江戸しぐさ

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江戸しぐさとは江戸っ子がつかっていた秘伝の奥義である。江戸時代には江戸中の人間が知っていたが、なぜか最近まで知られていなかった秘伝である。ただし、実在した江戸のことなのか、それとも明治時代が始まらず江戸時代が続いたままからくり仕掛けが発達した町のことなのか、或いは天人が江戸城に大砲を撃ち込んだ世界の江戸なのか、はたまた花火師が月にロケットを飛ばそうとする世界の江戸については意見が分かれる。

概要[編集]

江戸は世界最大の都市であり、日本各地から様々な人が集まっている事から、お互いに気持ち良く暮らすための「工夫」が必要であったとされ、これを現代にも通用するものとして、普及を促進する「特定非営利活動法人江戸しぐさ」が「紙類,文房具類,印刷物」「セミナーの企画・運営又は開催,書籍の制作,電子出版物の提供,教育・文化・娯楽・スポーツ用ビデオの制作(映画・放送番組・広告用のものを除く) 」に関し、商標権を有している。

これら江戸っ子の行動・マナーは文書としては残されていないが、これらは伝承されており後に「江戸しぐさ」として知られるようになった。

2004年、また翌2005年にも公共広告機構(現・ACジャパン)で江戸しぐさが取り上げられた。攻強皇国機甲の変身シーンやポポポポーンも江戸しぐさの一環である。

企業の研修や学校などにおける教育でも使用され、小学校の道徳の題材に使われている事もある。

現在では江戸文化歴史検定に合格すると江戸しぐさの継承者として認められる可能性があるが、決定権を有するのはあくまでも特定非営利活動法人江戸しぐさである。

伝来の過程[編集]

江戸しぐさの主張者たちは、江戸しぐさが弾圧された過程や現代まで伝えられてきた過程を以下のように説明している。説明になっているのかについてはぴー

  • 元来江戸しぐさは商売繁盛の秘伝であり、あまり公にされたものではなく、江戸商人の組織していた「江戸講」で口授されるものだった。しかし寺子屋でも教えられていたので広く民衆に普及していた。……あれ?
  • 江戸開城の時、「江戸講」のネットワークを恐れた新政府軍が江戸しぐさの伝承を失わせ、江戸しぐさの伝承者である江戸っ子たちを虐殺した。その虐殺たるや凄まじいもので、ソンミ村虐殺、ウンデット・ニーの虐殺に匹敵するほどの血が流れたと越川禮子は述べている。ちなみに維新直前の慶応3年9月には約53万人の町人が江戸に住んでいた。また、この時に江戸商人は江戸しぐさについて書かれた古文書も全て焼却し、江戸の空を焦がしたという。池田整治は、江戸しぐさ伝承者は、老若男女にかかわらず、わかった時点で新政府軍の武士たちに斬り殺され、維新以降もこの殺戮は続いたと述べている。後の東京裁判で江戸っ子大虐殺の責任者も密かに処刑されたとも言われている。
  • 数十万人規模の大量虐殺があったのにも関わらず、その後も江戸(東京)の人口が増えている。大虐殺したのになぜか人口が増えるというこの手法は後に大日本帝国政府による朝鮮統治南京の占領政策にも大いに活用されている。
  • 地方に逃れた「隠れ江戸っ子」たちの一人で、(自称)華族の流れを引き母方の祖父が江戸しぐさの教育組織である「江戸講」の長である江戸講元だった小林和男は、昭和に入ってから、江戸しぐさを復興した。江戸商人の秘伝を華族の末裔が復興するのは奇妙かもしれないが秘伝なので問題ない。しかし隠れ江戸っ子達が逃れた地方で江戸文化が広まらなかったのは秘伝だからである
  • 江戸しぐさを伝えていた種々の江戸講は国家総動員法で解散させられた。わかった時点で切り殺されるなら講も何もあったもんじゃないと仰るかもしれないが、大日本帝国に不可能など無いのである。
  • 小林和男は戦後の風俗の退廃を憂い、芝三光・うらしまたろうと称し、社会教育団体「江戸の良さを見なおす会」として江戸講を復活させ、弟子の越川禮子・和城伊勢に江戸しぐさを伝授した。1999年、芝の病没のあと、越川が門外不出の秘儀であった江戸しぐさをマスメディアに公開して流布させたのである。しかし秘伝である。ついでに言うと、芝三光の名前すらも秘伝になりつつある。
  • 前述のように一子相伝の秘伝だが、なぜか寺子屋でも教えられていた。秘伝とはなんだったのか。未だに研究家の間でも議論が分かれている。
  • 秘伝でかつ明治政府が完全に抹殺し、昭和に入って壊滅させたものを再度解散させるという徹底した隠蔽工作を行ったのにも関わらず、なぜか戦後GHQはその存在を知っており、日本において江戸しぐさを復興させようとした。つまり江戸しぐさは江戸時代300年間もの間にアメリカにも広まっていたということになる。なぜ鎖国していたのにアメリカに伝播したのか。それは秘伝なので詳細は不明である。おそらく伝播の過程も秘伝なのであろう。しかしイエスがアメリカ大陸でも活躍したことはモルモン教の教典にも書いてあるので、今後の研究が期待される。

