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 大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対(排仏)派の物部尾輿(おこし)と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫ともいわれる蘇我稲目が争った6世紀の崇仏論争。だが、実際は仏教とは無関係の政争だった可能性が指摘されている。

 いわゆる崇仏論争(崇仏排仏論争)は2段階からなる。

 「日本書紀」によれば、552年、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇は「これほど素晴らしい教えを聞いたことはない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神のたたりを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てたという。

 第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立し、仏像を祀(まつ)っていたが、疫病が流行したため、尾輿の息子にあたる守屋が敏達天皇に仏教受容をとりやめるよう進言。馬子の建てた寺に火をつけ、仏像を流し捨てる。用明天皇即位後も両氏は仏教を巡って対立するが、やがて諸豪族を率いた馬子が守屋を討ち滅ぼし、寺院の建立が盛んに行われるようになったという。

 だが、この話、そのまま受け入れるのは難があるようだ。

 古代史研究者の加藤謙吉さんは…

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