メタファーから解く時間論『時間の言語学』
時間とは何か? 言語学からの腑に落ちる解答。「時間」について思考の奥底で抱いていた認識が暴かれる一冊。
アウグスティヌスは、この問題の本質を端的に語る。「時間とは何か。人に問われなければわかっているが、いざ問われると答えられない」。「時間論」といえば、これまで物理学や天文学、哲学や心理学、社会学からのアプローチがあった。それぞれの分野での見解はあるのだが、著者はこれに疑義を呈する。
つまりこうだ。どの学問領域であれ、時間の「流れ」や「進行」を口にしながら、その方向を当然のように過去から未来へと想定している。ビックバンをはじめとして、時間の「矢」は未来へと向かっている―――ここから疑い始めている。そして、「時間とは何か」に直接答えるのではなく、「時間をどのようなものとして捉えているか」という観点から、時間の本質に迫る。
著者はレトリックを専門とする言語学者。日本語と英語の豊富な事例を駆使しながら、時間に関する私たちの認識を炙り出す。その強力な武器は、メタファー(隠喩)になる。「AはB」というとき、A(未知の概念)をB(既知の概念)を通じ、その類似性に基づき理解しようとする。
メタファーは、単なる言葉の飾りではなく、本質をどのように言換え・捉えているかを知る視点であり認識範囲なのだという。あたりまえのように使っているため気にも留めないが、それゆえに、思考回路を牛耳っているのがメタファーだというのだ。
たとえば、「時は金」。これは、近代からの概念だという。1903年の小学校の教科書が初で、"Time is money"「時は金なり」という語呂のよさから成立した比喩であり、それが我々の思考回路を方向付けているというのだ。その究極の現れは「時間給」。すなわち、「働き」を成果や見返りではなく、時間で測るという考え方だ。
- 時間を(お金のように)使う
- 時間を(お金のように)浪費する
- 時間を(お金のように)大切にする
もちろん、時間は価値があるものだという点は大昔から変わらない。だが、それが「お金のようなもの」と刷り込まれることで弊害が出てくる。「人月」なんてまさにそれで、「お金で時間を買う」ことが可能だという考えが導かれる。妊婦を十人集めれば一ヶ月で赤ちゃんが出てくるわけではないのに、ソフトウェア業界だと本気でできると信じてる人がいるから驚きだ。正しくは「お金で買える時間もある」だが、「時は金」というメタファーは「時と金は交換できる」というバイアスを助長させる。
意味と認識の仕組みであるメタファー思考に注意を促し、認識の偏りを炙り出す。本書は、様々な学問分野で当然のように使っている、時間の「流れ」そのものにバイアスが潜んでいると指摘する。時間は、「過去から未来に向かって流れてゆく」という表現が促す思考は、実は、錯覚だというのだ。
この錯覚を明らかにするため、2つのキーワード「動く時間」と「動く自己」を提起する。
「動く時間」とは、自分が留まっていて、未来が自分に向かってやってくるというイメージである。動く歩道の上に自分(=いま)が立っており、世界が通り過ぎてゆく感覚だ。この場合、過去は「以前」のものであり、未来は「以後」にやってくる。
- 今後ともよろしくお願いします(今後=未来)
- 以前の会議の議事録(以前=過去)
- Spring has come(春が来た:春=冬の後に来る未来)
- two years ago(2年前:2年もすっかり過ぎてしまって)「すっかり」を示す強意"a" + "go" の過去分詞 "gone"行ってしまった
「動く自己」とは、自分が未来に向かって進んでゆくイメージである。過去は後ろにあり、未来は前に広がっている。世界はそのままそこにあり、それを認識する自分が、一瞬一瞬進み具合を更新してゆく感覚だ。この場合、過去は「後」にあり、未来は「前」に横たわっている。
- 前途洋々(前に広がる=未来)
- 昔を振り返る(振り返る後ろ=過去)
- look back(過去を振り返る)
- be going to (人を主語にして、決まっている予定をこれから行う=人から見た場合、未来は進む先になる)
「動く時間」と「動く自己」、認識の仕方によって時間の向きが逆になる。両者を時間が過去から未来に向かって流れるという発想は、この「動く時間」と「動く自己」を混同しているところから生じる錯覚だというのだ。
認識の仕方によって振る舞いを変える。このメタファー思考は非常に面白い。ただ、他の分野、例えば物理学で扱われる「時間」が錯覚だという主張は頷けない。
自然科学での時間概念は、パラメータや物理量の一つとして扱われている[wikipedia:時間]。『時間とは何か (別冊ニュートン)』によると、時間の進む「向き」は問題として扱われていない。「過去から未来へ」といった表現は、あくまで一般向けに説明するための言い方であり、物理学そのものとしてはどちらでもよいというのだ。
たとえば、ニュートン力学における時間の「向き」について、こんな思考実験が紹介されている。太陽系外で見つかった、未知の惑星の公転運動の記録フィルムがある。フィルムをある方向に再生すると、惑星の軌跡は右回りになる。フィルムを逆に再生すると、左回りになるが、どちらの映像も不自然さはない。
これは、惑星の公転運動を支配するニュートン力学が、時間の向きを区別しないためにおきる現象になる。そして、ニュートン力学に限らず、マクスウェル電磁気学、アインシュタイン相対性理論、量子論はいずれも、時間の「向き」を区別しないというのだ。
時間の「向き」が生じるのはこうした物理学を私たちに説明する際のメタファーに潜む。ここに着目すると、ジュリアン・ハーバーの見解が紹介されている。そのメタファーが面白くなってくる。
曰く、時間とは量子論であらわされる宇宙の中にいる存在が経験する錯覚であり、物理学では創発的(emergence)な存在だという。創発的とは、本質的(fundamental)な何かから生み出されたものだという考え方である。
たとえば、「温度」は創発的な性質を持っている。温度そのものは本質的なものではなく、分子と分子間の相互作用の結果、「温度」という概念が創発的に生まれてくる。
一つ一つの分子の運動量は測定できないが、その統計値を我々は便宜上「温度」と呼ぶ。温度は、それを受け取る主体によって振る舞いを変える。体温計で測るならば、「(体温が)熱い」「熱が出た」というが、温度計で測るなら「暑い一日」になる。
「熱い」は、熱源が主体の外側にあって、熱を受け取る感覚であり、焦点は熱源に当たっている。一方「暑い」は、熱源は主体の外側にあるものの、熱を感じている主体に焦点が当たっている。「温度」をどのようなものとして捉えているかによってメタファーが変わる。だが、それは創発的な概念を我々がどう表現するかという議論なのであり、ことさらその相違を強調しても詮無かろう。むしろ、その差異から、メタファー思考の偏りに気付くほうが、よほど面白い。
言語学の時間論からメタファー思考を学ぶ一冊。
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