江戸しぐさの起源[編集]

  • 日本におけるすぐれた文化が、すべて韓国に起源を遡ることは世に知れ渡った事実である。したがって、江戸しぐさの起源もまた、韓国にあることは自明である。これを疑う連中はすべて歴史修正主義者であり、レイシストである。もちろんドイツではかかる発言は処罰される。
  • そもそも、漢字儒教の起源は韓国である。孔子ももちろん韓国人だったので、孔子ら儒家が体系化した礼楽こそが、江戸しぐさの起源だと言えよう。韓国政府には、国を挙げて元祖「江戸しぐさ」を内外に広め、ユネスコに公認されるまで広報をやりぬく責務があることは言うまでもない。
  • 古代の日本が渡来人の文化を積極的に受け入れてきたことはもちろん、江戸における儒教を発展させたのが韓国のすぐれた儒学者であった李退渓であることからも、江戸しぐさの起源が韓国にある可能性が極めて高い。朝鮮通信使の存在も忘れてはならないであろう。
  • 実は、江戸しぐさの元となるマナーを広めたのは、豊臣秀吉が連れてきた韓国人だったという説が唱えられている。しかし韓国を恐れ、劣等感に苛まれていた日帝は、証拠を全部ぶちこわした。日本帝国主義の萌芽は、実は江戸時代末期にはすでにめばえていたのであった。
  • イギリスでは江戸しぐさが普及している」という説があるが、これは理由がないことではない。イギリスでの「江戸しぐさ」の創始者はエド・シグ卿(サー・エド・シグ Sir Ed Sigue)という、韓国に起源を持つ貴族である。かつてのイギリスは、大朝鮮帝国の一部だったから当然のことである。このため江戸しぐさ伝承者への敬称は「サー」である。
  • 江戸しぐさには様々な種類があるが、名付け親は藤子不二雄Aか、或いは相撲関係者である可能性が高い。相撲は江戸の名物であったから当然のことである。

江戸しぐさの一覧[編集]

