さっき、2017年本屋大賞が発表されて恩田陸「蜂蜜と遠雷」が受賞した。
直木賞との二冠達成である。
これはこれでよろこばしいことで、本がもっと売れてくれたらなぁとはいつもおもう。
本屋大賞は近年、日本の文学賞のなかでも重要なポジションを占めるようになっている。その理由として、そもそもこの賞が「権威から距離を置いた」文学賞であることが大きいのかもしれない。
本屋大賞は作家や批評家が選ぶものではない。
書店員が「いま売りたい本」として選ぶという特徴がある。つまり売れている本が受賞して当たり前なのである。
実際に、作家や批評家が選ぶ本というのは「難しい」という印象をどうしても一般読者には受けがちであり、そういう「権威」あるひとがじぶんよりも絶対的に正しいはずだという強迫観念が、「難しいもの=良いもの」という構図を強制してくるような気がしてしまう。
しかし、実際に書店員をされている方がTwitterでこんなことをつぶやいていた。
選考する書店員の母数が増えれば増えるほど、すでにたくさん読者を得ている本に票が集まりやすいのは当然なので、今の規模でそのシステムを続けても賞の存在意義はなさないし、そもそも平積みの本しか読まないような書店員だけが参加してる気がするんですよね、少なくとも自分の周りでは。
— 潮見惣右介 (@shiomiLP) 2017年4月11日
この賞に限らず、ここ数年で爆発的に増えた帯の文句、「書店員が選ぶ」とか「書店員絶賛!」とかって、実際はなんの価値もないし、面白さの保証にはならないと思うんですよね。「書店員=たくさん本を読んでいそう」みたいな魔法というか幻想というか誤解は、遅かれ早かれ解けると思うし、解けるべき。
— 潮見惣右介 (@shiomiLP) 2017年4月11日
このツイートにはちょっとハッとさせられた。
そしてこんなことをぼくはつぶやいた。
本屋大賞は他の文学賞とちがっていわゆる「権威」から距離を置いているかんじなのだけれど、「素人が読んでおもしろい=読者の本音」という風に捉えられ【過ぎる】ことは権威以上の権威である、ということに無自覚でいるべきではない。
— 若布酒まちゃひこ(びんた) (@macha_hiko) 2017年4月11日
とかなんとかおもうぞ。
以下、このことについてもう少しだけ考えてみる。
目次
あなたは「読書ジプシー」?
こんなこと、いったこともないしいいたくもないのだけれど、ぼくは「読書家」だ。
すくなくとも、世間一般の同世代のひとたちの数倍は本を読んできた人間だとはおもう。
本好きにありがちなことのひとつに、まず大量に本を読むことがあげられるだろう。ぼくはわりと収入がもらえた時代があるのだけれど、そのときは毎月3万~5万円くらい本にお金を使っていた時期があった。そして、それを隙間時間を使ってひたすら読み続けた。一年間で500冊くらい読んだ年もあったとおもう。いまじゃもうぜったいできない。どんな集中力をしていたのか、じぶんでもよくわからない。
たくさん本を読んでいると、じぶんが好きな本がどういうものなのかがわかってきたり、「じぶんが理解できないもの」ほど魅力的に感じられたりする時期がある。
そしてその時期に「これだ!」と見つけた類の本は、おそらく一生好きだ。まだ死んでいないからわからないけれど、ぼくには一生好きで居続けられるだろう類の本がある。しかし読書の旅は終わらなくて、これよりももっと素晴らしい本をもとめて、また「理解できない本」へと手を伸ばそうとする。
そのときに気づく。
じぶんの好きな本は、そこまで本を読まないひとにとって「完読」できるものじゃない。
気がつけば「じぶんはめっちゃ好きなのに、だれにも薦められない本」が手元に大量にあって、そいつらはすぐに絶版になってしまう。
そして、流行の本も嫌いじゃないけれど特におもしろいとおもえず、本の話題でひととしゃべれなくなっている。
ただひたらすら、孤独な読書の旅を黙々と続ける――それが「読書ジプシー」だ。
「わかりやすいもの=正しいもの」?
