと判断して、再びデンタル・クリニックへ。歯肉がなんらかの細菌で炎症を起こしていると診察されて、再び抗生剤を処方される。本気でうんざりしてくる。 

 三月。右顎の下から舌の裏にかけて痛くてたまらなくなる。 
 
やがて右の耳の下から顎に沿ってまで痛んでくる。しかし、どこの病院にかかったらいいのか判らず、困惑する。はたと思いついて、薬剤師のいる薬局まで遠出する。相談してみると、耳鼻咽喉科だろうと助言を貰う。耳鼻咽喉科でCTスキャン(こうもたびたびレントゲンやらCTやらで被曝すると、それだけでもDNAの自己修復機能が間に合わなくなるように思えて不気味)。舌下線炎か舌下腺癌だろうと、聞いたこともない病名を告げられる。とりあえず抗生剤が効くか試すと言われる。幸い、効果が出た。

 さらに、先週、どうしても右の上腕部が痛くて高知赤十字病院に(夜間診療になったので大変申し訳ないのだが、どうも死にっぱぐってから、妙な体調の不良に不安を感じる。緊急性があるかないのか、判別がつかないのだ)。レントゲンの結果、

「骨を折ったことはないか」

と幾度も確認される。確かに、レントゲンの画像の骨のところに、細い筋がある。しかし、まったく身に憶えがない。後日、改めて検査するということになっている。



 チェルノブイリ・エイズという言葉がある。

IAEAは甲状腺癌の増加しか認めてはいないが、確実にその事象は現地で見受けられるという。

 無論、わたしの感じているストレスも否定しないし、加齢によるものとも言えるかもしれないし、体調管理ができていないと言われても、笑って流せる。
 ただひとつ、これだけは確実に言えることだが、わたし個人に限っても、国の保険制度に大変な圧迫をかけている。今後、本格的にこうした事象が広がれば、それだけでも、米国民から羨ましがられた皆保険制度が、遠からず破綻を来たす気がしてならない。ベラルーシの財政が危機に瀕している理由は、医療費の増加と、本来なら働く世代の就労困難によるものだと聞く。

 最近、福島の母が「ピンピンコロリ地蔵」が近隣にあると耳にして、お参りに行ったと言う。苦笑するが、同時に悲しい。

 日出る国の、日没。

 それどころか、四号機が核燃料棒を無事に取り出せる前に倒壊すれば、北半球の命運すらも解らない状況。2月29日発売の週刊朝日では、原子力技術者のアーニー・ガンダーセンが、四号機の倒壊による核燃料火災という、人類史上、例のなかった大惨事に陥るという可能性を指摘している。わたしがネットで目撃した四号機の画像は、ほとんどスクラップ状態だった。東電は応急処置を施してはいるが、度重なる浜通りの余震で、コンクリートの疲労劣化が進んでいるのは明らかだ。
 
 わたしは、そして同時代を生きる人々は、黙示録に立ち会うことになるのだろうか。知恵の実を食べたために楽園から追放されたという旧約聖書の記述に、底知れない不気味さを覚える。







 さてそろそろ小山についての話を再開したい。

 信末さんのところをおいとました後、小山にいた頃にたまに訪れていた蕎麦屋に向かった。昭和30年代からあるような、小さな古びた店舗。引き戸を開けると店の真ん中に円筒状の灯油ストーブがある。隙間風が寒いので、コートを脱げない。皮手袋も、脱げない。底冷えがする。しかし出てきた蕎麦は確かに関東の味で、懐かしさに悲しくなる。
 このあたりの農家は蕎麦も生産している。道を行くと、自家製のそば粉の販売を行っている農家の登り旗をよく見かけた。だからこのあたりの蕎麦は地元のそば粉を使っている。国内産のそば粉を用いた蕎麦が食べられるのが、かつて、嬉しかった。


 なにもかも、原発が変えた。


 注文を聞き間違えたのか、夫だけでなくわたしも大盛りになっていたのだが、何も言わなかった。ここで生きていく人たちのこれからの厳しさを思うと何も言わないというより、言えない。それはこれからの時代を生きる全国民に当てはまることなのだが。とはいえ、西の現状はまだ、ましな状況なのだ。

 一杯400円の蕎麦で生計を成り立たせて、つましい暮らしをしてきたこの人たちに、なんの罪があるだろう。罪があるといえば、厳密な意味でいえば、この国の成人たちは皆、罪がある。国のエネルギー政策を問いただせなかったという罪だ。贖える罪などないと、最近、時々思う。罪はただ、背負い続けることしか、できないと。

 今回の原発事故を含めた東日本大震災で、わたしは寄付をしなかった。
 自分自身もある種の被災者であると言えるからではない。また、福島の母たちも被災者であるからという理由でもない。



 はした金で、免罪符など買いたくはない。
 そんなことで良心の呵責をごまかしたくない。



 この蕎麦屋には通おうと、小山にいた時はよく夫と話していた。安いのに、確かな味。しかしもう二度と、味わうことはないだろう。
 蕎麦屋を出ると、夫が、

「畑を見に行ってもいい?」

と、わたしに尋ねた。いいよ、と答えた。家に急ぐ気持ちがあるのと同時に、おそらくわたしも夫も怖いのだ。なんとなく遠回りしている。

 あの混乱の直前、夫の初の出荷の準備が整いつつあった。
 ハウスのなかでは青物が育っていた。完全無農薬で育てた野菜だった。
 信末さんの堆肥を買って、土壌改良を依頼した畑だった。
 いい土だった。

 風景に、封じていた記憶が蘇る。



 畑からはハウスが消えているのが遠目にも解った。ハウスの盗難ってあるんだと信末さんが言っていたのを思い出した。夫が資材を買って、友人ふたりに手伝ってもらって、試行錯誤しながら建てたハウスだった。


 車から降りた。筑波山が遠くに見えるだけの関東平野。空っ風に吹かれる。
 畑だけが残っていた。
 この大地を、放射性プルームが舐めた。

 
ハウスがなくなっているのを見ても、夫はなにも言わなかった。
パイプを一生懸命組んでいた姿がよみがえった。
地道に畑に通い、ほとんど一人で組み立て、それからどうしても共同作業でないと不可能なビニール張りのときに友人に依頼した。
気のいい友人たちがやってきてくれた。

 夫はしばらく畑に目をやっていたが、やがて淡々と、

「行こうか」

と告げた。無言でうなずき、車の助手席に納まった。









 いよいよ、家が見えてきた。冬の枯れ草に覆われた庭。
 さまざま記憶がいちどきに蘇えってきた。

 3月12日、15時36分、一号機建屋で水素爆発。

 リアルタイムで報道に踏み切ったのは、福島中央テレビのみだったと後に知った。その後、キー局である日本テレビが全国放送したのは、爆発から1時間余りが過ぎた午後4時50分。
 わたしは当時、ネットで錯綜する情報を集めていて、ついにその時を迎えたかと深い虚無に襲われた。ECCSが作動しなくなるとメルトダウンとなり、水素爆発が起きたらその場から出来るだけ遠くに逃げるしかないと、かつて反原発系のWebサイトで読んだのを思い出した。

 レベル7だ。

 報道は否定している。政府の見解ではレベル4であると。

 違う、レベル7だ。

 どう考えても、レベル7だ。わたしが過去に学んだことに間違いがなければ。
 報道に食い入る夫を部屋に残して、ぼんやりと庭に出た。ガーデンチェアに腰を降ろし、タバコを吹かした。



庭では小鳥が鳴いていた。
樹木にとまったその姿に微笑みながら、

「お前、お逃げ。翼があるのだから、お逃げ」

と語りかけた。小鳥はその場で囀りつづけた。
原発事故など知るよしもない、罪なきもの。
どうしたら罪が贖えるのかをぼんやりと考えた。
日没が美しかった。



 こんな事態に陥っても、世界は、美しかった。
 チェルノブイリを思い出していた。リクビダートルになるぐらいしか道はないのかなあと考えた。原発事故の処理作業員。チェルノブイリで石棺を作った人々。自分の姪のことを思い浮かべた。あの子が生まれたとき、嬉しかった。なぜか無条件に嬉しかった。天から素晴らしいなにかを託されたひとりになれたことが嬉しくてたまらなかった。