うかつあやまりの事例
傘かしげ
狭い裏路地などで雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと。代わりに民家の軒先に雨水が零れ落ちてしまうので、マナーを盾にして商売敵へ嫌がらせを行う秘伝のテクニックであると思われる。ついでに首もかしげると望ましい。
車での肩引きの一例。壁にのめり込むほどの気遣いは逆に好印象をもたれる。
肩引き
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと。塀があればのめり込んでも良い。
時泥棒
断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。これまで江戸っ子にとって時間は鐘撞きリレーで大まかにしか分からなかったとされてきたが、このしぐさによって江戸っ子は遥かに正確な体内時計を有している事が科学的に証明された。
うかつあやまり
たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。武士階級がこれを行うと土下侍(どげざむらい)とも言われる。もちろん町奴や旗本奴の英雄である幡随院長兵衛や白井権八たちも、江戸しぐさの流儀を守って抗争していたと思われるはずなのだが、そんな文献は存在しないので、明治政府が焚書をしたと思われる。
料理研究家の剛田武氏は江戸ソップを元にした料理を開発した。
七三の道
道の真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと。そもそも10割使い切れる人間などよほどの肥満体である。よって、力士たちは江戸しぐさを守ることはできなかった。ちなみに七と三は江戸では黄金比とされ、サラリーマンのいなせなヘアスタイルである「七三分け」としてその名残を残している。名著『北斗の拳』に登場する勇士ハート様はかかるしぐさをしたくても不可能だったため、それを根に持ってキング一味に加勢したと思われる。
こぶし腰浮かせ
乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること。空中浮遊を行えればなお望ましい。無論いつ来るかなど分かる筈がないので、江戸っ子は常に腰を浮かせて座っていたと考えられる。
日本一見事な「こぶし腰浮かせ」ができる江戸しぐさの達人、江頭2:50氏。
逆らいしぐさ
「しかし」「でも」と文句を並べ立てて逆らうことを指し、それらををしない事を「逆らいしぐさの禁」と呼んだ。年長者からの配慮ある言葉に従うことが、人間の成長にもつながる。また、年長者への啓発的側面も感じられる。だが断る。この教えのお蔭で内部から江戸しぐさに疑いを投げかける不埒者は誰一人いなくなった。いわゆる粛清のルーツのひとつでもある。ちなみにその精神はスターリン時代のソ連において定着し、現代においてもブラック企業朝鮮民主主義人民共和国などにおいても脈々と受け継がれている。スターリン万歳!
ちなみに、町奴と旗本奴の抗争では逆らいしぐさはまったく守られていなかったが、これは当時の指導者であった幡随院長兵衛や白井権八らが、元はといえば町人ではなかったからである。
喫煙しぐさ
野暮な「喫煙禁止」などと張り紙がなくとも、非喫煙者が同席する場では喫煙をしない。相手が非喫煙者かどうかは尋ねなくともロク(後述)で分かる。近代ではヒトラーがこれを推進したとも言われる。ちなみに、「喫煙しぐさ」の中でももっとも忌むべき行為は「キセル乗車」である。
三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる(江戸の養育法)
現代の日本でも12歳で中学入試、および15歳で高校受験が行われているが、このことから分かるように、現代の学制は「江戸しぐさ」に起源を遡ることは明白である。
お心肥やし(おしんこやし)
『おしん』の精神を学ぶ事を言う。または御新香を肥料にする事を言う。
打てば響く
鐘や太鼓がたたけば即座に鳴るように人間も打てば響く、つまり気配りをして、即行動する機敏さが尊ばれた。言葉をキャッチボールするセンスもそのひとつだった。ちなみに野球とはあまり関係ない。この打てば響くを身につけている部下を持つ者のことを、「太鼓持ち」という。
三脱(さんだつ)の教え
職業・年齢・学歴に関係なく世を渡ること。江戸時代においてこれを忠実に実践した例としては、佐渡金山で働く無宿人たちが挙げられる。現代ではニートが積極的に実践している。
三脱の教えを忠実に実行している若者。江戸しぐさは若年層にも広がりつつある。
ゆびきりげんまん、死んだらごめん
有名なゆびきりげんまんの続き。死ぬまで約束を守り通す固い誓い。もしこれを破ろうものなら、唯一神又吉イエスの裁きを覚悟しなければならない。ただ死んで終わるものではない。腹を切って死ぬべきである!
江戸ソップ
