2013年2月、当時の西田厚聰会長(左)と田中久雄新社長(中央)、佐々木則夫新副会長は共に手を取り合っていた=東京都港区 (c)朝日新聞社

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 沈まぬはずの“電機の巨艦”が1兆円超の巨額損失の渦に飲み込まれようとしている。原因は原発事業の失敗だ。成長期や昭和のニッポンを力強く牽引し、明日は今日より豊かな生活をもたらした名門企業で、一体何が起こったのか。そのとき社員や関係者は何を見て、どう感じたのか。そして何が元凶だったのか。AERA 2017年4月17日号では「苦境の東芝」を大特集。関係者証言やジャーナリストの分析で全貌に迫った。

 追い込まれた東芝。巨艦の舵を狂わせたのは原発だけなのか。いや違う。元をたどれば老害や、財界トップ人事に色目を使った“ダメ社長”たちの連鎖があった。元凶は誰か。新生東芝はどうなるのか。

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 東芝の約1300人の株主の怒りは収まらなかった。3月30日、千葉県の幕張メッセで開かれた東芝の臨時株主総会は半導体事業の分社化を決めた。だが、現経営陣ばかりか「室町、田中、佐々木、西田(いずれも歴代社長の名字)をこの場に出して、なぜ謝罪させないのか」などと旧経営陣への責任追及の声は鳴りやまなかったのだ。

 1兆円を超える赤字を出し、瀕死の状態に東芝を追い込んだ責任の多くは過去の経営陣にあった。東芝は昨年、5人の元役員に民事訴訟を提起。そのうち西田厚聰(73)、佐々木則夫(67)、田中久雄(66)の3人は社長時代の経営判断を問われた。

●「転換点は西室社長」

 3代も“ダメ社長”が続いたわけなのだから、どんなエクセレントカンパニーだったとしても苦境は免れまい。だがこの3代の社長だけが悪いのではない。ある東芝OBはこう漏らす。

「事ここに至る東芝の転換点を作ったのは1996年に社長となった西室泰三(81)です」

 くだんの西室は経団連副会長を務め、2005年に東芝会長を退いてからは東京証券取引所会長や日本郵政社長を歴任。第3次安倍政権の戦後70年談話をまとめた有識者懇談会の座長だった。功成り名を遂げた財界人だ。

 東芝の社内改革でも、委員会等設置会社(現在の指名委員会等設置会社)に移行したのは日本企業としては比較的早く03年だった。西室はコーポレートガバナンス改革に積極的な経営者とみられていた。

 だが今振り返ると、西室時代から始まった改革は内実が伴わないものだった。経営への監視機能を強めるとみられた社外取締役は、経営の現場で頻発した無謀な「チャレンジ」のかけ声を止められなかった。

 その西室は00年に岡村正(78)に社長を譲り、会長に退く。委員会等設置会社における指名委員会が03年にできたが当初の委員長は西室だった。会長が次期社長を指名できる“院政”の仕組みだった。

 ITバブル崩壊後のリストラは、西室と実直で従順な岡村とのコンビで進めた。いよいよ攻めの時だと05年、西田を社長にする人事を決めたのは会長の西室だ。名門企業で「お公家さん」とも呼ばれていた東芝の中では野心家、やり手だった西田に東芝の未来は託された。

●時代の潮流に乗った

 西田時代は「選択と集中」の時代だった。不採算部門から撤退し、成長分野を強化。06年には米原子力大手のウェスチングハウス(WH)を54億ドルで買収するなど荒業に乗り出した。CO2削減の切り札として原発産業が再評価された時代の潮流に素早く乗ったのだ。

 その後、西田と不仲になる原発担当役員だった佐々木も07年の取材では「私にはできない決断。西田さんはすごい人だ」と褒めちぎった。当時、経済雑誌や新聞は西田を東芝の改革に果敢に取り組むカリスマ経営者としてもてはやした。私も西田を決断力のある優れた経営者だと何度も記事にした。今では間違っていたと反省しきりだ。

 だが西室、岡村、西田、佐々木と一枚岩とみられた関係も微妙に変わり始める。そこにはあろうことか財界人事も絡んでいた。

 西田は10年5月まで経団連会長だった御手洗冨士夫の有力後継者と目されていた。

 だが、会長就任にはハードルがあった。岡村が日本商工会議所の会頭だったからだ。経団連、日商、経済同友会の財界3団体の二つのトップを東芝が占めるわけにはいかない。西田の経団連会長就任には岡村の日商会頭退任が必須条件だったが、岡村は退かなかった。当時の様子を財界OBはこう打ち明ける。