 姉は、出産前に読んでいた育児書で「乳幼児突然死症候群」という原因不明とされる病死を強度に恐れ、不眠に陥った。自分が寝ているあいだにこの子が死んでしまうかもしれないから、息をしているかどうか見ていてくれというのである。
わたしは実を言うと、この時期からすでに乳幼児突発死症候群の影には虐待が潜んでいるような気がしてならなかったのだが、姉の不安に寄り添うことにした。
姉が眠っているあいだにキーボードを叩き、姉が目覚めると姪の傍らで眠った。
いつも美しい夢を見た。
この夢はこの子が運んでくれたのだと思った。
生まれてくれて、ありがとう。
 父と母、姉とわたしと姪の5人で、沖縄を旅した思い出も蘇った。
 現地はあいにくの雨だった。姪が四歳のころだったと思う。海で遊ばせてやることもできず、わたしたちはJALプライベートリゾートオクマの庭をただ歩いた。姪を喜ばせたかった。赤い合羽を着ていたので、

「赤魔道士さんだね」

と言うと、すでにわたしが買い与えたファイナル・ファンタジーで遊んでいた姪は、

「あかまどうし、あかまどうし」

と言って飛び跳ねた。最終日まで、降ったり止んだり、ときおりしか青空は垣間見えなかった。ホテル日航アリビラのオーシャンビューの部屋も意味がないとわたしは落胆していた。
 だが、姪は小さな手を窓にぺたりとくっつけて、寂しそうにつぶやいた。



「さよなら。沖縄の青い空、青い海」
 
幼い詩人よ。どんな言葉よりも、わたしを打つ。
 こんな世界に、わたしはあの子を置いていくのか。
何故、こんな世界しか残してやれなかったのだ。



 ぼんやりと不安だったのは、バスに揺られていたリクビダートルが、全員男性だったことだけだった。
女でも、石棺は作れるのだろうか。
現場仕事では、ただの足手まといだろうか。ウランの燃料棒を素手でつかんで、石棺に投げ入れるぐらいはできるかもしれないが。



 小鳥はただ羽ばたいていた。



無色透明な放射性プルームが襲い掛かる空を。

 追想のなか、わたしと夫は玄関の施錠を解いて家に入った。

 わたしはトイレに直行した。住友林業の、しっかりとした家。3.11の日も、網戸が外れたぐらいでびくともしなかった。いま住んでいるボロ家となんて違う。和室だって全部、京壁だ。いまの家のように、塗り壁のようなクロスが貼ってあるだけの安普請ではない。なのにわたしはもう、この家に価値を見いだせない。

 トイレに入ると、センサーで感知して自動的に蓋があく作りの便座が作動しなかった。
電気を止めていったように思ったので、気にしなかった。
便座は冷えていた。座ると自動的に流れる音楽もなかった。
しかし、困ったのはその後だった。
 立ち上がると自動的に流れる作りになっているのだが、これも、当然、作動しないのである。つまりわたしは、水を流せなかった。

 憤怒した。なんて、なんてくだらないことに、電気を使っていたのだろう。
 豊かさって、なんだ。なにを追い求めてきたのだ。わたしはいままで、なにを追い求めてきたのだ。なんと、くだらない。なんとくだらない生だったのだ。

 そのとき、だれかが訪ねてきた
 一郎さんという、地道な農業を実践している、口数の少ない男性だった。夫はとてもこの初老の男性に好意を寄せていた。
 悲しげに玄関先に、一郎さんが立っていた。




時事音痴/栃木行 その3

 わたしは、ときどき自分にうんざりする。



 そしていまがそうだ。だけど同時に、とても醒めた自分がいて、人の流れを観察している。

 この「栃木行 その3」は、この流れのなかでは番外編になるのだが、いまの気持ちを伝えたい。

「人には明かさないほうがいいよ」

と夫には言われたが、わたしに唯一、存在理由があるとしたら、原稿の上では正直になろうと努力することぐらいだろうと思うので打ち明ける。

 先日また、栃木に行ってきた。

 結果から言うと、わたしは栃木の家を売り抜けられそうなのである。

 ごくわずかながら売却益が出そうな雰囲気だ。
 2年前に豊洲のマンションを売却したときに使った3000万特例(というものがあります、3000万以下の売却益に対して税金がかからない、という。一度使ったら5年以上たたないと二度目は使えない)は今回は使えないから、「益」といっても微々たるものなのだが、少なくとも、損はしなかった。
 わたしの自分の住まいに関する他者からの評価というのはいつも、嘲笑から憎悪への推移だった。

 発端はお台場だった。夫と結婚するにあたって新居を探していて、「お台場」という謎の土地に公団住宅ができるのを知ったのである。

 現在は全国的に地名が知られているお台場は、ちょうど「十三号埋立地」から名称が変わったばかりだった。

 わたしはお台場に実際に足を運び、ここにかなり大掛かりな都市計画があるのを知った。伸びるな、と予感した。数年耐えれば、ここは伸びる、と。

 しかしここに新居を決めた当時は、

「山崎が湾岸の妙な埋立地に新居を買った(これは完全な誤解。あくまで賃貸)」

と物笑いの種になった。お台場ってどこだそれ、と尋ねる人に、湾岸の埋立地ですよと答えると、馬鹿にされた。

「埋立地なんて、地震が来たら液状化するんじゃないですかあ?」

「かもしれませんけど。好きなんですよね、埋立地」

 これは負け惜しみでなかった。本音だった。
 
お台場が伸びると予感しただけではなく、わたしは冗談抜きで埋立地で暮らすというのが、妙にしっくりきたのである。

 二十二歳のころ、わたしは真夜中に十三号地を歩くのが好きだった。

スチールボールやケミカルアンカーで解体されたビルの、コンクリートの瓦礫が投棄された地面が、暗い東京湾まで続いている。

埋立地のエッジに着くと、波のない海が待ち受けている。

遠くでは東京都の最終処分場が、二十四時間、煌々とした明かりを灯して、埋め立てを続けている。
 


 荒涼としたその風景は、当時のわたしの心情に響いた。
 世界の果てがあるとしたら、こんな感じかもしれないと思った。
 人の欲望が、壊れて投げ出され、作り出された人工の土地。
 わたしの友人は、人間を「自然界の生んだバグ」だと表現した。
 バグにふさわしい土地だなと思った。
 人は、こういう場所に住めばよい。身を潜めるようにして、住めばよい。



 それから時を経て、二十八歳のわたしが再度発見した十三号地は「お台場」と名称を変えて、コンクリートの瓦礫を表土で覆い、芝生の植生が施され、あたかも自然豊かな土地であるかのような顔を装っていた。

 だが、この薄い表土を剥げば、この土地は瓦礫の山なのだ。

 そこが妙に好ましかった。

 当たり前といえば当たり前なのだが、そんなわたしの心情が理解されるわけもなく、むしろ更なる嘲笑を買った。

「埋立地が好きって。『ああこれは良い埋め立てだなあ』とか『悪い埋め立てだなあ』とかあるんですか?」

 笑って答えなかった。
 理解の糸口さえ見えないときは、黙すること。
 それぐらいの知恵は、わたしにだって、ある。
 しかしお台場は数年も待たずして激変した。

 わたしが引っ越してすぐにフジテレビが移転してきて、メディアはお台場を連呼するようになった。すると名刺を差し出すときの人の受け止め方が変わった。事務所を構えているような稼ぎのある人は別として、基本、貧乏なフリーライターの名刺に書く住所というのは、自分の住まいである。

「凄い、お台場にお住まいなんですね!」

 東京という場所は、他者の住まいで、その人の社会的地位を推し量る。そういう土地だ。

 港区台場。

 この虚栄が、わたしの仕事を楽にした。
 その一方で、なにかに醒めていく自分を感じていた。


 次の住居は豊洲だった。これまた埋立地である。

 発展しても、お台場というのは生活には不便な場所で、ある日わたしは「亀の子たわし」を求めて、自転車で門前仲町に向かった。
 その帰り、夕暮れのなかで倉庫街にぽつんと、マンションのパビリオンの明かりが灯っていた。ちょっと興味を引かれた。どんな物好きがここにマンションを買い求めるのだろうとからかうような気分で立ち寄った。

