柳原白蓮らによる美智子様の結婚反対運動
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このページでは柳原白蓮と皇后美智子様の関係と、皇太子明仁親王(今上天皇)と美智子様のご結婚に当時反対をしていた松平信子や柳原白蓮による結婚反対運動や嫌がらせ行動に関して解説して行きたいと思います。
まずは、美智子様が皇室入りされた後の柳原白蓮との親戚関係について説明をしてみたいと思います。
以下、本ページの目次となります
- 美智子様と柳原白蓮との親戚関係
- 平民出身者の皇室入りがまだ考えられなかった時代
- 美智子様への嫌がらせの数々
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美智子様と柳原白蓮との親戚関係
二人の関係を説明する為に上記のような簡略図を作成してみました。
※上記は家系図ではなく、あくまで二人の親戚関係を理解するためだけの簡略図であることをご了承下さいませ。
まず、柳原白蓮の父である柳原前光は明治天皇とご結婚をされた柳原愛子の兄であり、明治天皇と柳原愛子との間の子供が大正天皇となります。
そのため、柳原白蓮は大正天皇の従妹(いとこ)であり、大正天皇の孫である皇太子明仁親王(今上天皇)の皇后となったのが、現在の美智子様となります。
平民出身者の皇室入りがまだ考えられなかった時代
古くから、皇太子妃は皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれるのが習わしとされており、美智子皇后が皇太子明仁親王(今上天皇)とご成婚された当時も状況は同じでした。
美智子様は日清製粉の社長(正田英三郎)の長女ではありましたが、皇族でも華族でもない普通の令嬢が皇太子妃になるということは当時としては考えられなかった訳です。
しかし、皇太子明仁親王(今上天皇)は美智子様や美智子様のお父様を時間をかけて説得し、二人はご成婚されたのです。
ですが、お二人がご成婚をされる前にも後にも、平民出身の美智子様の皇室入りに断じて反対し続けた人物がいたのでした。
その代表人物こそが女悪役の元祖ともされる松平信子でもあり、また、香淳皇后や雍仁親王妃勢津子妃、宣仁親王妃喜久子、梨本伊都子、柳原白蓮らと共に激しく美智子様の皇室入りを成婚後も反対し続けたのでした。
美智子様への嫌がらせの数々
松平信子(左)- 画像出典元
美智子様の皇室入りを強く反対していた松平信子は当時、宮内庁内で絶大な発言権と政治力を有しており、その権勢は時の皇后をも凌ぐといわれ、「影の昭和の女帝」または「真・昭和の妖怪」と恐れられていました。
松平信子自身も侯爵である鍋島直大と鍋島榮子の間に生まれた華族出身の人間で、平民出身の美智子様が当時の皇太子である明仁(今上天皇)とご結婚されることを受け入れることが出来なかったようです。
特に松平信子は香淳皇后の意向で1950年代から60年代には東宮教育参与に就任し、当時の皇太子である明仁(今上天皇)を厳しく教育を行った人物でもあり、また、一時期は皇太子妃選考会議を取りしきり皇太子妃候補の人選も担当した主要人物でもありました。
しかし、皇太子明仁親王(今上天皇)と美智子様がご成婚される直前まで、二人の結婚について全く知らされていなかった松平信子は、美智子様の皇室入りに激しく反対し凄まじい報復行為と嫌がらせの数々を行うようになったのでした。
1959年の皇太子成婚の際には、松平信子の手下であった柳原白蓮夫妻らに命じて右翼団体を動かすなどして、美智子様ご出身の正田家などを標的として様々な妨害工作を行ったそうです。
その妨害工作としては、カミソリ入りの手紙や藁人形を送りつけたり、また、注文もしていない大量の握り鮨を送りつけるなどの嫌がらせ行為が含まれていたとのこと。
また、松平信子や娘の勢津子妃や、姉や従姉妹などの宮内関係者と共謀し、美智子様に対して痛烈な批判を行ったり、また、美智子様の帽子や靴に画鋲や針を仕掛けるなど、非常に悪質な行為を繰り返し行なっていたそうです。
更には、美智子様が2人目のお腹の中の子を流産してしまった際には、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」などと酷い誹謗中傷の数々を浴びせたりするなどして、美智子様を半年近くダウンさせる状態にも追い込んだそうです。
当時、松平信子の手下としてこうした美智子様の皇室入りに反対する活動に対して、柳原白蓮がどの程度加わったのかの詳細はわかりませんが、柳原白蓮も元々は華族出身者であることから、当時の時代において、平民出身の美智子様が皇太子皇后になることを受け入れられなかった人物の一人であることがわかります。