野菜スープの如きもの。ボルシチの起源であるとも言われているが、実は吉原遊女のしぐさの源流の一つである。また江戸ソップとは江戸のソープランドの意味であることは確実である。
おはようにはおはよう
普通に挨拶をするだけである。秘伝の江戸しぐさだが、なぜか現代人は皆行っている。挨拶の魔法ポポポポーンの威力がしのばれる。魔法少女が江戸にもいたため、江戸しぐさが日本全土に浸透している事の表れであろう。ちなみに「おはよう」の語源はオハイオ州である。江戸はバナナやチョコレートが流通していた国際都市であったから当然のことといえよう。
おあいにく目つき
客が目当ての商品が無かった場合、客に目でテレパシーを送る。しかし客にテレパシー受信能力が無ければ使用不可能だが、かかる事態を憂いた真理の御霊麻原彰晃尊師がひそかに、日本にテレパシーを復活させるべく活躍したという証言がある。大正時代にNHKラジオを普及させたのは、江戸っ子の電波受信能力を削ぐための陰謀である。
このようなおあいにく目つきで合図を送り心で会話することが江戸っ子としての素養として求められる。
はいはいの修養
赤子の「はいはい」にも、江戸っ子ならではの流儀がある。江戸しぐさの修行は生まれた瞬間から始まっているのである。受験戦争のルーツの一つである可能性がある。
もったい大事
「もったいない」を世界に広めたワンガリ・マータイノーベル平和賞を受賞したことからも分かるように、「江戸しぐさ」を喧伝している越川禮子はノーベル平和賞受賞の有力な候補者である。しかし江戸しぐさの起源が韓国にあることや、よりノーベル平和賞受賞者にふさわしい池田大作先生の存在ゆえか、越川が存命中にノーベル平和賞を受賞することは難しいであろう。
ロクを利かす
「ロク」とは「第6感」の語源である。江戸っ子は「第6感」をフルに活用し、関東大震災を予見した。だがその前の新政府軍による大虐殺は京都の陰陽師集団によって妨害されたため予見できなかった。ちなみに「ロクを利かす」ことができない連中のことを「ろくでなし」と称する。ろくでなしは鼻からピーナツを飛ばさなければならない。
横切りしぐさ
横断歩道は即刻廃止すべきである。もちろん交通マナーなどというものは、大阪民国おばちゃんにあっては無縁である。
陽に生きる
夜型人間のことを戒め、夜盗になることを戒めた。よってねずみ小僧は江戸っ子ではない。陽に生きるの教えは、やがて天理教の教義の一つである陽気ぐらしのルーツとなった。
聞き上手
利き酒には必ず参加すること。下戸は事前にウコンやセサミンを飲んで備えよう。イスラム教徒は想定外である。
椋鳥
ムクドリは群れてうるさいので害鳥である。害鳥は無慈悲に掃滅すべきである。江戸っ子は生類憐れみの令に対しても、果敢に反抗した。毛沢東主席もこの考えに深く賛同し,自国でも実践をした。だが,中国にムクドリはいなかったのでスズメを代わりに掃滅した。
百人番頭
新宿区百人町の治安を守った番頭たちの、いなせなしぐさのことをいう。レイシストをしばき隊の起源である。
夜明けの行灯
省エネは大切である。
半畳を入れる
貧乏人は貧乏人らしく、4畳半で暮らせというありがたい教え。江戸っ子はワーキングプアへの配慮も忘れなかった。この教えはやがて池田勇人による「貧乏人は麦を食え」という形で受け継がれた。その聖典は松本零士によって『大四畳半』として復活した。
念入れしぐさ
江戸っ子たるもの、ロクを利かして念力を使いこなすべきである。残念ながら念力を以てしても江戸っ子に対するジェノサイドを回避できなかったが、これは上述したように陰陽師に敗北した為である。
束の間つきあい
束になってかかってくる悪党に対しては、連中の間に存在する最弱の環を見つけて無慈悲にせん滅してこそ、本物の江戸っ子のケンカというものである。
同時に、誰かと一時的に共闘して戦う場合は相手に最弱の環を見破られないよう即行で攻撃を仕掛けるべきである。
八度の契り
妻とは最低限、8回はうふふなことをしなければならない。

反論[編集]

  • 麻呂は「だまりゃ、この田舎侍め。麻呂は畏れ多くも帝より中納言の位を賜りし身じゃ!その麻呂の前で『江戸しぐさ』などとは言語道断!このこと直ちに帝に言上し、きっと都庁にかけおうてくれるうえ心しておじゃれ!」と反論しておじゃる。
  • 偉大なカール・マルクスは「何事も疑いうる」と言っている。よって、マルクス主義者は江戸しぐさとは無縁の存在であるという指摘がある。
  • 偉大な指導者毛沢東主席を戴く中国人民は、あろうことか偉大な韓国をさしおいて「漢字の起源は中国アル!」とか「造反有理」などと反論しており、「江戸しぐさ」を受け入れることを拒否している。中国人のマナーの悪さがたびたび指摘されるのも、これが原因かと思われる。
  • 偉大な哲学者フリードリヒ・ニーチェは、江戸しぐさに言及していない。ニーチェは全てを語った。ニーチェが語っていない以上、江戸しぐさは存在しない。

関連項目[編集]


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