 するとデベロッパーから、豊洲には大規模な都市開発計画があるのを教えて貰った。
 ここもまた、第二の台場になるな、と感じた。

 新橋から続く新交通ゆりかもめの終点、銀座から4キロメートルという距離、地下鉄有楽町線で銀座一丁目から3駅。東京駅への路線バス。これでデベロッパーからの説明通り複合商業施設などが出揃えば、ここは伸びる。

 お台場から豊洲に引っ越すと、また物笑いの種になった。

「山崎さん、都市に暮らすということは、利便性を求めるということだよ」

 一方、かげでは、吐き捨てるようにこう言われていたらしい。

「山崎は台場を売り抜け、豊洲とかいうところに広いマンションを買ったらしい」

 台場は賃貸物件なので完全な誤解なのだが、まあ、憎悪されたり嘲笑されたり、忙しいことだ。
 豊洲のマンションに遊びに来た吉祥寺住まいの友人も嗤った。鼻で歌う。

「窓を開けたら、倉庫ぉ、倉庫ぉ」

 もっともわたしは当時、彼女の「利口さ」を尊敬していたので、苦笑するばかりで気にしなかった。利口な人より賢明な人と付き合いたいと感じるように至る以前の話だ。

 やがて豊洲に住まう人を、メディアが「キャナリーゼ(日本語っぽく訳すと“運河人”になるのだが、なんだそれは)」などと称して、持ち上げる時代がやってきた。豊洲の発展はお台場のときほどはスピーディーではなく、6、7年、かかったのだが。

 ちょっと考えれば誰だって解ることだ。

 デベロッパーという仕掛け人がいて、煽っている。
 バブルが弾けたって不動産業界がつぶれないのは、こうして小さなバブルをあちこちで展開していたからだ。
 その時点で誰もが羨む場所に不動産を求めるということは、その人は、一番高値掴みをしているということだ。なぜか、ここに皆、気づかない。
 見栄を取るか実を取るかで、大半の人は見栄を選ぶ。
 わたしにはそこがいつも不思議だ。

 まあ、見栄を取ることで得る実がある人がいるのも解るけれども。


 本当に豊洲を高値で売り抜けるとすればリーマンショックの直前がよかったのだが、不動産の値崩れというのはデベロッパーが慌てて抑える。抑えてくれているあいだに、わたしは遅ればせながら売り抜けた。
 不動産売買はデベロッパーが胴元をつとめる賭け事だ。
 わたしはせいぜい、パチンコ屋の新装開店に並んで、ちょっとしたおこぼれに預かった程度に過ぎないのだが。

 夫はまったく、こういうことに嗅覚が働かない。

 そういう夫を、実は密かに、そして最も気に入ってるのは、わたしだろう。当人には絶対言わないけれど(夫はわたしの原稿を一切読まない。そこも、気に入りの理由のひとつだ。人の原稿を読んであれこれ批評がましいことを言うような相手なら、わたしは縁を切る)。

 栃木の家の競売も、業者との争いだった。
 不動産業者というのは、競売で落とした家に安いリフォームをかけて値段を上乗せして売り出し、利益を得る。

 わたしは僅差で彼らに競り勝った。
 原発が爆発したとき、わたしもついに勝負に敗れたなと苦笑した。一方で、勝負から降りた気楽さがあった。博打というのは、けっこう疲れる。

 もういいわ、と思った。

 その後、夫を高知に残して福島に向かい、浜通りの惨状を目にした。

 津波の被害を受けない場所でも、売り家、売り地の看板だらけだった。新築同様の家がゴーストタウンのなかに、ぴかぴかに建ってる。だけど原発から至近距離にあるこれらの家を、だれが求めるというのだろう。後に浜通りの資産価値はゼロと国から評価された。固定資産税がかからない家が、いまも浜通りには建ち並んでいるだろう。

 地上に築く富は、なんて虚しいのだろう。
 わたしは、負けるのが嫌だった。こういう勝負で、負けるのが嫌だった。他人に食い物にされるのは、もう真っ平だと、いつも感じていた。


 だから戦い続けた。


 けれど、とうとう裁かれたのだ。いいだろう。当然だ。
 高知の月額2万円の借家に戻ると、夫がゴミで風呂を沸かしていた。別に取り立てて不満そうな顔もせずに、山のなかの古ぼけた家にいた。
 わたしといたせいで、この人は、随分と苦労している。
 なのに笑っている。
 確かにわたしの現世的な力というのは、一時的には存在したと思う。
 わたしは夫から養ってもらったことは、ない。とはいえ、だ。
 地元に帰れば縁故採用の道が開けていたであろうこの人は、実にあっさり、わたしが首都圏でないと働けないというだけの理由で、その選択肢を捨てたのだ。選んだ勤め先は、夫が一生、昇進できない場所だった。なのに、僕が採用になった就職先はね、転勤がないんだよと、ほがらかにわたしに報告した。


 そしていま、夫はぼろぼろの家で、ゴミを燃やして風呂を炊いている。
 なのに笑っている。
 温かい炊き立ての会津米と有明海苔、そして梅干におかかをあえて、お結びを作った。

 わたしには食物貯蔵の癖がある。

 これは冷夏の年に日本が緊急にタイ米を輸入したときの経験が活きている。若年層は知らないようだが、「1993年米騒動」と称された米不足があった。長引いた梅雨と日照不足で東北地方が特に不作で、日本米1000万トンの需要に対して、収穫量が800万トンを下回る事態となった。
 本来なら、日本国民は飢餓に陥っていただろう。

 日本米は買占めと売り惜しみから品薄となり、やがて店頭から消えた。その代わりに日本が金に飽かせて買い占めたのがタイ米である。バブルが弾けたばかりの時代だったから、日本経済は強かった。

 しかし短粒のジャポニカ米に慣れた消費者には、長粒のインディカ米が舌に合わず、輸入はしたものの、家畜の餌にされたり、投棄されることもしばしばだった。当然、輸入元となったタイ国内では米の価格が急騰していた。だからこの事実を報道で知ったタイ国民は怒り狂った。それを治めてくれたくれたのは、現タイ国王だった。

「こちらが困ったときに、相手が助けてくれることもある。またその逆もある。だからいまは許しましょう」

 そんな意味合いのメッセージを国民に伝えて、日本の暴挙に対するタイ国民の怒りを静めてくれたのだ。わたしはタイ米を捨てはしなかった(ごく若い時期にタイを旅行した経験がたまたま幸いした。現地の味に少しばかり親しんでいたので、タイ米ならではの良さをちょっとは知っていたのである)。とはいえ、同じ日本人の振る舞いが、どれだけタイの人たちには無礼で傲慢に映るだろうと考えると、陰鬱な気持ちになった。

 そんな訳で、貯蔵癖がついたわたしはいつも「古米」を食べている。翌年の天候など、人知の及ぶところではない。だから会津米を一俵、買い置きしておいて、次の新米が出る季節になると精米する。また、これも人からは妙な癖と言われるのだが、海苔、梅干、味噌、それから戻しやすい乾物などを、買い溜めて冷蔵庫に保存しておく性質なのだ。


「山崎の家の冷蔵庫は、なんで梅干や味噌ばっかりなんだー!」


と友人からびっくりされたが、「最低限、これがあれば生きていけそうなものを溜める」というのは、もはやわたしの習性と化している。だから会津米も、有明海苔も、農家のおばあちゃんたちが作った産直の国産梅干も、全部、3.11以前のものだ。


 美味しい美味しいと、夫はわたしの作ったお結びを食べた。
 こんな貧乏生活をさせているのに、夫は笑っている。
 わたしは負けた。
 なのに寄り添っていてくれる夫がいる。
 敗残して初めて見えてきたものがある。
 それがなにとは言わないけれど、わたしの唯一の財産はそれだ。



 そう考えて、栃木の家については、これから延々と固定資産税だけ支払うはめになるのだなあと、ぼんやり思ってた。あそこは、国から資産価値ゼロとは評価されていない。博打のつけは手痛いものだ。しかし、当然だ。これでよい。

 ところがそんな矢先だった。

 福島の母から、実に不思議な相談を受けたのだ。
 実家が経営している会社の旧社屋があった。そこが3.11で全壊(といっても、ぺしゃんこに潰れたわけではなく、解体は必要な状態ではあったのだが、行政の評価として、全壊)したのだが、そこにできた空き地にアパートを建てたいから売って欲しいという話が来ているというのだ。

 愕然とした。


 いまさら、福島に?



