一面「平昌まで」かなわず浅田は常に逆境に立ち向かってきた。十五歳でシニアに初挑戦したシーズンはGPファイナルを制しながらトリノ五輪に出場できなかった。 ようやく出場がかなったバンクーバー五輪は金●児に敗れた。翌年には最愛の母匡子(きょうこ)さんが四十八歳で死去。悲しみに耐え、直後の全日本選手権で五度目の優勝を果たした。 二〇一四年ソチ五輪後に一シーズン休養。その後はかつての輝きをほとんど見せられず、復帰シーズンの世界選手権は七位。直後の昨年四月の本紙のインタビューでは「今季の苦しさは苦しいうちに入らない。今までたくさん苦しいことを乗り越えてきたので、どんなことが起きても大丈夫」と前向きだった。 来年の平昌冬季五輪については「何があっても、平昌までは続ける」と覚悟をにじませていたが、慢性的な左膝のけがや世代交代の波には抗(あらが)えなかった。昨年の全日本選手権で自己最低の十二位。ついにスケート靴を脱ぐ決断を下した。 弾(はじ)けるような「真央スマイル」でフィギュアスケートという競技の枠を超え、国民的ヒロインになった二十六歳のスケーターは、記憶に残る演技でファンの心をつかむ。十六位に沈んだショートプログラムから、フリーで六位まで巻き返したソチ五輪は多くの感動を呼んだ。夢だった五輪の金メダルはつかめなかったが、放った光は、それ以上に輝いている。 (原田遼) ※●は女ヘンに研の旧字体のツクリ PR情報 |
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