世間の声を聞いていると、
「売れているもの=おもしろいもの」
という等式がふと浮かんでくることはないだろうか?
「おもしろい」という価値観についても考えられなければならないことが非常にたくさんあるのだけれど、しかし読書ジプシーがおもう「おもしろい」は、だいたい「わかりやすさ」から遠いところにあったりする。
読書のたのしみは、なにも「ストーリーのおもしろさ」にあるわけじゃなく、そして「主題の斬新さ」や「泣ける」とかそういうものでもない。どうにもこうにも言葉にできない、他人と共有するための言葉がちっともおもい浮かばない領域での感動こそ、読書ジプシーは求めているのだ。
そもそもその作品を生み出した小説家だって、それを言葉にできてしまったならばそもそも小説を書いていないだろう。そこが読書ジプシーのよろこびになる。
「むずかしい=良いもの」じゃない、そして「理解できてわかりやすい=良作」でもない、ただそれが小説だというそれだけが喜びになる――権威や商業主義のどちらにも傾かない、読書ジプシーにとってバランスの良い選書基準になる文学賞というのは少ない。そういうものはあるのだろうか?
じゃあ読書ジプシーに合った文学賞は?
実は文学賞というのは、それぞれに個性がある。
たとえば芥川賞や直木賞は選考委員が全員「作家」だ。書き手のプロが選ぶ新進気鋭の作品を取りこぼさないという意味合いが強く、これは知的財産の日本文学への還元という意味合いが強い。
そして冒頭で取り上げた本屋大賞は「アマチュアが選ぶ」という意味合いが強いという点で、小説というものの敷居の高さを取っ払って、特別な読書経験や知識がなくても素直に「おもしろい」と思えるものを選ぶ賞だ。
しかし、読書ジプシーにとって、文学賞ほど居心地の悪いものはない。
というのも、かれらは自分の確固たる基準で「おもしろい・おもしろくない」を持っているし、かつ既存の作家や批評家に対しても割と詳細に賛否の感覚を持っている。
つまりこの種の人間はそもそも文学賞というものを選書のきっかけとする理由がない。
しかし、問題がある。
じぶんがおもしろいと思ったものを、大々的に評価してくれる場がないということだ。
これはなにが問題なのかというと、
「じぶんが注目している作家の本が今後出版されるかどうかわからない」
「じぶんの好きな本が絶版になってしまう」
という危機にさらされるということだ。じぶんが読んで、じぶんがいいとおもえばたしかにそれでいい。しかし、やっぱり読書ジプシーだって声高にいいたい。叫びたいのだ。
この本は素晴らしい!
って。
ぼくがおもう、かれらの要望を的確にこたえる文学賞がふたつある。
それは
- Twitter文学賞
- 日本翻訳大賞
のふたつだ。このふたつは読者が直接推薦できるというシステムをとっている。
個人的にかなり信頼しているのは「日本翻訳大賞」だ。
いま翻訳大賞の本を読んでるけど、あれは世の中からはじき出された読書好きが選んで、かつ第一線の翻訳家が選考しているという構造をとっているから、ぼくとしては「ガチでハズレのない賞」になるのだけど、書店員や書店営業からしたら、本当に売るのが難しい本だなとしみじみおもうぞ。
— 若布酒まちゃひこ(びんた) (@macha_hiko) 2017年4月11日
今回の日本翻訳大賞はエドゥアルド・ハルフォン「ポーランドのボクサー(訳:松本健二)」とアンソニー・ドーア「すべての見えない光(訳:藤井光)」に決まった。
このふたつについては、近々このブログで書評を公開したいとおもう。
というわけで今回はここまで。
要するに、じぶんに合った文学賞があるとうれしいよねって話でした。
ありがとうございました。