 確かに原発事故以前ならば、地方の立地としては高く評価できる。新幹線の駅から徒歩5分、ジャスコから徒歩5分。

 しかし、原発からは直線距離で80キロなのだ。
 もしや、と思った。もしかすると、世間の人は、原発事故がもう収束したと認識しているのではないか? と。

 現在も原発事故は収束のめどすら立たず、毎日、あの壊れた建屋の上から放射性物質を絶賛放出中だ。本気で生き残りたいのなら、海外に逃げるのを真剣に考えたほうがいいだろう。特に若い人には、わたしは強くそれを勧めたい。

 しかしどうやら世間一般の認識は違うようだと、まるで地震で隠れた机の下から首だけ出して、怯えてあたりを見回すような気分で周囲の挙動をうかがった。

 おかしい。わたしは今度こそ、負けたはずではなかったのか?

 原発は廃炉の見込みもないのに「未来の技術」とやらに期待して作られた「夢のエネルギー」施設だ。しかし放射性物質の半減期の前には厳然とした「物理」というものが立ちはだかる。福島ではなにやらEM菌(堆肥を発酵させるための嫌気性菌らしいのだが、死滅させてもEM菌からは“波動”なる謎のものが出るらしい)が「除染」に役立つとかなんとか、訳の分からないエセ科学(はっきりと言わせて貰おう)に期待を寄せる人もいたりするようだが、物理というのは、物の、ことわりである。それが根底から変わるというのなら、宇宙自体の存在が変わる。そう、これ、皮肉です。
 正直に言おう。わたしは栃木の家を売り抜けるにあたって、「人を騙した」。それは否定しない。だが、わたしに易々と騙される人がいることを、わずかながら、悲しく思う。

 しかしそんなわたしも敗北は近い。すでに円安の波は来ている。たぶん預貯金など無意味になる。それ以前に、わたしが5年後に生きているかどうかも、怪しい。


 地上に積む富は、なんて虚しいものか。

時事音痴/栃木行 その2

 小山の宿泊先となったのは、家族経営の古いビジネスホテルだった。


人柄の良さが笑顔に表れている少し年配の経営者らしき男性に駐車場を案内してもらう。男性はナンバープレートを見て、

「高知からいらっしゃったんですか?」

と驚いた。どうして小山へ、という質問に、少し濁して答えた。

「以前、小山に住んでまして。小山の知り合いに会いに来ました」

 わたしは自分が西に逃げようと決めたときに、思った。土地も建物も要らない、わたしの財産は夫だけでよい、と。仕事もまた、首都圏から遠く離れたらもう継続は無理に近いと考えたが、それでもよいと思った。


 本音を言えば、「がんばろう、福島」という言葉は、そこに留まるために使われるべき言葉ではなく、まずは可能な限り遠方まで逃げて、それから「がんばろう、福島」と、異郷の地に離散した互いを励ましあうためにこそ使われて欲しい言葉だと感じている。



 とはいえ、あれから時は流れた。
 未だに「ただちに影響はない」という言葉を信じている人はいないだろう。それぞれがさまざまなファクターを考慮したうえで、留まるか留まらないかを決断している。
 わたしが小山にやってきた第一の目的は家の処分なわけだが、不安を抱えながらも留まるほうを選択した人にむやみな刺激を与えるのは避けたかった。

 部屋の鍵を受け取ったときに、経営者らしき男性にちょっと尋ねた。

「大久保先生は、いまも小山市の市長ですか?」

 すると男性は、満面の笑みを浮かべて答えてくれた。

「ええ! 大久保さんです。来期も必ず大久保さんでしょう。圧倒的な支持を集めていますからね。大久保さんに敵う候補者はいないでしょう」

 この満面の笑みに、少しだけ救われた。

「……そうですか、よかった」

 わたしが西に逃げて、『時事音痴』にそのことを書いたものが掲載されたとき、大久保氏からわたしの携帯に着信があった。

 後で気づいてかけなおしたけれど、何度試しても、出て貰えなかった。

 農水省出身だけあって、大久保市長は小山の農政に力を注いでいた。

小山の農業を守る

そういう立場にある人が、『風評被害』を煽るような真似をしているわたしと埋まらない溝ができるのは当然のことだ。しかしわたしの選択のみが正しいとは、わたしは言わない。

現在、小山に留まり、農業を続けている生産者をどう守るかという課題がある。その課題を背負う。大久保氏にはそういう使命がある。そしてそれを力強く実践しているからこその、圧倒的支持だろう。

 ときどき大久保氏は、市役所の市長用の応接室にわたしを呼び出した。

いつも勝手で、唐突だった。そこがわたしは好きだった

まったく大久保センセは困ったお人だと苦笑しながら市役所まで出向いた。大久保氏が推し進めている地産地消や、日本の食文化を守ろうとする食育の方針の話をふたりでしてると、楽しくて、未来に光を感じられて、確かに大久保氏は政治家としての顔を持っているのだけれども、それだけではない、どこか少年のような純粋な横顔を垣間見せてしまう瞬間があって、そういう油断を見せてくれることが嬉しかった。



 3.11で、道は分かれた。



 わたしはわたしの選択をした。大久保氏も、無論、した。
 互いの道が交わることは、二度とない。解ってる。
 いつまでも元気で、自らが選択した道を邁進して欲しいと願う。逃げた人間からのエールなど、欲しくもないだろうが。
 だけど悲しいのだ。溝ができてしまったことが、悲しいのだ。
 原発事故以降、2ちゃんのあるスレッドで、ダーウィンが残したとされる言葉を見つけた。

『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である』

 スタンスが揺らぎそうになるたび、高知での生活に馴染めない苦しさを感じるたびに、自分に言い聞かせてきたこの言葉を、古いビジネスホテルの硬いベッドに横たわりながら、幾度も思い浮かべた。



 翌朝を迎えると、夫とふたりで重いため息をついた。

「疲れたね、まだなんにもしていないのに」

 夫の言葉に同意した。

「うん、本当にね。でも、淡々と実行していくしかないよ」

 わたしをよく理解している夫が少し驚いた。

「マキちゃんからそんな言葉を聞くとは思ってもみなかった」

 苦笑した。

「だねえ。知っての通り、状況が悪くなるとすぐトンズラするのがわたしだからね。だけど今回だけは、逃げたらわたしはずっと苦しいのが解る」

 夫が顔を上げた。

「まず、どうしようか」

「うん。わたしは真っ先に、信末さんのところを訪れておきたい。そうするのが筋だと思うんだ。小山の集落の人たちを紹介してくれたのは信末さんなんだし、それより先に物事に着手しちゃいけないように思う。わたしたちがやってきたのを信末さんより先に集落の人たちが知ったら、信末さんの顔を潰しちゃうよ」

「その通りだね。一番気が重いのだけれど、そうしようか」


 長距離の運転で疲れていたのもあり、レイトチェックアウトのぎりぎりまで寝ていたせいで、栃木太陽の会の農場に到着したのは昼ごろだった。

 驚いたことに、信末さんの奥さんが泣きそうな笑顔で駆け寄ってきてくれた。

「小山に戻ってきたの?」

「はい。――家を処分するためですが」

 奥さんからは原発事故のあと、夫の携帯に連絡があったのだ。


『原発が爆発したぐらいで農地を放り出す百姓がどこにいる!』


と叱責された。それは当然だろうと思う。先祖伝来の農地を守る。それを最も実践してきたのが信末清さんだからだ。

 わたしはなにもスピリチュアル系な気分から、有機農業が良いと思っているわけではない。

幾度かこの連載で書いてきたかとは思うが、土と砂との違いというのは、「腐植」という物質が存在するか否かなのだ。「腐植(腐植のショクが、腐食のショクではなく、植物のショクであるのに着目して欲しい)」は、土壌有機物で、その構造体すらまだ解き明かされていないのだが、炭素が縮重合されたものと言われている。動植物が土壌に還元されたときに、ミミズといった土壌中の小動物や微生物が関与して作られるらしい。

 余談になるが、土壌中の小動物の代表格であるミミズは、よく知られているように、土壌改良に大変有効である。
 というのも、ミミズの糞が土壌の「団粒構造」を造りだすからで、要するにミミズの糞がコロコロとした土の塊になるわけだが、この団粒によって構成される土壌には適度な空隙が存在することになる。すると排水性及び保水性に優れ、やわらかい土となる。 