「岡村さんが辞めると思っていたが、辞めなかった。それで最後は米倉弘昌さん(当時住友化学会長)に落ち着いた」

 このとき東芝として全力で西田を経団連会長にしようという動きはなかった。一方、日商サイドから岡村には任期途中で退任しないようにと強い要請があり、岡村もその要請を受け入れた。西室も後輩の西田のために積極的に財界人事に関与した様子はない。なぜなのか。

●13年に起こった「事件」

 実は西室も経団連会長を狙える立場にいたことがある。06年、御手洗に経団連会長を譲る奥田碩(当時トヨタ自動車会長)の後継候補の一人だったのだ。西室も会長就任を望んでいるとみられていた。そんな西室が自分はなれなかった経団連会長に西田を就任させようと汗をかくとは考えにくい。

 財界人事の帰趨が東芝首脳陣の結束を緩めていく。さらに決定的な「事件」が起きる。

 13年1月、社長だった佐々木が政府の経済財政諮問会議の民間議員に。それまで経団連会長が就任することが多かったポストだ。これは安倍政権の有力閣僚の推薦だったとされ、佐々木の就任は異例だった。しかも佐々木は13年6月に経団連副会長に就くことが決まっていた。安倍政権と関係がぎくしゃくしていた米倉経団連の後継候補で佐々木が浮上したのだ。

 その前から西田と佐々木は疎遠になりつつあった。西田を褒めちぎっていた佐々木も社長業に慣れてくれば、自信が生まれてくる。西田への報告も減っていった。そんな時に佐々木にスポットライトが当たったのだ。

 会長の西田のいら立ちは募っただろう。指名委員会の委員だった西田は13年6月に佐々木を副会長に棚上げ、子飼いで不正会計のアイデアを発案した田中を社長にすえた。内定発表の記者会見で西田が田中を選んだ理由を「様々な事業部門と海外の経験を持つこと」と言い、原子力部門一筋だった佐々木を暗に批判。佐々木は会見後、記者団に「私は数字をしっかり残した。批判される要素はない」と反論し、仲の悪さをあらわにした。

 男の嫉妬は陰にこもる。まさに東芝のトップ人事の混迷をみていると、「財界」という自らの名声やプライドをくすぐるポストへの執着が会社経営を揺るがしたと思わざるを得ない。

 臨時株主総会の決定を受け、東芝は半導体事業を分社化し、その過半の株式を売却する。その後の東芝は水処理、鉄道などの社会インフラ事業、海外の原子力事業をのぞくエネルギー事業、車載用半導体などの電子デバイス事業が大きな柱になる。

 家電事業は、すでにテレビやパソコンは子会社化、白物家電は中国企業に売却した。消費者向け製品から重電製品までを製造販売する「総合電機メーカー」の姿とは様変わりだ。

 3月14日に発表された「新生東芝」の姿は、20年3月期に売上高が4兆2千億円、営業利益は2100億円になる見通しだ。過去最高の売り上げを記録した08年3月期の売上高7兆6681億円、営業利益2381億円に比べれば、海外の原子力事業や半導体部門がなくなることなどで売り上げは大きく減少する。

●20世紀の東芝へ逆戻り

 若手社員に「原子力も半導体もなくなって大丈夫でしょうか」と問われた幹部の一人はこう答えたという。

「海外の原子力事業はWHの買収後に加わったもの。売却されるNAND(ナンド)型フラッシュメモリーなども同じ頃から成長した分野だ。結局、20年ほど前に戻った形だなあ」

 売上高が最高だった08年3月期を見ると増益は社会インフラ部門だけで、他は減益。WHの派手な買収や半導体への巨額投資をした割には利益を生んではいなかったのだ。

 東芝の過去最高益はバブル時の90年3月期。4兆2520億円の売上高で3159億円の利益を稼ぎ出した。西田時代に一見輝いていた東芝も、実は最高益の更新を果たせていない。

 今の東芝は、派手で見かけはいいが内実が伴わなかったこの十数年の姿から、まじめで堅実な「20世紀までの東芝」に戻ろうとしているかのようだ。

 東芝が20年前の姿に戻り、再び輝けるのかどうか。

 米のSF映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のようにいったん過去に連れていかれ、再び現代に戻してくれるブラウン博士(通称ドク)のような存在は東芝に残っているか。人材の流出が相次いでいるという。20年前に東芝にあった社会の信頼感ももはやない。映画のように元に戻れる保証は、ない。(文中敬称略)

(朝日新聞編集委員・安井孝之)

AERA 2017年4月17日号