 一方、団粒構造が形成されていない土は水はけが悪く、作物がうまく育たない。

団子と団子で作った土と、ぬめった泥が固まったような土をイメージすると、団粒構造を持つ土の排水性と保水性がイメージしやすいかもしれない。

 普段は団子と団子のあいだに水が保たれ、だけど過剰になると排出される、というような。非常に健全な土となる。

 だから2月の初頭に帰村宣言を出した福島県の川内村のミミズから2キログラム当たり2万ベクレルの放射性セシウムが検出されたという報道は、わたしには地味に衝撃的だった。
 セシウムの人体への生態濃縮云々以前に、ミミズという種の行き着く先、そして結果的に、団粒構造という農業においては重要なファクターの喪失を予測したからだ。

 ちょうど日本の高度成長期の時代というのは、窒素、リン酸、カリといった化学物質を肥料として撒けば、作物の生産は可能だという考え方が主流だった。
 しかし、これでは土壌有機物がやがて枯渇していく。その結果、80年代末ごろにはすでに日本国内においても、農地の砂漠化というのが始まりつつあったのだ。
 腐植を食い尽くすときに、砂漠は生まれる。怖いな、と単純に感じた。四大文明が滅んだのも砂漠化と因果関係があると知り、有機農業を支持しようと考えた。収奪農業の行き着く先には、飢餓がある。


 もっとも、夫が有機農業を栃木でおっぱじめようとしたのは、別段、わたしの考えとは無関係である。


食の安全を求める首都圏の消費者に、付加価値のある商品を提供することに活路を見ていたのだ。
 再会したときは叱責されるかと思っていたのに、逆に奥さんから遠まわしに詫びられた。

「あれからね、清さんと話していたのよ。『原発が爆発したら、まず逃げないとならなかったんだな。それから順番に物事を考えていけばよかったんだ』って。わたしたちは知らなかった。原発事故というのが、これほど農業に打撃を与えるなんて。それに……孫たちのことも考えるとね」

 かえっていたたまれなくなった。フォールアウトの危険性を伝えなかったのは、わたしだ。
 小山にいたころは、信末さんの面影を受け継いだお孫さんと遊んだりもした。信末さんの農場で採れる、ふかしただけのかぼちゃをおやつに食べて、とても健やかに育つ、素朴であどけない子供たち。
 うつむいたまま、尋ねた。

「あの……らでぃっしゅぼーや(有機野菜宅配サービスの大手)との取引は、現在はどうなってますか」

「らでぃっしゅはね、ベクレルモニターでセシウムを検査しているの。出荷の自主規制値は国の基準値の十分の一の50Bq/kgということになっている。けど、うちはベクレルモニターではずっと不検出なの。それでも個別注文はなくなってしまった」

 つい、黙り込んでしまった。すると奥さんが重たい空気を遮るように笑ってくれて、

「まあ、とにかく母屋に入ってちょうだい。マキちゃんが来たら、清さんが喜ぶしね」

と促してくれた。
 母屋にお邪魔すると、信末さんが携帯でだれかとやり取りしていた。厳しい面持ちと、いくつかの単語から内容は推察できた。信末さんは野菜だけでなく、堆肥も販売していた。野菜についてはほとんど3人の息子さんや従業員に任せて、自分は堆肥作りに労力を割いていた。
 昨年の六月に、栃木で作られた腐葉土から放射線が検出されて、ホームセンターなどでの販売が禁止されたとき、わたしは打ちのめされた。この後になにが起きるか、予測がついたからだ。
 栃木で作られる堆肥の販売の禁止。これだ。
 信末さんが長年かけて築き上げたものが、一瞬にして瓦解した。
 東電は、国は、いくら賠償しようが償えないだけのことを、した。
 信末さんは携帯でのやり取りを終えると、疲れた顔で、それでも笑顔を浮かべて、

「おう、山崎。来たか。まったく、いやんなっちゃうよなあ」

と言った。

 携帯で交わしていた会話の内容はおおよそ推察していただけに、うまく笑えない。この時期にはすでに噂で漂っていた。どうやら東電は、福島県内ですら一部地域に、一人当たり8万円の損害賠償すら支払わない意向であると(後にこれは事実となった)。会津地方、そしてわたしの故郷である白河地方である。理由は「線量が低いから」。2月13日の時点では、県のオフィシャルサイトで確認すると白河合同庁舎駐車場の高さ1mの空間線量は「0.32μSv/h」。去年の五月頃は0.5μSv/h以上あった記憶はしっかり残っている。


どこが「低い」のか、わたしには理解しがたい。


放射線管理区域は0.6μS/hではなかったか?

 福島ですら、このザマだ。ならば栃木は?

 でも、必死に笑みを作った。

「はい。会いにきました。えっと、信末さん、これ!」

 赤福が入った袋を手渡した。

「お?」

 袋のなかを覗き込むと、信末さんがにんまり笑った。

「赤福だあ」

 その笑顔にかつてのような輝きを見て、ようやく自分にも心から笑える瞬間がきた。よかった、赤福にして。

 信末さんはいきなり包装紙を破いて、嬉々としてへらで赤福を食べ始めた。猛然たるスピードで。
 食べながら、話し始めた。

「東電がさ、200人も弁護士用意したって」

「そういうところだけは用意周到ですねえ。原発の安全対策は平然と怠ったくせに」
 国からの「追加融資」という名の税金の投与も、さぞかし高い弁護費用に使われるのだろう。うんざりだ。

「堆肥の出荷、停止してんだ。うちの八重子さん(信末さんの奥さんの名前です)から言われてる。このまま行くと、うちの経営は、って。――これまで、いつだって、こうすればいいっていうビジョン? 浮かんだんだよ。だがなあ……今回に限っては、なーぜか、そういうのがまったく、浮かばねえんだよな。なあ、高知の農業って、どうよ」

「うーん、正直言って、悲惨の一言ですね。福島や北関東がいかに凄い穀倉地帯だったか、思い知らされました。知識として知っているのと、現実を前にするのでは実感がぜんぜん違います。小山は、フラットな、圃場整備された農地が延々と広がっていて、機械が容易に入る。ほら、買ったときに信末さんから『こんな馬力の少ないトラクターで大丈夫かよう』って心配されたウチのイセキのキャビン付きの24馬力(キャビン付きのトラクターでは最低ランクの馬力です)、あれ高知に持ってったら近所中の話題になっちゃって。『どこの山を買って平らに開発するがや?』って尋ねられる始末ですよ」

「開発……。なんかもう、どういう土地に越したかそれだけで解るな。棚田ばっかりか?」

「その通りです。しかもですね、田植えが“手植え”ですよ? 動力が使えなければ手動で行く、みたいな。あの田んぼ、『これが先祖伝来の田んぼだ、お前に譲ってやるから大事に守れ』とか言われたらですね、わたしだったら、『バスジャックの真似事でもして、刑務所入ってたほうがマシだー!』と思いますよ、正直」

 信末さんはそこでガハハッと笑って、次の瞬間、びくりと怯えた。
 奥さんの八重子さんが、物凄い目つきで信末さんを睨んでいたからだ。
 信末さんは、赤福をほぼ一気食いしていて、あと一へら分しか、残していなかった。ご機嫌を伺うように、信末さんが必死に笑う。

「や、八重子さんも、食べる?」

「当たり前でしょう!」

 みんなで笑った。信末さんと奥さんの八重子さん、そして夫とわたしの4人で、この瞬間はさまざまなそれぞれの悩みや苦しみを忘れて、笑った。



 3.11以降、何気ないこんな出来事が、とても貴重なものに感じられるようになった



この一瞬があっただけでも、信末さんに会いにきてやっぱりよかったんだと思えた。

 信末さんをからかった。

「いいもの見ちゃったなあ、信末さんの赤福一気食い」

「一気食いじゃないよ、俺、ちゃんと最後のひとつは残したもん」

 奥さんが憤怒する。

「一気食いと同じよ! 普通、半分は残すでしょ!」

 それからしばらく小山のころの思い出話で賑わった。
夫が友人ふたりに手伝ってもらいながら、手探りで完成させたビニールハウスのなかでバーベキューパーティーをしたときの思い出、みんなで那須の信末さんの農場に行ったときの思い出。

けれど、那須の話になったら、やはり放射能の話題に戻ってしまう。




 信末さんは去年の3月21日、福島、茨城、栃木、群馬の各県産ホウレン草が出荷停止になったあたりから、相当な危機感を抱いて原発事故が農業に与える影響について勉強し始めたらしい。そして那須の畜産農家の人たちに、飼料となる稲わらを屋内で保管したほうがいいなどと呼びかけたりしていたという。肉牛の農家は初期から危機感を抱いて飼料を屋内に保管したらしいのだが、放射性セシウムが不検出の稲わらを与えていた肉牛からすらも、国の基準値を超える放射性セシウムが検出された。

 これはたぶん、あの時期のすさまじいフォールアウトと無関係ではないだろうとわたし個人は推察するわけだが、科学者ではないので、証明はできない。素人のつぶやきに過ぎないので、この仮説については各人、それぞれ考えていただければ幸いだ。
 信末さんが苦笑しながらつぶやいた。

「県境を越えて福島に行けばさ、俺たちはここに居ても大丈夫なんだろうか、せめて那須のほうに逃げたほうがいいんじゃないかと言う。那須に行けば、俺たちはここに居ても大丈夫なんだろうか、小山あたりまで逃げたほうがいいんじゃないだろうかと言う。で、小山の人間にしても、俺たちはここに居ても大丈夫なんだろうかと言う」

 チェルノブイリ事故のころに、当時の友人だった女の子に言われたことを思い出した。

『どうせ世界中に放射性物質は拡散していくんだから。いくら内部被曝を避けようとしたって無駄だよ』

 それはその通りなのだ。事実だと思う。わたしは高知が汚染を免れているとはまったく思っていない。どこまで遠ざかれば安全なのか? そんな答えなどだれも持ってはいない。ベストはない。ベターはあるにせよ。
 しばらく話しているうちに、農地の除染についての話題になった。

「このあいだ福島で実験的に行われているという、農地の除染のニュースを見ました。どうやったら農地の除染なんか可能になるんだろうと思っていたんですがね。わたしが映像を見た限りですと、あれ、土壌反転客土耕に見えたんですが、違いますか?」

 信末さんが勢いこんだ。

「そう、反転耕」

 土壌反転客土耕は、重機を使って、表層土と下層土を反転させる、要するに土の天地返しだ。

 これは本来、桜島などの火山灰が降る地域に使われていた土壌改良技術である。火山灰に対する対策としては、有効だと言える。というのも、表層土と火山灰の天地返しならば、それまで耕作されていた表層土、要するに「生きた土」を表面に置き換えられるからだ。しかし現在、福島で行われている土壌反転客土耕は、耕作土と古土壌の天地返しになるわけで、古土壌は耕作土ではないから、有機資材を使った土壌改良が必要になってしまう。つまり、信末さんが作っている堆肥のような、有機資材だ。
 ここらへんの推察で、すでにわたしのなかの結論はほぼ出ているのだが、本職の意見が聴きたかった。

「反転耕もな、表土とその下の土がひっくり返るのは半分ぐらいなんだよ、実際のところは。しかも、それなりにパワーのある重機を使っても、そうそう深くひっくり返るもんでもない。そりゃまあ、やればそれなりに農地の空間線量は低くなると思うよ、セシウムを内部に隠しちゃうわけだからな。だが、その農地に作物を植えて、根が深く入っていったときにどうなるか? という課題があるんだ」

「ああっ、そうだった、根! これはちょっと考えが至りませんでした。やっぱり生半可な知識では物事を語れませんねえ」


 わたしが、ある取材中に「もう農学部卒とか、絶対に言いたくない」と思った過去の出来事がよみがえってきた。
 実にマヌケな話で、ある山腹の有機農家さんにお話を伺っていたときに、「この山の上のほうではニンジンを作っていて、山の下のほうでは大根を作っている」と言われて、同じ地域なのに、どうして主要作物に違いができるのかと不思議に思った。最初、標高による寒暖の問題なのかなと推察してしまったんである。すると取材を受けていた生産者さんが呆れた。

 そう、山というのは、常に崩落している。長い時間をかけて、わずかずつであるが、表土がゆっくりと崩落している。するとどうなるか? 

 土壌の厚みが、山のてっぺんに近づくほど薄くなり、裾野に近づくほど厚くなるのだ。

 だから、山のてっぺんに近づくほどニンジン、裾野に近づくほど大根、という当たり前の結論が導かれるのである。
 うちの土壌研の竹迫先生は、山岳土壌が嫌いだったんですー!(土をサンプリングするために登山するのが大変なので、先生はいつも山を登るたびに息を切らして「だーからわたしは山岳土壌は嫌なんだよー」と怒っていた) というのは、言い訳になってない。
 
 やはり農地の「除染」なんて、壮大なごまかしに過ぎないという思いが強くなる。

除染ビジネスに多大な国家予算を使って、それで? 
目の前の利権を食い尽くした先は?




 昔、「レミングス」というゲームをやっていた時期がある。けっこうヒットした作品であったが、わたしはやってるうちに陰鬱な気分になってしまい、早々にリタイアした。ゲームのモチーフに使われているのはレミングというネズミの集団自殺的行動で、レミングたちはプレイヤーが手出ししなければ、粛々と崖に向かって歩いていき、絶壁から海に落ちて、死ぬ。

 粛々と、死に向かって歩みを進めるレミングたち。

 最近、あのゲームをよく思い出す。そしてわたしもまた、レミングスの一匹に他ならないように感じる。ただ、崖に向かうにあたり、微妙に納得してないレミングであるかのような。集団の流れには逆らえないし、わたしもまた崖に向かって歩を進めているのだが、釈然としない思いを抱いているだけ、というような。

 わたしはせいぜい1時間ぐらいで、おいとまして、小山の自宅を見に行こうと考えていた。なのに会話の節目、節目でなんとなく信末さんが次の話題を繰り出してきて、なんと4時間ぶっ通しで喋り倒すことになった。

 この先、自分はどうあるべきか。信末さんが真剣に悩んでいるのが伝わってきたから、わたしはその場に留まった。



 信末さんと出会ったのは、二十代の終わりだったと記憶している。

あれからずいぶんと歳月は流れ、わたしはもう四十代後半も近い。



いつもわたしの先を見つめていた信末さんから、これほど強い迷いを感じたことは、かつてなかった。わたしと会話しながら、信末さんは自分と対話しているようでもあり、答えを必死に探している。
 ペトカウ効果と呼ばれる、「長時間、低線量放射線を照射する方が、高線量放射線を瞬間照射するよりたやすく細胞膜を破壊する」という事実。破壊された細胞膜からは放射性を持つ分子が細胞内に入り込み、DNAを傷つける。

 原発推進派からの反論としては、「世界中のどこにいたって低線量被曝をする。本当に低線量被曝のほうが人体に悪影響を及ぼすというのなら、人類はとうに滅亡している」というものだが、そもそも生物の歴史というのは、放射線との戦いだったと記憶している。そのためにDNAの自己修復機能を、生物は備えた。余分に浴びていい放射線など、ない。さらに言えば、原発推進派は、「ペトカウの低線量被曝の実験は600μSv/hという“高線量”で行われた」という二枚舌を使うのだが(低線量被曝のはずが、ここでいきなり“高線量”被曝に変わる)、少なくとも事実として言えることは、例えば福島市のような1.5μSv/hの空間線量の被曝を5年間続けたらどうなるか? という実験データは、いまのところない、ようだ。(公になっていないだけかもしれないが)。
 また、原発推進派は「カリウムからだって被曝する」というが、カリウムとセシウムの違いは、生体濃縮だ。そもそもカリウムは、化学肥料の三大要素ですらある。窒素、リン酸、カリ。定番である。カリウムを排出する機能を人類、そして生物は備えていても、カリウムと間違えて体内に取り込んでしまった放射性セシウムに対しては人類は誤作動を起こす。筋肉などに蓄積し、なかなか排出されない。

 そんなことはたぶん、物事を徹底して追及する信末さんならとうに承知しているはずで、いまさらわたしが口にする必要はない。


「俺、北海道とかに渡ったほうがいいのかなあ?」


 自問自答するような声。
 あまり踏み込まないように、応じる。

「信末さんの重機は半端ないですもんね。あれは、高知に持ってきても、使える場所はないかも」

「そっかあ。俺、山崎マキコが高知に行ったから、高知もいいかなと思ってたんだけど」

「うーん、山を削って、開発します?」

「そこから始めるのかよお。参っちまうなあ」

 信末さんが北海道に渡る決断ができないでいる理由は、いくら馬鹿なわたしでも解るのだ。信末さんの知人だけで、北海道で農業に携わっていた生産者が3人、経済的な理由により自殺していると、以前、信末さんは語っていた。





 他人であるわたしはもはや、立ち入れない領域だ。





 信末さんの話はまだ続きそうな気配だったのだが、日没前に小山の自宅を見ておきたかった。仕方なく、強引に話を断ち切った。
 畑まで見送ってくれた信末さんはどこか弱々しく、力なく、頼りなく、胸が痛んだ。



時事音痴/栃木行 その1

 すでに年明けて時も経ったので昨年の話になってしまうが、12月21日から6日ほど、栃木に滞在してきた。

※(校正者注:311前まで栃木県に住んでいたが原発事故の後、西日本へ避難した)


 残してきた荷物を処分して、家を売却する手続きをとるためである。それからもうひとつ自分に課していたのは、栃木で縁のあった人達への、せめてもの誠意がある別れだった。

「自分に課す」

なんていうと、とても大袈裟に聞こえるかもしれないが、「絆」という言葉が昨年の流行語大賞に選ばれている風潮のなか、「絆」をぶった切って早々と逃亡した人間は常に後ろめたい。

たとえそれがわたしのなかで最良の解答であっても、だ。

これは西の土地に住んでいる人には理解しにくい感覚かもしれないが、わたしにとって栃木の人たちとの別れは、自分なりの課題だった。

 昨年の5月に栃木に戻ったときは、若干の荷物を運び出しだすだけの手配はしたものの、その選別だけでわたしは精神的に困憊した。
 荷物を限界まで絞ったのは、汚染物質の運び屋になるのに強い抵抗があったからだ。
 とはいえ、わたしは全ての持ち物を手放すだけの勇気も経済力もないし、個人で除染をするといっても、おのずと限界がある。
 確実に汚染物質を運んだだろう。これもまた、とても後ろめたく感じている。

 5月のわたしは情けないことに、運び屋になる自分を責めて鬱々とするばかりで少しも前向きになれず、周囲の人達との別れをなおざりにした。挨拶周りをすることはしたが、ほとんど遁走するような別れだった。

 わたしたちの就農のために市役所の職員の方々を集合させ、会議まで開いてくれた小山市長の大久保氏、そして温かくわたしたちを受け入れ、営農集団に誘ってくれた集落の人々、なにより、いつも良き農業の指導者であってくれた有機農業界の顔、栃木太陽の会の信末さんに合わせる顔がなく、儀礼的に別れを告げて慌しく栃木を離れてきた。

 12月20日、早朝に高知を出発するつもりが夕方になった。


 なかなか覚悟が定まらなかった。だけどわたしは知っている。


 この借家に運んだわずかばかりの荷物の梱包が、いまだ全部は解かれずに残されている理由をだ。うまく言えないけれど、テンポラリファイルの処理ができていないからパソコンをシャットダウンさせられずにディスプレイを呆然と眺め続けているような、そんな感じで、次に進めずにいる。
 薄暮のなかでようやく自分を奮い立たせて、パソコンとケータイ、若干の着替えを車に乗せて高知を発った。逃げないこと。向き合うこと。せめてわたしの可能な限りに。心のなかで自分に言い聞かせるのに、瀬戸大橋を渡る頃にはもう高知に逃げ戻りたくなっている。こういうときに自分の今までのつけがまわってくる。人として成長する苦しみを避けてまわっていたのを思い知らされてしまう。

 その日は大阪で一泊になった。名古屋までが目標だったのだが、案外、進めないものだ。こういうときにやっぱり便利だなと思うのが、PCを使った公衆無線LANによる宿泊予約だ。豊洲に住んでいたころは、タリーズだのプロントだの珈琲館だので気分転換しながら原稿を書くのに無線LANを多用していたのだが、高知に来てからはさっぱり機会が減った。そもそも、14km先まで行かないと、カフェがない。しかし様々な通信手段を確保しておくというのは災害時に強いような気がして、解約を思いとどまってきた。

 ホテルの近くで、てっさを食べた。なんだかTwitterでいちいち「大阪なう!(かなり古い表現だなあ……)」とか、旅行のあいまにつぶやかれているように感じるかもしれないが(わたしはフォローしている人にこれをやられるのが嫌で、Twitterのアカウントを削除した)、思うところがあって書いているので、少々お付き合いいただければ幸いです。

 わたしは現在、高知の山間部で暮らしているわけだが、食堂での定番メニューが「しし丼」なのである。そう、イノシシである。祭りのときは「しし汁」、消防の集まりでも「しし汁」。うっかりしてると、散弾銃の玉を噛む。山野で育ったイノシシを仕留めるのは害獣の駆除の効果をもたらすだけでなく、山間部にたんぱく質を供給する行為ともなっている。とはいえ、元々はイノシシばかり食べていたわけではない。大阪人の父を持つわたしは、年末も近づけば「てっさ」である。てっさと、ひれ酒。これでようやく「ああ、今年も暮れがきたなあ」という気分になれるというものだ。
 ところが、だ。
 久しぶりの美食は悪くはなかったけれど、なんだか不思議な気がした。


 かつて確かにわたしはこういうものを食するのを楽しんでいたはずで、それをなぞっているはずなのに、当時の心境と重ならないのだ。なにかに戸惑っている。たぶん、理由はふたつあるのだろうと思う。物資というものが極端に貧弱な地域で暮らしている上に、わたしは自分の口に入るものには比較的鈍感でも(汚染された食品をネットジャーゴンで「ベクレている」と表現するが、わたし自身は食品が多少ベクレていても、あまり気にしない。まあ、少しは不気味だなと思うが)、相方の食への責任はそれなりに感じている。だから「手に入らないもの、汚染の酷そうなものは、そもそも無かったものと思え」と自分に言い聞かせているうちに、本当に「無かったもの」と思い込み始めていること。それから、わたし同様、ふぐを食べている人たちが、現在の食の危険性をどう認識しているのかの、ぼんやりとした疑問があった気がする。



 美食というのは、それほどまでして追求するものだろうか?



 さほどベクレていない食品でも、現代の日本では、それなりに美味だと思うのだが。

 料理はひとつの文化だと認識してるし、それを貶めるつもりはない。

 むしろ今回の事故で失われる可能性が大きい、日本の食文化の今後を憂う。出汁の重要性があまりにも高い食文化であるのに、シイタケは放射性物質を集めやすい性質を持ち、いりこやカツオの恵みをもたらす海は高濃度で汚染された。世界から一目をおかれた健康的な日本の食文化は、真剣に食の安全性を考えるならば、残念ながら根底から変わらざるを得ないと感じる。

 しかし、原発事故の直後、国が定めていた暫定基準値の500Bq/Kgは、全面核戦争に陥った場合に「餓死」を避けるためにやむを得ず口にする食物の汚染上限だという。現在はその基準値が徐々に引き下げられているとはいえ、以前の基準値に戻る日、というか、以前の基準値を満たしていたとしても、この国土に汚染がほとんど無かった時代の食物の安全性を取り戻せる日は遥か未来のことだろう。なのにこの国の都市に来れば、外食産業は美食を楽しむ人々で溢れ、「飢餓」など、まるで無縁の生活を送っている。

 それがわたしには、とても奇妙な光景に映った。

 なんだろう、この違和感は。

 変わらない日常。それを大切にする気持ちはわたしも同じだ。だから世界で何事が起きようが、淡々と昨日の連続を生きる選択をする人たちがいるのもまったく不思議ではない。ただ、震災後、たびたび耳にするようになった「正常性バイアス」という概念については、一度は考えてみたほうがいい気もした。


 念のため補足しておくと「正常性バイアス」とは、外界の強烈すぎる刺激に対して理知的動物がそれを心理で抑制して、慌てないようにしてしまうことを指す心理学用語らしい。これは日常性を保護するために必要な心理的措置なのだそうだが、度が過ぎると「本当の危険」にも対処できなくなるという。




 ここでまた余談になるが、わたしが原発事故の直後、「正常性バイアス」という言葉も概念もまだ知らなかったけれども最も本能的に毛嫌いしたのは、「理性的」であることをさも誇らしげに他者に押し付けようとする人達だった。
 わたしの過去の友人であった女性は「パニックによる行動のほうが災害そのものの被害よりも、被害を甚大にすると教えられたではないか。関東大震災の歴史の教訓から、なぜなにも学べなかったのか」とわたしを罵倒した。その後、伝え聞いたところによると、いまだ彼女は「原発については様子見です」と語っているという。こういう「理性的な大人」の論調が、子供たちの被害を拡大しているようにわたしには見える。

 それからもうひとつ、わたしからの反論である。

 今回の震災による大地震のあと、「理性的に」行政の津波の高さの予測に従い、3mの高さまでしか避難しなかった人々はどうなったのかを考えて欲しい。



悲しくはならないか。



 震災で全国的に広がった「津波てんでんこ」。これは三陸海岸に伝承されていた言葉で、記憶がやや曖昧なのだが、わたしが最初にこの言葉に接したのは吉村昭の名著、『三陸海岸大津波』だったように思う。
「三陸海岸大津波」は、明治29年、昭和8年、そして昭和35年の三たびにわたって三陸沿岸を襲った大津波を記録や証言をもとに再現した書で、わたしはずいぶんと衝撃を受けた。
 わたしはこの本の影響もあり、学生の頃から幾度か三陸海岸を訪れた。無論、厳しい自然だからこそ保たれていた三陸海岸の美しさも好きであったからなのだが。
 津波で幾度か一村全滅しかけた歴史のある田老町の、スーパー防波堤の上を歩いた。地上高7.7m、海面高さ10m、総延長2433mという、鉄壁の防波堤であった。この防波堤の幅はなんと3m。均台の上を歩くのも恐怖なわたしが、高さ7.7mの上をのんびり歩きながら、田老町を見渡せた。田老町は、この防波堤の存在で、町が日陰になるほどだった。
 しかし今回の震災による大津波で、このスーパー防波堤は、約500mにわたって、一瞬にして瓦解したという。


 津波てんでんこ。


「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」


多くの経験から生み出された知恵のほうが、スーパー防波堤を凌駕したのだ。

「理性的」であることを誇る人々よ、「パニックになって逃げ惑う愚民」を見下す人々よ、こうした歴史の教訓からは、なにも学ぶものはないのだろうか。

 しつこいようだが、もう少し余談を続けさせてもらう。

 今回の大津波で注目したい人物に、茨城県大洗町の小谷隆亮町長がいる。

 町長は、役場の自室から海の白波の立ち方でただ事では無いと判断し、防災マニュアルに従わず、防災広報に連絡して「緊急避難命令!」と連呼、そして「速やかに避難せよ!」と、もう一段強い言葉で住民に避難を促したという。

 わたしは栃木と茨城の県境に住んでいたこともあり、ちょうど震災の五日前に大洗の岸壁で釣りをした(ちなみに、完全な「ぼうず」」だった。周囲の人も、みな一匹も釣れていなかった。別に地震や津波とは関係ないのかもしれないが、あるいはと思うので、記録として)。ところが震災当日にテレビの映像で、その岸壁が飲み込まれていくのをリアルタイムで目にした。しかも高さ5mの大津波であったことを知ったときには、

「あ、この津波が五日前だったら確実に死んでたな」

と思ったのだけれども、後に、この小谷町長のいわば「パニックを煽る」通達のおかげで、大洗は車や家の被害はあったものの、犠牲者が出なかったのを知った。一方、通常通りマニュアルに従い「津波警報が発表されました」と連呼するだけだった自治体では、多数の犠牲者が出た。

 もっとも、わたしも人のことをとやかく言える立場ではない。原発事故には過敏でも、田老町のスーパー防波堤の上を歩いたときに、

「これでもう田老町は津波に勝利しただろう」

と感じた身なのだから。これはわたし自身への戒めでもある。あの日、わたしが田老町を旅行中の身だったとしたら、「津波てんでんこ」など忘れて、スーパー堤防に安心しきって津波の被害に遭っただろう。
 翌朝、大阪を出発しようとして悩んだ。大阪の環状線を抜けてしまったら、いよいよ東名道である。
 高知で手土産の柚子を用意したが、わたしは高知を経つ前から信末さんのことをずっと考えていた。一昨年の夏に素麺を贈ったら、

「山崎マキコは俺に饅頭をくれるって言うから楽しみにしてたのに、素麺を送ってきた! 俺は素麺嫌いなのに」

と、わめいていた。あれは頭が痛かった。柚子は絶対、ウケない。

 甘いものが好き、でも、かりんとうのような硬いのは嫌い。とりわけあんこが好き。さてなんだ?
 都市のほうが美味しいものは手に入りやすいわけだが。だから大阪で入手していったほうがいいのだろうが。甘くて柔らかいもの。難題である。贈答品の定番、虎屋の羊羹にしておいたら無難かなとも考えたのだが、最近思うのに、こういう、それなりの価格のものを贈り物に選ぶというのは、なにかの嘘が混じるように感じる。そこには体裁を整えておきたいという見得や、あるいは損得勘定、普段の無礼を品物で威圧してごまかすといった気持ちは含まれていないといえるのか。
 そうこう悩んでいるうちに、ふと、三重に住む友人を思い出した。そうだ、三重の隣の愛知県、名古屋あたりを通過するときに彼女にケータイで一言だけ挨拶しようか。
 その瞬間、電撃のように思いついた。


 そうだ、赤福!


 あれならもしかすると、信末さんの笑みがまた見られるかもしれない。そして、わたしの気持ちにもまた、嘘がないと胸を張れる気がする。
 環状線を抜けてもらったところで、相方からハンドルを譲り受けた。
 走ろう、東名道。栃木に、小山に行くのだ。
 少しずつ、東へと近づいていく。相方が助手席で眠りこけているあいだに、途中のサービスエリアで赤福を買った。



 それにしても遠いのだった。



 浜名湖で相方に運転を代わってもらおうと思っていたのに、名古屋を過ぎても延々続く東名道。金正恩が少年の頃にお忍びで来日して、新幹線が大好きになったというのも納得である。長いよ、大阪、東京間。

 浜名湖目前で泣きが入った。どう頑張っても注意力が保てない。

 わたしは3月15日に決断して小山から避難したのだけれども、あのときは北陸道を一晩中走れた。あの日、夕方に小山を発ったのに、翌日の昼には岡山に到着した。助手席で30分も仮眠を取れば、頭が冴え冴えと覚醒した。火事場の馬鹿力というのは一回こっきりだと、運転しながら思った。

 予定より早く運転を代わってもらった。しばらくすると、富士山が見えてきた。やはり、東の象徴の山だ。仕事で樹海を歩いた思い出や、同じく仕事で富士五湖でバス釣りをした思い出が蘇えってきた(ずいぶんと昔、ニンテンドーのゲームボーイで、魚群探知機ポケットソナーという商品が発売になった。それが使い物になるかどうかを試す、という仕事だった)。さまざまな思い出が、この山に染み付いている。





 やはり富士山は美しく、それだけに悲しかった。





 わたしは原発事故のあと、なにかにつけ怒っていたわけだが、いまはなぜか、誰も責める気がしない。


この国のエネルギー政策を正せなかったすべての人、無論、わたしを含めてだが、それぞれに大なり小なり罪があるように感じられる。ただ巻き添えになった次世代に申し訳なく思い、そして汚染された国土が悲しいだけだ。

 小山への道中、首都高を降りて、都内で食事を済ませた。
 十九の頃、『東京に原発を!』という広瀬隆の著書を読み、「都市部の人間は地方の人間の顔を札びらで叩いた」と若い怒りをたぎらせた。そのくせして自分自身はすでに首都圏に住み、冷暖房に電気を用いた。思えばずいぶんな矛盾だ。


 都市部の人間だけを責めるのも何かが違うし、電源三法交付金に飛びついた自治体の住民を責めるのも、同様に違うと感じる。東京のあちこちにホットスポットがある。福島にも、無論、ある。この事態を前にしてどちらか一方を責めたとしても、ただのガス抜きにしかならないように思える。


 夜半、小山に到着した。
 まだ一年も経っていないというのに、かつてこの街に住んでいたというのが、いまとなっては夢のなかの記憶のように感じられた。